転生幼女がDQ5にインしたようです   作:よつん

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神様は君だった
つながり


 

 

 ラインハット王国が魔物に襲われ、ぽつりぽつりと荒廃した城跡や空になった城下町に国民が戻ってきたころ。そこに広がっていたのは、絶望だった。

 

 結界が破られ、魔物の闊歩する住居だった場所。住む家を追われた浮浪者が、魔物に怯えながらも我が物顔で残された家に住み着く。多くの者が亡くなった城からは、何やらよからぬ雰囲気が漂っていた。

 

 故郷に戻ることは諦め、避難先に本格的に住むことを決める者。それでも、己の生まれた土地を取り戻そうとする者。その有様を目にした者たちの反応は、それぞれだった。

 

「わしは、ラインハットが好きじゃ」

 

 そんな中、とある老人がぽつりと呟いた。周囲にいた人々は、不思議とよく響くその声に、耳を傾ける。

 

「何が起ころうと、この国を案じ、良くしていきたいという気持ちに変わりはない。諦めるには、もう年を取りすぎてしまったようでのう」

 

 誰かが、「私だって」と声を上げた。

 

「この国が、好きだわ。陛下の守ってくれた命だもの。この国のために、使いたい」

 

 誰かが、力強く頷いた。

 

「魔物なんかに負けちゃいられねぇよな。陛下の愛したこの国を、俺たちで守ろう」

 

 ぽつり、ぽつり。こぼれ落ちるような声に呼応して、どんどん声たちは大きくなった。共鳴し合い、響き合い、それはまるで歌のように、流れる河のように、絶望をすすいでいった。

 

「守ろう、この国を。だって、今まで守ってもらっていたんだから」

 

 それからも、ラインハット王国は、名を変えずそこに在った。国民を愛し、国民に愛され、善政を敷き、どんな困難にでも立ち向かう、偉大な王がいた。そのことを、誰もが忘れることはない。この国は、何があっても、国民を守ってくれた。だから、今度は国民が「偉大な王」がいたことを、永遠に守り続ける。

 

 そういうわけで、ラインハット王国は、王のない王国となった。

 

 

 ――という情報を耳に入れたとき、オジロンは幼いラインハットの王子たちへ何と伝えるべきか、大いに迷っていた。まあ、そわそわと伝えたところで、当の本人たちがさほど気にした様子を見せなかったため、肩透かしをくらった気分となったものだが。

 

 「王のない王国」の国民たちの様子が随分と落ち着いてきたようだとの報告を受けて、しみじみとその頃のことを思い出していたオジロンは、すくすくと育っている少年たちを見やる。

 

 あの痛ましい事件――前王と、グランバニアにとってかけがえのない忠臣を喪ってから、三年。子どもたちはいつも鍛錬を怠らず、勉学に励み、あまりに健気に過ごしていた。それにほっとする気持ちと寂しく思う気持ちを抱き、オジロンは己の中に生ずる矛盾を、ふるふると頭を振ってどこかへ追いやった。

 

 こちらへ来たばかりのときは、仇を討つのだ、魔物を殺すのだ、母であるマーサを探すのだ、天空の勇者を探すのだと騒いでいた彼らも、オジロンが幼い子どもが旅をすることの危うさ、魔物の恐ろしさ、その他もろもろについて、こんこんと伝えていたら、ある日ぱったり何も言わなくなった。きっと、自分たちなりに納得したのだろう。

 

 オジロンとて、子どもたちの言い分は分かる。兄であるパパスは、偉大な人だった。国民の誰もが彼を慕っていたし、それは弟であるオジロンも同じことだった。パパスが己に頼んだことを、なんとしてでもやり遂げたいという気持ちは痛いほど分かる。

 

 それでも、そうだとしても、それは子どもがやることじゃない。やるとするならば、大人になってから。しかも、彼らには「子どもだから」という理由で命を狙われたこともある。

 

 悲劇のもととなった「光の教団」の本拠地はセントベレス山という場所にあり、人間の足で登れるような場所ではないこともあって、きちんとした抗議はできなかった。しかし、オジロンが世界中の国々にその脅威を伝えたことが功を奏しているのか、近年は不気味なほど目立った話は聞かない。とはいえ、子どもだけの旅が危険であることに違いはないだろう。誰か従者を付けるにしても、適当な者が中々いない。

 

 それゆえ、気持ちは分かったとしても、オジロンは何度も何度も「全員が十八歳以上になってから」と言い聞かせてきたのである。

 

 オジロンが日課である王子たちの見守りを終えて政務をこなしてしばらくすると、バタバタとにわかに城内が騒がしくなった。

 

「何かあったのか?」

 

「実は……」

 

 受け答えたのは、頭を抱えた大臣であった。気まずそうな兵士たちを一瞥してから、彼は「このようなものを侍女が発見いたしまして」と一枚の紙を、心配性の国王へと見せた。

 

<“王家の紋章”を取ってきます。戻ってきたら、旅立ちの許可をください>

 

 間違いなく、リュカの筆跡である。子どもたちには、旅立ちはおろか、グランバニア国内から出ることすら許可をしていない。三人は死んだことになっていて、万が一外出したときに、誰かに勘付かれてはならないからだ。グランバニア国内でも、三人が王子であることを知っているのは上の役職の者や、サンタローズの村で戦った兵士たちだけという建前になっている。実際は、ヘンリーとデールはともかく、前王によく似たリュカは町の人たちの知るところとなっているが。

 

「部屋には、リュカ殿下やヘンリー殿下、デール殿下はもちろん、ゲレゲレもおりませんで……」

 

「一体誰が、あの子たちに“王家の紋章”のことを?」

 

「国史の勉強の際に出てきたのでしょう。既に兵士に後を追わせました。陛下は御安心なさってください」

 

 オジロンは深く深く、ため息を吐いた。グランバニア王国の筆頭王位継承者であるリュケイロム・エル・ケル・グランバニアは、父親であるデュムパポスと、そんなところばかりがよく似ている。顔立ちは母親に似て、可憐な少女のようなのに、誰より頑固だ。「こう」と決めたらそれに向かって止まらない。素直なので大人の言うことはよく聞くが、やはり内心は「子どもだから」という理由で旅立てないことに相当焦りや悔しさを感じていたのだろう。

 

 まあ、ヘンリーもデールもいるし、ゲレゲレもついている。子どもだから、魔物にとって死んだことになっているからと国から出ることを禁じてはいるが、彼らは強い。子どもながらに、ほとんどの兵士には勝てる実力を持っているのだ。

 

 ただ、だからと言って心配しない理由にはならない。兵士が向かっているのならば最悪の事態にはならないだろうが、オジロンは兄とラインハット王国の遺児たちの元気な悪戯顔を思い浮かべて、困ったように笑うしかなかった。

 

 

 

 *

 

 

 

 九歳になったリュカ、十歳になったヘンリー、七歳になったデールは、久々に外に出られてご機嫌なゲレゲレを連れて、にやりと顔を見合わせていた。

 

「上手くいったな」

 

「当たり前ですよ、兄さん。ボクたちはあの『悪戯四人組』ですからね」

 

 城を抜け出して、王家の証があるという洞窟に向かう道すがら、彼らは子どもとは思えないほど順調に魔物を倒していた。

 

「大臣のやつも、馬鹿だよなぁ。『王家の紋章を取って来れるほどの実力なら、陛下も認めてくれるでしょうに』なんて聞いたら、オレたち抜け出すに決まってんじゃん」

 

「……うん、そうだね」

 

 にこり、リュカは微笑む。城の方をちらりと見て、再び歩を進めながら。

 

「本当に、お馬鹿さんだよね」

 

 あまりに順調な道のりだった。城の者たちには気付かれていないが、彼らは気付かれないように毎日のように城を抜け出しては、鍛錬の間に魔物を倒し、「戦い」の感覚を忘れないようにしていた。城での訓練、魔法の勉強、城外での実践。三年間、欠かすことなく積み重ねてきたそれらは、「ただの子ども」というにはあまりにも図抜けた実力を彼らに与えた。

 

 「王家の紋章」もすぐに、何の問題もなく手に入れた一行は、追ってきた兵士たちに悪戯小僧の笑みを向ける。

 

「殿下! 探しましたぞ!」

 

「まったく、何をお考えですか! こちらへ……」

 

「何を、じゃないよ。僕たちは大臣の『誘い』に乗ってあげたんだ」

 

 リュカは黒い目を細めたまま、どたどたと走ってくる兵士たちの言葉を遮った。彼の目は、雪を溶かし、草花を芽吹かせる、あたたかな「春の日差し」と喩えられることがある。

 

 ――とんでもない。

 

 ごくり、と兵士たちの喉が鳴った。その目は、やわらかな日差しなどでは到底ない。迂闊に近づけば身を焦がす灼熱、あるいは見る者を芯から凍らせる絶対零度の眼差しだ。

 

「僕ら、魔物には敏感なんだ。それも、人間に紛れているようなやつには、人一倍」

 

「な、何をお言いで……」

 

 兵士は顔を引きつらせた。身に覚えのない言葉に対する困惑ではなく、どうにか誤魔化そうとする者の表情だ。それを子どもたちが見逃すはずもない。ひゅん、と音がしたかと思ったら、リュカの小さな体は兵士たちの目の前から消えた。

 

「分かっていたんだ。大臣が魔物と手を組んでたってことは」

 

「オレたちを城から抜け出させて、始末するつもりだったんだろ? さすがにちょっと分かりやすすぎるぜ。まあ、倒されてやるつもりもないし、腕試しにはいいかと思ってな」

 

 いつの間にか、リュカとゲレゲレは兵士たちの背後を取っていた。にやにやと笑うヘンリーと、呆れ顔のデールも剣を構えていて、そこに一切の油断はない。

 

「ボクたちを挑発したかったのか、それとも本当に引っかかると思っていたのかは分かりませんが、もう少しよく考えた方がいいですよ」

 

「お、俺たちは人間だ! 大臣に脅されて……っ」

 

 一人の兵士がそう叫んだ瞬間、ゲレゲレの牙が足に食い込んだ。悲鳴をあげた兵士は、カバのような魔物に姿を変え、周りの制止も聞かずに、ゲレゲレへと斧を振りかぶる。

 

「今、デールに『よく考えろ』って言われたばっかだろ?」

 

 魔法の光に包まれたと思った瞬間、魔物は首を切られていた。あまりに速い連携。ヘンリーがルカナンを掛け、その直後、魔物の柔らかくなった皮膚にリュカが剣を滑り込ませたのだ。

 

「一応、魔力は温存しとくか?」

 

「城に戻った後にも何か罠が用意されてないとは限りませんからね」

 

「だぁから、デールとゲレゲレは城に残って大臣の監視しててくれって言っただろ。別にこんなやつらオレたちだけで平気だよ。なあ、リュカ」

 

「そうだね。でもまぁ、万が一のこともあるし、別行動は嫌だな」

 

 元の姿に戻り、脱兎のごとく逃げ出そうとした魔物たちに、リュカがバギマの呪文を放ち、足を止めさせる。背を向けた彼らに、デールが跳躍し、魔物たちの足へと浅く傷を付けた。

 

「じゃ、ちゃっちゃと片付けるとするか」

 

 少年たちの言葉通り、魔物はすぐに倒れた。ふう、と息を吐いたヘンリーは、憂いを帯びた顔をしている親友へと視線を向ける。

 

 ――別行動は嫌だな。

 

 何気ない一言でも、思い出さずにはいられない悲劇。永遠に忘れることはない。あるいは仇を取ったとして、消えることのない、脳裏に刻まれた深い絶望。

 

 ヘンリーは憤っていた。魔物たちの杜撰な計画は、まるで自分たちの国のときのようだったからだ。国の重鎮に取り入り、内部から魔物を侵入させる。今では誘いに乗ってやっても負けないだけの力を付けたから良いものの、やり口が気に入らない。欲に付け込まれる人の弱さ、人の欲につけこむ魔物の醜悪さ。そのどちらもが、ヘンリーにとっては唾棄すべきものだった。

 

 大方、リュカたちを「事故」として処分した大臣は、あの人の好いオジロンを言いくるめ、内部からじわじわと魔物の力を使って国を乗っ取るつもりだったのだろう。そうはさせるか、と少年たちはあからさまな大臣の話を聞いて、作戦を練った。

 

 まず、万が一にも魔物に「処分」なんてされないように、準備は万端に。次に、大臣の後ろ暗いところを徹底調査。証拠はまだ不十分だったが、いくらか揃ったものは万が一のために、他者に預けてある。バーテンの娘でよく酒場に遊びに来ているルイーダという少女だ。ヘンリーより二つ年上だが、賢くて他人の事情を察する力と、余計なことは言わない性格の、十二歳にはとても思えない女の子である。「時が来たらオジロン陛下に渡してほしい」と伝えて証拠の束を渡すと、「ええ、大事に持っておくわね」と思春期の危うさを持ったどこか煽情的な微笑みを浮かべていた。

 

 大臣を追い出した後は、魔物の恐ろしさ、醜悪さをオジロンに伝え、まずは四人で「ラーの鏡」を探しに行く許可を得るつもりである。いきなり母を探したい、天空の勇者を探したいと言っても、あの心配性な国王は頭を縦には振らないだろう。となれば、ラインハット地方で伝説として残る「ラーの鏡」を、魔物の脅威から国を守るためという理由で探しに行く。具体的な物であれば、不確かな「探しもの」よりはよほど簡単に許可が下りるはずだ。

 

 そういったことを積み重ねながら、少年たちはいずれは世界中を旅して回る予定だった。大人になるまで待ってなどいられない。けれど、オジロンの言うことも痛いほどに分かる。彼らはまだ子どもで、そこそこ戦えるようになったものの、慢心はしていない。世の中には、あのパパスが敵わなかった魔物がいるのだ。だから、小さなことから積み重ねて、その果てに必ず悲願を遂げて見せる。少年たちにはその覚悟があった。

 

「……おい、城の方、なんか変じゃないか?」

 

 ぽつり。ヘンリーが眉を顰めて呟く。グランバニア城の上空には、分厚い雲が掛かっていた。紫色のそれは、どうにも不気味な雰囲気を漂わせている。

 

「灰色の、雨?」

 

 次に呟いたのは、デールだった。すん、と鼻を動かしたゲレゲレが、困惑したようにリュカを見る。

 

「――急ごう」

 

 喉がからからに乾いていくのを感じたリュカは、掠れた声で友人たちへそう告げた。嫌な予感がする。とてつもなく、良くないことが起こっているような気がする。

 

 雨はすぐに止み、一行が城へと着いたときには、不気味な雲も、灰色の雨も過ぎ去ったあとだった。地面には水溜まりがあり、城は妙な静けさが漂っていた。

 

 いつもはいるはずの門番はいない。しかし、城内に入れば、その姿を確認できた。慌てた表情の若い兵士に、呆れたような顔でタオルを渡す壮年の兵士がいる。

 

「何が……」

 

 デールが唖然とした顔で呟く。しかし、彼らは何も言わない。時でも止まったように、彼らは動きを止めていた。

 

「おい、みんな! どうしたんだよ! 誰か動けるやつはいないのか!?」

 

 ヘンリーが叫ぶ。やはり答える者はない。皆一様に、朗らかな普段の生活を送っているように見える。動きを止めた人々は、精巧に創られた人形で、ここは等身大の人形を配置した壮大な箱庭なのだと言わんばかりの、悪趣味さがあった。

 

「リュカ、城の中を見て回ろう。動けるやつ、話だけでもできるやつがいないか探すんだ」

 

 ヘンリーの提案に、リュカは頷いた。しかし、そんな者は誰もいなかった。グランバニア城は、パパスの代より、城内に町がある。国民を守るために、パパスが国王となったときに真っ先に着手した政策だった。堅城に守られた国民たちは、誰もが不安を宿すこともなく、穏やかな表情を浮かべている。謁見の間には、困り顔の兵士と、頭を抱えるオジロンがいたが、それも悪戯小僧たちに頭を悩ませる大人と思えば、微笑ましいものだろう。

 

 雨は確かに降っていた。それが呪いの雨だとして、けれどグランバニアの国民はみな屋内にいた。唯一、大臣だけが城の外で、誰かを待っているかのように苛立った表情を見せながらひっそりと立っていたが、そうだとしても、それ以外の者は雨に打たれていないはずなのである。

 

「一体……グランバニアに何が起こったって言うんだ!?」

 

「こんな呪い、城の文献にもありませんでした。時を止める魔法でしょうか?」

 

 兄弟の言葉に耳を傾けながら、リュカは目の前に立つ大臣をまじまじと見つめていた。

 

「大臣だけは、石化してるように見えるよ」

 

「まあ、確かにそりゃそうだが――」

 

 リュカの言葉に反論しようとしたヘンリーが、ハッと何かに気が付いたように目を見開く。

 

「待て、あの不気味な雨が、『石化の呪い』の効果を持つんだとしたら、城の中にいたみんなは、不完全な呪いに掛かってるって考えることもできるか……?」

 

「それなら、『ストロスの杖』に、石化の呪いや麻痺の解除の効果があるはずです」

 

 少年たちは目を合わせた。リュカがちらりと城へと視線を向ける。

 

「城に張ってある魔物除けの結界は有効だと思う。一応、後で点検に行くけど。……旅の目的が、また一つ増えたね」

 

「今更さ。オレたちで、みんなを絶対治してやろう」

 

「魔物たちの目的は、グランバニアの人々の『口封じ』でしょうね。そうなると、ラインハット地方も危ないかもしれません。ラーの鏡を探しに行く際に、様子を見に行きましょう」

 

 子どもたちは、めげなかった。どんなに苦しくても、前に進むと、三年前に誓ったからだ。

 

「僕は城の結界を確認してくる。デールも一緒に来て。ヘンリーの髪は目立つから、僕たちが確認してる間になんとかしておいてね。ゲレゲレ、ヘンリーを頼んだよ」

 

 デールの手を取り、リュカは歩き出した。ヘンリーは「へーい」と気の抜けた返事を返し、緑色の髪をがしがしとかく。

 

「……アイツはまだ、教団なんかにいんのかなぁ」

 

 なぜか、赤い眼をした黒髪の少年のことを思い出した。あれから、リュカは彼について何も言わない。ヘンリーたちも、あえて話題に出すことはしない。

 

 頭を振って、ヘンリーはゲレゲレのたてがみを撫でた。つやつやとした毛皮は、相変わらず手触りが抜群にいい。

 

「さ、染め粉を取ってくるか。母上譲りの髪、気に入ってるんだけどなぁ」

 

 王子を連想させるものは全て手放して、少年たちは予定とは違う形で旅立つことになった。身分を偽り、名を偽り、姿を偽り、地図を片手に。

 

 亡国の王子たちは背筋を伸ばし、大地を踏みしめた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 ――目を覚ましなさい。

 

 誰かに、声を掛けられた気がして、私はまどろみの中、耳を澄ませた。水の音が聞こえる。それは潮が満ちた穏やかな海のようであり、山奥に湧き出る泉のようであり、そのどちらも全くもって的外れであるような感じの音だ。

 

 全身がひどく怠くて痛いが、昔むかし、己の記憶にすらない母の羊水に浮かび守られているような感覚に、不思議と安心感を覚える。このままより深く沈んでいきたいとさえ思ってしまう。

 

「アルマ!」

 

 誰かの心配そうな声が聞こえた。私は顔も知らぬその人の呼んだ名前を知っている。賢く、頑固で、優しく、責任感の強い、小さな女の子の名前だ。海で溺れているところを助けたことをきっかけに、一緒に旅をしていた。旅がひと段落しようかという頃、今度は魔物の魔手から助けようと、無我夢中で腕に抱いた幼子だ。

 

「アルマ……」

 

 口からこぼれる名前。そうだ。自分は今、どんな状況にある。あの子は無事なのか。魔物はどうなった。アダムは魔物の呪縛から逃れられたのか。サンタローズへ逃げた王子たちは。――リュカは。

 

「ベホマ」

 

 あたたかな光に、全身が包まれる。あれほど開けるのを拒んでいた瞼が、自然と開いた。

 

「どこか痛いところはありませんか?」

 

 柔和な顔。さらりと顔に掛かる黒髪。緑色の帽子と洋服。よく日焼けした青年は、自然な動きで私の横で眠る少女――アルマを抱きかかえた。私は恥ずかしいことに、彼が抱き上げるまで、隣で眠る少女の存在に気が付けなかった。

 

 我ながら情けないほどの緩慢な動きで身を起こし、「ここは……」と、青年の問いには答えず、思わず漏れ出た言葉と同時に見慣れぬその場所をきょろきょろと見回す。

 

 楽園のような場所だった。さらさらとした肌触りが心地よい白い砂。うららかな春を思わせるやらわかな日差し。取り囲む緑と、音さえ吸い込みそうな岩肌。それに、なんと言っても水が美しい。陽の光を浴びた水面が、きらきらと七色に光っているのだ。

 

「ここは七色の入り江という場所です。僕はアルス。あなたの名前を聞いてもいいですか?」

 

 他人に聞かせることを意図していなかった呟きに、はっきりとした返事をされたために、私は「あ、ああ」と戸惑いながらも頷いた。そして、改めて上級魔法をいとも簡単に使ってみせた青年をじっと見つめる。

 

 一見、頼りなさそうに見えるその青年が只者ではないということは、目を見れば瞭然だった。

 

 息子のリュカと同じ、黒目。その目を見て、私はなぜか確信を持った。彼こそが、アルマの言っていた「勇者のアルス様」なのだと。

 

「私はパパス。回復呪文を掛けてくれたのはあなたでしょう。感謝致します」

 

 遅くなってしまった謝意を述べれば、青年は気にした素振りもなく、素朴で無害そうなその顔を綻ばせる。

 

「いえいえ。それより、怪我の割に元気そうでよかった。あれくらいの怪我だと、傷が塞がってもしばらくつらいだろうと思ってましたけど」

 

 にこにこと、見た目に違わぬ穏やかな口調で返すアルス殿に、私はどうしても聞かねばならぬことがあった。

 

「すまぬが、アルス殿。ここは、グランエスタードという国でしょうか? あるいは、コスタールでしょうか」

 

 ぱちくり。子どもがそうするように幼い挙動で、アルス殿は瞬きを数回した。けれど、そこには馬鹿にしたような雰囲気は一切ない。

 

「ここはエスタード島にある入り江なので、コスタールよりはグランエスタードの方が近いですね。良ければ、僕の家で話をしませんか? アルマが見つかったこと、皆にも伝えてあげないといけないし」

 

 神のつくった遺跡だというその場所を通りながら、その空気の神聖さに目を奪われそうになる。存外きびきびと歩くアルス殿の背を追いながら、「随分遠いところに来てしまったようだ」と今更ながらに、たった一人で親元を離れ、見知らぬ土地に来てしまったときのアルマの心細さを想った。

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