月夜の噛ませ犬 作:ひいなのまつり
虹の麓には幸せが隠されている。
そう言ったのは、あの男だった。
あの男は何時だってそんな事を言っている。
まるで自分が歌劇のスタァの様だと勘違いしているのか、人混みの中でも恥じること無く歌って踊る。
詩のようなことを平然と口にする。
…腹が立つことに、容姿だけはそれが許されるだけのモノを持っている。
あの日のことを、まだ覚えてる。
ハーフである事を理由に、クラスから排斥されかけた時のこと。
名字以外日本要素が無い彼に救われたときのこと。
私の想いはそこから始まった。
あの日のことを、まだ覚えてる。
彼が手品をすると、悪戯で本に書かれた落書きがいつの間にか消えていた。
「どれだけアリサちゃんに悪戯をしても、それは僕の手品を披露させるだけだ」と、彼は犯人に告げた。
私は驚きと安堵を覚えた。
あの日のことを、まだ覚えてる。
私の不安はそこから始まった。
あの日のことを、まだ覚えてる。
虹の麓を探しに行こう。
そう言った彼と疲れ切るまで走ったこと。
私の欲望はそこから自覚した。
あの日のことを、まだ覚えてる。
彼を狙う組織によって巻き込まれて、やっぱりまた助けられて、そして彼の闇に触れたこと。
私の期待はそこで息を吹き返した。
あの日のことを、まだ覚えてる。
彼が人間では無いと知ったとき、
それまで私は、
でも、そうじゃ無かった。
彼らの枠組みで見れば私も普通の人間で、彼と彼女だけが特別。
――私は想いにそこで鍵をかけた。
バニングスの名に恥ずかしくない様に、研鑽を重ねた。
中学生の時には、虹の発生理由や仕組みも勉強した。
…虹は、大気と水分による光の屈折により引き起こされる現象だ。
その現象故に、虹の発生場所と観測者の距離は一定になる。
どれだけ観測者が走って追いかけようと、虹も同じ距離を離れていく。
虹の麓へは永遠と辿り着けない。
目には近く見えるのに、永遠に追いつけないところに幸せを埋めるなんて、虹の神様という者がいるのならとても残酷なことをするものだ。
こんなに近くにいても、決して届くことは無い。
まるで彼自身が虹の様だとも思う。
もしそうなら、あの優しさも、あの陽気さも、全て虚像なのだろうか?
それとも、すずかでさえ知らないのだろうか?
虚像を追い求めた彼の父親が彼に求めたことも残酷だったが、虚像である彼もまた残酷だ。
キーボードを叩くことすら無く、パソコン上の文字を自由に改変して、増殖させて、削除出来る。
異能といいかえてもいい。
魔法と呼んでもいい。
パソコンだけでは無い。
本の記述すらも、その魔眼一つで書き換えられる。
教科書の誤字を一睨みで修正した事だってある。
本に書き込まれた落書きを消したのも、今にして思えば種も仕掛けも無かったのだ。
紙に書かれた『I love you』を『月が綺麗ですね』に一瞬で変えたことも、…すずかがそれを見て少し顔を赤くしていたことも、手品なんかじゃ無かった。
冗談かも知れないが、図書館にある全ての本を白紙に出来るかと聞いたら、「勿論オフコーーォス」と笑っていた。
勿論とオフコースは似たような言葉であるから、勿論勿論とかオフコースオフコースみたいになってるんだと、チョップで突っ込んだのは良い思い出だ。
もし、私に物語を改編する力があるのなら、私をヒロインの立ち位置に――――なんて想いを封じていることは、すずかだけには知られてはいけない。
彼と婚約者の関係にある彼女には、彼のことを好みで無いフリをしているすずかにだけは、決して知られちゃいけない。
この想いは、私以外の誰かにとっては知られることすら許されない。
月村財閥と皮肉な同盟関係にある氷室財閥の囲いが無ければ、バニングスのグループの力で囲い込むことが出来た。
けれど名ばかりの同盟関係で、大企業であるすずかのとこの会社を、支配出来るほどの財力・権力を有した氷室財閥の後継者である彼には、その方法は効かない。
そもそも、高性能なOSやアプリケーションソフトを各国の企業に無料で配布して、民衆に行き届けさせることで、実質的に世界のITを掌握した氷室グループの最高権力者を、一介のハッカーとして雇用するなんて出来るはずも無いのだけど。
それだけの技術と異能。
こんなモノを持った個人が出来てしまうなら、世界を人類から奪うとか、世界を人類のものにするとか、そんな発想が出てきてもおかしくは無い。
ITに着目したことも、無料で配布して手に入れた情報を優良で売ったり、広告費で稼ぐというやり方も凄い。
でも、私の想定が正しければ、彼の異能は強力な能力がある少数勢力には、最大の脅威となり得る。
パソコンや本だけでは無い。
中にCDも入ってないCDプレイヤーから音楽だって流せた。
イヤホンを片方ずつそれぞれの耳に付けた時のことは、今思い出してもアリサの顔を熱くさせる。
途中から、曲が少年の歌声に変わったり、薄っぺらい愛の告白になったところでツッコんで中断したのは、その愛に応えても無意味だと気付くのが辛かったから。
――それでも、中断したことは今でも惜しかったと思う。
パソコンも、本も、CDプレイヤーさえも情報と見なして書き換えられる。
…こんなことを言いたくは無いが、人の思いや想いさえも、所詮は情報に過ぎないとしたら?
世界の首脳陣、世界の裏に潜む人外の財閥。
それらを自在に操れるとしたら?
記憶を、感情を、認識を、自我を書き換えられるとしたら?
人間と人外の闘争に、好きな形で終結を迎えられる。
自身が人外でありながら、人外を破滅させることで、衝突を防ごうとした彼の実父の考えも荒唐無稽では無い。
すずかの様に驚異的な身体能力や、彼のような魔法染みた異能。馬鹿みたいな資産力と技術力。
それを持ち得る少数派グループ。
彼らを倒すには、対個人に特化した戦略が一番だ。
私の勘違いで無ければ、やり方次第では実際に一つの血族がこの地球から消滅していた。
そして、その未来が無くなったからこそ、人間と人外の闘争はこれからも続いてしまう。
彼の父親に力を貸した本物の魔法使いとやらも、人類の勝利を願っていると聞いた。
いつか、決定的な衝突が避けられないとしても、その時に彼がその戦争の鍵を握るとしても、彼を倒せば人類は救われるとしても――――私は
その時は、人類の裏切り者として汚名を被るだろう。
未練はあっても、後悔なんてきっと無い。
ふと空を見上げる。
昨日の夜から今朝にかけて、雨が降っていたからだろう。
今も未だ、私の瞳には虹が見えている。
その虹に辿り着けるのなら、きっと幸せは手に入るだろう。
けれど、どれだけ追いかけても――――この手は虹には届かない。
私が虚空に伸ばした手は、何も無い雨上がりの大気を掴んだ。