長い船旅にヘンリーが心底参ってしまっていて、僕たちはぽつんと豪邸の建っている小さな島へ上陸することにした。お金持ちが個人で使用している島のようで、その他には何もない。船員が停泊の許可を取りに行くと、初めは渋っていた様子だった年若い青年も、この船がルドマンさんの物だと知った途端、快い返事をくれた。
「ここは別荘として父が僕に贈ってくれましてね。しかし、ここは基本的に穏やかな気候だし、四季も美しい。いずれ妻でも娶ったら、ここを本邸にするつもりなんです。ルドマンさんにはいつも父がお世話になっていまして」
船長にそんなことを話していた青年を見て、ヘンリーは「なんだかなぁ」という表情をしている。彼はそれに気付いているのかいないのか、一緒に乗っていた僕たちにようやく視線を向けると、「この子たちは?」と不思議そうな顔で聞いてきた。
「ルドマン様の娘である、フローラ様のお友達です。我々は彼らを送り届ける途中でして」
「そうだったんですね。坊やたち、こんな立派な船で送ってもらえて、さぞうれしかろう。この家で十分休んでいくといい。ああ、そうだ。水や食料でお困りでしたら、お譲りしますよ。もちろん、タダというわけにはいきませんが……」
船長からの紹介を聞いて、すぐに僕らに興味を失った様子の青年は、商談を持ち掛けている。まあ、僕らとしても変にじろじろ見られるのは気分が良くないし、ヘンリーはすぐにでも休みたそうだったので、ありがたかった。部屋を案内してくれたのは、僕らより少し年上の少年で、クラウドというらしい。彼は明らかに顔色の悪いヘンリーを気遣って、すっきり飲めるというお茶を淹れてくれた。さわやかなミント系の香りがして、美味しいお茶だ。
「はー……。悪いな、ソロ。何度も休憩挟むハメになっちまってよ」
「大丈夫だよ。無理されるよりずっといいさ。それに、いくら長期保存ができるからって、水も食料も限りがあるからね。補給ができそうなのは、船長たちにとってはうれしいんじゃないかな。僕も、やっぱり陸の上の方がほっとするよ」
「でも、こっからは本当にずっと船の上だもんなぁ。オレもそろそろ船旅に慣れたいぜ……」
「船を使わずに海を渡る方法があったらよかったのにね」
「なんだよ、空でも飛ぶのか? そんな技術身に付けるより、慣れる方がずっと現実的だろ」
「でも、最初よりは慣れたんじゃないかな。吐くことはなくなったじゃないか」
「あー、そうか。まあ、そう考えたらそうなのかもな」
とりとめのない話をしていると、「ソロ君、アンドレ君」と船員の一人から声が掛かる。僕らが部屋の入り口を見ると、「休んでいるところ、ごめんね」と年若い見習い船員の青年が中に紙の入った瓶を見せてきた。
ヘンリーはぐったりしているので、、僕が彼に近付いてそれを受け取る。瓶のふたを開けて中身を取り出すと、そこには信じられないことが書かれていた。
「ヘンリー……! あんまり休んでいる暇はなさそうだ」
「あ? なんて書かれてたんだよ」
「――『この手紙を手にした、どこかの誰かへ』」
どこの誰とも知れない相手へ宛てた手紙は、このように書かれていた。
<この手紙を読んでいるあなたへのお願いです。私はエルヘブンに住むマルゴといいます。どうか、我々を助けてください。近頃、どうにも村の皆の様子がおかしいのです。そういう私自身も、時折自分が自分でなくなってしまうような恐怖を感じながら、日々を過ごしています。このままでは、我らに与えられている大切な使命も果たせなくなってしまうでしょう。どうか、どうか、この村をお助けください。>
「……これだけじゃあ、エルヘブンで何が起きてるのか全く分からねぇな。罠だったらどうする?」
「僕もそれは考えた。でも、どちらにせよ、この手紙を見れたことは運がよかったんじゃないかな」
そう言うと、ヘンリーはふっとため息を吐く。
「まあ、エルヘブンに行くことは決定事項だ。何も知らねぇまま行くよりは、罠にしろ罠じゃないにしろ、『何かある』って身構えといた方が対策は立てやすいもんな」
僕もそう思う。なので、しっかり頷いてベッドでだらだらしているヘンリーににっこり笑みを向けた。ヘンリーは露骨に眉を寄せる。
「じゃ、君には悪いけど、船長になるべく早く出航したいことを伝えてくるよ」
「はいはい、行ってこい。決まったら教えてくれ」
苦虫を嚙み潰したような顔になったヘンリーは、目を瞑ってばたんとベッドに倒れ込んだ。エルヘブンへの用事が終わったら、今度はできるだけ陸路で行けることを片付けることにしよう。それとも、やっぱり慣れのためにも船旅をどんどん続けた方がいいのかな? どちらにせよ、早くデールとゲレゲレに会いたい。
休ませてくれたこの屋敷の主と、世話をしてくれたクラウドへお礼を告げ、食料と水の補給を待って、僕らは忙しなく出航した。
ルドマンさんが描いてくれた簡単な地図によれば、エルヘブンはもうすぐだ。船で洞窟内を通って、そこを抜けた先にあるらしい。エルヘブンに着けば、僕たちはキメラの翼を常備しているため、船には帰郷して良いことを伝えてある。彼らは本来ルドマンさんに雇われている身だし、エルヘブンに『何かある』なら、不必要な危険に巻き込むわけにはいかないからだ。
洞窟に入る頃には、すっかり夜になっていた。波の影響が少ないということで、魔物は手強かったけれど、僕とヘンリーが交替で休みながら船を守ることにして、上陸の前に一度休むことにする。
「不思議な洞窟だな。なんだか……うまく言えないけど、緊張するというか」
「うん。僕もそう思ってた。なんていうか、神聖な雰囲気と、邪悪な気配を同時に感じるような気がするよ」
正直、体を休めろと言われてもそうできる雰囲気ではない。それでも、明日はエルヘブンに着く。僕のお母さんの生まれ故郷で、何か良くないことが起きているらしい、その村に、着いてしまう。
「先に眠らせてもらうね」
「おう、任せとけ。聖水も撒いてあるし、よく寝とけよ」
ヘンリーの言葉にひらりと手を振ることで返事とし、僕は宣言通り眠りについた。
なんだか、ざわざわと騒がしい胸を、必死に宥めながら。
***
音のない神殿の一室で、アダムは目を覚ました。寝覚めがよかったことなんて、今までに一度もない。けれど、それは自分のやるべきことを疎かにする言い訳にならず、彼は自室にある鏡を見た。
己の姿の確認。
これを日々やらないことには、アダムは己の本当の姿が分からなくなってしまいそうで、恐ろしかった。もちろんそんな気持ちを誰かに打ち明けることはないが、今日も変わらぬ顔に心底安堵する。
アダムは変身に関して、卓越した才能と魔法の技術を持っており、だから自分を心底嫌悪しているであろう父親にも生かしてもらえているのだと自覚していた。
「魔物と人間の間の子である」らしいと、周囲の言葉から知っていた彼は、自分自身が誰かに変身することを好まない。「自分」という軸がないのに変身して、戻れなくなってしまったらという恐怖を拭いきれないのだ。今までに一度も失敗したことがないとしても。
「アダム様。イブール様より次の指令です。部屋に来るよう、仰せつかっております」
「すぐに行く」
アダムの教団での役割は大別して二つ。一つは、今呼びつけられたように、教団が世界を牛耳るための細かな工作だ。息子の顔を見たくもないらしい父親にとっては、追い出す良い口実にもなっているのだろう。
二つ目は、魔物を人間に化けさせること。特に、ラマダという教団の幹部には、人々を説き伏せる「聖女」を演じさせているため、定期的に魔法を掛け直している。一つ気に食わないのは――ラマダが「聖女」を演じるとき、「マーサ」と名乗ることだ。それはアダムの「母」の名であった。
そもそも、アダムが他人を変身させる能力が知れ渡るきっかけとなったのが、この「母」だ。どういう経緯か記憶にはないが、幼いアダムはある日突然「母」に会うことができないと告げられた。その言葉通り、母はもう二度と彼の前には姿を見せなかったのである。
それから、母を求める幼子が、部屋を訪れた世話係を「母」の姿に変えた。魔法に長けたイブールにもゲマにも、そんなことはできない。やるとしても、それには時間と魔力と手間が掛かる。戦闘で使われるような、呪文で簡略化された魔法とは違うからだ。
その日から今まで、アダムは会うことも叶わなかった父のために力を使っている。そして、これからも使い続けるだろう。
「テルパドールに『天空の兜』があるのは知っているな」
「はっ。存じております」
「次の標的はテルパドールだ。国を亡ぼすか、最低でも兜を奪ってこい。詳細は追って伝える。まずはかの地に拠点を構えよ」
「はっ」
アダムは返事をし、イブールの部屋を出た。父は、アダムがラインハット侵攻を失敗させてから、魔法の研究や魔法道具の開発に大変熱心である。息子としては「自分の代わりになるような道具を開発しているのだろう」程度にしか思っていないが。事実、イブールは一時期、部下に世界のあちこちまで探させて「変化の杖」なる物を手に入れさせ、昼夜を忘れて夢中になっていた。
しかし、試しにそれを使って教団の奇跡を示そうとしたものの、邪魔が入って変化の杖も魔封じの杖も奪われ、尚且つ馬鹿な信者が情報を漏らしてしまったのか、「光の教団の仕業」と広まってしまったらしく、散々な結果だったとの報告を受けている。試作品の「奇跡の証」も、力を発揮される前に砕かれてしまったそうだと、監視の魔物が言っていた。
イブールの怒りはすさまじいもので、黒髪の少年と茶髪の少年、ピンク色の髪の女の三人組を血眼で探しているようだが、結果は芳しくない。
とはいえ、アダムにはあまり関係がなかった。魔物たちがどれだけしくじろうとも、それはそれ。自分のやるべきことは、父の指令をこなして、信頼を勝ち取ること。ラインハットとサンタローズの侵攻では、あまりに失態が多すぎた。
「テルパドール……砂漠の国だな。面倒だが、行ったことのあるやつか空を飛べるやつを連れて行くとするか」
ふう、と息を吐き、アダムはその紅の目を伏せる。
「しかし、面倒なのがいるんだった」
それから、らしくなく顔を歪めた。彼の腹心の部下たちは現在、押しかけてきたはた迷惑な少女をかくまっている。後から部下に話を聞けば、期間限定で住みついているそうだ。なんだか今日は、あの少女に会いそうな気がした。
普段は鉢合わせないように工夫しているのだが、現状報告や物資のやりとりがあまりに面倒なことになっている。アダムとしてはさっさとあの立派な宿屋に帰ってしまえとすら思っていた。
――いや、なんだか妙にこちらに懐いてくる年上の少女を鬱陶しいと思うのは、それだけの理由ではない。少女――ビアンカは、彼のことを「アベル」と呼ぶ。それが、たまらなく嫌だった。
それでも、適当な偽名は思いつかないし、本名を伝えるよりはよっぽどマシだろうと、特に訂正はしていないが。
悪い予感は当たるもので、アダムが古代の遺跡を訪れると、その出入口でドラゴンマッドのカンデラを中心とした数人の魔物と少女とが、別れを惜しんで言葉を交わしているところだった。
「本当に……今まで……ありがとう。私、私、きっとお母さんが良くなるように、頑張るわ。もちろん、約束は絶対に守るから、安心してね」
泣きそうに、大きな青い目に涙を浮かべる少女が、ドラゴンマッドへ抱き着く。抱き着かれたカンデラが、不器用そうな腕で愛弟子を抱きしめ返し、表情の乏しい顔で、小さく笑った。
「ああ、そうしてくれ。さあ、もうどこへなりとも言っちまいな。親御さんが心配してるよ」
アダムはなんとなく、少女たちの視界に入らないように身を隠した。このままやり過ごせば、少女はキメラの翼を使って自分の家へ戻ることだろう。
「ビアンカ、行っちまうのかぁ。寂しくなるなぁ。そうだ。オイラが家の近くまで送っててやろうか?」
まずい、と思った。今の発言をしたのはキメラだ。せめてホークブリザードやホークマンが言っていれば、別にアダムも止めはしない。飛行能力があるとはいえ、ホークブリザードは掴んでいる手が冷えるし、ホークマンは抱えてくるのでちょっと惨めな気持ちになる。
そのため、この場にいる魔物を連れて行くとしたら第一にキメラ、次点でテルパドール出身の者の予定だが、後者はできれば避けたかった。
「え、悪いわよそんなの。私はいいけど、あなたたち、人間と仲良くしてるって他の魔物に見られたらあんまり良くないんじゃないの?」
聞こえてきたビアンカの言葉に、アダムは内心でほっと息を吐く。これで、わざわざ止めに入らなくても大丈夫だろう。そもそも、ここの魔物たちには、アダムが教団から指令を受けたときにすぐに連れて行けるように、基本は待機命令を出してある。つまり、待機していない者は命令違反だ。
「別に少しくらいなら大丈夫さ。それじゃ、オイラに捕まれよ」
大丈夫ではない。アダムの額に青筋が浮かんだ。
「……待て」
アダムは大きなため息を吐いて、仕方がなしにビアンカと魔物たちの前に姿を現す。
「げぇ!? ぼ、坊ちゃん、何か御用ですかい!?」
キメラの発言に、カンデラが顔を手で覆い、大きな息を吐く。建前上、彼は「坊ちゃん」ではなく「間抜けな使いっぱしり」であるのに、その設定すら忘れてうろたえている姿に、真実とまではいかずとも、ビアンカは当然何かを察するだろう。
アダムはつかつかとドジなキメラのもとへと近付き、その羽根の付け根を掴んだ。
「お前は今からおれと一緒に『使いっぱしり』だ。いいな?」
「へ、へえ! び、ビアンカ。そういうことで、送ってやろうと思ってたけど、悪いな!」
にこり。キメラの言葉を受け、ビアンカは抜けるような青い空に咲く一輪の花のような可憐な笑顔になった。
「気が変わったわ!」
少女は、キメラの羽根を鷲掴みしている少年の腕に、するりと自身の腕を絡ませる。目に溜まっていた涙はどこへやら、にやりと悪戯な顔をして、「お出掛けするなら、途中まで乗せてってよね」と言葉を付け足した。
「悪いが火急だ。キメラの翼でもなんでも使え」
「いやよ。どうしてもって言うなら、条件があるわ」
「条件だと?」
アダムが眉を寄せ、紅の目で少女を睨む。美貌の少年に睨まれても、ビアンカはどこ吹く風だった。
「ええ。あなたの本当の名前を教えてほしいのよ。お友達の名前をいつまでも知らないのは、さみしいわ」
「待て。おれとお前はいつ『友達』とやらになった? おれの記憶にはないが」
「あら、それなら今、なればいいのよ! よろしくね。それで、どうするの? 名前、教えてくれるの?」
羽根を鷲掴まれているキメラを覗き、その他の魔物たちが面白がっていそうな空気を感じ取って、アダムは冷えた目を彼らに向けてから、小さく舌打ちをした。
「行くぞ。アルカパだったな。おい、早くしろ」
せっつかれて心なしか胴体を強めに捕まられているキメラは涙目になっている。そして、子ども二人にしがみ付かれたまま弱々しく翼を動かし始めた。
「師匠、大人になったら、きっとお礼にくるわ! だから、みんなも、元気でね!!」
陽の光を浴びて、金色の髪が輝く。手を振った彼女に、魔物たちが手を、あるいは羽根を振り返していた。見送りに来ていなかったはずの魔物たちも、遺跡の入口に目を向ければ、こっそりと外の様子を伺っている。
「ふふ……みんな、良いひとたちだったなぁ……」
ぽろり、ぽろり。ビアンカの目から零れ落ちた涙が、重力に従って落ちていく。空高く舞い上がる少女の涙は、宝石のようにきらきらと、けれどどこか控えめに空を彩った。
「ね、アベル。私、今度サラボナって町の近くにある、山奥の村へ引っ越すの。いつか遊びにきてね」
「なぜおれが……」
「いいえ。『いつか』って言葉は、やめにする。アベル、五年後か十年後、会いに来て。それで――他の人にはできない、あの場所の思い出話を、させてほしいの」
ビアンカは、今度は真剣な眼差しでアダムを見つめる。くるくる表情の変わる少女だと思いつつ、どうにもつっぱねることができなくて、アダムは小さく頷くことしかできなかった。
「約束よ。五年後に来られなかったら、十年後でもいい。どっちも来られそうになかったら、せめて手紙をちょうだい」
長らく陽の光に当たっていなかったからか、ビアンカの肌は青さを帯びるほど白い。その白い肌が、頬だけは色付いて、真剣な眼差しの先に映るアダムの顔は、未だその瞳に浮かび続ける涙のせいで歪んでいた。
「アベル。あなたが何をしていて、どんな人なのか、私まだ何も知らないわ。だけど……」
ビアンカが唇をきゅっと噛みしめる。それから震えた声で「だけど、」と言葉を絞り出した。日頃はお調子者のキメラは、少し切なそうな顔をしながら、それでも口は出さずにアルカパの町へ向かって飛行を続けている。
「大人になったとき『昔の話』ができる友達が、ほしいの。それから、あなたにとって私も、そうだったらいいなって思う。だから、あのね、死んじゃだめよ。何をしてたっていいけど、元気でね」
「…………」
言葉に迷って、アダムはぐずぐずと鼻をすすって話さなくなってしまった少女を見つめた。
「おれは別に、お前の『友達』なんかじゃないが」
アダムは目を細めた。それはきっと、彼女の金髪が眩しかったからだ。
「その『約束』は覚えておいてやる。あれこれ詮索してこない気遣いへの礼としてな」
そのときの少女のとびきりの笑顔を何かに喩えるとしたら、何が適切だったのだろうか。
ともかく、アルカパの近くへ降り立ち、ビアンカはアダムとキメラを抱きしめてから、両親の元へと駆けて行った。きっと、親子で泣きながら抱き合い、彼女は魔物たちとの「約束」を守って、これまでの暮らしぶりについては誰にも話さず隠し通すのだろう。
アダムはなんとなくそんなことを思って、それから硬質な声でキメラへと声を掛けた。
「行き先はテルパドールだ。我々は、乾ききった砂漠へ血の雨を降らせることになった」
「……御意のままに」
先程まで、少女につられて涙ぐんでいたお調子者のキメラが、恭しく首を垂れる。よく晴れた日のことだった。
――やはり、偽名を伝えておくべきだったかな。
「アベル」、と。その名の響きは、言い表しようもなく、彼の心を波立たせるものだったから。