雉虎色の君へ。   作:しゅないだー

1 / 2
雉虎色の君へ。

 膝が寒い。

 レポートに追われながら、ふっと湧いた感情だった。暖房もつけないままの深夜一時、街が寝静まった頃。そんな環境で寒くないわけがなかったし、何故「膝」だけが鮮明に思い浮かんだのか。

 疲れているのだ、そう思って席を立つ。家族を起こさないよう軋む階段をそっと降りると、シャワーを浴びる。41度の温もりが強張った身体を溶かしてゆく。ただ時間だけが伝い落ちてゆく。目を閉じても、そこには暗闇しかなかった。

 

 熱いシャワーを浴びて頭に陰鬱と蠢く眠気は覚めたものの、依然として得体の知れない寒気が身体を包んでいる。風邪だろうか。かといってどうする事もできず、目先の課題へまた取り掛かる。親や弟には弱味を見せたくない。自分を期待の眼差しで見つめる彼らを失望させたくなかった。いつだって自分は完璧でなければならない。兄や姉がいれば違ったのだろうか、自分をただ受け止めてくれる、それが。

 

 いつも、いつまで経っても本当に大事な事は先延ばし。知らないふりをするんでしょ。

 

 そう耳元で囁かれて思わず振り向く。灯りの切れた部屋の中で、PCの無機質な光がぼんやりと暗い陰を映していた。じっと目を凝らしても、そこには何も見出だせず。本当に何もないのか、それとも僕はまた知らないふりをしているのだろうか。誰も答えてはくれない。

 こめかみを摘まんだ後、PCを閉じる。その気になれば明日に回したってどうにでもなる。ベッドに横たわる気にもなれず、くるくると回る椅子に腰掛けたまま、壁を見つめていた。幾筋にも引かれた土色の縦線がほんの少しだけ薄れてしまった記憶を掘り起こす。

 

 彼女が来たのは僕が八つになる歳だった。遠方へ引っ越す友人から親が譲り受けたのがその猫で、初めて顔を合わせた時に「随分ふてぶてしい顔付きをしているのだなあ」と幼心に感じた。てっきり可愛らしい子猫を想像していたので、お気に入りの日向から動こうとせず、ただ毎日を幸せそうに貪っていた彼女が少し不満でもあり、羨ましくもあり。

 

 これを聞けば怪訝に思うかもしれないが、彼女には名前がなかった。

 というより付けあぐねた。元々何かしらあったらしいが、家族皆がそれぞれ好き勝手呼ぶのでどれも全く定着しなかったし、彼女自身もそれで良いと言わんばかりに振る舞っていた。

 家族が思い思いにそれぞれ可愛らしい名前を付ける中、僕はどうにもどれもしっくりこなくて「なあ」だの「おい」だの粗野な呼びかけ方をしていた。思えば可哀想な事をしたと思う、何故か彼女は僕に一番懐いていたから。

 

 僕のこの狭い部屋が特に彼女のお気に入りだった。わざわざ勉強している僕の椅子の脚を掻い潜ってからひょっこりと膝の上に顔を出す。ほんの数秒、目と目が合うその刹那が好きだった。

 くるりと向き直ると彼女が爪を壁で研ぎ出す。当然勉強が手に付くわけもなく、溜息混じりにそれを眺めていた。今思えば、それほど悪くない時間だった。

 

 冬はいつも彼女が傍にいた。かりかりと扉を掻く音がする。開けてやる。何食わぬ顔で入ってくると、彼女はいつもくんくんと鼻を鳴らした。そして机の上に突然飛び乗って、広がっている課題を荒らす。最早諦める事に慣れてしまったのを見透かすように、その黒真珠のような瞳で見つめてくる。すると僕は何も言えなくなって、膝の上で丸くなる彼女をただ撫でる。夜が明けるまで、ただずっと。

 

 今年の冬は膝に誰もいない。去年の今頃に彼女は息を引き取った。老衰だった。活動が鈍り、食が落ち、その兆候は見えていたので家族一同彼女に付きっきりで面倒を見ていた。訂正する。僕だけは大学受験でそうもいかなかった。母からの知らせで、ある朝起きた時には冷たくなっていた彼女の顔を慈しむように撫でた。それだけだ。

 最期の時に一緒にいてやれなかったとはいえ、一般的な野良猫と比較しても幸せな余生を過ごしていたのだと理解はしているし、必要以上に悲しむ必要はないのだと知っていた。何より彼女が幸せそうな顔をしていたから。

 それでも庭に埋める際、タオルに包まれた身体が僕の知っている彼女の重さよりもずっとずっと軽くて、ほんの少しだけ泣いた。

 

 

 そんな取り留めもない記憶が頭の中でぼんやりと風船みたいに膨らんでいく。すると何だか本当に全てが嫌になって、死のうと思った。

 だって寒いんだ。

 どうせなら川に身を投げて死のう。そのまま流されて冷え切ったまま海へ出よう。そうして海鳥達の糧になって、後は知らない。

 

 今年は暖冬で、まだコートを出していなかった。クローゼットの奥から黒のダッフルコートを引っ張り出すと、そのまま外へ出る。尖った空気が頬を刺す。

 夜の道は本当に静かで。耳が痛くなりそうな静寂の奥に、微かに誰かの寝息が洩れる。黒く濁った信号機は僕を見送っているように思えた。

 欄干にもたれ掛かるようにして橋の中央へ進む。見下ろした川は夜に淀んで、ぽっかりと口を開けていた。不思議と恐怖はなかった。左足で柵に乗り上げる。凍死が先か、溺死が先か。

 

 飛び降りようとした時、ふと袖口に毛が1本くっついているのが見えた。雉虎色のそれは、確かに彼女の残滓で。にゃあ、と何処かで猫の鳴き声がした。

 世界が急に色付き始める。真下の河は陰気な音を立てて流れ、柵を握り締めていた両手が痛いほど冷たい。橋の中央へ転げ落ちた。心臓が煩い程に音を立てている。

 

 死にたい訳が無かった。僕は彼女の事が大好きで。彼女を覚えている誰かがこれ以上一人も欠けるなんて許せる筈もなく。ただ蹲って泣いた。

 

「でも、寒いんだよ。お前がいないと」

 

 袖口に付いた毛がふわりと揺れた。それを見て初めて気付いた、彼女をどう呼ぶべきだったか。僕が唯一弱味を見せられた君へ、自分をただ受け止めてくれていた君へ、雉虎色の君へ。一年越しの手向けの言葉を。

 

「姉貴」

 

 初めて心の底から泣けた気がした。空が薄白むまで、ただずっとそこで啜り泣いていた。

 

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。