刀使ノ巫女RTA 綾小路武芸学舎フリーエディットAny% 作:滑落車博士
―――二十年前。
駿河湾。江ノ島。
湘南の砂浜から突き出すように伸びたその土地は、島と呼ばれてはいるものの、実際には地続きの陸繋島である。堆積した砂州により海岸から伸びる独特な地形は古くから景勝地と知られ、また長年の浸蝕によって形成された岩屋や洞穴は信仰の対象ともなっていた。また、江戸時代には既に観光地として知られており、庶民から将軍まで幅広い身分の人々が訪れる名所となってきた歴史がある。開国に前後して多くの外国人が江ノ島を訪れ、ある者は動植物を、ある者はその特異な地形を、それぞれ研究したことでも知られている。
多くの人々に愛されてきた土地。
そこが、今、戦場となっていた。
後に『相模湾岸大災厄』と呼称されることになる未曽有の事態は、逃げ遅れた市民や誘導にあたった機動隊、自衛隊を含め夥しい数の死傷者を出していた。事件終結後の最終的な死者数は三千を超え、負傷者は二万人にも及ぶ。それは正しく『災厄』と呼称するしかない暴威であり、渦中の只中は戦場もかくやという壮絶な様相を呈していた。
見上げる空には、禍々しく胎動する大荒魂。
その周囲を飛び回っているのは、無数の飛行型荒魂である…まるで烏の群れのように飛び回る一体一体が、複数人の刀使でなければ応戦できぬほどの力を持っている。全てを相手取るとするならば、果たして全国の刀使を集結させても足りるかどうか。そして、被害が拡大している現状では悠長に構えているだけの猶予は無かった。
そして、少女たちは駆けていく。
少数精鋭の特務隊が編成され、まさに死地と化した江の島へと斬りこんでいく。
それは絶望的な状況下にあって、ほんの僅かな希望であった。
誰もが死を覚悟する状況にあって、なお誇りと御刀を以って進む少女たち。
それは一つの希望。それは一つの光。
荒ぶる神に対峙して、折れず曲がらず斬りて進む。
その姿は、人々がそうあれかしと願った英雄の姿。
―――戦後、彼女らは英雄として語られることになる。
警察庁・特別刀剣類管理局 局長 折神紫
刀使養成学校『伍箇伝』の学長となる五名の才媛
だが、そこには語られなかった者たちがいた。
記録から抹消された二名の刀使。大荒魂を封印したと伝えられる公的な顛末の裏にあった『真実』のために、語られることも無く消えた二人…柊篝と藤原美奈都。
そして、もう一人―――。
これは、語られなかった『一つの可能性』―――。
急傾斜の石階段を、登りながら荒魂と交戦する。
江ノ島は階段が非常に多い。島の最高地点の標高は60mほどであるのだが、島全体が傾斜地なのではと思うほどに斜面が続くのである。平時でさえ、多くの観光客が階段と斜面に悩まされる。年配者や子供では登るのも一苦労、そういった土地なのだ。
あと少し、もう少し戦えば大荒魂の下へと辿り着ける―――そう多くの刀使は己を奮い立たせたが、しかし、その『少し』が恐ろしく遠い。途中の道筋には何名もの刀使が力尽き、そのまま倒れ伏している。登って踏破するのも困難であるが、負傷者を救護し後方へと連れ帰るのも難題である……何しろ、階段と斜面に阻まれて、車両や担架が通行することも困難なのだから……。
故に、その瞬間。
相模雪那は死を覚悟した。
ふっ、と力が抜けて倒れ込む。
立ち上がろうとしても足に力が入らない。写シは剥がれ、いくら気力を振り絞っても再度張ることは叶わない。手に握っている筈の御刀、妙法村正も持ち上がらないほどに、腕の力も尽きてしまっている。
ああ…。ここで死ぬのだ、と。
奇妙に冷静になった思考が結論を出す。
もはや戦えず。既に足手まといだ。
なら―――ここで死ぬしかない。
「あぁ……。紫、様……ッ!」
嗚呼、それでも。
自分の遥か先を征くあの人は、あの人には勝ってほしい。生き残ってほしい。たとえ、己の命が尽きるとも、あの憧れの方にだけは、こんな場所で果ててほしくない……!
雪那の脳裏には、走馬灯のように幾百もの想い出が駆け巡った。お姉様、紫お姉様。それは、大きな背中だった。凛とした横顔だった。見事な太刀筋だった。至らない自分を導いてくれた、必死に追いかけるばかりの私の憧れだった。
憧れ、なんて陳腐な言葉では表現しきれない万感の想いを、相模雪那は抱いていた。少女めいたロマンチックで感傷的な言い方をするならば、折神紫は彼女の全てだった。大げさでは無く、事実として相模雪那は折神紫のために死ぬことができた。こんな小さな命でいいのならば、雪那は躊躇うことなく神にでも悪魔にでも捧げてしまうことができた。それは、とても純粋な素直な想いだった。
―――なのに。
「どうして……私のせいで撤退なんて……! お願いです、どうかこのまま見殺しに……ッ!」
それは、此処で死ねと命ぜられるよりも嫌だった。
足手まといになるくらいなら死んでしまいたかった。
こんな、自分が未熟なばっかりに、紫お姉様に迷惑をかけて、先輩たちに迷惑をかけて。それで、自分一人がおめおめと生き延びるというのか。それでもし、紫お姉様が死んでしまったとしたら、そんな世界でどうして生きていられるだろう?
力になれない自分が恨めしい。お役に立てない自身が不甲斐ない。特務隊の一員として目を掛けていただいたというのに、荒魂と刺し違えることさえできない己自身が、相模雪那にとって世界で何の価値もない塵芥に思えた。
「もう、これ以上―――」
だから、相模雪那には。
この瞬間の折神紫の呟きが理解できなかった。
「―――犠牲を出したくない……ッ!」
それは、ある種超然としていた折神紫の見せる、極めて人間的な内心の吐露だった。折神の家に生まれ、多くの刀使を率いて荒魂と相対する役目。折神紫は優秀な人間で、そして多くの者たちから慕われる善良な人間である……が同時に、まだ齢十七の乙女でもある。目の前の可愛らしい後輩を、単なる捨て駒と見做せるほど心は擦り切れておらず、組織の長として傲然と振る舞うには些か情愛が在り過ぎた。
「しかし、戻ると言っても……!」
「そうですよ! 行くも茨、戻るも茨! だったら……!」
隊員たちも、紫の言葉にすぐ肯定を返すことができない。怪我人を連れてこれ以上進むことができないのは理解る。しかし、来た道を戻るにしても、戦力を分散した上で一人を庇いながら延々と続く石階段を降りねばならないのだ。どちらがマシか、と判断するならば……ある意味で、雪那が主張する「私を見殺しにして欲しい」という主張は、大局的な正解ではあったのだ。
彼女たちは才媛である。一刻一秒を争う現状と、どちらを選択しても困難極まる判断。全てを救う最善が存在しない以上、何かを切り捨てて進まねばならない。それは頭では理解している。だが、それを理詰めだけで実行できるほどに彼女たちは無情ではなく、それ故に短い猶予の中で次善を模索する。
「いえ……大丈夫です」
「
呟いたのは、色白の肌が印象的な一人の刀使だった。
問い返したのは、蓬髪を後ろで一つ結びに結わえた刀使。
大丈夫とはどういう意味なのか、言葉を重ねるよりも先に、篝と呼ばれた少女が虚空へと呼びかける。
「出てきなさい。『
瞬間、影が落ちてきた。
忍者めいた気配の薄さと、風のような捉えどころのなさ。
数瞬前には誰も存在していなかった位置に、その少女は呼びかけに応えて出現していた。
平時ならばともかく、今この瞬間は誰もが殺気立った鉄火場である。言葉を交わし、どう進むか思案していたとしても、特務隊の誰一人として気を抜いていた訳では無い。周囲を警戒し、荒魂の気配を探している最中にあって―――その少女は、平然と最精鋭たる刀使たちの間合いに入り込んでいた。
「はーいっ☆ 呼ばれて飛び出て楓ちゃんですよーっ☆」
……場にそぐわない素っ頓狂な声がした。
「ようやくあたしの出番ですかっ出番ですねっ☆ もー、篝さまったら焦らしプレイがお好きなんですから…☆ で・もっ! この楓ちゃんが来たからにはご安心くださいっ☆ 篝さまのおやすみからおはようまでを見詰める楓ちゃんが、篝さまの
影は、緊張感のない声で捲し立てる変人だった。
背は高く、顔はまぁ美人と呼べる造りをしている。
しかし、その頬は緩み切っており……例えるなら、飼い主にじゃれつく柴犬のような……緊張感の欠片も存在しない表情をしていた。更に言えばその声は媚びたアニメ声である。
その変人は、格好も奇妙だった。着ている服こそ学生服だが、掌には黒色のオープンフィンガーグローブ、所々にシルバーアクセサリ、怪我をしていないのに巻かれた包帯、そして何故か頭部に装着されたホワイトブリム・・・奇矯、と云って差支えない風体である。サブカルチャーに詳しい人が見れば『中二病』と表現される中々に痛いファッションセンスであった。
「そ・れ・でっ☆ 篝さまは何をお望みですか? 篝さまのお望みならば、この不肖の楓ちゃん、たとえ火の中水の中、あるいはベッドの中から煉獄まで、何時何処へだって年中無休の24時間営業ですからねっ☆ あ、お代は篝さまのスマイルでお願いしますっ☆ 篝さまの笑顔はプライスレス、お金で買えない価値がありますからっ☆」
あまりに空気の読めない胡乱な物言い。
しかし、篝は優しく微笑みかけると言葉を継いだ。
「うん。楓ちゃんには、彼女たちの護衛をお願いしたいの」
「えぇー。そこは『最後の最後まで着いてこいッ!』とか『私の為に戦って死ねッ!』とか、そういうカッコイイ命令が欲しかったんですけどねぇ」
「・・・楓ちゃん?」
「うー。わ、わかりましたぁ篝さま…。
……こほんっ。―――確かに。その命令、承りましたっ☆」
きゃぴ☆と、態々口で擬音を出して、楓と呼ばれた変人の影が掻き消える。
同時、疾風と共に三尺余の御刀が閃く。
下り坂の退路を確保するために、篝の願いに応えるために、影が奔っていった。
―――――――――――――――――――――――――――
「―――あの日の事はまるで昨日のように思い出せる…。
私が今こうしてここにいられるのはお前達の母親のお陰だ」
和風の広間に、昔を懐かしむ声が響いた。
様々な因縁に引き寄せられるように、舞草の里に集うことになった刀使の少女たち。彼女たちを前にして、今や長船女学園の学長となった真庭紗南は二十年前の真実を語っていた。
「大災厄のあの日、大荒魂を鎮めるべく奥津宮へ向かった三人。一人は私の姉、折神紫。一人は姫和さんのお母さん、柊篝。もう一人は・・・可奈美さんのお母さん、藤原美奈都」
言葉を継いだのは、折神紫の妹であり真実を知る当事者の一人である、折神朱音だ。
その昔を思い出す声色には、過去に対する後悔の念と、目の前の奇縁に対する複雑な想いが乗っていた。
「相模湾大災厄の大荒魂を鎮めた本当の英雄は、貴女たちの母親です」
「そして。そんな英雄に……我々は何も報いることができなかった」
過去を詳らかに語る大人たちの表情は、険しいモノだ。それは、自分たちが救われたということ、そして、救ってくれた彼女たちを犠牲に生き残ってしまったも同然だということに起因している。朱音の実姉である折神紫は大荒魂と同化し、柊篝と藤原美奈都は共に早逝している。加えて、二十年前の因縁が、目の前の少女たちに巡り巡っているのだ。それは責任ある大人になってしまった紗南や朱音にとって、苦々しくも背負わねばならぬ業のようなものだった。
「でも・・・おかしいデスね? 元々、特務隊は全部で8人だったんデスよね? 姫和ママと可奈美ママの存在が、公的に『居なかった』モノにされたのは今聞きましたが、その場にいた『もう一人』のコトは誰も知らなかったし、そもそも記録上にそんな刀使はいなかった、と。・・・その『楓』とかいう刀使、一体何者だったのデス?」
「彼女は、『柊篝』の……いえ、『柊家』に関わる縁者だったと思われます、が」
「篝先輩からも詳しい話を聞けず仕舞いでな。おそらく、荒魂を鎮める儀式にまつわる、何かしらの『役目』を抱えていた家の者だとは予想がつくが―――」
一通り語り終えた辺りで、話題は横道に逸れていた。
二十年前の大災厄の際、突然に渦中へ現れた一人の刀使。『楓』と呼ばれたその少女は、篝の指示に従うように退路を確保し、撤退する少女たちの支援にあたっていた。だが、その少女が何者であったのか、なぜ篝だけは面識があったのか……その詳細を知る者はいない。
だが、真庭紗南は視線を僅かにずらすと、一言も発さずに黙っている少女を見遣った。
正確には、その少女が座る横に置かれた御刀を見た。
銘は『鬼神大王波平行安』
刃長は三尺余、柄が一尺三寸。大刀と見紛うような、特徴的な拵え。
「―――真相は、闇の中さ」