――会議室へと向かう廊下の途上、不意に鳳翔が立ち止まった。
「――はい、こちら鳳翔です……はい、はい……分かりました。
皆さん、ご苦労様――ゆっくり休んで下さいね」
恐らくは通信が入ったのだろう、念じるようにこめかみに手を当てながら、誰かと会話をしている。
そして、それが終わるとにっこりと微笑みながら健次郎へと向き直った。
「……提督、第二艦隊が帰って来たようですよ」
「そうか――帰ったら、間宮の甘味でも出してやってくれ。
隼鷹には、秘蔵のを一本開ける、と伝えておけばいい」
「はい」
その表情を見れば、彼女達の様子は聞くまでも無い。
だから健次郎は帰って来た者達への報酬の内容をただ一言伝えると、そのまま歩き続ける。
そんな不器用な優しさに、鳳翔は益々笑みを深くしてその後に続いた。
――そして程なくして、2人は目的の場所へと辿り着く。
鎮守府の最も奥まった場所にある、重厚な装飾が施された両開き式の扉――その中が上級将校用の会議室となっている。
「――一等神祇官『
『――入れ』
健次郎が名乗りを上げると、奥から威圧感の篭った声が響き、それに合わせて扉の前に控えていた下士官が畏まったような様子で扉を開けた。
……まだ、かなり若い。きっと、ここに配属されたばかりなのだろう。
扉越しでも分かる遥かに階級が上の、歴戦の軍人達の圧力に気圧されているのか、その顔には珠粒の汗が浮かんでいる。
……懐かしい、と健次郎は感じる。自分にも、あのような時があったのだ。
「――ご苦労」
「お疲れ様です」
「は、はいっ!!」
その緊張を解す意味で、健次郎はただ一言、鳳翔は柔らかに微笑みながら彼の傍らを通り過ぎる。
すると、彼は敬礼しながら頬を真っ赤に染めて朗らかに笑った――大方、鳳翔の笑顔に心を射抜かれでもしたのだろう。
そんな詮無い事を想像していた健次郎だったが、会議室の中に居並ぶ者達を見てそれを打ち切る。
最も上座の中央に位置する場所に、この横須賀鎮守府を率い、自らも提督である
「ご苦労さん、御剣少将……ま、掛けろ」
「はっ、失礼致します」
冴島元帥の言葉に一礼すると、健次郎は会議室の席の一つ――その最も末席へと腰掛ける。
鳳翔は彼の傍らに立ったまま控える……分類上は、あくまで『兵器』として扱われている彼女達には席すら用意されていないのだ。
中にはこのような待遇を不満に思う提督や艦娘達は決して少なくないが、性質の穏やかな彼女は全く気にしておらず、凛とした表情のままだった。
制帽を脱ぎ、髪を整えながら列席している者達を見渡すと、今日出席している上級将校は十数人ほどで、その中で『提督』は更に3分の1……といった所か。
彼らの連れている艦娘達を見ると、戦艦や正規空母、
――特に圧巻なのは、冴島元帥の両脇に控える2人……現存する艦娘の中で、最大最強を誇る戦艦『大和』と『武蔵』だ。
二人共艤装を外し、大和は柔らかに微笑みながら、武蔵は退屈そうに周囲を睥睨しているだけだが、歴戦の強者たる圧倒的な存在感を感じさせる。
冴島元帥としては、気心の知れた艦娘を護衛も兼ねて置いているだけなのだろうが、その『格』の高さ故に、他の提督達もそれに合わせようとしてしまっているのだ。
それほど強い御霊を持たず、ともすれば新米提督でさえ所持しているかもしれない軽空母……それも、現存する『空母』というカテゴリの中で最もスペックが低いとされる『鳳翔』型を連れているのは、健次郎ぐらいのものだろう。
……実の所、将官へと昇任してから、何度か知人から公式の場でぐらいは恰好が付く戦艦や正規空母ぐらい連れて行ったらどうかと言われた事もある。
しかし、健次郎としては、そんな下らない体面など犬にでも食わせておけ、と心底思う。
確かに、彼の艦隊にも『格』の高い艦娘達はそれなりにいる――しかし、健次郎が保有している艦娘達の中で、最も実戦、実務の両方において経験値が高いのは鳳翔なのだ。
そもそもこの会議の場は、あくまで提督として、軍人として必要な実務の場であり、艦娘達のお披露目の場などでは無いのだから。
まぁ、健次郎自身が艦娘達の中で一番気心が知れており、信頼しているのが彼女である、という理由も勿論あったりはするが。
「――では、今週の定例会議を初めさせて頂きます」
そんな健次郎の思考は、司会進行役である将官の言葉によって中断する。
配られた資料を手に取り、会議の内容へと耳を傾けるのだった。
――――――――――――――――――――――――――
暫くの間、各戦域における戦果報告や、
流石に将官クラスの提督になれば、その量もかなりの数に及び、末席に至るまで既に1時間近い時間が経過していた。
「――次に、御剣少将。戦果報告をお願い致します」
「――はっ」
そして最後に、健次郎の名が呼ばれる。
それに応じて立ち上がると、鳳翔から受け取った資料を手に取り、静かに、しかし会議室の中にはっきりと届く良く通る声で報告を始めた。
「――先月の間に、当艦隊は20回に渡る沖ノ島周辺海域への深海棲艦掃討任務及び、他提督の救援を行いました。
当艦隊の損害は、軽空母、戦艦、軽巡洋艦、重雷装巡洋艦、駆逐艦などが中破もしくは小破しましたが、轟沈、沈没、大破及び着底艦はありません。
その結果は、敵駆逐艦36隻、軽巡洋艦27隻、重巡洋艦22隻……」
しん、と静まり返った会議室の中に、健次郎の淡々とした報告だけが響き渡る。
……その内容は、殆どが深海棲艦掃討に関するもの。
特筆すべきは、その戦果――他の提督が、様々な海域を渡り歩いて得た戦果を、健次郎率いる艦隊は、沖ノ島周辺海域への度重なる出撃のみで成し遂げていた。
南西諸島海域において人類側領域の最奥部にして、深海棲艦側領域の入り口とも言われる沖ノ島周辺海域は、時にはベテラン提督をも飲み込む魔の海域として知られている。
その場所へ、彼は殆ど休む事無く出撃し続け、戦果を上げ続けているのだ。
……しかも、一隻の艦娘も沈める事無く。
「――以上です。何か、質問はございますか?」
報告を終え、周囲を見回す――健次郎が行っている事の凄まじさを十分に理解している提督達は、恐怖にも似た視線で彼を見るだけで何も言わないが、提督では無い一般の将官達は不満気な様子だ。
……まぁ、当然だろう。
将官とは言え末席の若造が、何時まで経っても深海棲艦の領域の入り口で、進む訳でも退く訳でも無く、延々と留まり続けているのだから。
深海棲艦が出現してから、早20年余り――深海棲艦から少しでも多くの領海を取り戻すのは、皇国の、いや、世界中の国家の望みだ。
そのためには、艦娘達を使役する『提督』達が少しでも多く、彼女達の領域へと踏み出し、新たな航路を確立しなければならない。
故に、その力を少しは新たな航路を切り拓くのに使って欲しい……というのが彼らの正直な感情なのだろう。
「……ふん、既に踏破されている海域でまたしても点数稼ぎかね。
いいご身分なものだな少将」
そう言って嫌味ったらしく鼻を鳴らしながら健次郎を睨み付けるのは、ここ最近になって横須賀へと転任してきた海軍大将……確か、名前は鍋島。
資材や物資、燃料といった消耗品を中心とした物品の管理運用を任されている上級将校の1人だ。
「大体沖ノ島など資源にも乏しく、10年前ならいざ知らず、既に奥まった海域への航路が確保されている以上、戦略的な意味も殆ど無い場所ではないか」
口調こそ敵意剥き出しの不快なものだが、その内容はある意味正鵠を射ていた。
沖ノ島が非常に厄介な海域なのは確かなのだが、既に以遠にある海域への安全な航路はある程度開拓されており、海域の敵を掃討する事の戦略的な意味合いはかなり薄れてきているのが現状だ。
「――にも関わらず、君は相変わらず沖ノ島に固執し、留まり続けている……君はこの場にいる、今も困難な海域に挑み、傷つき消耗しながら航路を開拓する提督達に申し訳が立たんとは思わないのかね?」
鍋島大将の言葉に、何人かの提督達も同意するように頷く。
健次郎が持つ規模の艦隊が最前線に参加すれば、提督達の負担は今より大幅に減る筈だからだ。
「既に確保されている場所で無駄に敵を沈めたとしても、どうせまた復活して浮かび上がってくるのだ。
それだけ無駄な弾薬と燃料を浪費しているのが分からんのか?」
「……お言葉ですが閣下、昨今の傾向として、航路の開拓を急ぐあまり、既存海域の安全確保が疎かになっております。
小規模だからと見逃した手負いの深海棲艦が、漁船や漁村を襲ったという報告も増大しており、既存海域における敵の掃討が全くの無意味とは思いません」
「そこまでは言ってはおらん!! あくまでコストの話をしておるのだ!!」
健次郎の反論に、図星を突かれたのか、物言いが気に食わなかったからなのか、鍋島大将は声を荒らげて机に拳を打ち付けた。
「貴様が浪費している資源や食料を確保するために我々がどれだけの苦労を強いられているか理解しているのか!?」
「……無論、理解しております閣下。
だからこそ、他の提督の遠征任務や護衛任務には極力協力し、尚且つ物資の確保には潜水艦隊による、オリョール海を始めとした海域での現地調達等も積極的に行っております」
「だからと言って、陛下を初め、内地に住む者達の悲願たる深海棲艦掃討に繋がらない出撃が許される訳では無いぞ少将!!」
怒りの篭った非難さえも柳のように受け流す健次郎の淡々とした態度に益々激高し、その声は感情的になっていく。
それを止める声が無いのは、鍋島大将と健次郎の主張のどちらもが正論であり、また、彼の言葉は少なからずこの場にいる者達……特に提督では無い上級将校達の総意でもあったからだ。
だが、それが災いしたのか、彼の言葉の矛先は次第に任務には関係の無い部分に及んでいく。
「――そもそも、ある程度安全が確保されている場所に引き篭もり続けるという、貴様の発想自体が軟弱なのだ!!」
「……それはどういう意味でしょうか閣下」
ぴくり、と健次郎が持っていたファイルが揺れる――それと同時に、彼の全身から形容しがたい気炎のようなものが上がるが、鍋島大将は気付かない。
その時になって、それまでただ黙って控えていた鳳翔が顔を青ざめさせた……あれは、怒りだ。
決して触れてはならないモノを、土足で踏みにじられた者が吐き出す、ドス黒い怒りだ。
「ふん……貴様は以前沖ノ島で手痛い敗北をし、無様に逃げ帰ったと聞いているぞ?
そしてその日以来、沖ノ島にこだわり続けている、とも」
「…………閣下。確かに事実ではありますが、本件とは関係がありません」
「大いにあるわ!! 『たかが艦娘1隻』の犠牲で怖気づくとは情けない!!
仮とは言え、軍人である気構えが足りない証拠だ!!」
――ベキリ、と健次郎が持っていたファイルが音を立てた。
金属補強されていた筈のそれが、まるで紙屑のようにへし折れている……一体どれ程の力が、どれ程の激情が込められているのか、想像も出来ない。
……そして、鍋島大将はとうとう決定的な一言を言い放ってしまった。
「それに失われたとは言っても、艦娘は『再び建造すればいい』のだろう?
だというのにいつまでも『換えの利く兵器一つ』に、女々しいにも程があるわ!!」
「――――今、何と言った?」
その瞬間、会議室中の空気が凍りついた。
まるで地の底から這い上がってくるような、怒りと憎悪が込められた声が、健次郎の口から漏れ出る。
「……提督っ!!」
鳳翔が駆け寄り、健次郎の袖を取って抑えようとするが、それをするりとかわすと、彼は大将の元へと、一歩一歩、踏みしめるように迫る。
「き、貴様何を……!?」
「もう一度言って貰おうか大将閣下……」
まるで幽鬼のようにゆっくりと、ギラギラと目を血走らせながらこちらを呪い殺すかのように見つめる瞳に、鍋島大将は思わず腰を抜かし、椅子を蹴倒すように床に這いつくばった。
「艦娘が兵器……? 換えが利く……? 挙句の果てには、もう一度建造すればいい……だと?」
「ひ……!?」
「それを……私の前で言うのか……? 提督であり、覡である私の前で言うのか……?」
「み、御剣少将……そ、それ以上は……!?」
周囲の将官達も止めようと腰を浮かし、手を伸ばそうとするが……それだけしか出来ない。
……分かってはいても、誰が抜身の刃に好き好んで手を差し出せようか。
出せる者がいるとしたら――、
「――双方、そこまでです」
――自らもまた、刃である者に他ならない。
健次郎と大将の間には、何時の間に元帥の傍らから移動したのか、大和と武蔵の2人が立ち塞がっていた。
「御剣少将、お気持ちはお察ししますが、ここは陛下より下命を賜った方々が列席する場。
どうかお控え下さい」
「――私としては、このまま打ちかかって来て貰っても構わんのだが……どうする?」
大和が柔らかに、しかし有無を言わせぬ口調で、武蔵は僅かに微笑みながら、健次郎を制する。
「……提督」
そして、歩み寄った鳳翔が、悲しそうな瞳で健次郎の袖を取り、彼を見上げる。
そこでようやく、彼は平静さを取り戻した。
「……失礼――若輩故の癇癪、誠に申し訳ありません」
健次郎は会議室にいる者達に向かって深々と頭を下げると、鳳翔を伴って再び自らの席へと腰を下ろした。
「……ふ、ふんっ!! 身の程を知るのだな小童が!!」
それを見届けて安心したのか、先程までの醜態が嘘のような傲慢な態度で健次郎を罵りながら立ち上がる。
そんな彼に向かって微笑みながら大和が歩み寄った。
「鍋島大将閣下……お怪我は御座いませんでしょうか?」
「うむ、良くやってくれた。流石は元帥閣下の艦む――」
「――それは安心しました……失礼致します」
鍋島大将の居丈高な、それでいて冴島元帥におもねるような言葉を打ち切るように、大和はにっこりと微笑み、
――勢い良く振り上げた平手を、彼の頬に高らかに叩きつけた。
「ぶはっ!?」
小気味よい音と共に、再び鍋島大将の体が転がり、壁に叩き付けられてようやく止まる。
「な、な、なっ……!?」
「――何をするのか、でしょうか? それは、ご自分の胸にお聞きするのが良いかと思いますよ?」
暫し唖然としていた鍋島大将だったが、激昂しながら立ち上がった。
「き、貴様っ!! た、たかが兵器の分際でっ!! いくら元帥閣下が所有しているとは言え――」
「黙れ――それ以上、汚い口を開くな」
しかし、すぐに武蔵の鋭い眼光と、凄まじい殺気に当てられ、へなへなと腰砕けに崩れ落ちる。
「そう――私達は兵器。人類の怨敵たる深海棲艦を撃滅するために生まれた存在です。
しかし、私達には意思があり、感情があり、思いがあるんです」
そんな彼を見下ろしながら、大和が訥々と言葉を紡ぐ。
「そして、そんな私達と共に肩を並べて歩み、声を聞き、祈りを捧げ、力を引き出すのが提督たる者の御役目。
肩を並べるという事は常に傍にいるという事、声を聞くという事は共に語らうという事、祈りを捧げて力を引き出すという事は、心の底から私達を思っているという事に他なりません」
――それは即ち、人間にとっての家族、恋人、友といった存在と何ら変わりは無い。
普通の人々にとってはただの換えの利く兵器なのかもしれない……しかし、提督にとっては違うのだ。
「……確かに、私達は艦娘として在る時には、御霊から切り離され、『分霊』としてこの場に存在しています。
だからと言って、皆が皆同じ存在ではありません――提督一人ひとりの前には、一人ひとりの違う艦娘がいるのです」
滔々と、それでいてまるで我が子や弟に言い聞かせるような優しい口調で、大和は窘める――それは、この場にいる者達の心の中にすうっ、と入り込んでいった。
御国を守るという軍人たちの希望を一身に受け、戦いに巻き込まれる無辜の民を守るために出撃し、そして沈んだ彼女の言葉は、何処までも重い。
「――鍋島大将閣下……私の話を聞いて、もう一度この場を見回してみて下さい。
それでも、ご自身の言葉をもう一度この場で言えますか?」
そう言われ、鍋島大将は周りを見渡す――そこには、怒りと悲しみの篭った提督の、そして彼らが連れている艦娘達の瞳があった。
この場にいる提督達は、誰もが、何かしらの原因で艦娘と別れを告げた経験を持つ。
そんな彼らが、鍋島大将の言葉を看過出来る訳も無い。
「――鍋島」
不意に、それまで事態を静観していた冴島元帥が口を開いた。
「……少し頭を冷やして来い。そしたら、この件はチャラだ」
その言葉を聞いて、この場にいる者が冴島元帥の真意を悟る。
彼がどちらかを叱責すれば、軍としてはどちらかに何かしらの処分を下さなければならない。
元帥の言葉とは、それだけの重さを持つのだ。
――だからこそ、彼は大和と武蔵を動かす事で、自らの言葉と行動に代えたのである。
元帥の意を汲んだ鍋島大将はそれ以上何も言えず、目を逸らしながら立ち上がった。
着衣の乱れを直し、深々とその場にいる提督達と艦娘達……そして、健次郎へと頭を下げた。
「…………済まない、諸君の思いを踏み躙るような数々の言動、許して欲しい」
普段の傲慢な態度に隠されてはいるが、彼もまた皇国に仕える軍人――それも、大将にまで昇り詰めた男だ。
そこまで言われて、自らの過ちを顧みれない程に愚かでは無い。
「だが……だがこれだけは分かって欲しい――この戦いが長引けば長引く程に、陛下が……そして何より多くの民が苦しめられるのだ。
そして……奴らと戦う術を持たぬ我々は、君らに命運を託すしか無い……それが、悔しくてならんのだ……」
そして何より……彼もまた、深海棲艦との戦いにおいて、何かを失った者の一人なのだ。
その言葉には、他人には推し量れないやるせない感情が渦巻いているのが分かる。
「……場を乱して済まなかった。これにて失礼する」
そう一言言い放つと、制帽を被り、先程までの情けない姿が嘘のような堂々とした態度と振る舞いで、鍋島大将は退出していった。
……それは、上級将校としての最後の矜持だったのかもしれない。
「……そんじゃ、会議はこれで終ぇだな」
「は、はいっ!! そ、それでは以上で定例会議を終了させて頂きます!!」
冴島元帥の言葉に、慌てたように司会進行役の将校が声を上げる。
それに従い、皆が皆思い思いに退出していく。
「――待ちな、御剣少将。オメェは残れ」
そして健次郎と鳳翔もそれに倣おうと席を立ち上がったが、そこに冴島元帥から声が掛かる。
「はっ」
「そうかしこまらねぇでもいい――こいつは、個人的な用事だからな」
そう言って、彼は懐から葉巻を取り出しながら火を付けた。
――――――――――――――――――――――――――
横須賀の海を臨む窓から射す陽光が、冴島元帥の燻らす紫煙を照らしだす。
「――こうして個人的に話すのも、随分と久しぶりだなぁ、健次郎」
「はい……元す――いえ、『先生』とこうやって話すのは、2、3年ぶりになるでしょうか?」
扉が閉められ、人払いが成されると、冴島元帥と健次郎は、『上官と部下』では無く、『師匠と弟子』へと変わる。
深海棲艦がこの世に現れる前から、彼らは旧知の間柄だった。
――最初は何の事は無い、冴島の実家が神社であり、健次郎の実家がそこの氏子であったとういだけだ。
ただ、昔気質だった健次郎の父は、氏子の纏め役のような役割を担っており、健次郎もよく朝の掃除などを手伝わされたものだ。
それが縁で冴島と知り合い、家族ぐるみの付き合いをし合う仲になった。
しかし、深海棲艦が現れ、冴島と健次郎の実家は共々に街ごと焼き払われた。
両親も含めた親類縁者を亡くして行く当ての無くなった健次郎は、冴島のツテで神祇省へと預けられ、彼に『提督』として、
……20年前のあの日以来、2人は謂わば親子のような関係にあった。
「――先程は、申し訳ありませんでした」
挨拶を終えると、健次郎は改めて冴島に先程の会議の一幕に関して頭を下げた。
「全くだ馬鹿野郎め――いくら俺でも庇い切れるモンと庇い切れねぇモンがあるんだぞ?
大和と武蔵にゃ感謝しとけ……こいつらがいなかったら、今頃オメェは上官侮辱罪と暴行罪で憲兵にしょっぴかれてる所だぞ?」
「まぁまぁ提督――それに、私達が間に合わなかったらご自分で止めるつもりだったのでしょう?」
「ふん……」
うんざりとした表情で吐き捨てる冴島を、大和が苦笑しながら宥める。
彼女もまた、健次郎とは長い付き合いだ――冴島が提督になったごく初期の頃から、彼女は彼の艦隊を率いているのだ。
「――だが、いつまでも私達に甘えている訳にもいかない……それはお前が一番分かっているんだろう? 坊や」
そして、敢えて厳しい口調で問いかけてくる武蔵もまた、そうだ。
冴島が父ならば、彼女達はさながら姉と言った所だろう。
何時まで経っても2人には頭が上がらない……ただ、三十路にもなって未だに小僧っ子扱いされるのは溜まったものではものでは無いが。
「ああ……分かっているさ武蔵……だが、未だに夢を見るんだ……あの日の記憶が、未だに拭えない」
「ふん、情けない……と、言いたい所だが無理も無いか……奴は――那智は、お前にとって最初に出会った艦娘だったからな」
眉根を寄せながら俯く健次郎の言葉に、武蔵は溜息を吐きながら遠い目をして窓の外の海を見つめる。
今でこそ新人提督には最も数が多く、消費する資材も少なく小回りの利く駆逐艦の艦娘が充てがわれているが、それはあくまでごく最近になっての話だ。
……今でこそ御霊に対する理解が深まり、量産――というと怒り出す者もいるが――体制がある程度整い、ある程度は望んだ艦娘を建造する事が出来るようになったが、十年前はそうはいかなかった。
深海棲艦に対するモノと同じく、艦娘に関しても理解があまり及ばず、建造もその場にある資材を使い、御霊の選定すらおぼつかぬ状態でしか行う事が出来なかった時代、提督達に与えられた艦娘達の艦種は全く安定していなかった。
いきなり戦艦や空母を充てがわれた者もいれば、駆逐艦や潜水艦しか補充されなかった者もいた――しかし、本国が、人類が逼迫している状況では文句も言えず、不定期に、それでいて、艦種も装備もバラバラな艦娘で戦う事しか出来なかった。
――そんな時、健次郎は提督となり、最初に与えられた艦娘が、重巡『那智』であったのだ。
「――懐かしいですね……その頃は提督も、私達に甘えてくれたのですけれど」
「……昔の話だ鳳翔。私も若かったんだ……あまり混ぜっ返さないでくれないか?」
くすり、と笑いながら昔を懐かしむ鳳翔の言葉に、健次郎は顔を赤らめながら頭を振った。
幼い頃から親兄弟を無くし、ずっと神祇省に預けられていた健次郎にとって、艦娘達は母や姉のようなものであり、若い頃はまるでそれまでの寂しさを取り戻すような、子供染みた振る舞いも多かった。
――だからこそ、それが失われた時の悲しみや喪失感も人一倍だったのだ。
「昔話はそこら辺にしな――武蔵の言う通り、いい加減こっちもお前を庇い切れなくなってきてる。
こいつはまだ公開されてないんだが……そろそろ奴らの根城と言われる場所への航路が拓かれそうな段階までこぎつけてるからな」
「――っ!? まさか……
冴島の言葉に、健次郎が驚愕と共にその忌まわしき名前を口にする。
――
そして、あの忌まわしき荒御魂……深海棲艦が初めて現れた場所と言われている。
「――航路を拓き、そして奴らの巣窟を叩くには、一人でも多くの経験豊富な提督と艦娘、そして艦隊の力が必要になる……その候補の中には健次郎――オメェも挙げられているんだぜ?」
「――!!」
深海棲艦の本拠地への先陣――それは、素晴らしい誉であるとも同時に、殆ど戻る確率の無い決死行でもある。
だが皇国の民を守る軍人として、艦娘達を率いる提督として、これほど名誉な事は無い。
……しかし、健次郎は首を力無く横に振った。
「それでも……それでも私は……僕は……っ!!」
健次郎は未だに恐れてしまっている――沖ノ島での忌まわしき記憶を。
もし再び艦娘が沈んでしまったら、もしあの時のような圧倒的な力を持つ深海棲艦が現れたらと思うと、未だに体が震えてしまう。
そんな彼の肩を、冴島は優しく叩いた。
「分かってる……分かってるさ……嫌な記憶ってのは、そう簡単に拭えるモンじゃねぇ。
それを拭いきれてねぇお前を無理して連れ出すつもりはねぇさ……そうしなきゃ、死ぬのは艦娘共じゃなくて、オメェ自身だからな。
……しかし、こっちとしては理由もなくいつまでも沖ノ島くんだりに居座らせ続ける訳にもいかねぇ」
「――そこでだ、オメェが沖ノ島で戦う事に名実共に意味を持たせる必要がある」
そう言うと、冴島は健次郎に一枚の書類を手渡した。
それは、健次郎の『異動』を命ずる辞令であった。
「――これは?」
「ここ最近になって、南西諸島に、初めて皇国外における新たな拠点が建造されたのは知ってるな?」
「はい……確か、『トラック泊地』でしたか」
「ああ、ここ最近になって『神事』を行えるレベルまで浄化が完了したからな……20年経って、ようやく一歩って心地だな」
健次郎の言葉に、冴島は頷く。
一言に泊地とは行っても、様々な霊的結界によって守られている皇国内の鎮守府などとは違い、深海棲艦によって汚染された場所を、一から
しかも、その周囲は大抵深海棲艦の巣窟になっているため、建物一つ作る所か、資材一つを輸送するだけで命がけだ。
それでも少しずつ、少しずつ準備を進め……皇国はようやく更に遠くの海域への足掛かりを作り上げた。
「オメェにはここで神域を広げつつ、艦娘達を建造してその戦力を増やしつつ南西諸島海域で鍛えて貰う。
無論、周辺海域の深海棲艦共を掃討しつつな」
――思わず、体が震えた。
泊地に所属する艦娘達の教導……提督にとって、それは泊地の全戦力を任せられる立場になるという事だ。
それは提督として何よりも代えがたい名誉と栄光であり、同時に凄まじい重責でもある。
「――が、問題がある。
更なる足掛かりと言っちゃ聞こえはいいが、肝心の『神域』や施設の規模が整ってなくてな……そうそう人数を送り出す訳にもいかねぇ」
しかし、嘆息しながら情けなさそうに頭を振る冴島。
トラック泊地にて『神事』が行えるようになったとは言え、その規模は新人提督がようやく扱えるようなごく小さな『神域』……弱い御霊を引き出す事しか出来ない霊場しか存在しない。
提督がより多くの神事を行い、経験を積む事で、『神域』は大きくなり、その場に溜まる御霊もそれに応じて強くなっていく。
――通常、こういった仕事は新人提督が任され、彼らに経験を積ませつつ神域を拡大させていくものなのだが、周囲に現れる深海棲艦の数を考えれば、そのように悠長に構えている暇は無い。
そこで、将官クラスの提督の中では最も若く、それでいて覡としても優秀な力を持つ健次郎に白羽の矢が立ち、時節の変わり目を見て彼を送り出すつもりだった。
「――だったんだが、状況が変わったのは先週の事だ。
……泊地司令を任されてた提督がやられた」
何でも、周辺海域を警備していた際、艦隊からはぐれてしまった艦娘を助けようと警備艇で出撃し……戦闘に巻き込まれたのだと言う。
泊地として本格的に運用しようとしていた矢先……軍人としてならば、話にならないような愚かな行為である――しかし、『提督』としてならば、健次郎は少なからず共感出来た。
……恐らくはその提督にとって、その艦娘は特別な存在だったのだろう。
「全く――艦娘を雑に扱う、最近増えてきた木っ端提督共に聞かせたい美談さ」
皮肉げに唇を釣り上げると、冴島は忌々しげに短くなった葉巻を自らの掌に押し付ける。
――肉が焼ける不快な匂いと音が漏れるが、彼はそれすらも気にならない程に憤っている。
今でこそ軍の中で確たる地位を持つに至った『提督』達ではあるが、本来軍人では無い彼らは、運用されてから初期の頃は『軍』という組織とは馴染めずに数々の問題行動を起こす事も多かった。
その最初期の『提督』であった冴島も、幾度も謂れのない非難の矢面に立ったか知れない――しかし、それでも挫けずに功績を上げ、今の地位にまで昇り詰めた。
そして彼は今でも本職の軍人たちとの軋轢を解消するために尽力しているのだ。
そういった先人たちの努力を無にするような行為に、彼は失望を感じているようだった。
「そいつの行為が是か非かなんざ今は端に避けとけ……残ったのは、『泊地司令が現在不在である』っつう残酷な現実だけさ」
「……泊地は今、どうなっているのですか?」
「無事さ――やっこさん、軍人としちゃ阿呆だが、提督としちゃそれなりに実力はあったからな……補給さえ滞らなけりゃ、周辺海域の確保なら問題無いってレベルだ」
それを聞いて、健次郎はほっと胸を撫で下ろした。
提督を失った艦娘と艦隊は決して少なくは無いが、彼らを失った事で動揺し、そのまま深海棲艦に蹂躙されたり、精神的に再起不能に陥ってしまう者も少なくは無いからだ。
……それが特に、艦娘のために自らの命すら厭わないような提督ならば、尚更だろう。
だというのに、彼が率いていた艦娘達は未だに周囲の深海棲艦達を抑えきっている……かなり実戦慣れした艦が彼女達を率いているのだろう。
「だが、それも何の慰めにもなりゃしねぇ――今俺達に必要なのは現状維持じゃ無く、更なる飛躍なんだからな」
とは言っても、提督のいない艦娘と艦隊は本来の力を十全に引き出せないし、神事や神域の拡張も行えないため、艦娘の御霊を強化する事が出来ない。
それでは駄目なのだ――トラック泊地の存在意義は、あくまで更に遠くの外洋への足掛かり。
深海棲艦達の領域に踏み込むには、艦娘達には更に成長して貰わなくてはいけない。
提督を失った艦娘達には悪いが、今は一日でも速く補充人員として新たな提督を送り込む必要がある。
「――っつー訳だ。オメェには来週にも、トラック泊地に泊地司令として着任して貰うぜ。
少々バタバタはするだろうが、いけるな?」
「はい、冴島元帥閣下――御剣 健次郎少将、確かに拝命致しました」
健次郎は冴島の言葉に姿勢を正すと、敬礼をする事で返答とした。
すると、会議室の中に拍手が鳴り響いた――大和だ。
「――泊地司令への就任、おめでとうございます」
そう言うと、彼女は健次郎を祝福するように頭を下げる。
「これでようやくお前も一国一城の主か……もう、坊や呼ばわりも出来ないかな? これは」
武蔵は相変わらず皮肉げな物言いと表情だが、言葉の端々には、弟分の門出を祝う喜びが滲み出ている。
「――気が早いな二人共……しかし、悪くは無い」
健次郎とて一人の皇国軍人であり、一人の男でもある。
自分が一つの基地を任される立場になる事に、多少なりとも憧れはあるのだ。
健次郎は自らの昂ぶりを噛みしめるように、強く拳を握り締めた。
――――――――――――――――――――――――――
――冴島と別れ、執務室に向かう廊下を歩きながら、健次郎は鳳翔へと語りかける。
「――暫く、忙しくなりそうだな」
「そうですね……
「……ああ、そうだな」
思えば故郷を失ってから今日まで、京都にあった神祇省を除けば、健次郎はその人生の大半をこの横須賀鎮守府で過ごしてきた。
彼が那智に出会ったのも、鳳翔に出会ったのもこの場所だ……そこから離れるというのは、まるで故郷から旅立つときのような心地だ。
――だが、いつまでも雛は親の巣にいる訳にはいかないのだ。
健次郎にも旅立つときが来たという事だ……そして、来るべき時までに、自らを捕まえて離さない過去という鎖を解き放たなければならない。
「そのためにも、まずは連れて行く者達の選別を始めないとな」
「はい、そうですね……」
健次郎の言葉に、鳳翔は少し寂しそうに微笑んだ。
――この横須賀鎮守府とは違い、トラック泊地では十分な神域が確保されておらず、物資もそれに合わせて十分な量が確保出来ていない。
つまりは、それらが確保出来る程度に泊地の規模が大きくならない限りは、こちらでしていたような艦娘達の運用は出来ないという事だ。
……特に、戦艦と空母は桁違いの力を持つ代わりに、維持運用するには資材を大幅に消費しなくてはならず、その上空母の艦載機を修復する資材であるボーキサイトは、皇国内で採取する事が出来ない貴重な資源のため、その運用には細心の注意が必要となる。
そのため健次郎は、先遣艦隊として駆逐艦や軽巡洋艦、潜水艦といった軽コストの艦船をピックアップし、編成するつもりでいる。
そして泊地の規模が大きくなり、物資が安定してきた機を見計らって、少しずつ強力な艦娘達を招き、戦力を整えていく予定だ。
「分かってはいるのですけれど……暫く会えないのは、少し寂しいですね……」
鳳翔は立ち止まり、少し俯きながら呟いた。
……空母としては軽量級である鳳翔だが、十年前から現世に留まり、力を蓄えてきた彼女の御霊はかなり大きくなっている。
そのため、戦闘形態が傷付いた時の修復には相応の時間がかかってしまうため、修復用の資材も十分に揃っていないトラック泊地での運用はかなり不利になってしまう。
だから彼女のような経験豊富な艦の優先度は、必然的に低くなっているのだ。
それでも、立ち止まったのも、寂しそうな顔を見せたのも一瞬の事――すぐに、健次郎の後をいつものようにゆっくりと付いていく。
「――そうだな。だが、二度と会えない訳じゃないし、一日でも速く泊地を大きくすれば済む事だ」
「はい」
そもそも、これは健次郎の門出の儀式でもあるのだ――誰でも巣立ちの時は、何かしらの痛みを伴うもの。
かつての大戦の後、本国へと復員者達を送り届け、その新たなる門出を見届けた後、艦としての生を終えた『空母の母』は、今再び『息子』にして『弟』の巣立ちを見届ける覚悟を決めていた。
――――――――――――――――――――――――――
――同時刻 トラック泊地
無人となった提督の執務室に設けられた衛星回線電話のベルが鳴り響く。
暫くしてから、その受話器を取ったのは、左目を眼帯で覆い、腰に武骨な長刀を下げた少女だった。
「――こちらトラック泊地、司令執務室……って、何だ龍田か――何の用だ?」
少女は受話器の向こうの相手が勝手知ったる身内である事を知った瞬間、事務的な口調をガラリと変えた。
彼女の名は天龍――かつては『世界水準を遥かに超える』と称され、旧軍の黎明期を支えた天龍型軽巡洋艦の艦娘である。
「――もしかして敵襲か何かか? だとしたら嬉しい限り……って、はいはい、やっぱりただの定時報告か」
だと思ったぜ、と吐き捨ててから、天龍は執務机の上にどかり、と腰を下ろした。
言動と態度こそ粗暴で、好戦的な姿勢がありありと見えるが、残った金の瞳には、歴戦の御霊らしい理知的な光が宿っている。
「……!! そうか――週明けにも、新しい
正直、複雑な気分だぜ……ああ、お前やオレだけじゃねぇ……皆がそうだろうさ」
電話口の向こうからの報告に、一瞬驚愕した後、天竜は大きく、長い溜息を吐くと、チラリと首だけで後ろを振り向いた。
――そこには、主を失った革張りの椅子だけが鎮座している。
本来の主がいない……それだけなのに、何だかこの部屋がいつもより広く感じてしまうのは気のせいだろうか?
『――? ――?』
電話口の向こうから、心配そうな声が聞こえてくる――思いの外、物思いに耽ってしまっていたようだ。
「っと、済まねぇ……ボーっとしちまってよ……ともかく分かった。
『アイツ』にはこっちから伝えとくから、龍田は残りの奴らに伝言頼むぜ?」
じゃあな、と一言別れを告げると、天龍は受話器を置き、大きく足を上げた反動で机から立ち上がり、執務室を後にした。
そして扉を閉める前に、一瞬だけ部屋の中を一瞥する。
――一瞬、そこに人懐っこそうな笑みを浮かべる『彼』の顔を見たような気がした。
「……あばよ、アンタの事、そんなに嫌いじゃ無かったぜ」
そう一言呟くと、天龍はもう二度と振り向く事無く、後ろ手に扉を閉めて立ち去っていった。
――――――――――――――――――――――――――
執務室を後にした天龍が向かった先は、艦娘達が生活する彼女達専用の隊舎の一室だった。
扉を叩くが、中からは何も聞こえてこない……が、それはいつもの事なので、返事を待たずに扉を開ける。
「――よう、邪魔するぜ」
夜もすっかり更けているため、中は1メートル先もロクに見えない程に暗いが、艦娘である天龍の瞳は部屋の隅で膝を抱えながら蹲る一人の少女の姿を捉えていた。
「調子はどうだ……
電と呼ばれた少女――暁型駆逐艦四番艦の名を冠する彼女は、天龍の言葉に全く反応する事無く、セーラー服に身を包んだ小さな体を、更に縮こませるように、膝を抱えて座ったままだ。
普段はぱちり、と開かれていた垂れ目の瞳は赤く腫れ上がり、頬には涙の跡が痛々しく残っている。
――彼女は、もう何日も前からこんな状態だった。
目の前で慕っていた提督を失った、あの日から。
「……その様子じゃ、ロクにメシも食ってねぇんだろ?
そのままじゃ、お前本当にどうにかなっちまうぞ?」
はぁ、と溜息を吐くと、天龍はめげずに彼女に向かって声をかけ続ける。
その甲斐もあって、電はようやくぽつり、と口を開いた。
「…………司令官さんが帰って来たら、電も食べるのです」
だが、口にするのは最早現実逃避にも似た否定の言葉。
そんな彼女の頬はこけてしまっており、顔色も青白いを通り越して既に土気色の域にまで達している。
「――おい、いい加減にしろよ?」
その言葉を聞いた瞬間、流石の天龍も僅かに声に怒気を孕ませながら眉を吊り上げた。
「目の前でアイツの散り様を見ちまったお前の気持ちが分かるなんて事は言わねぇけどな――現実を見ろ電」
「……ぃ……ぁ……」
天龍の優しく、しかし強い口調で放たれた言葉を、電は弱々しく首を振りながら、それ以上聞くまいと耳をを塞ぐ。
しかし、天龍はその手を強引に引き剥がすと、額がぶつかり合う程に顔を近付け、彼女の瞳を真っ直ぐに見据えながら続けた。
「アイツは……提督はもう、いねぇんだ――もう、帰ってなんか来ないんだよ!!」
「嫌ああああああああああああああっ!!」
その瞬間、電は絶叫しながら髪を掻き毟り、絶叫するかのように泣き叫んだ。
喉も裂けよばかりに声を上げ、床に崩れ落ちた彼女の痛々しさに、天龍は思わず目を逸らした。
……こんな時に、こんなきつい言葉しかかけられない自分の性根が恨めしい。
だが、今の電に必要なのは半端な慰めや同情などでは無く、現実に目を向けさせる事だ。
天龍は心を鬼にし、彼女が泣き止むのを待ち、再び口を開く。
「――来週になったら、新しい提督がここに着任する……そしたら、アイツの荷物は引き払わなきゃならねぇ」
「……っ!?」
顔を伏せていた電が、勢い良く体を起こし、驚愕と怒り、悲しみ……様々な感情が綯い交ぜになった表情で天龍を見上げた。
戦死、もしくは戦時行方不明となった者の遺品は、遺族に引き渡されるか、そういった者がいない場合は処分される。
そしてそれは、電にとって初めての提督であった彼の生きた証を消し去ってしまう事に他ならない。
「……ぃ、や……!! 駄目……駄目なのですっ!!」
「コイツはもう決まった事だ。
軍にとって上からの命令は絶対――お前……いや、『俺達』なら全員、そんなの分かってるだろ?」
「……っ」
その言葉に、電は二の句を告げなくなる。
――電だけでなく、艦娘達はかつての軍艦に宿った御霊が、艤装を介して具現化したもの。
自らに乗り込んでいた者達がどういった倫理で、どのような環境で動いていたかを、彼女達は身を以て知っているからだ。
「――明日には、オレと龍田で作業を始めるからな。
もし、何か残したいと思うモノがあるんなら、引き篭もるのを止めて提督の部屋まで来い。
……お前が来るまで、作業は待っておいてやるからよ」
俯き、黙した電の態度を見て、それを肯定と取った天龍は、廊下からトレイに載せた食事を彼女の傍らに置くと、そう言い残して部屋を後にした。
――扉を閉めた後も、廊下には電のすすり泣く声が聞こえて来た。
それを背に受けながら、天龍は廊下の曲がり角を曲がり……壁に向かって、思い切り拳を叩きつけた。
「……クソッタレッ!!」
轟音と共に、コンクリート製であるはずの壁が粉々に打ち砕かれる。
人間ならば、到底成す事の出来ない力――それを持っているのに、自分はあの時何も出来なかった。
……あの時の出撃で中破していなければ、あの時損傷を押してでも出撃していれば、こんな事は起こらなかった筈だ。
あんなに心優しく、無垢な心を持った彼女が嘆き悲しむなんて事は。
「畜生……ちく……しょう……!!」
自分の不甲斐無さに、力の無さに、天龍の残された瞳から涙が溢れる。
それを拭う事もせず、天龍は空を見上げた。
――そこには、『あの頃』と何ら変わらぬ月がある。
その穏やかな光は、まるで『アイツ』のように、優しく包み込むように天龍を淡く照らしていた。
『――天龍、あの子達の事、頼んだよ』
「う、ぁ……」
不意に、彼の笑顔と声を思い出し、思わず嗚咽が漏れる。
――こんな時に、気付いてしまった。
――自分は、到底軍人と思えない程に軟弱で、気弱で……それ以上にとても優しい彼の事を、途方も無く気に入っていたという事を。
「馬鹿野郎……何で……何でいなくなっちまうんだよ……馬鹿……野郎……!!」
――辛い。
――悲しい。
――心が、痛い。
一度認識してしまった心の傷は、疼き出したら止まらない。
「誰か……助けてくれよ……誰か……!!」
提督亡き後、懸命に主無き泊地を支えてきた彼女の悲痛な声は、誰にも気付かれる事無く月夜に溶けていく。
――その声が聞き届けられるのは……もう少し先の事になる。
それはかつて艦娘を失った提督と、提督を失った艦娘達が出会う一週間前の事だった。
次話は、主人公が連れて行く艦娘達の選別と紹介がメインの予定です。