まだまだ冷える夜に、星を眺めるお話になってます。
星が綺麗な夜だった。
髪を乾かす私は、露天風呂から見えた星明かりを、何度もぼんやりと思い出した。やや青みがかった深い漆黒。天球に瞬く無数の星々。雨が降ったからだろうか。月明りがないからだろうか。ともかく、妙な瞬きの、印象深い夜空だった。
十分乾いた髪を緩くまとめて、脱衣所を後にした私の足は、自然と、食堂の方へ向いていた。とは言っても、いつも消灯時間ギリギリに風呂へ入る私が通りがかる頃には、食堂に明かりはない。
人っ子一人いない食堂を、何気ない風を装って、覗いていく。もしも、そこへ明かりがついているのなら、それは彼女がいる証拠だった。
生憎と、今日は明かりがついていない。全ての蛍光灯が落とされた食堂には、全く人の気配がしなかった。さっき見つめた星明かりとは反対に、ただ空っぽの暗黒が、そこにはあるだけだ。
規律正しい彼女は、もうすでに、ベッドの中だろうか。
……ああ、ダメだ。以前よりひどくなった思考に、自分で自分に溜息が出る。明日も早い。金髪の淑女に倣って、私も早く寝るとしよう。そう思って、食堂を立ち去ろうとした時だった。
新月の夜に、ふと、月光を見た気がしたのだ。何もなかったはずの暗闇に、見えるはずのない優しい光を、見た気がした。
暗闇に目を凝らす。食堂の奥、テラスへと続くガラスの引き戸に、淡い光が見えた。何もなかった漆黒に、月明りが揺れている。
お化けでもないのに、どきりと、心臓が一際高く鳴った。あれほど美しい髪の持ち主は、この世に二人といるはずがなく、見間違えようもなかった。
気づけば、足が彼女の方へ向いていた。引き戸の前に立ち、ガラスをノックする。テラスにてぼんやり椅子に腰かける彼女は、ゆっくり私を振り向いて、いつものように微笑んだ。細い手が、カラカラとガラス戸を引く。隙間からは、まだまだ冷たい、六月の夜が吹き込んできた。
「こんばんは、ビスマルク。お風呂上り?」
「こんばんは。ええ、そうよ。貴女は、何をしてるの」
「お星様をね、見ていたの」
彼女はそう言って、頭上を指差した。そちらへ顔を動かすと、露天風呂から見えたのと同じ、満天の星が瞬いている。
「お月様もなくて、雨が降った後で、絶好の星見日和よ」
「……そう」
私のそっけない返事を気にする風もなく、ウォースパイトはその瞳を輝かせる。エメラルドに似た彼女の瞳は、今は星明かりを映す、小さなプラネタリウムになっていた。
「貴女も一緒に、どうかしら?」
「……まあ、いいけれど」
特に断る理由もなくて、私はウォースパイトに招かれるまま、テラスへ出る。彼女は、すぐ隣へ用意していた椅子を勧めてくれた。準備よく、薄手の毛布まで用意されている。風呂上がりの身にはありがたい。
「お昼は暖かくても、夜はまだ冷えるわね」
折り目に沿って綺麗に畳んだ毛布を膝にかけ、ウォースパイトはそう言った。それもそのはずだ。テラスは海に面しているし、夜でも風が吹く。明かりのない、波すら見えない海を見つめる状況は、それだけで薄ら寒い。
それならなぜ、ウォースパイトは星なんて眺めようというのか。
「ねえ、ビスマルク。ホットミルクはいかが?」
柏手を打ったウォースパイトが、そんなことを言った。彼女の傍らに置かれた小さなテーブルには、魔法瓶やらマグカップやらが乗っている。魔法瓶の中身が、ホットミルクだろうか。
やや甘みのある、まったりとしたホットドリンクを、すぐに想像する。冷えた夜には、ぴったりのお供ね。
「遠慮なく、いただくわ」
「ええ。少し待ってて」
嬉しそうに微笑んで、ウォースパイトが魔法瓶のロックを解除する。香りを確認する仕種をした後、彼女はゆっくりと、マグカップへホットドリンクを注ぎ入れた。漂う湯気が、微かに景色を歪めている。
それから、ウォースパイトは、傍らの小瓶を開けて、中身をスプーンで掬い出した。暗くてよく見えなかったけれど、正体は何かの粉末だった。お砂糖でも入れてくれるのかしら。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。いただくわ」
受け取ったマグカップが、ほんのりと暖かさを伝える。冷え始めた手のひらには、とにかくその温もりが嬉しい。
ウォースパイトの真似をして、両の手でマグカップを包み、一しきり温もりを感じてから、口元へと運ぶ。そこでふと、違和感に気づいた。私の知るホットミルクとは、全く別種の香りがしたからだ。
微睡みへ誘う、穏やかなミルクの香り。それにもまして、鼻腔をくすぐる、ややツーンとした甘い香り。
シナモン、だろうか。こんな飲み方もあるのかと、心のメモ帳に書き留めておく。
隣のウォースパイトが、興味津々というように、私の方を見ていた。その視線を意識的に頭の隅へ追いやって、カップへ口づけ、ホットミルクをすする。
優しい香りがする。穏やかな甘みがある。驚きと感心で開いた目が、次の瞬間には閉じていく。シナモンだけじゃない。ジンジャーと、それから蜂蜜も入ってる。微睡みへと誘う、心地の良い甘さだった。
体が芯から温まって来るのを感じる。湯船で思いっきり体を伸ばす、あの感覚を思い出す。ゆったりと、血流が巡るのに合わせて、仄かな暖かさが全身を巡っていた。
「……おいしい」
一口を堪能した後、ぽつりと呟いていた。隣のウォースパイトが安堵したように頬を緩める。星を宿す瞳が、喜びに染まって細くなった。
「口に合ったみたいで、よかった」
そう言ったウォースパイトの手にも、マグカップが握られている。私が今持ってるのと、同じデザイン。彼女の私物だろうか。お揃いなのが妙に嬉しくて、私はもう一口、ホットミルクをすする。隣で、ウォースパイトも同じようにしていた。
「日本へ来る前にね、アークロイヤルが教えてくれたの」
知ってる?と尋ねるウォースパイトに、短く曖昧な返事を返す。件の空母艦娘とは顔見知りでもあり、腐れ縁ともいえる。あの騎士様が、ホットミルクなんて作るとは、思いもよらなかったけど。
「星見に丁度いいお供でしょう?」
「そうね。これくらいの方が、落ち着いて星を見れるわね」
頷くと、ウォースパイトは「そうでしょう、そうでしょう」と、何度も首肯して笑った。リップをした形の良い唇が、またマグカップの縁へ口づける。
それを横目で窺って、私は尋ねる。
「またどうして、急に星なんて、見ようと思ったのよ」
確かに、今日の星空は、一見の価値のあるものだ。こうして椅子に腰かけて、温かいものを飲みながら、空の瞬きを眺め、ゆるるかに過ごすのもいい。
ウォースパイトは、何を思って、星を眺めるのだろうか。
月光を宿す淑女は、どこか寂しそうに、残念そうに目を伏せて、口を開く。あたかもマグカップへ語りかけるように、彼女は私を見てはくれなかった。
「……特にね、理由はないの。ただ、お風呂から見えたお星様が、とっても綺麗だったから。……誰かと一緒に、見たくなったの」
センチメンタルが過ぎるかしらと、ウォースパイトは笑う。その横顔に、胸の辺りがずきりと痛む。
……一つ、思い出したことがある。寝静まったこの鎮守府で、いまだ明かりの灯る部屋が、一つ。
私と入れ替わりで風呂を出た秘書艦は、急遽仕事が入ったとかで、随分ご立腹だった。提督と一緒に、これから執務室へ逆戻りだとも。
二人分が用意されていた、椅子と毛布、マグカップ。彼女を感傷的にした張本人は、ここにはいない。空いた場所へ、幸か不幸か、私が座っている。
「……まあ、そういう時もあるわよ」
全く励ましにもなっていない言葉で答える。だというのに、彼女はありがとうと、そう呟いて微笑んでいた。
お互いに、しばらく言葉はなかった。二人で示し合わせたように、同じタイミングでホットミルクへ口づけながら、夜空を見つめていた。辺りに明かりもないからか、ミルキー・ウェイがよく見えていた。
「ねえ、ビスマルク」
三分の一ほどになったホットミルクが、
「東洋にはね、ミルキー・ウェイにまつわる、昔話があるのよ」
また随分、唐突な話題だった。あるいは、もしかしたら、ウォースパイトも私と同じで、天球に星を流す大河を、見ていたのかもしれない。
「へえ。どんなお話なの」
「こと座のベガと、わし座のアルタイルという星があるでしょう。二つの星はね、それは仲睦まじい、夫婦の星だそうよ」
どちらも、夏に見える星座と星だ。ミルキー・ウェイのすぐ側にあって、光も強いから、すぐに見つけられる。はくちょう座のデネブと合わせて、トライアングルって言ったりもするわね。
ウォースパイトはなおも話を続ける。
「でも、二つの星の間には、ミルキー・ウェイがあるでしょう。東洋では、ミルキー・ウェイを、天の川と言うそうなの。それで、この川には一年に一度しか橋がかからないから、二人の夫婦は一年に一度しか会えないそうよ」
「それは……なんだか可哀そうね。でも、どうしてそんなことになってるの?」
「二人の仲が良すぎて、仕事を全くしないから、空の偉い人に怒られて、引き離されたそうよ」
「……そう」
まあ、昔話の解釈というのは、自由だけれど。仕事をしなかったから引き離されたというのは、私には自業自得にしか思えない。
でも。ウォースパイトは少し、違うみたいだ。
「……私だったら、きっと耐えられないわ」
珍しく自嘲気味な笑い方に、ハッとした。窺った隣の彼女は、相も変わらず、星空を見上げている。天球を二つに分かつ、あの大河を、とても静かに、穏やかに、その翡翠の瞳へと写し取っていた。それが、堪らなく、美しかった。
「愛しい人と、一年も会えないなんて、きっと、耐えられないわ」
繰り返す呟きに、言葉を失った。ウォースパイトはそれ以上を語らず、潮騒の反響する夜空を見つめている。潤んだ唇を微かに震わせ、感傷的に目元を細めて、ただ星の世界を眺めている。
心臓がまた、ずきりと鈍く痛んだ。
ウォースパイトは再び口を閉ざす。薄い唇はホットミルクをすするばかりで、それ以上、彼女の想いを語ることはなかった。
寂寥と諦観。一体全体、何が彼女に、そんな表情をさせるのか。
……皆目見当もつかなければ、眉間にできる皺も、少しは浅くなるんだろうか。
「……ばかね」
星空を見つめ続けることはできなくて、手にしたマグカップを指先で弄ぶ。ウォースパイトの入れてくれたホットミルクは、もう後一口で、無くなってしまうだろう。
「あのねえ、大体、貴女船でしょう。川が何よ、そんなの渡っちゃいなさい」
そこまで言って、ああそういえば、星屑の流れる川だったと思い出した。全くもって、どこまでも詰めの甘い、私だ。
隣から、小さな衣擦れの音がする。ぼんやりと星を眺めるだけだった月読の淑女は、虚を突かれたというように私の方を見て、両の目をぱちくりと瞬く。まあ、彼女の意表を突けたのなら、それでよしとしようか。
「そう……ね。そう、よね。――ビスマルクは、素敵なことを、言うのね」
視界の端で星の光を浴びるウォースパイトは、ほんの少し、泣いていたかもしれない。
「……ごめんなさい、ビスマルク。少し、席を外してもいいかしら」
「どうぞ。私はもう少し、星を見てるわ」
今、彼女と一緒に、立ち去るなんてできなかった。
「ありがとう、ビスマルク。貴女のおかげで、とても素敵な夜になったわ」
淑女らしく、丁寧なあいさつを残して、ウォースパイトは席を立つ。手にしたバスケットには、ホットミルクの入った魔法瓶と、シナモンの詰まった小瓶。
カラカラと丁寧に閉じられたガラス戸の向こうで、いつもよりテンポの速い足音が、次第に遠ざかっていった。
招かれたテラスには、私だけが残される。ウォースパイトが立ち去ったからか、夜のテラスは急速に肌寒さを増していった。うるさいほどに潮騒がこだまする。
身震いを一つ。微かに残った熱を求めるように、マグカップを口元へと運んだ。
覗き込んだ液面は、夜空に負けないくらいの暗闇に飲み込まれて、見ることはできなかった。
「……私のバカ」
手元に残ったマグカップへ、どうしようもなく、呟きを零す。随分と冷めてしまったホットミルクを飲み干した私は、しばらく迷って、結局、十分後にウォースパイトが戻ってくるまで、一人天の川を見上げていた。
暖かい飲み物がまだまだ恋しい季節です。