月夜の噛ませ犬 作:ひいなのまつり
あの日見た空はまだ覚えてる。
それまで、僕にとっての空は色を変えることの無い灰色の天井だった。
紫外線が極力カットされた科学的な波長の光。
差しのばされた手が、僕を外へと誘った。
あの日のことはまだ覚えてる。
差しのばされた手と、その温かさを。
突き立ててしまった爪と、それによって流れ出た血の匂いと温度を。
あの手を握った時、僕の人生は始まった。
あの日の雨をまだ覚えてる。
初めて体験した屋外は、雨が降っていた。
興奮に我を忘れた僕は、ずぶ濡れになるのも厭わずに走り回った。
走ることに精一杯で、兄の顔を見てはいなかったが、きっと兄は苦笑していたに違いない。
あの日突き立てた牙は、あまり覚えていない。
吸血鬼にとって、魔眼による催眠術は、視線や対話の延長にある。
それは人狼にとっても変わらないはずであったが、僕の場合はそれは捕食の延長に会った。
視線で喰らう。
恐らく夜の一族でも、同じようにいじくられて感覚を入れ違えて結びつけられた僕にしか理解出来ない。
そして、僕もまた真っ当な感覚は理解し得ない。
初めて檻から解放された僕は、それまでの飼い主であった研究者達と、牙で会話して視線で噛み付いた。
彼らは一様に、肉体以外の全てを失った。
あの日の決意をまだ覚えてる。
兄が、噛ませ犬と失笑されているのを聞いた時のことを。
僕も噛ませ犬になろうと決めた時のことを。
催眠で簡単に虜になる人間とは違い、兄が重要視する同族の綺堂さくらには、催眠は使えなかった。
もしかしたら使わなかっただけなのかも知れないが、兄はその点については語らずに死んだ。
誰もを魅了すると思っていた兄が、混じり物としていた女にこっぴどく振られた。
今まで氷室に不満を持っていながら、反発する力無く押さえつけられてきた負け犬共は一斉にそれを喜んだ。
兄に聞こえるように、同族内でのパーリィで語り合った。
それだけじゃない。
綺堂の家が、本格的に氷室に下克上をした。
そして、氷室の当主から兄は外される事が決まった。
今にして思えば、それは兄と綺堂家が話し合ったことなのかも知れない。
兄が犠牲となることで、氷室家と僕が残された。
ならば、表だっては氷室家を批判する綺堂家が、嫌がらせ染みてはいるが、氷室家に敵対するもの達の情報を流してくれている理由にも説明が付くからだ。
ならば、ならばだ、あの夜のことは当主交代の儀であり、最後の試験であったに違いない。
僕は当時からそう信じている。
当主の座を外されるのは、死よりも屈辱であった筈。
あのプライドの高い兄が、そう認識しないはずなど無かった。
だが、兄はそんな状況に追い込まれた
これ程格好良い男を僕は他に知らない。
そもそも、普段の兄の立ち振る舞いも僕は好きだった。
何処までも傲慢で、何処までも自己に陶酔している。
それが気に食わない者もいるだろうが、そんな連中のことを気にしてやる必要さえ無いのだ。
兄もそういっていた。
傲慢な者に嫌悪する者は、傲慢な振る舞いが許される強者が羨ましいのだ、傲慢な振る舞いをしたくても出来ない弱者である己が妬ましいのだ、と。
強者である者が弱者を喰らう法理を受け入れ難いのは、何時だって弱者ばかりだ、と。
僕も今でもそれに同意出来る。
綺堂の家を盾にしなければ、反逆すら起こせない、文句さえ言えない者達の不満など、汲み取ってやる必要さえも無い。
まあ、僕自身がまともな生まれでも無いから、兄ほど夜の一族と人間を明確には区別はしない。
何せ、人間にだって可愛い女の子は大勢いる。
ならば、手を出す範囲を自分から狭める必要は無い。
寧ろ、兄から学んだ格好良さを女の子達に振りまいて虜にしてやればいい。
兄がそうしたように、全ての女性を魅了し、全ての男に心地良い嫉妬の視線を受ける事を目指すべきなのだ。
否、もはや僕がそうしたいからそうするに他ならない。
それが許される男には、誰も不満を形にすることさえ出来ない。
僕は――――――恋愛界の独裁者だ。
「Hey!! マイスイートハニー達。今日も相変わらず麗しいね。
いや失礼。今日は昨日よりもまた一段と美しくなったね。
アリサちゃんは少し前髪を変えてみたかな。んん実に似合ってるよ。それにそのグロスの蠱惑さがファアビュラスッッ!!
すずか…ちゃんは香水の濃さを昨日より薄くしたんだね。それもまたファシネイション」
少々月村すずか相手には、ぎこちない所はあったかも知れないが、まあ怪しまれるということも無いだろう。
何せ、人狼は皮を被るのが上手いから。
…勿論、アッチの皮は被ってなんか無い。
共に夜を明かしたハニー達に誓ってもいいことだ。
売国奴ならぬ売族奴と化した男を打ち倒した時も、敬愛する兄を討ち倒した時も、すずかに世話になった。
売族奴の時は兄が存命だった。
あの氷室遊がいたからこそ、対外的にも僕を後継者として扱ったからこそ、僕は
もしその二つ名が僕の元に未だにあったのなら、今のようにはいられまい。
夜の一族すら敵に回して生き延びる気概こそあるが、それは出来れば望まない。
兄を殺した時、彼女は僕を支えてくれた。
僕の為に雨を降らせてくれた。
すずかに抱きしめられた僕は、温かな雨を感知した。
あの夜空には雲など無かった。
塩っ気のある温かなものだったが、あれはきっと雨なのだろう。
彼女が僕の為だけに降らせた雨なのだ。
僕は他人に遠慮などしない。
他人を巻き込むのは当たり前。
特に色恋なんてものは、自分の中だけで完結するものでは無い。
必ず相手が存在する。
鏡に向かって恋するので無ければ、相手を自分に向けさせる我の強さが必要になる。
故に、成就を望むのであれば、ある程度の自分勝手さが必要になる。
その自分勝手を押し通せるだけの力が必要になる。
その自分勝手さを持てぬほど弱いのなら、黙って指を咥えて見ているほかは無い。
そんな弱者は考慮にすら値しない。
当然恋愛皇帝である僕は、恋愛会の覇者だからよりどりみどり選びたい放題だ。
そんな僕が美女達に対して、一人一人真剣に全力投球するのだから、成就しない方があり得ない。
…勿論、未だに僕のものになったと認めないツンデレな女性達はいないわけでも無い。
例えば、「誰がマイスイートハニー達よっっ!!」と傘の端で僕の足を叩いてくるアリサちゃんなんかもその一人だ。
が、時間の問題だと僕は信じている。
そもそも諦めてしまえば、そこで敗北なのだ。
諦めない限りチャンスはある。
諦めなくても届かない相手など、絶対にいない。
しかし、自分のものにならなくてもいい。
自分のものにしてはいけない。
そう思える相手が一人だけいないわけでも無い。
だからこそ、都合が良いことに彼女が好みで無いこの
決してあの日を穢してはならない。
彼女を特別視してしまうのは、何だかんだいって同族というのもあるのかも知れない。
兄が綺堂さくらに対してそうであったように、僕にとっての彼女がそうなのだろう。
やはり、夜の一族としての誇りが、同族を特別視させてしまうのかも知れない。
だから、いつかの兄の気持ちが理解出来た気がする。
兄は、綺堂さくらが自分のものにならないことを、薄らと、そして明確に理解していたのでは無いだろうか?
だからこそ、悪手としか言えない、綺堂さくらへの最悪の選択肢を選び続けた。
手に入らないのなら、手に入れてしまってはならないのなら、それを確実な物にする為に、絶対的な柵を作る為に。
兄は、敢えて道化を選んだのだろう。
やはり兄は何処までも格好良い。
そして僕も兄の次に格好良い。
ならば結論は一つしかあるまい。
僕は彼女を解放する主人公の為の、
兄がそうであったように、僕がそうしたいように。
クロノかユーノがその主人公になるのかと思って焚き付けたが、結局別の相手とくっついてしまった。
未だ見ぬすずかの為の主人公よどこにいる。
早く噛ませ犬を倒しに来い。
僕は自分の為だけに、自分が信じる格好良い自分の為に、兄のようにすずかに殉じるのだ。
だって僕は、あの日の雨の温かさをまだ覚えてる。