錯覚によってありもしない物を見たり、記憶と混同して見たこともない物を見たことがあると思ったり……。
これは、そんな感覚の曖昧さと戦う者の物語である(かもしれない)。
人の知覚において、視覚の占める割合は非常に大きい。一説によれば、人は外界の8割以上を視覚からの情報で認識しているそうだ。
試してみれば単純なことだ。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚――そのうち1つを封じた時、もっとも情報の減少が多いのはどれか。言うまでもなく視覚だ。
「見えず、聞けず、嗅げず、触れず、味わえず……。五感のどれか1つを失わせるだけでも拷問になるというのに、まさか全て塞がれるとはな」
「…………」
音が聞こえずとも、匂いがせずとも、触れたことに気付かずとも、味がせずとも――それでも、人は生きていける。もちろん多大な不自由はあるが、致命の欠陥とはならない。
だが視覚はどうか。
音だけでは、正確な場所は分からない。
匂いとて、風向きによってまちまちだ。
どこにあるのか分からなければ触れることは出来ない。
味がするころには手遅れとなるような毒物の可能性もある。
このように、視覚とは人が個体として生きて行くに必須の感覚と言っても過言ではない。
「……だが、この程度どうということはない。俺の感覚はこの苦境を乗り越えたのだから」
「…………ドクター?」
だが、それで良いのか。
野に生きる獣ならば、それで良いかもしれない。だが、人は違う。そういった個体で生きられない者が生きて行けるように環境を、その者自身を変えていくのが人だ。
見える物が全てではない。見える事が全てではない。
知覚の1つや2つがなくとも生きて行くには何が必要か。それを想像し、創造する。これぞ人の新たな知覚ではないだろうか。
「カバー1枚程度なにするものぞ! 俺の眼にはサリアの尻尾が視えるぞ! そうか、これが『心眼』というやつか!」
「黙れ、ドクター! そんな濁りきった心眼があるか!」
なお、上記の話とDr.黒井鹿の恥覚は一切関係無いのでご承知おき願いたい。
***
件のおしゃれブームから1週間ほど後――
「ふむ、よし」
――サリアは、いまだに角と尻尾のカバーを愛用していた。
部屋に備え付けの姿見には、これまでより橙色の減った姿が映っている。彼女の尻尾は厚みがとても薄く、通常のヴイーヴル用カバーでは幅が余ってしまう。また、角も上ではなく前を向いてうえに本数が多いため、同じくヴイーヴル用の物は使えない。
というわけで尻尾は改造した薄型ヴイーヴル用、角はメテオリーテからもらったサルカズ用を2つ使うことで隠している。
そう、サリアにとってこれはおしゃれではなく、自分の弱点を隠す防護服だ。そう考えれば、多少の着心地の悪さや手入れの煩雑さも許容できるというものだ。
これを着用するようになってからというもの、Dr.黒井鹿によるお触り被害は脅威のゼロを維持している。……まあ、アーミヤの手で医療室送りにされていた期間もあるので、その影響もあるのだが。
だが、これを着けている限り、Dr.黒井鹿が暴走する可能性は限りなく低くなる。あとはその欲望が他のオペレーターに向いた場合の対処だが……それはその時に考えればいい。それがサリアの考えだった。
なにせDr.黒井鹿の行動に関しては、余人が考えても一切見通せないのだから。
「おはよう、ドクター。今日も仕事を――」
「Guten Morgen, Saria. Lassen Sie uns heute unser Bestes geben.」
「いや待て、どうしたんだ?」
そう、唐突にこんなことをする人間の思考を、どうやったら先読みできるというのか。
「Was ist los? Bist du krank?」
「ドクター、とりあえず私が分かる言葉で喋ってくれ。話はそれからだ」
「ん、ああ、すまない。少し取り乱した」
「少し、なのか……?」
執務室に入った途端に謎の言語で話しかけられれば、誰でも混乱する。それをこの短時間で乗り越えられるサリアの精神力は、ひとえにDr.黒井鹿によって鍛え上げられたものだ。……より正確には、Dr.黒井鹿の奇行に耐えるために鍛えられた、だが。
「それでサリアはん、どうしたんどすえ? 部屋に入るなり頓狂な声出しなはって」
「いちおう分かるが、普通に喋れ。その色々と間違えた喋り方はやめろ!」
「そげなこと言うでなか。これも場所によっちゃ普通の喋り方ばい」
「私はここでの普通を要求しているんだ!」
その後、もう10個あまりの言語で何かを訴えたDr.黒井鹿だったが、サリアの拳にアーツの光が集まると途端に流暢に喋り出した。
「それで、どうしたんだ? 朝早くから変な声を出すなんて、具合が悪いのか?」
「それはこちらの台詞だ。朝早くから変な言語を話すなんて、理性がないのか?」
「あるわけないだろう?」
「なぜ寝起きなのに理性がないんだ!?」
曰く、夢の中でも周回にあたっていたのだとか。それでは理性が回復しないのも道理だ。
「……その理性不足は、私の尻尾が原因か?」
「……まあ、そうだ。だが心配いらない。それに関しては解決策を編み出した」
「今の今まで心配する要素しか見当たらないんだが……聞かせてもらおうか。その解決策とやらを」
――あれ? これ理性回復を盾にすればお触り行けたのでは?
そんなことを若干思いつつ、Dr.黒井鹿は口を開いた。
「人間の感覚は、その多くを視覚に頼っている。まず見て、次に聞いて、嗅いで、触れて、物によっては味わう。それが人の行動だ」
「そうだな。……ところでドクター。尻尾は味わう物ではないからな?」
「しかし、今の俺は五感を封じられた状態に等しい。カバーによって見えず、衣擦れしか聞こえず、匂いも届かず、触れることも出来ず、まして味わうことも出来ない。……これを地獄と呼ばずしてなんと呼ぶ?」
「無視するなドクター! 尻尾は――というか人の身体は味わう物ではないはずだろう!?」
「だが、どんな地獄でも人は慣れる。そしてそこから抜け出す術を見出せるのだ。それこそが人の本質、人の獲得した知性というものだ」
「人の話を聞け! お前が獲得しているのは知性ではなく恥性だ!」
サリアのツッコミを上書きするかのごとく、Dr.黒井鹿は叫んだ。
「全裸がエロくないように! 脱ぎかけが最もエロいように! 見えぬからこその良さを視る! これぞ人の知覚の至高なり!!」
なり、なり、なり……。通気口の中を、叫びが駆け抜けていく。
そして、それに追いすがる大音声が、今生まれる。
「わざわざ見えないようにしているのだから見るな! ただそれだけのことだろうが!?」
閉所で出していい声量ではなかった。壁が吸収しきれなかった音が跳ね返り、2人の鼓膜を打ち据える。
だが、その程度で止まるわけはない。
「しかしだな、サリア。俺は既にその角も尻尾も見て、聞いて、嗅いで、触れて、舐めて、味わって、擦って、揉んで診て吸って包んで握って(以下略)……と隅々まで知ってしまっているわけだ。そこで情報を遮断されれば、以前の記憶を元に想像するしかないだろう?」
「そもそも想像するな、と言っているんだ! いや、それ以前に人の尻尾を弄ぶというのがだな……」
「弄ぶ? とんでもない。俺はそんな中途半端な触り方はしないさ。なにせお互いに明日があるかも分からない身の上だ。毎度毎度、この1回が今生の別れとなるかもしれない……そう考えて堪能しているだけだ」
「私の意思を無視して触っている点をもって弄んでいると言っているんだ!」
「だが、不快ではないだろう? ヴイーヴルに関する本を片っ端から買ってきて読んだからな。そうそう下手は打っていないはずだ」
「最近やけに書籍費がかさんでいると思えば、そういうことか!」
「そういうことだ!」
「開き直るな!」
そんな調子で互いに意見をぶつけ合い、十五分後。
「…………喉が渇いたな」
「…………休憩にするか」
2人は息も絶え絶えになっていた。十五分も叫び続ければ当然である。
パフューマー特製のお茶で喉を潤し、2人は同時にふー、と息を吐いた。張り詰めていた空気が弛緩し、のどかな雰囲気となる。もし屋外だったなら、このままいい気分で昼寝に突入できただろう。あいにくと地下深くだが。
「まったく……。なぜお前はそうも尻尾に執着するんだ?」
「逆に聞きたいんだが、なぜ執着しないと思えるんだ?」
「ほとんどの人間は執着しないからだ」
「それは巧妙に隠しているだけだ。世の人々は尻尾に飢え、角を欲しているはずだ。俺には分かる」
「気のせいだ。絶対に気のせいだ」
まあ、空気が和らいだところで話題は変わらないのだが。
「この調子では、そのうち尻尾を自作しそうだな……」
「それはさすがにな……」
「まあ、そうか。さすがのドクターでもそこまでは――」
「ああ、さすがに難しかった。いつか再挑戦したいところだ」
「ドクター!?」
慌てて立ち上がったサリアは、腰に尻尾を巻き付けていた。犬で言えば後脚の間に尻尾を挟んでいる状態――つまりは恐怖心の表れである。
「ドクター、つまりお前は、自分の手で尻尾を作ったことがある、と……」
「……あれは尻尾と呼べるほど上等な物じゃない。精々が尻尾の紛い物、ハリボテだ」
「出来不出来の話ではなくてだな。……作ろうとしたことは、あるんだな?」
「ああ、あるとも。人として当然だろう?」
「そんな当然があってたまるものか!」
そう言ってサリアは端末に指を走らせた。そこに表示された名前を見て、Dr.黒井鹿はフードの奥で顔を青ざめさせた。
『アーミヤ』……端末の文字はそう読めた。
「待ってくれサリア! 俺はただ純粋な好奇心で作ろうと思っただけで、やましいことなどこれぽっちしかない!」
「多少はあったんだな!? そもそもそんな材料をどこから手に入れた!」
「オリジムシβ種の殻だ。なかなかいいオレンジ色でな」
「……待て。なぜオレンジ色である必要がある?」
「…………それは、だな」
口ごもったDr.黒井鹿の視線が向かう先はサリアの腰……もとい、そこに巻き付けられた尻尾だ。
「……私の尻尾を再現しようとした、と?」
「…………そうだ」
「アーミヤ、聞いてくれ。ドクターがな――」
「ストォォォップ! サリア、待ってくれ!」
サリアの端末の電源を切り、力技で通信を止めたDr.黒井鹿。震える手からは恐怖、畏怖、安堵などが見て取れる。
「サリア、聞いてくれ。あれはほんの出来心だったんだ」
「出来心で尻尾を作るのか、お前は」
「ああ、さすがにいつもサリアに負担を強いては悪いと思ってな」
「その心掛けはもっと別のところで発揮してもらいたいのだが……」
だがサリアとて悪い気はしないのか、ひとまずアーミヤへの通報は止めたようだ。無言で次の言葉を待っている。
「オリジムシの扱いは慣れているからな。造形まではうまくいったんだが、問題はその先でな。芯がなくてはただの抜け殻だ。しかし、しっかりとした芯を入れてしまうと、今度はただのオブジェになってしまう」
「待て、ドクター。お前の尻尾論よりも、なぜオリジムシの扱いに長けているのかについて説明を――」
「メイヤーに頼んで動かせるようにもしてみたんだが、やはり機械だ。決められた動きしかできず、見ていて物足りない。何より近付いたときにモーターの音がしていては興が削がれること甚だしい」
「おい、また無視するな! まさかと思うが貴様、まだオリジムシ食用化計画を諦めていなかったのか!?」
「だから今はメイヤーの設計待ちの状態だ。彼女には新型の武器だと説明していてな。己の腕の延長として使えるよう、こちらの意図をくみ取って動く芯の開発を依頼してある」
「メイヤー……、仕事を引き受ける相手は選べとあれほど言ったというのに……」
だが、Dr.黒井鹿の話が真実ならば、メイヤーさえ止めればこの計画は頓挫する。
一刻も早くその邪悪な尻尾Xの開発を止めるべく、サリアは執務室を出た。……否、出ようとした。
その眼前を、橙色が遮った。
「……サリアさん、どこに行くんですか?」
「あ、アーミヤ!?」
橙色の出所にいたのは小柄なウサギ耳の少女。周囲に放っている強烈な圧のせいで身長が伸びないのでは? と巷で噂のアーミヤだ。
「アーミヤ、その鞭(?)はいったい……」
「ドクターの部屋を荒らs……家探s……掃除していたら見つけたんです。鍵のかかったロッカーの中に鍵付きの棚があって、そこの引き出しに入れてあった金庫に入っていたんです」
なぜそんな厳重な警戒態勢が敷かれているのか。なぜ掃除で金庫の中の物を発見できるのか。そんな常識的なことを聞くのは野暮というものだ。なにせDr.黒井鹿の部屋であり、なにせアーミヤなのだから。
「見た瞬間に分かりました。これはドクターが作っていた尻尾に違いない、と」
「あの、アーミヤ? 俺はその話をメイヤー以外の誰ともしていないんだが、なぜ知っているんだ?」
「……ちょっと小盗聴器に挟んだもので」
「それを言うなら小耳に挟んだ、じゃないか?」
だが、盗聴器はDr.黒井鹿もそこかしこに仕掛けている。まったくもって同罪だ。
「メイヤーさんにも話を聞こうと思って持って行ったら、芯の試作ができたから、と言われたんです。試運転も頼まれたので、相手をしてくれる方を探していたんですよ」
「そ、そうか。だが私達は仕事があるからな。残念だが……」
「ええ、サリアさんは仕事を続けてください」
そう告げると、アーミヤは手にした鞭……尻尾……鞭のような何かをユラユラと揺らした。そう、まるで本物の尻尾のように……。
「尻尾……おお、あそこに見えるのはサリアの尻尾ではないか……」
「ドクター、正気に戻れ! あれは尻尾の紛い物だとお前自身が言っていたじゃないか!」
「はっ、たしかに。……いや、だがあの見た目は間違いなくサリアの尻尾だ。これだけ離れていては視覚以外が機能しない。ならば他の四感を使える距離まで近付いて確かめるべきではないか? よし、そうしよう」
「待て待て待て! ドクター、お前にはアーミヤの目が見えないのか? あれは間違いなく命を取りに来ているぞ!?」
「サリアの尻尾で死ねるなら本望だ!」
「流れるように覚悟を固めるな!」
どれだけ言葉を尽くそうともDr.黒井鹿は止まりそうにない。なにせこのところ深刻なお触り不足だったのだ。飢餓状態の人間が食品サンプルを目にしたら、とりあえず近付いて食べられるか調べる。それと同じことだ。
だが、アーミヤの下にDr.黒井鹿を送れば、今度こそ帰ってこないかもしれない。彼は既に幾度もの黄泉の国訪問をしているが、そろそろ永住権を獲得しそうだ。なによりアーミヤの目が本気だ。きっとサリアの尻尾はあったのに自分の耳がなかったことにご立腹なのだろう。
そこまで考えて、サリアは決断した。
「~~~ッ! ドクター!」
「放してくれ。俺はサリアの尻尾のところに……!?」
Dr.黒井鹿の視界を覆う、橙色。だが、それはアーミヤの手元から伸びたものではない。
「……私がここにいるのに、あちらに尻尾があるはずがないだろう。少し冷静になれ」
「……」
「そもそも、あれはオリジムシ製だ。私の物とは匂いも手触りも違う。そんなもので死んでも構わないのか?」
「…………」
「あ、いや、今のは変な意味ではなくてだな!? お前が私の尻尾で死ぬなら、などと言うからそれに釣られただけで死ぬまで共にだとかそういったことではなく!」
「……………………」
「……ドクター?」
「…………………………………………こふぁ」
飢餓状態にある者への正しい対処をご存じだろうか。
まず、急に食べ物を与えてはいけない。弱った身体は食べ物を受け付けず、なんとか胃に流し込んだとしても消化の体力すら残っていないことが多い。
ゆっくりと栄養を与え、徐々に元の状態に戻さねばならないのだ。
だが、サリアは間違えた。
極限状態にあったDr.黒井鹿に対して、顔を尻尾で覆うというこれまでやったことのない行為に及んでしまった。しかも、しかもだ。これまでのお触りは基本的にDr.黒井鹿の主動によるもので、サリアから動くことはほぼなかった。だというのに、今回はサリアが自ら動いたのだ。この差は大きい。
つまり、何が起きたかというと。
「……ドクター? 返事をしろ!」
「…………尻尾道とは、死ぬことと見つけたり」
「そんな返事はいらない! ドクター、息をしろ! ドクター!!」
いきなりの尻尾成分過多により、Dr.黒井鹿は急遽冥界まで日帰り旅行をすることとなった。
***
後日、執務室にて。
「いいか、ドクター。触るだけだからな? 軽く触るだけだ。それ以上はするな」
「ああ、分かっている。そもそも、こちらは足を縛られているうえに腰も椅子に括りつけられているんだ。手の出しようがない」
「それでも抜け出しそうだから恐ろしいんだ……。よし、いいか? この距離なら触れるだろう?」
「……………………………………………………ああ、川の向こうに散って行ったレユニオンたちが見える」
「ドクター戻って来い! くっ、医療オペレーター来てくれ! ドクターがまたトリップした!」
「また、か。まあ、妾に任せておけ。ひとまず血を抜こう。ドクターの血はとても芳ばしい香りでな……」
「誰かまっとうな医療オペレーターを呼んでくれ!!」
そんなこんなで、ロドスは今日も案外平和である。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
供給不足からの供給過多って体に悪いですよね。でも供給は増えて欲しいというこのジレンマ……。徐々に、徐々に増えてもらいたいものです。
それでは、次回の更新もお楽しみに!