特に何事もなく塔まで着いた僕らは、足を止めずに扉の前まで歩いた。ゆったりとした歩調で、シスターは僕らの先頭に立って緊張したように扉を見つめている。そんなシスターの様子を見ていたら、その目に涙が浮かんだように見えたけれど、それは雫にもならず、もちろん零れることもなく、僕は見間違いだと思うことにした。
「ああ、神よ……」
両手を組み、神に向かって祈るシスター。錯覚なんかじゃない光が、彼女に降り注ぐ。けれど扉は開かない。
「私の罪を――清算しにまいりました」
ぼそり。シスターがそう呟き、祈りを続ける。それはとても長い時間にも、短い時間にも思えた。シスターに降り注いだ光がさらに強くなり、そして、静かに、ゆっくりと扉が開いた。
「ああ、神よ」
ぽたり、ぽたり。シスターがその場に跪き、顔を覆って涙を流し始める。僕たちのような子どもには、この人にどんな過去があったのかは分からない。だけど、その涙は確かに、修道院に懺悔しにくる迷える人々のものと同じで、僕にはシスターの心が救われたのだと思えた。
「シスター。これを使って修道院に戻ってください。僕たちも、鏡を手に入れたらすぐに戻りますから」
キメラの翼を手渡すと、彼女は顔を覆っていた両手で、大事そうにそれを受け取った。
「どうか、どうか。あなた方を見送らせてください」
「ああ。それなら、塔に入ってくオレたちの勇姿、しっかり焼きつけといてくださいよ。涙なんか拭いてさ」
ヘンリーがハンカチを渡して、自分自身の言動に少し照れたのか、僕の背中をバシンと叩きながら「行くぞ!」と歩みを急かした。
「あっ、あの! シスター。私、行ってまいりますわ」
「ええ。フローラ、ソロ、アンドレ。どうか皆さん、御無事で。あなた方に神の御加護があらんことを」
小走りで僕らについてきたフローラが塔の中に入ると、扉がばたんと閉まった。びくりと肩を揺らした小さな女の子が、こわごわと僕のマントの裾を掴む。
「さっそく、扉があるな。開けるぞ」
ヘンリーの言葉に無言で頷くと、古そうに見える扉は、案外簡単に開いた。扉の向こうには、中庭がある。風もなく穏やかに生える草花と、通路を挟んだ両脇にある、中央に像の安置された泉。奥にはもう一つ、扉があった。
「あ……誰か、いらっしゃいますわ」
フローラの言葉を聞く前に、僕は自分の目を疑った。
そこにいたのは、幸せそうに笑う人々。向かい合う男女のうちの一人は、間違うはずもない、僕のお父さん。もう一人は、長い黒髪の、優しそうできれいな女の人だ。その人たちの周りには、海に呑まれたはずのデールと、気持ちよさそうに寝そべるゲレゲレがいる。それから、日焼けをした黒髪の女の子――アルマ。
今のフローラよりも小さな、あのときと同じ姿のアルマがこちらに気付いて、にこりと笑いながら手を振っている。
「お二人とも、顔色が……」
フローラが何か言っているけれど、僕はその光景から目が離せなかった。きっとヘンリーも同じにちがいない。
ああ、なんて――なんて、残酷な試練なんだ。
「ソロ様! アンドレ様! 魔物です!」
フローラが叫ぶより早く、僕は剣を振るっていた。魔物の断末魔と共に、幻想はほどけて消えた。みんな、笑顔のまま。いなくなってしまった。
本物じゃないことなんて、痛いくらいに分かっていた。だって、みんなの体は透けていた。ぼんやりしていた。だけど僕には、はっきり見えてしまった。きっと何よりも望んでいる光景だったから、僕自身がぼんやりしていたはずの幻を鮮明にとらえただけだ。
「行こう、――『アンドレ』。鏡を手に入れなくちゃ」
「ああ、『ソロ』。お前が前衛をしてくれ。オレがフローラを守る」
隣を見れば、ヘンリーは名残惜しそうに、その人たちがいた場所を見つめていた。けれど、僕の視線に気が付いてか、真剣な表情になって頷いてくれた。
「フローラ、ありがとうな。お前の言葉で目が覚めたぜ」
「い、いえ……私、どなたかがいたのは見えたんですけど、きっとお二人のようにはハッキリ見えなくって。お役に立てたようなら、うれしいです」
はにかみながらも気遣うように返事をしたフローラは、三人で塔を目指したときのようにキャアキャアとは騒がなかった。口を引き結び、緊張を露わにしながらも、僕らの邪魔にならないように、一生懸命考えて守られてくれている。
それからは、特別な仕掛けもなく二階への階段を見つけた。魔物は襲い掛かってきたけれど、二人でフローラを守りながらの戦いも板についてきたようで、そこまで苦戦はしていない。魔物の数が多くて危ないときは躊躇なく魔法を使う。この先も何があるかは分からないので、魔力は温存しておきたいけれど、ここで死んでは元も子もないからだ。
「通路、だな」
「うん。一本道だ。道幅はあるけど、魔物が来た時に落っこちないように気を付けよう」
何か罠があるのではと明らかに疑っている表情のヘンリーに言葉を返し、僕は二人より先にその道へと足を踏み出した。
『先へ行くの?』
声だ。幼い子どもの声。後ろからついてきているヘンリーやフローラのものではない。さっき僕に手を振ったアルマでも、にこにこ微笑んでいたデールのものでもない。
『ほら、魔物がきた。危険だよ。また後悔するかもしれないよ』
襲い掛かってきた魔物たちを切り伏せたり、通路から突き落としたりしながら、僕は心臓がバクバクと異常な速さで鳴っているのを感じていた。
それは明らかな幻聴。けれど、妙に耳に、脳みそに、こびりつく。おどおどとして、本気でこちらを案じているような、幼い――あまりに幼い声。
「そんな……私、そんな風に思っていません」
頭の中に響いてくる声と違って、耳に入ってきたのはフローラの声。あの声に返事をしているとしたら、答えがちぐはぐだ。だから多分、僕とフローラは別の声を聞いているんだと思う。
『挑戦なんかしなくたっていい。君だって、本当は休みたいと思っているはずだ』
容赦なく襲い掛かってくる魔物に、僕はただ剣を振るった。一階で見た幻想のように、まやかしだと分かっているのに。
「二人とも、耳を貸すな。幻聴だ。」
同じくフローラを守りながら魔物と戦うヘンリーの顔は、歪んでいる。それを間近で見ているフローラが、胸の前で両の拳をぐっと握ったのが視界に入った。
『フローラだけじゃない。ヘンリーだって、本当はこんな危険なことに巻き込まなくったってよかった』
はっきりとしたヘンリーの声と対比され、その声の主が一体誰なのかようやくピンと来て、一つ息を吐く。
『僕が、旅を諦めれば。お父さんの意思なんか継がなくても、仇を討たなくても、幸せはきっと見つけられる』
それは幼い僕自身の声だった。
「それはできない」
僕の言葉に、驚いた顔のヘンリーがこちらを見る。見開かれた青い目に、ふっと微笑んだ僕自身の顔が映った。あの時から三年も経った。まだ子どもだけれど、六歳の僕よりは背も伸びて、顔つきも少しずつ変わってきている、「今の僕」の顔。
「旅は、僕の生きる目的だ。僕は、旅の果てを見たいから、歩いているんだ」
それが、どんなにつらくても。
昔、アルマと一緒に出逢った不思議な青年のことを、ふと思い出した。顔はもうぼんやりとしか思い出せない。けれど、その人の言葉に「言われなくても分かっている」と生意気な返事をしたことはよく覚えている。
「僕は負けられない」
夢中で魔物を倒して、夢中で歩いていたら、いつの間にか一本道は終わっていた。ヘンリーとフローラの顔をそれぞれ見てから、改めて、今の僕の意思として、僕は二人にはっきり告げた。
「行こう」
ヘンリーはどこかうれしそうに、フローラは震えながらもしっかりと頷いてくれた。
*
子どもたちを扉の向こうに呑み込んだ塔を見上げながら、老女は静かに祈りを捧げた。それは親心にも似た純粋な心配であり、数奇な運命のもと生まれてきた子どもたちのこれからを想うゆえの憂いであり、試練を乗り越えてほしいという期待であった。
懺悔は終わった。この扉の前で、神に全ての告白をした。
若いとき、老女は信じていた神に裏切られたと思い、自身の寄る辺であった存在を憎み、恨み、善く生きれば救われるのだと信じて生きてきた己があまりに愚かに思えて、あやまちを犯した。
悩み、苦しみ、現実と向き合うことをやめ、流されるまま生きるようになった。善い行いなどただの徒労だと、汗水垂らして質素な生活を送る修道女たちを軽蔑し、嘲笑した。
誰にだって幸せになる権利はある。あっていいはずだ。それなら、貴重な人生の時間を「そんなもの」のために費やすなんて、馬鹿げている。
夢を見ても、それは泡沫。あるとき、あっけなく爆ぜて目が覚めるだけ。胸に残るのはむなしさ。その手には何一つ、残りやしない。
だから、もがくことも、足掻くことも、初めからしない方が賢明だ。善く生きることに一生懸命になんかならなくたっていい。一生懸命になるべきは、いかに自分の思い通りに生きるかだ。
――なんと、未熟な考え。
けれど、若い時分の女は本気でそう思っていた。
短い時間とはいえ、言葉を交わし、無事を祈って送り出した人が、無情にも命を落とす。悪趣味な幻想を見せて惑わせて、人の心を弄ぶ「試練」は、なんとおぞましいことか。
若く、純朴な修道女だったその女は、その日から盗賊として生きることを決めた。欲しい物は奪う。いらないものは切り捨てる。仲間は作らない。嘘を吐いて、騙して、享楽を求め。
人生なんて、それでいいのだと思っていた。
そんな風に欲望に忠実に生きていて、あるとき女の胎には命が宿った。どこの誰とも知れない男の子どもなど育てる気はなかったが、女には産まないという発想はなかった。
悪事に手を染めながら生きてきて、それでも、女は殺人に手を染めたことはなかった。幼い頃より神の教えを愚直に守ってきたゆえか、簡単に死にゆく人々を見てきたからか。命の尊さをせせら笑いながら、生んだら棄ててやろうと簡単に考え、小さな命を育んでいった。
子が生まれ、棄ててやろうとしたとき、女はあの海辺の修道院を訪れた。ふにゃふにゃと、まだ弱い声帯を震わせながら泣く我が子を、夜の教会へそっと置き去りにすると、無我夢中で走り出す。それはまるで、魔物や盗みを働いた相手から、武器を振りかざして追い掛けられているときのように。
それからのことは、あまりよく覚えていない。月日が経ち、体力も衰え、女は段々と盗みをやらなくなっていった。あてのない生活を繰り返して、今より十数年ほど前のこと。盗んだ物を売った金は、どんどん減っていくばかりで、酒浸りになった女は、その日もいつものように、酒場の主人に管を巻いていた。
カラン、と戸口のベルが鳴って、何気なくそちらに目を向けた女は、思わず息を呑む。店に入ってきたのは、目を瞠るような美しい青年だったからだ。
薄暗い照明に照らされてなお際立つ白磁の肌。やわらかそうな黒髪。切れ長で涼やかで、どこか吸い込まれそうになる黒い目。
明らかに、場末の酒場に来るような人物ではない。
青年は神秘の道具や天空の勇者にまつわる情報を集めていたようで、女は店主に話し掛ける青年へ得意になって「ラーの鏡」のことを話した。修道女の祈りがないと扉は開かないが、女はその昔扉を開いたことがあると聞くと、青年は彼女の手を取って、自分と共に「神の塔」へ行こうと誘った。
女は断った。
あの性悪な試練の塔に、この美青年の命をくれてやるのはもったいないと思ったからだ。しかし青年は、「それならば別の修道女を誘う」と言って、諦めない。これほど美しい青年だ。彼の頼みを聞く女はいくらでもいるだろう。
そういうわけで、女は頼みを断りつつも、気になって青年の後を付いていくことにした。協力してくれる修道女はすぐに見つかり、彼女はきちんと道案内を果たした、はずだった。
「何もないじゃないか」
青年は、ひどく冷たい目で修道女に言い放った。そんなはずはない、と彼女は目の前にそびえ立つ試練の塔を必死に指差す。けれど、青年は頭を横に振り、人形のように整ったその顔に失望を浮かべて、修道女に手をかざした。
――そういえば。
女は思い出していた。昔読んだ文献に書いてあったことを。
神はすべての者に試練を与えるが、悪しき者にはその資格を与えない、と。
魔物というだけでは、悪しき者ではない。魔物は狂暴だが、闘争本能が備わっているだけで邪悪ではない。邪悪な存在というのは、絶望を望み、世界を腐らせ、破壊を好む者。ゆえに、人であろうが魔物であろうが、悪しき者は試練を受けられない。
目の前で、道案内をした修道女がはじけて肉片となる。
女は呼吸を忘れていた。見つかったら殺される。あの美しい青年は、ただの悪党程度には見える「神の塔」が見えないほどの、本物の悪。
「見ていたのか」
けれど、無情にも女は見つかり、捕まってしまった。そして、地上の地獄に招かれる。
魔物の巣窟。そこに神殿を建てるのだと言った青年は、険しすぎる山脈の主だった。人が暮らすには適さない、空気の薄い武骨な岩肌。魔物を、人を使役して、青年はにこりと笑った。
「ここは救いの場所になるんだ。神なんて馬鹿げたものじゃなく、本当の救いを愚かな人々に与えよう」
女は奴隷となった。来る日も来る日も働き、鞭で打たれ、己の人生とはなんだったのかと、自ら命を絶ってしまった方が楽になるのではと、苦悶の中、――神に祈った。
罰が当たっただけなのだ。神様はいつでも見ている。悪事を働き、我が子を棄て、周りの人々をないがしろにした自分への罰。
――これはきっと、神様からの試練に違いない。
そう思って、女は賭けに出る。鞭打つ魔物たちにわざと歯向かうことを続けた。そうした中で、あるとき特に手酷い折檻を受けたとき、「どうせもう死ぬだろう」と死体を入れる樽に入れられ、空高くそびえ立つセントベレス山から、海へと投げ捨てられた。
女は樽の中で己に回復魔法を掛け続けながら、神に祈った。
そして、祈りは届いた。よっぽど縁が深いのか、樽は海辺の修道院のすぐ近くの砂浜に打ち上げられる。女は過去を語らず、それからただ真摯に神へ、苦しむ人々へ、祈りを捧げた。
「光の教団」。そんなものに誰も惑わされないように。正しき道を歩むことが、何にも代えがたい尊いことなのだと。
――神様。私に、すべての罪を清算させてください。
青々とみずみずしい、若木のような少年たち。教団に命を奪われたと伝え聞いたグランバニアの王子の名前は、たしか「リュカ」だった。ラインハットの話題で表情を変えた少年は、ならば第一王子「ヘンリー」か、第二王子「デール」だろう。それから、無垢で愛らしく、どこまでも澄んだ心を持つ少女。不思議な運命を背負うと言われた彼女は、悲劇の王子に心惹かれているのだと言う。
それが、ただの深読みであればよい。占いとやらが、ただの妄言であればよい。けれど、「そうであってほしい」という己の願いとは裏腹に、女は確信していた。
彼らのたどる道は、ただの試練などではない。険しい茨の道なんて表現では、おそらく生ぬるいだろう。
だから、女は彼らとの約束を破り、再び扉を開けた。もう二度と後悔しないように。送り出した男の生死を確認する勇気もないまま、「神などいない」と逃げ出したこの塔に、もう一度入らなければならない。
老いた手。子どものころから祈りに暮れ、道を踏み外して多くの人々の幸せを奪い、邪悪な存在の根城を作るために酷使し、あやまちに気が付いて再び祈りを捧げ続けた手だ。
老女は、水分の少ないその手に、扉がぴったり吸い付くように感じた。軽く力を入れれば、筋力の落ちた細い腕でも容易に扉は開く。
懐かしい光景に、老女は胸がずきりと痛んだ。
――あのとき、見送らずに自分もついて行けば。
――あのとき、約束を違えて様子を見に行っていれば。
男は鏡を持ち帰らずとも、女の隣で笑って暮らしていたかもしれない。女はその手に、子を抱いていたかもしれない。
けれど、それはこの塔が見せる幻想となんら変わりなく、詮無いことだった。
一歩、一歩。塔の中をあるけばあのときの光景、感情がよみがえってくる。
女は、あの時のようにまぼろしに惑うことはないだろう。己の魂が焦がれる光景を塔が見せたとて、ただ、それを受け入れるつもりだ。未熟な己を受け入れ、そして現実を受け入れる。
祈りの必要がない、あの中庭に続く扉。
それは塔の入口よりは少し重く、女は力を込めてゆっくりと開いた。
*
咽る少年の背を、男は少々ばかり強すぎる力でたたいた。体格もよく、筋肉粒々の荒くれ者だ。バシバシと強い力で叩かれる少年は、涙目になりながら口元をぬぐう。
「助けていただいたのには感謝しますけど……」
死に掛けていたわりに、眼力の強い少年だった。荒れ狂う波に運ばれたいろいろな物で体を傷つけたのだろう。痛々しく怪我をしているわりに、彼の表情は凛としていた。そして、男の隣を見て、眉を寄せる。
「おう、なんだ」
男の隣には、鉄製の檻がある。そこには、濡れそぼり、ぐったりした様子の魔物が捕えられていた。少年と同じく溺れていたわりに、魔物の体には傷一つない。
「その子、出してください。友達なんです。彼は人を襲いません」
「可愛いこった。魔物がオトモダチとは」
その発言に、柔和そうな少年はさらに眉を寄せ、男へ鋭い視線を送った。それを見て、荒くれ者は上機嫌に笑う。大人の男であっても、彼と対峙するときは怯むものだ。しかし、怖いもの知らずなのか、よほど魔物が大切なのか、少年は男を睨みつけているではないか。
「人間と魔物が友達になってはいけませんか? 檻なんかに入れてないで、出してください」
しかも、それは到底虚勢には見えない。相手がたとえ誰であろうと、「友達」のためなら戦ってやるという覚悟が見て取れる。
「おいおい、自覚がねぇな。こいつもお前も、俺様がいなくちゃ二人まとめて死んでたところだぜ」
「それについては、感謝しています。ボクにできるお礼なら、いくらでもします」
「いいや、『礼』じゃ足りねえ」
荒くれ者が少年の鼻先に太く武骨な指を突き付けた。普通の子どもならそれだけで泣いてしまいそうな状況なのに、彼は怯むどころか、睨むことをやめない。
圧倒的不利だ。しかも少年は丸腰。海で溺れながらも、沈まぬように武器や防具は全て棄てた。海水を多量に飲み、体は憔悴しきっている。それに何より、少年には攻撃魔法の適正がない。使えるのは補助や回復の魔法ばかりだった。あるいはもう少し経験や修行を重ねれば、使えるようになったかもしれないが、今の少年には使えない。
体格で負けている相手に攻撃されたとして、少年ができることと言えば逃げること、武器を奪うことくらいか。しかし、大切な友人が捕えられている。絶対に見捨てるつもりはない。
「俺様がいなかったらお前らは死んでたんだ。ってことは、それを助けてやったお前らの命は俺様のモンってことだ」
拾われたのは、カジノ船だった。
負けてむしゃくしゃしていた荒くれ者が、嵐の中外の空気を吸おうと、周りに止められながら船室から出たその時。男は、光を見た。それは、流木にしがみつきながら、ぐったりする魔物に、少年が懸命に掛けていた回復魔法の光だった。
それを見た時、何かを考える暇もなく、海に飛び込んでいた。自分で豪語するほど泳ぎが上手く、悪運の強い男であったとしても、荒れ狂う海に入るなど、ほとんど自殺行為である。しかし拍子抜けするほどあっさりと上手くいった。
まず、あまりにあっさりと男は少年と魔物のもとまで辿り着いた。そして彼らを腕に抱えると、男がえっちらおっちら泳がずとも、波が船へと運んだのだ。まるで、何かに導かれるように。
その様子を見ていた者たちは、口をそろえて「奇跡だ」と言った。
「本当に、助けていただいたことには感謝しているんです。でも、ボクにはやらなくちゃいけないことがある。会わなきゃいけない人がいる。行かなきゃいけない場所がある。ボクの人生を、あなたに捧げるわけにはいきません。どうか、ギコギコをそんな場所から出してください。震えているもの。あたためてやらなくちゃ」
男はため息を吐く。
「いやだね。こいつは俺様のモンだ。このまま殺すのも、見世物にするのも、俺様の自由だ。お前の頼みを聞いてやる義理はねえ」
衰弱しているはずの少年から、存外力強い蹴りが放たれた。至近距離で、足を狙った容赦のない攻撃を、しかし男は正面から受け止める。少年の細い足が男の腕に掴まれ、友達思いの心優しい少年は宙吊りの姿勢になった。
「そうだな……。俺様はカジノで負け続けて、金が全くねぇ。だが、賭け事は好きだ。お前らの人生を、二人まとめて百万ゴールドで売ってやろう。それを嫌って言うなら、売りさばく。お前が選べるのは二つに一つだ。自分の人生を自分で買うか。それをつっぱねて俺様に売られ、奴隷として一生他人のものになるか」
少年の目の色には、明らかに憎悪が満ちる。
「ボクらを売ったところでそんな値はつかないはずです」
「なんだァ? 嫌ならどっかの変態に売っぱらっちまってもいいんだぞ。愛玩用でも、労働力としても、ガキは売れるからな」
逆さになったままの少年は、「それなら」と男に向かって先程までとは打って変わった穏やかな声を出した。
「あなたの大好きな賭けをしませんか? ボクが勝てばギコギコを檻から出してボクらを自由にしてください。あなたが勝てば、あなたのおっしゃる通り、ボクのことは好きにしてかまいません。いくらあなたが賭け事に弱いと言えど、子どものボクに勝つ自信もないというのなら、話は別ですが」
男は少年の足を放した。突然のことであるはずだが、予想していたかのように、少年は受け身を取る。頭に上っていた血が重力に従って胴をめぐっていくのを感じながら、少年はいかにも無害そうに目元をやわらげた。