「うぁー! さっぱり分かんないんだけど!!」
結月ゆかり争奪戦の勝負が決まったその夜、自室で頭を捻っていたマキは叫びながらベッドにダイブした。
同時に投げ捨てられた分厚い数学の参考書がくるくると宙を舞い、彼女に続くようにして頭の上へと――
「あ痛ぁっ!?」
幸いにして角がぶつかることは無かったものの。約一キロほどの重量はあろうかという本の直撃に視界を白黒させながら、弦巻マキは恨めし気に自分の横へと転がった参考書を睨み付けた。
自分が勉強嫌いだからだろうか、その厚みを見ていると気が遠くなりそうだったし、重さだって一キロどころか十キロはありそうに見える。
「まぁでもこの本全部が範囲って訳じゃないんだし……何よりゆかりちゃんの為だしもう少し頑張るかぁ……」
寝転がったままではあったが参考書を再び開きながら、昼休みに新聞部から伝えられた勝負内容について思い返す。
――「明日の数学勝負、内容が決まりましたのでお伝えします」
「うゎ!? び、びっくりした……」
相変わらずどこかぼんやりとして眠そうな眼の青髪、確か琴葉葵と言っただろうか? 昼休みに教室を出るなり話しかけてきた彼女に危うく心臓が止まりかけたマキは、しっかり勝負内容を聞くために少し待ってと彼女を手で制しながら息を整える。
「――それで、どういう勝負になったのさ?」
気づけば自分の周りにいる生徒や教室の級友達も息を潜めて勝負内容を聞こうと集中しているようで、あたりには妙な静粛さと緊張感が漂っていた。
「はい、勝負名『先生、私に優しく教えて~ドキドキあのコ部屋で始まる恋のレッスン』です」
「は?」
何だその本屋のちょっといかがわしいコーナーに置いてありそうなタイトルは、とマキは思わず脱力する。
というか周りで聞き耳を立てていた男子学生の中には思わずずっこけている者までいた。
あまりにも案の定な反応にだが、やっぱり葵は表情を変えずに続ける。
「我が家の姉のネーミングセンスが壊滅的で誠に申し訳ありません。一応私の方からも『それはない、本当に姉さんが私の姉なのか疑わざるを得ない』と忠告したのですが、朝の時点でこの勝負名を決めていたと言って聞かず……。次以降の勝負に関しては余計な名前を付けないようにときつく言いつけておきましたし、勝負内容に関しては全うなものなのでどうか今回ばかりは目をつぶっていただけると幸いです」
そう言いながらも相変わらずの無表情に近いが、眉がちょっとハの字に寄りそうにプルプルしているあたり、彼女も嫌なのだろう。出来る限りネーミングには突っ込まないようにしてマキは尋ねる。
「分かったよ。それで結局、明日の勝負はどういうものになるの?」
「お心遣いに感謝します。それで肝心の勝負内容ですが、来週数学の授業で小テストがありますよね?」
「えっ!? そんな話聞いてな……あー、そういえば前回の数学寝てたかも……」
「……まぁ、あるんです。そこで、お二人には結月ゆかりさんに対してその小テスト範囲について教えて貰い、より分かりやすく教えることが出来た方が勝利となります」
「えーっと、因みにテストの範囲って……」
「いつも通り前回の小テスト以降の……ああ、世間一般には場合の数と呼ばれている範囲ですね」
これまでの会話でマキの頭の具合を察したのか、葵は言い直す。
「ああ、そういえばそんな感じの範囲だったような……?」
確か、ややこしい二乗とかグラフとかが出てこなかったから最初はこれなら僕でも分かるかもとか思った覚えがある。まぁ、なんというかいつもの通り話を聞いてると眠くなってきて、結局分からなかったのだが。
ただ見方を変えればどうせ数学なんてどこの範囲でも結局そんなものだし、今回の勝負ではあの頭が痛くなってくる数式群を見なくていいのだからとマキは楽観的に見方を変えて、葵に了承したと伝えたのだった。
――――「あー……でもやっぱりわかんないー……」
先ほどページを開いてから五分とたたず、再び参考書をぽーいと放り投げながらマキはため息をついて、書きかけの新譜やギター誌の散らばる勉強机の一角に置かれたショートケーキをフォークで崩し、口に運ぶ。
「あー……やっぱり頭を使った後の甘いものは美味しいなー……」
そんな世の学業に励む学生たちを敵に回すような事を宣いながらしみじみとケーキを咀嚼するマキ。
因みにこのケーキは彼女が買ってきたものではなく彼女の父謹製の一品で、普段は彼の経営する喫茶店でもあっという間に売れ切ってしまう為、娘の彼女といえどもなかなか食べられない貴重な逸品だ。
その裏には、勉強方面に関しては半ばあきらめかけていた娘が人生で初めて自分のお小遣いを削ってまで参考書を買い、勉強に励もうとしているということに思わず涙腺が緩みながらも、それを男親として何とか表に出さないように……だが何とか応援したい! という父の気持ちが込められていたわけだが、それを弦巻マキが知ることはない。
だが、ケーキによる糖分補給が完全に無駄だったわけではないようで、ふと彼女の頭に一つの閃きが去来する。
「あれ? そういえばあの子中学生だよね、まだこの範囲勉強してないんじゃない……?」
それだけではない、勝負内容が決まったのは今日の昼で勝負は明日の放課後、そう時間がある訳ではない。そこまで思い至った瞬間、彼女の生クリームが薄くついた唇がニヤリと弧を描く。
「そうか! 今回の勝負、言ってしまえば一夜漬け勝負なんだ……!」
あかりが優秀だという噂は聞いたことがあるが、そうは言っても相手は中学生、今回の範囲はまだ習っていない筈だ。それに対してこっちは毎回定期考査を(赤点ギリギリとはいえ)一夜漬けで乗り越えてきている。
しかも今回買った参考書は本屋の店員に聞いて教えて貰った、有名なシリーズの一番難しいらしい赤くて厚い本だ。あまりの厚さに思わず本屋では覚えるのが大変そうと買うのを散々躊躇したが、これを覚えてしまえればどんな問題にも対応できる……と思う。
数学勝負と聞いた時には絶望しかなかったが、これなら何とかなるかもしれない。
「後はあの子がどれだけ一夜漬けでやってくるかってことだけど……」
考えて、あかりについて自分がほとんど知らないことに気づく。彼女が勉強できるという話だって、噂半分に聞いた情報と彼女の態度からそうだろうという半ば推定みたいなものでしかない。
とはいえあくまで弦巻マキにとって彼女は自分と結月ゆかりの間に突如割り込んできた邪魔者でしかなく、今まで彼女自身について知ろうとしたことが無かった為にそれも当然と言えば当然なのだが。
そこまで考えて、今はそんな事より目の前の勝負だと彼女は頭を振った。
見出した一筋の光明の下、視点を変えて再び参考書を開く。さっきまでのように理解しようと解説を読むのではく、いつものように答えを出すための丸暗記をするために。
――――――――――――
「あの、マキさん……大丈夫ですか?」
「……? ああ、うん大丈夫ダイジョウブ……」
翌日の放課後、集合場所であるゆかりの家の前にやって来たマキの有様は酷いものだった。目元には黒々としたクマが浮かんでおり、何時もの底抜けに元気な様子は微塵も見えない。
何せ昨日の夜は貫徹するつもりだったのにうっかり三時を回ったあたりで寝落ちしてしまい、その遅れを取り戻すため、そして覚えた内容を忘れないようにするため授業中も教科書の下で参考書を広げていたのだ。
おかげで何とか全範囲の問題を一通りさらうことには成功しているが、その記憶もいつまでもつか分からない。さっさと勝負を始めたいマキだったが、そこにいつも通りのあかりが口をはさむ。
「あの……本当に大丈夫なんですかマキ先輩? 何だったら勝負の日をずらしてもいいんですよ?」
それは勝負相手のあかりをしても不安になるほど憔悴した様子のマキを心配しての言葉だったのだが、寝不足で判断力不足な彼女には余裕のある煽りにしか聞こえない。
「ふーん、随分とあかりさんは余裕みたいだけど、そっちこそ他人を心配してて大丈夫? 対して勉強してないみたいだけどそんなんだと僕が勝たせてもらうよ?」
「なっ!? 心配して損しました!! そっちがやる気なら別に今からで大丈夫です! 吠え面かかせてやりますからさっさと始めましょう」
いつものように紲星あかりとピリピリし始めようとしたところで、パンパンと手が打ち鳴らされる。
「二人とも落ち着いてください、お昼にメールで送ったようにあんまりそうやって勝負外で争うなら、この話無かったことにさせてもらいますからね? ……それにマキさんとは久しぶりの、あかりちゃんとは初めての勉強会何ですから楽しまないともったいなくないですか?」
久しぶりの勉強会、そう言われた弦巻マキは今までの苦々しい表情を崩してにへらと口元を緩める。
今の今までいかにして紲星あかりに勝つかという勝負のことばかりが頭を占めていて肝心の『結月ゆかりと勉強会をする』という所がおざなりになっていたのだった。
(確かに、ゆかりちゃんとの勉強会とか久しぶりだなぁ)
勿論勝負を投げるつもりはないが、せっかくの機会だ。結月ゆかりの言う通り楽しまなければ損でしかない。
視線を横に彷徨わせれば、どうやら紲星あかりも心は同じようだ。どちらともなく頷いて休戦協定を結び、結月ゆかりに笑顔を向ける。
「まぁ、ゆかりちゃんがそういうなら……ただ、勝負の結果だけははっきりさせて貰うよ」
「確かにお姉ちゃんの言う通りです! ほら見てください、ドーナッツ買ってきたのでこれを食べながら勉強しましょう!!」
そう言う紲星あかりの両手をよく見れば一度家に帰ったのだろうか学校指定のカバンはなく、両手にドーナツの箱が握られていた。というかそれ以外……たとえば勉強道具だのなんだのを持っているようにはどう頑張っても見えない。
「わぁ、ありがとうあかりちゃん! それじゃあ紅茶でも淹れて一緒に食べましょうか。マキさんはどうします? 紅茶で大丈夫ですか?」
「え? ああ、うん」
あまりに身軽すぎる勝負相手の様子に、マキは半ば上の空に相槌を打ちながら考え続ける。
(どう見ても筆記用具すら持っているようには見えないんだけど、もしかして勝負を諦めてる……? いやでもそんな性格には見えないし……まさか、ドーナツで好感度を稼いで有利になるように?)
楽しそうに家へと入っていく二人を追いながらそんな考えに至る。
(だってどう見ても夜遅くまで勉強しているようには見えないし、高校生の僕でも面倒だった範囲を中学生が出来なくてもおかしくはない。となるとやっぱりドーナツを使った買収作戦……?)
普段ならまさかと冗談で終わるようなその考えはだが、今の睡眠不足で思考力ガタ落ちのマキにとっては説得力のある内容のように思われた。
(それならこの勝負、貰った!)
ニィッと二人の背後で勝利を確信した笑みを浮かべて拳を握りしめる。なぜならこの勝負を判定するゆかりは勝負ごとに関してとてもフェアで、そういった不正行為を嫌っているからだ。
ゲーム、特に対戦系のものを好む結月ゆかりにとってチートや改造と言った不正行為は最も忌むべき行為らしい。
正直ゲームといえば音ゲーやRPGなど、一人で楽しむものだというマキにとってはあまりイメージ出来ない話題ではあったが、これまで彼女に何度もそのことに対する愚痴を聞かされてきた身として間違いないと断言できる。
にもかかわらずあかりがドーナツ賄賂なんて手を使ってきたということは……
(そんなことも知らないなんて、従姉妹失格じゃないかな?)
勝利への確信に加え、あかりに対する優越感に今までの疲れも忘れて満面の笑みを浮かべながら、マキは結月家の玄関をくぐる。
尤も、すぐにこの勝負が楽なものではないということを思い知ることになるのだが……。