デモンズタワーに再び挑んだカンダタ一行は、嫌な気配を感じながらも塔の攻略を進めていた。上に行けば行くほど、その気配は強まる。慎重な盗賊の親分は、常に退路を確認しながら、仲間の安全を第一に考えながらも己の勘を信じて歩を止めなかった。
「がう……」
最初に尻込みしたのは、プックルだった。リンが緊張した面持ちのまま、彼女のたてがみを撫でて落ち着かせる。階段を昇れば、そこは屋上だった。
「こんなとこまで来る人間がいるとは、驚きだな」
魔物。ぽつんとある玉座のような仰々しい椅子に、オークが座っている。否、ただのオークではない。そこらにいるオークよりははるかに強いのだろう。ひやり、とリンの背中を冷たい汗が伝った。
「あー。悪ぃが、俺様たちはお前さんと事を構える気はねぇ。ただ、ホラ、あれだ。『空飛ぶ靴』ってお宝を探し求めてきた、夢見る冒険者ってヤツなワケだ。ここにあるって噂を聞いて探しに来ただけだなんだよ」
カンダタが、背後にいる子分とリンたちへ指でサインを送る。意味は「撤退」だ。
「ほぉ。情報通な人間もいるものだ。『空飛ぶ靴』なら、あるぞ」
ニヤリ。オークが牙をむきながら邪悪に嗤う。
「もとよりグランバニアの大臣に貸していた物だ。欲しいならくれてやろう」
どっかりと、オークは椅子に深く腰掛けていた。槍こそ手に握っているが、こちらがキメラの翼を放り投げれば、初動が遅れて逃げ切れるだろう。けれど、魔物の「余計な一言」――大臣云々は、リンの脳内にほのかに熱を燻ぶらせた。
「そこにある銅像はオレを殺せば消える。こんな塔の管理を任されて、退屈していたところだ。つれないことを言わず、事を構えてはどうだ?」
勝てないことはない、とリンは判断した。相手は一体。危なくなっても離脱の手段はある。疲労はしていたとしても、無茶はしていないし体力は未だ十分だ。それに何より、この塔を覆う嫌な気配の持ち主が、目の前の魔物であるとは到底思えなかった。
「いくつか、質問をしてもいいですか?」
ピリピリと緊張の走る空気の中で、リンはぺろりと唇と湿らせてから、声を上げた。リンたちより前に立つカンダタは振り返らないため表情は見えないが、ぴくりと背中が動いたことから怒っているのだろうなと感じさせる。指示をして撤退の機会を伺う中であるにも関わらず、茶々をいれたお子様に対してそう思うのは、当然のことだ。
リン――デールはそれでも、言葉を止めなかった。
「グランバニアの大臣は、空飛ぶ靴を借りて、何がしたかったんでしょう?」
「なに、靴は我らとの連絡手段よ。身を潜める者はこの塔へ来るのに舟は使えまい」
オークの言うことが事実だろう。湖を渡るのに時間が掛かればそれだけ抜け出しにくくなるし、他人に見られる可能性も高くなる。
「なぜ、連絡を取り合っていたんですか?」
そんなことは、デールだってもちろん承知していた。大臣が魔物とつながっていること。魔物の協力を取り付けて、国を乗っ取ろうとしていたこと。自分たちで調べた結果であり、だからこそあの日、城を抜け出して大臣の誘いに乗った。
「決まっている。――愚かな人間どもを、絶望の淵に落とすためよ。同じ人間に裏切られ、国は我ら魔物の物となるのだ」
生きて戻った自分たちを見て悔しそうにしている大臣をせせら笑いながら、オジロンに大臣が魔物とつながっているという証拠を突きだし、追放するはずだったのに。
出し抜いたと思い込んで、国に迫る魔の手に気が付けないまま。リンは音のなくなったグランバニアを目の当たりにした。
「そうして内側から腐らせ、そして我ら『光の教団』が救いの手を差し伸べる。本当なら、石化など淡白なまねではなく、より陰惨で、より芸術的で、より暴力的な『絶望』を与えてやるべきだったのだ。さすれば、グランバニアの王族共に地に落とされた教団の名誉も回復できただろうに」
燻っていたわずかな火が、空気をはらむ。それは何も、リンだけのものではなかった。
「ああ、いい殺気だ。もとよりオレはお前たちを逃がすつもりなどない。少なくとも、魔物でありながら人間と共にいるお前たちだけは、絶対に殺すつもりだったからな」
先に飛び出したのは、ゲレゲレだった。彼の速さに負けぬよう、デールはバイキルトの呪文を掛けることで、相棒の怒りに自らの怒りを上乗せする。
「リン! ギコギコ! てめぇら勝手しやがって!」
カンダタの怒号が聞こえた。しかし、デールとゲレゲレに「ただの盗賊」の言葉は届かない。危険など、今更だ。
「ぐっ」
予想通り初動が遅れた魔物の足を、ゲレゲレが食いちぎる。残念なことに、オークは回復魔法の使い手だ。反撃を避けたゲレゲレが距離を取る間に傷を回復し、油断なく槍を構えながらにやりと笑った。
「お前ら、グランバニアの生き残りだろう。もっと言えば、王族だ」
腰を深く落として武器を向ける相手に、デールは答えない。オークはおかまいなしに言葉を続ける。
「おかしいと思っていた。あの忌々しい半魔だけが生き残って帰還する? 我が兄はそこらの人間にやられるような未熟者ではない! あの半魔に謀られたのだ!」
激昂しながら朗々と語るお喋りな魔物。けれど隙はない。少年は相棒と自らにありったけの補助呪文を掛けて、ただひたすらに、オークへ殺意を向けながら、機会を伺う。
「そして――グランバニアの王子は、ベビーパンサーを伴っていたと聞く」
跳躍。大きな図体をしている割には素早い動きで距離を詰めてきた魔物の攻撃をひらりとかわしたデールは、ぱちんと指を鳴らして、相棒に攻撃の指示をした。デールへと腕を振りかぶっていたことでがら空きになった脇腹に、ゲレゲレの鋭い爪が深く刺さる。
「半魔は我らを裏切っていたのだ! でなければ、なぜお前たちが生きている! 国中が呪われたのに、どうしてお前たちはここにいるのだ!!」
外野に意識を向けていなかったデールの知るところではないが、カンダタの子分が、オークの怒気と殺気に中てられて腰を抜かした。血を拭き出しながら怒号を上げるオークは、器用に傷を癒しながら、ちょこまかと動く素早い獲物二体をどう嬲ってやろうかと血走った目をぎょろぎょろさせている。この瞬間、デールには「もっと情報を引き出したい」という気持ちと「欲をかけばやられる」という直感に葛藤していた。
そこで少しだけ隙が生まれたのを、怒れる魔物は見逃さない。
「グランバニアの王子、リュカよ! ここで死ねい!!」
鋭く、正確にデールの心臓を狙った突き。少年は瞬時に身をかわして致命傷は避けたものの、避けきれずに攻撃の当たった右腕は肉が抉られ骨が見えている。スクルトを掛けていてなお、この威力だ。彼は甘い考えを棄て、自分への追撃を阻むようにオークを攻撃してくれている相棒を見る。
デールは明らかに後衛だ。今までの戦いでも、自分の役割を理解して仲間の補助や回復に徹してきた。
「――『リュカ』は死なない」
けれど、だからこそ、彼は誰よりも剣の修行に明け暮れていた。
彼は非力だった。もとより、一番年下。それでいて筋肉の付きにくい体質なのだろう。基礎をしっかりと身に付けてそれを応用する兄のようにも、柔軟で直感に優れた友人のようにもなれなかった。攻撃呪文も使えない、剣の腕は思うように伸びない。
それでも、デールは守られるだけの後衛は嫌だった。
ときに攻撃を避けられ、ときに掠め、そうして自分が治療している間にオークと休まず攻防をしていた相棒へ向けて、もう一度ぱちんと指を鳴らす。ゲレゲレは危険を顧みず、オークの懐に飛び込み、飛び掛かった。
「殺されに来たか、裏切り者め!」
自分に馬乗りになったゲレゲレへと、オークが自由な腕を振り上げて、槍を突き刺そうとする。
「――あ」
それは空振りとなった。
オークの屈強な腕が、槍を持ったまま胴体と離れたことに気付かないように、宙を舞う。カラン、と槍が床へ落ちた乾いた音が響いて、次の瞬間、魔物は「裏切り者」に喉笛を噛み千切られた。
「な、なぜ……」
ごふ、と喉から血を吹き出しながら、不明瞭な問いをオークが零す。ぺ、と魔物でありながら人間の味方をするキラーパンサーが、口に入ったオークの血を吐き出した。
デールは問いに答えず、冷たい目を向けたまま剣に付いた血を振り落とす。
勝手をしたデールへの怒りもあったカンダタは戦闘に手を出さなかった分、少年の新たな一面をしかと見て、衝撃を受けていた。
デールの剣は軽い。普段の戦闘では後衛にいるし、自分で剣を振るうときも、魔物たちに対して致命傷は与えられない。彼は敏く、確実な足止めや、味方に対する被害を最小限に抑えるための働きをするため、足手まといだと思ったことはなかったが。
――隠してやがったのか。
カンダタはデールの刃、その鋭さに舌を巻く。
確かに、普段の戦闘では彼が魔物に致命傷を与える機会はないだろう。
あまりに研ぎ澄まされた刃だった。相手の弱点、急所、脆いところを見つけ、より効率的に破壊するための、観察眼、集中力。それらは、日頃周囲に気を配り、最善の行動を選ぶ少年にはできない。周囲への気配りを棄て、ただ一体の敵だけに集中する。補助呪文で極限まで速さを高め、最小限の力で骨すら断ち切る疾風のような一撃。
「本当に像が消えましたね。カンダタさん、ボクらはこのまま先へ進むつもりです。もちろん手に入れたら差し上げますが、ボクらにも『空飛ぶ靴』を魔物から奪いたくなる理由ができました」
デールは額から玉のような汗を浮かべながら、乱れた息を整えるように深く息を吐いた。それから、魔法の聖水の瓶を開け、中身を飲み干す。
「あなたの言うことを聞けなかったボクのわがままに、あなたたちが付き合う必要はない。ついてきてほしいとも言いません。後はボクらだけでやりますよ。あなたの仕事を『手伝う』。あなたはボクの依頼を受け、ストロスの杖を手に入れる。取引の内容は少しも違えませんから」
カンダタは腰を抜かした子分を見て、それから少女の恰好をした少年に、ゆっくりと近付いた。
「俺様はお前らの親分じゃねぇ」
「ええ」とはにかんだ彼の頬を、カンダタは力を込めず平手で打った。力を込めていないとはいえ、戦闘直後で気が緩んでいたとはいえ、デールが反応できない速度で振りぬいたのである。少年の白い肌は大きな手形模様に赤くなった。
「お前らが何者でもどうでもいい。俺様とお前らはただの盗賊と依頼人で、ビジネスパートナーだ。だけどな」
覆面の奥に光る眼光の鋭さに、デールは怯えなかった。それどころか、微笑んだまま彼を見つめている。
「むかつくぜ。お前のその笑顔も、なんでもお見通しって顔も、子どものくせに一丁前な殺気を出すところも!!」
「なうん!」
珍しく、プックルがカンダタに同意したように鳴いた。その声を聞いて、彼の子分たちが立ち上がる。
「つまりお頭が言いたいのは、ここまで来たら最後までついて行くってことだよ。もともと俺たちの仕事だしな。俺、ビビっちまったけど、リンちゃんだけに大変な目に遭ってもらいたくないよ。リンちゃんには何度も助けられてるし」
「てめぇ、俺様のことを何も分かっちゃいねぇな。ともかく、だ。俺様はお前がいけ好かねぇ。いけ好かねぇやつに自分の仕事を任せちゃいられねぇ。お前らはもともと『手伝い』だ。出しゃばんじゃねぇよ、チビっ子どもが」
近寄ってきた子分に拳骨をお見舞いしたカンダタが「ふん」と鼻息を出すと、デールはくすくすと笑った。それから相棒のたてがみを撫でて、そっと近寄ってきたプックルのことも撫でて、一度目を瞑る。
「じゃあ、行きましょう。危険だと思ったら各自すぐ離脱してください。自分の命に対する責任は、自分で背負ってくださいね」
オークが息絶えようと、失われることのない禍々しい雰囲気。目を開いたデールは真剣な顔になって、像の消えたその先を睨んだ。
先へ進むと、オークを殺したときに消えたのと似た像がある。しかし、そこで行き止まりというわけではなく、像を無視して先へ進めば、似たような豪奢な椅子があるのか見えた。
「キメラ……?」
キメラ。御存知の通り、鳥型の魔物である。体に合わないだろうに、無理をしているようにも見えない。しかしそれが間抜けな光景かと問われれば、その場に居合わせた者たちは首を横に振るだろう。もちろん、ぴりりとした緊張感の張り詰めるデモンズタワーの屋上には、そんな質問をする者はいないが。
「聞こえていたぞ、ヤツの怒号が」
キメラ――キメーラという名の魔物はじろりとデールを睨みつけた。先程のオークと同様、そこらへんにいる魔物とは一味違うのだということがありありと伝わってくる殺気である。
「ケケケ……グランバニアの王子リュカか。まさかわざわざそちらから出向いてくれるとはな」
ふわりと体を浮かせた魔物に対し、全員が応戦の構えを見せた。
否。応戦のつもりでいたのは一人を一匹を除いて、である。
デールは魔物の挙動を待たず、飛び回られては厄介だと、羽根に向けて一閃を放っていた。相手の初動に応じるなんて悠長なまねはしていられない。そんな開戦の一撃に反応したのは、斬りかかられた魔物ではなく、相棒のキラーパンサーである。ぐっと力を溜めて下半身に意識を集中し、空へと追撃から逃れようとしたキメーラへと飛び掛かった。
デールとしては、翼を切り落とすことができれば僥倖。しかし、補助呪文を掛ける暇はなかったし、最初から攻撃の構えを取って敵に目論みを悟られたくなかったこともあり、辛くも避けられてしまった。中途半端な攻撃となってしまったが、相棒が力を溜める隙を作るには十分な一撃だったようで、そこは安心する。
「魔物って、思ってたよりお喋りが好きなんですね。ボクらは敵なのに、随分余裕があることです」
地に落とされた鳥型の魔物に、カンダタの斧が振りかぶる。己の首を落とさんとする力任せの一撃に、キメーラは体を押さえつけるゲレゲレへ向けて火炎の息を吐き出し、なんとか拘束を逃れた。
「イキのいいヤツらじゃねぇか。まとめて食ってやるぜ!」
放たれたのはベギラマの呪文だ。カンダタ子分がデールとプックルの前に立ちはだかり、ダメージを請け負う。そんな彼の行動に驚きながらも、少年はすぐにカンダタ子分へ回復呪文を施した。
「カンダタさん!」
「分かってらぁ!」
ぶぉん、と凶悪な音がカンダタの斧から放たれる。それは当たれば間違いなくキメーラにとって痛恨の一撃。当たるわけにはいかなかったが、そちらへ意識を向ければ忌々しいキラーパンサー共の牙や爪が容赦なく襲い掛かってくる。苛立ちながらベギラマやヒャダルコを唱えても、火炎の息を吐き出しても、子分が仲間に傷を負わせまいと仁王立ちをしてきて、肝心の「リュカ」まで攻撃が届かない。
「ッチ! ちょこまかと!」
しかし、だからと言って楽な戦いというわけではなかった。仁王立ちでかばってくれる仲間がいるとはいえ、キメーラはすばやいし、連続で全体への攻撃を仕掛けてくる。そのため、デールは回復に掛かり切りになってしまうし、大ぶりなカンダタの攻撃はあまり届かない。ゲレゲレとプックルの攻撃は当たるものの、致命傷は避けるという器用な立ち回りをしていた。
「あァ、そうか」
そして、魔物は残虐だった。口を開き、火炎の息に身構えるカンダタ子分に向かって――息を吐き出すのではなく近付いて、そのくちばしで直接、目を抉った。
「うわぁあああああ!?」
痛みと衝撃、恐怖に悶える子分の目の前で、抉り出したその目玉を食らい、魔物は醜悪に、満足げに目を細める。
「食ってやると言っただろう? さあ、次はもう一つの目を抉ってやろうか」
じっとりと見つめられたカンダタ子分の身がすくむ。それをせせら嗤いながら、キメーラは今度こそ口を思い切り開いて火炎の息をデールたち全員に浴びせた。
「ベホマラー! 大丈夫です! ボクがみんなを回復させます!」
全体回復呪文。この王子はそんな高度な魔法まで使えるのか、とキメーラの顔が憎々しさで歪む。この子どもを恐怖に染めてやりたい。矮小な人間の身でありながら、魔物に歯向かったことを後悔させてやりたい。
だが、自分では力が足りない。
それは自覚していた。オークのように回復魔法を使えないキメーラは、持久戦になればなるほど不利だ。しかし決定打がない挙句、回復魔法を使いこなす憎き相手。状況は最悪だった。
キメーラ自身、相方のオークが兄を亡くしたのと同様、三年前に叔父をサンタローズ侵攻で亡くしている。部隊を率いる二つの隊のうち一つを任されていた。
そして半魔の子どもから「敵と相打ちになった」との報だけを聞かされ、人間の村を襲うだけの任務で命を落としたと馬鹿にされ、「王子たちを討ち取る」という手柄すらも半魔に取られ。あまりの失態に「教団」の――邪悪に属する魔物たちの間で、一族全員が立場を失った。兄を失くした相方のオークもキメーラ自身も、それゆえこの「つまらない塔」の管理に配属されたのである。
付け加えれば、「つまらないが、危険な塔」だ。
それは人間にとっての、という意味ではない。オークもキメーラも、同じ魔物でありながら「彼の者」の持つ邪悪さに怯え、精神を削りながら、人間共と半魔と、それから自分たちを馬鹿にした魔物たちへの恨みでなんとかこれまで耐えてきた。
命を「鍵」にするなんて馬鹿げた、あまりに蔑ろにされた扱いをされながらも、見返してやるのだと、耐えてきた。
「っへ! 隙ができたな!」
――耐えて、「きた」。
カンダタの太い腕から繰り出される斧が、己の首を刈り取ろうとしている。キメーラには避けることができた。でも、そうはしない。憤怒、憎悪、妄執、虚勢、恐怖、あらゆる感情がぐちゃぐちゃになっていきついたその先にある望みは、己の生ではなかった。
「ケケケ……。お前たちは『鍵』を開いた」
ごとり、とキメーラの首が落ちる。
「さあ、苦しめ。恐怖し、絶望し、赦しを乞え、そして惨めに死に絶えるのだ」
首だけになった魔物のくちばしが、どこか期待するように呪詛の言葉を吐いた。魔物の死体がぐずぐずと崩れ、全員が固唾を飲む。
「おい……お前、先帰れ。リンクスの馬鹿がまだ進むってんなら、俺様が行くからよ」
硬質なカンダタの声に、子分は声を出すどころか、頷くことさえできない。嫌な雰囲気が増大したのだ。魔法の気配に敏感な者でなくても、キメーラの死によって「おそろしい何か」を封じていた結界のようなものが解かれてしまったことに気が付くことができるだろう。
それは鳥型の魔物が言ったように、猛獣の檻を誤って開いてしまったような。開けてはいけない箱を、無知ゆえに開いてしまったかのような。
「い、いや! 俺も行きます! 子分の一人もついて行かないんじゃあ、親分の恰好が付かないでしょう!」
上級回復魔法であるベホマで戻ってきた片目を押さえながら、カンダタ子分はガクガクと震えている。自らの頬を両手で打ち、なんとか気力を保つ子分へ向けて、リンはふるふると首を振った。
「さすがのボクも、『空飛ぶ靴』は命を棄ててまで手に入れたい物ではありません。魔力もあまり残っていませんし、戻りましょう。悔しいですが、再挑戦をするとして、回復してから――」
「臭う、臭うぞ……」
ぞわり。
聞こえた地の底を這う低音に、デールは思わず身構えた。ゲレゲレは毛を逆立て、カンダタは子分を庇うように立つ。プックルはガタガタと震えながら、像が消えたその先から現れた存在を見つめていた。
「あァ……お前だ、小僧。お前から、忌々しきラインハット王と同じ臭いがする」
棍棒を手にした、イノシシのような魔物。血走った目に、鋭い牙。ずしりずしりと塔を揺らす巨躯。あるいはアルマが見ていれば、その名を半信半疑ながら口にしたかもしれない。
けれど、確信は持てなかっただろう。ソレはアルマが相対した魔物よりも二回りも大きく、全身を覆う体毛も硬質になっているように見える。
何より、雰囲気。
ただでさえ、幼い少女にはソレは暴力が意思を持ったような存在に見えた。けれど、傍にあった巨悪の存在感で、ソレ自身の印象は霞んでいたのもまた事実。
けれど、あの時とは比べ物にならない邪悪な存在感であると、アルマだけでなくパパスがこの場にいても、同じことを思うだろう。ただし、この場にソレの名を知る者も、そうかもしれないと疑う記憶や知識を持つ者もいなかった。
咆哮。
デモンズタワーから時々聞こえてきた、身の毛もよだつ、この世のあらゆる攻撃的な感情を煮詰めたモノを放出した、ただの「声」というにはあまりにも他者の精神を削り取る、形のない脅威。
「今日は気分がいい……『封印』が解かれ、その上憎きラインハットの血で喉を潤せそうだ」
無造作に、何気ない動作で、魔物は棍棒を振り下ろした。デモンズタワーの屋上の床、デールたちとオークやキメーラとの戦闘ではキズもつかなかったそこに、ヒビが入る。
そしてもう一振り、またも力を入れているというよりは起き抜けで体の動かし方を確認しているというような気安い動きで、ヒビで済んでいた床に穴が開いた。
「お前を嬲り殺して、それから再びラインハットにでも向かおうか」
身構えてはいるけれども、そこから動けやしない。金縛りにでも遭ったみたいに、デールは硬直していた。あまりに凶悪。あまりに醜悪。
「全てを壊してやろう。あの男があの世で何をすることもできず、歯噛みする様を想像するだけで愉快だ」
けれど脳はぐるぐると血を巡らせていた。そして、この場から脱出する方法でも、この状況を打開する秘策でも、なんでもなく、ただ一つの真実を導き出した。
「お父さま……」
浮かんだのは、白い粉にむせながら大笑いする、偉大なる父の姿。愛してると言った、あまりに凛とした声。その背中が広くて、大きくて――寂しかったこと。
「おまえ……殺してやる……」
その答えが、デールに理性を失わせた。泣き叫ぶ兄の袖を引いたとき、本当は自分も「嫌だ」と言いたかったこと。けれど父の覚悟を受け取って、寂しさを押し殺したこと。
どす黒い感情が胸の内から溢れる。
「リンクス! 馬鹿なことするな!! 撤退だ!!」
カンダタの声が遠くに聞こえた。デールの目には、もはや相棒のゲレゲレすら入らない。ただ、彼の視界には憎き魔物の姿が映るのみ。彼の鼓膜は復讐に騒ぐ己の血潮が流れる音で揺れるのみ。
「いいぞォ。逃げたっていい。だが」
魔物が、棍棒を投げた。それは緩慢だけれどあまりに速い動きで、魔物から目を逸らさなかったデールはもとより、他の誰も、反応ができなかった。
気まぐれで、本人にとっては大して意味もない攻撃。
「がぺ」
棍棒は、カンダタ子分の頭に命中して、熟れた果実を殴打したときのように跡形もなく弾けさせる。誰も、反応ができなかった。あまりに非現実的な、眼前に晒された理不尽な暴力に。
「逃げられるものならな」
――その「暴力」の名を、ゴンズと言った。
大変お待たせいたしました。
待ってくださっていた方、ありがとうございます。
待ちくたびれた方、申し訳ありません。
がんばります。