咲-Saki- 第三次麻雀大戦 PROLOGUE   作:新神 清

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第七局 交渉

「それでは私はそろそろ失礼します。本日は貴重な情報ありがとうございました」

 

 資料を読み終え退席する青年は礼を口にし、財布から万札を一枚取り出した。

 

「いやいやいや、そんなつもりでこれ頼んだわけじゃないし」

「私の方が年上ですから。情報のお礼ということで」

 

 制止する少年に逆らい、押し付けるように金を置いて出口へ向かう。ここまで頑ななのは、心のどこかに借りを作りたくないという思いがあるのだろう。それがどんなに些細なことでもだ。

 

「…………最後に一つ聞いておきます。なぜわざわざこれを私に教えてくれたのですか。これは私の失態です。放置したほうが、あなた方にとっては都合がいいでしょうに」

 

 扉に近づいた所で振り返り疑問を口にした萩原だが、まともに答えが返ってくることを期待してはいなかった。

 

「やだなぁ。日本麻雀協会の国家公認雀士である僕らの仕事は表の麻雀界を守ることじゃないか。危険が迫れば防ぐのは当然でしょ? それに僕ら仲間で仲良しだもんね。困っている時は助け合わないと」

 

 案の定、白々しい返事が返ってきた。一見すると筋は通っているが、これが建前であることは態度で一目瞭然。心にもないことをよくもまあいけしゃあしゃあと口にできるものだ。

 

「時間を使わせておいてなんだけど、急いだほうがいいんじゃない? もう後半戦南二局終わっちゃったし。このままだと君のチーム風越に逆転されちゃうよ」

「私の存在が彼女達の勝敗に起因することはありません」

 

 何でもないかのように県予選決勝の進捗状況を言う少年。しかし、燕尾服の青年はその事実を当然のように受け止めている。

 この店にテレビもラジオも置いていない。故に会場から遠く離れた彼らに試合内容を知る術は無いのだ。しかし彼ら二人は詳細に今もこうして対局の内容を把握している。それくらい何でもないかのように。

 

「それでは本日はお世話になりました」

「はいはーい、これからもこの茅ヶ崎歩人(ちがさきあると)をよろしくねっ」

 

 おどけた態度で茅ヶ崎と名乗った少年を背に、『日本麻雀協会の道化師』は『龍門渕の執事』へと戻っていった。

 

 

 

 

 

 

「ほ~ん、京太郎君も来週の個人戦に出るんやね~」

「ああ、佐合は個人戦に備えて会場を下見にきたのか」

「今年ここ来たばっかでこの辺よう知らんのよ~」

 

 十三と一緒に会場への道を引き返しながら京太郎は世間話に興じる。

 関西圏の人間だからかグイグイとこちらの中に踏み入ってくる十三。その距離感の縮め方はいっそ無遠慮と呼んで差し支えないほどだ。しかし、京太郎も他人との会話能力に不備があるわけではない。結果、馴れ馴れしく接する十三を上手く相手にする京太郎という構図が出来上がった。

 

「それにしてもすごい偶然やね~。京太郎君の近くにおった咲ちゃんはめっちゃ麻雀が強おて、他の四人も全国クラスの実力を持っとって、今年が初出場やのに県予選の決勝に出とるんやろ? なんや冗談みたいな話やな~」

「………本当にな」

 

 皆経験者なだけあって本当に強い。一人だけ素人の自分とは大違いだ。

 わかっている。自分と皆の間には年期という埋めようのない差が存在しているのだ。だから自分一人だけ負け続けるのは仕方ないことなのだと自身を納得させる。

 内に沸いた黒い感情を何とか押さえつけようとしていると冗談めかした十三の声が聞こえた。

 

「こら京太郎君も実はとんでもなくすごかったりしてな~」

 

 即座に否定しようとしたが、息を呑む。声色とは裏腹に仮面の奥で佐合の赤い瞳が値踏みするような視線をしていたからだ。

 

「俺は―――」

「あ~、もしかして、あれがそう~?」

 

 京太郎の言葉は十三の質問に掻き消える。指をさす方を見るとそこには確かにインターハイ会場が建っていた。

 どうやらいつの間にか会場にたどり着いていたようだ。

 

「あ、ああ。あの建物だ。」

「そう~、ならここまでありがとさ~ん」

 

 ばいば~い、と手を振る十三を見送り、京太郎は思う。

 くだらない。

 自分に特別な力があるだなんて思ったことはない。須賀京太郎という男はどこまでも平凡で、無能なのだ。碌に誰かの役にも立てず、いてもいなくても変わらない。

 そんなだから、何も知らない内に独りになってしまったのだ。

 それを空気に流されたとはいえ忘れそうになるなんて。

 

「………俺も行くか」

 

 会場へと引き返したせいで大きく時間を使ってしまったのだ。急いで昼食の買い出しを終わらせなければと足を動かす。でないと本当に誰の役にも立てないのだから。

 触れられたくない部分を踏みにじられたような不快感を飲み下して、京太郎は走り出した。

 

 

 

 

 

 

 萩原が店を出てから十数分後、店を出た歩人はスマートフォンを片手に電話を掛けようとしていた。

 数回のコール音の後、自身の上司にあたる人物が出た。

 

「茅ヶ崎です。『ザンニとの打ち合わせ』終了しました。今から龍門渕邸へ向かいます。ええ、はい。大阪の方はよろしくお願いします。それでは」

 

 電話を切って気を引き締める。肝心なのはここからだ。

 顔も知らない連中のことなどどうでもいいが、自分の大切な人に危害を加えるというなら見過ごせない。

 それに今回の件はあの男の手がかりが見つかる可能性がある。自身の目的のために何としてでもここでの活動許可を得なければいけない。

 表と裏を渡り歩く日本麻雀協会(JMA)の尖兵である茅ヶ崎歩人は駅へと向かうのだった。

 

 

 

 

 

 

『今日は天気いいなァ…、新緑も輝いているし――――――』

 

 暖かな日差しを浴びながら、京太郎は会場へと向かっていた。膨らんだリュックの中には六人分の弁当が入っている。

 佐合十三を会場に送った京太郎はコンビニに到着したところで自分の失態に気が付き激しく後悔した。

 何を買えばいいか聞いてこなかったのだ。

 勿論昼食を買えばいいということはわかっている。だが、その種類を誰からも何も聞いていなかったことに今更になって気づいてしまった。

 引き返すにしてもここから会場からはかなり遠い上、万が一優希が落ち込んで泣いているところにでも顔を出してしまったら余りにも申し訳ない。普段の彼女が負けて泣くような性格だとは思わないが、付き合いの浅い自分の思い込みは余り当てにならないだろう。

 咲と和と優希に電話をかけても繋がらないし、部長の電話番号は知らないし、染谷先輩は試合中。

 どうしようもなくなった京太郎は最後の手段として自分の記憶と推理力を頼りに選んだのだが、優希の弁当だけが見つからない。

 タコスが入っている弁当があるとは思っていないが、たこ焼きかタコさんウィンナーくらいは入っている弁当がどこかにあるはずだとコンビニを巡り、スーパーでようやく見つけたのだ。

 好きな食べ物は単語の中にタコが入っていればいいと聞いたとき、味は関係ないのかと呆れたが、覚えやすかったので今は感謝するべきなのかもしれない。

 

『あぁ―――…こんな日に和とキャッキャウフフできたらなァ』

 

 どこか呆けたまま足を動かしている京太郎は普通の男子高校生ならするであろう妄想に勤しんでいた。

 同じ部活に所属している原村和は眉目秀麗、成績優秀、麻雀もインターミドル個人戦で優勝するほどに強い。正に絵に描いたような美少女だ。

 

『いかんいかん。そろそろ次鋒戦が終わる頃だし、早く戻らないとアレに折檻食らってしまう…』

 

 少し現実逃避してしまった。

 優希も気分が落ち着いているだろうし、無駄に痛い思いをするのは御免だ。弁当を選ぶために悩み過ぎたことを後悔しながら、リュックの中身が崩れないよう早足で会場に向かった。

 

 

 

『な………何が起こったんだ―――!?』

 

 画面に映し出されている次鋒戦終了時の点数を見て京太郎は愕然とした。

 周りの集団がざわついている。観客にとってもこの展開は予想外だったらしい。

 

風越女子  140800

鶴賀学園  112000

龍門渕高校  77800

清澄高校   69400

 

 たった半荘4回で1位と7万点以上の差がついているではないか。

 染谷まこの実力は自分も知っている。雀荘での経験によって築き上げられた強さは決して低くない。だというのに最後に自分が見た時から25000点も減っている。これが全国の壁なのか。

 何があったか聞くのは失礼かもしれないが、こんなところで立ち尽くしている場合ではないと控室へ向かうのだった。

 

 

 

「ただいま戻りました」

「おかえり」

「買い出しご苦労―――」

「聞きづらいんですが…次鋒戦何があったんですか?」

 

 労いの言葉を受けながら、次鋒戦の詳細を聞く京太郎。聞いたところで何ができるというわけでもないが、理屈と感情は別だ。信じられないことが起きれば事情が知りたいと思うのは人として当然だろう。

 

「まこの親番4回中3回もツモられたのよ…しかも1つは役満」

「不甲斐のぉてすまんのー」

 

 久の言葉で京太郎の疑問が解消された。

 ツモ和了りは運の問題だ。どれだけ気を付けても回避できるものではないだろう。

 リュックを机の上に置いて、開けると三人が中の弁当に手を伸ばす。

 誰からも不満の声が聞こえてこないことに内心で安堵した。どうやら自分の買い出しは無事成功したようだ。

 

「相手は京太郎より初心者だったじぇ」

「まじで!?」

 

 優希の発言に京太郎は驚きを隠せなかった。

 決勝戦に初心者が混じっていることもそうだが、恐らく清澄と同じように人数がギリギリなのだろう。そう考えればまだ納得できる。

 彼が真に驚いたのは、経験者であり実力の高いまこを負かした相手が、初心者だったことだ。

 今まで自分が他の皆に一度も勝てないのは経験の差という絶対的なアドバンテージが存在しているからだと思っていた。しかし、今聞いた言葉はその仮説を覆すものだ。

 そして須賀京太郎は一つの結論に辿り着いた。

 それはなんてことのない真実。むしろ何故今まで思い至らなかったのか、何故誰も明言しなかったのか。そう思ってしまう程に陳腐な答えだった。

 麻雀には才能が存在する。

 そう考えれば運三割技術七割と呼ばれる麻雀において、数十回打ってきた京太郎が一度も一位を取れないのも納得だ。

 まこに勝ったというその初心者はきっと彼女より下手ではあっても、彼女より強かったのだろう。

 詰まる所、打ち筋や技量以前の問題として麻雀には明確に強弱が存在するのだ。

 強者は他の人間より努力しなくても勝てるし、弱者は他の人間より努力しても勝てない。そして自分は弱者だったというわけだ。

 

『血筋、才能、環境、意思、性別、そういった打ち筋以外の要素によって、麻雀の実力が決まるとしたら、どう思いますか?』

 

 親切な青年の言葉を思い出す。あれは仮定の話でも何でもなくただの事実だったのだ。

 そうなると何故あの人はそれを改めて聞いてきたのだろうか。

 

「昼休みが終わったら私の番だから、なるべく取り返すように努力するわ」

 

 思考に没頭していると久の声が聞こえた。

 慌てて京太郎は他事を考えていた自らを戒める。

 自分が弱いことなんてどうでもいい。今は必要なことをしなければいけないのだから。

 そう思い、京太郎は自分の分の昼食に手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

 二時間かけて屋敷に到着した歩人を一人の使用人が待ち構えていた。

 移動中にアポイントを取った少年はこちらを客として迎え入れてくれた彼女を見ても特に驚かない。

 豪奢な邸内に感心することもなく歩き続けて数分。前を進むメイドに何度か話しかけるも、反応はそっけないものだった。どうやら案内を命じられた時極力会話をするな、と言われたそうだ。己の信用のなさに嘆息するが、自覚があるので傷つくことはない。

 それから数分、お辞儀をして去っていく使用人に手を振ると改めて彼は扉の前に向き直った。

 ドアの向こうにいる相手は自分より経験も立場も上だ。間違いなく一筋縄ではいかないだろう。

 格上を相手にして一手も間違えることなく、会話の主導権を常に握り続ける。

 そんな薄氷の上で踊りきる程の難易度を誇る交渉。平常心を保たなければ成功するはずがない。

 意を決してドアを叩くと入れ、と短い声が返ってきた。

 

「失礼します」

 

 部屋に入った歩人の目に入った光景は寂しいものだった。

 書斎と呼ぶには本棚がない。会議室や応対室と呼ぶにしても、長机や椅子がない。

 そして部屋と呼ぶには余りにも物がないのだ。

 何もない空間に少し大きめの机と椅子を一つ。ただそれだけ。

 そして、机を挟んだ先の椅子に座っている男こそが、龍門渕家次期当主にして龍門渕高校麻雀部顧問、そして日本麻雀協会最高幹部の一人、龍門渕正人である。

 短く整った黒髪に色気のない眼鏡をかけた理知的な風貌。表情に遊びはなく、射貫くような眼光はこちらの思惑を見透かしているかのようだ。しかし、無機質な男はこれ以上ないくらい殺風景なこの空間に適合していた。

 表情に遊びのない男は、歩人を一瞥することもなく、ただ書類作業を続けている。

 

「遠くからご苦労。萩原から全部聞いた」

 

 言葉こそ(ねぎら)っているもののそこにこちらを(いた)わる感情が存在しないことは明白だ。

 

「はい、本日は近畿代表の使いとして伺いました。連中の隠蔽に僕も手を貸そうと思うので中部代表である貴方の許可をお願いします」

 

 国家公認雀士が自らの所属している地方以外で自由に動く場合、その地方を統括している幹部に事前に許可を得る必要がある。故に大阪代表の下に就いている茅ヶ崎歩人が長野で職務をなすにはその地方の管轄である龍門渕正人に一報入れておかなければいけない。

 これは日本麻雀協会の中で規則として定められてこそいるものの、本来なら形だけのものでしかない。他地方からの援軍は歓迎するものでこそあれ、拒絶するものではないからだ。

 

「いや」

 

 だというのに、

 

「お前達の助けは必要ない。個人戦に紛れ込んだ裏雀士はこちらだけで対処する」

 

 申し訳なさから遠慮しているわけでもなく、ただ助力は不要だとでも言わんばかりに断言する。

 そして、紙の擦れる音とペンを走らせる音だけが室内を満たして数瞬経ってから、正人が会話を終わらせたことに気が付いた。

 

「ちょ、ちょっと待ってください。どうしてですか」

「今言った通り、こちらだけで対処できるからだ」

 

 予想外の返答に慌てながら理由を聞くが、帰ってきた答えはとても納得できるものではなかった。

 

「誰が介入するか聞いてないんですか!? あの佐合―――」

「佐合十三だろう。全部聞いたと言った筈だ。俺の話を何も聞いていなかったのか」

 

 声を荒げる自分を遮り、苛立たし気な態度をとる正人の正気を疑った。

 佐合十三。

 六年前、彗星の如く現れ、裏社会で悪逆の限りを尽くしたその男は、若さに不釣り合いな悪辣さと強さで日本麻雀協会から最警戒されている雀士の一人だ。存在はおろか名前が上がるだけで国家公認雀士が数人がかりで動かざるを得ないほどの大物。

 萩原が弱いわけではないが、間違いなく彼の手には余るだろう。

 

「でしたら、なおのことです。彼一人でどうにかできる相手じゃない。ここは僕らも協力して、相手を確実に捕らえましょう」

「俺に何回同じことを言わせるつもりだ」

「っ! あなた達は僕が来なければ奴の存在に気付かなかったんですよ!」

「ああ、そういうことか。道理で物分かりが悪いと思った」

 

 歩人の悪態を聞いて正人は得心した、否得心したように見えた。

 

「お前がここに来る前から連中のことは知っていたよ」

「―――――――――――――――――」

 

 絶句する歩人。同時に彼の目的を理解し愕然とした。

 この男は自分の失態を無かったことにする気だ。

 長野の管轄でない歩人に言われるまで裏雀士の動きを知らなかったなど間違いなく汚点になる。

 世間的に注目されていない男子の部だから警戒していなかった、なんて言い訳が通用するはずがない。むしろ、関心が薄いからこそ連中が付け入る隙になるのだから。

 表麻雀界に危険が及んでいるこの状況でなお保身を優先するのか、と怒りを通り越して呆れてしまいそうになった。

 

「ここまで来てもらったところ悪いがもう帰っていいぞ、それとも交通費でも欲しいか」

 

 交渉を打ち切り大阪に追い返そうとする正人の態度で、歩人は自分の推理が正しいことを確信する。

 だが、彼の言いなりになるつもりはない。

 

「ザンニは何も知らなかったようですが」

「直前までこちらの動きを向こうに悟られることを防ぐために教えてなかったからな」

「明確な作戦があるんですね?」

「お前に教えるつもりはない」

 

 こちらの追及が悉く躱される。萩原に話した情報が筒抜けになっているなら、交渉においてこちらの優位性は失われている。言ったことが事実である証拠も虚偽である証拠もない以上、藪をつついたところで何も出ないだろう。

 とにかくこのままでは不味い。

 自身の目的のためにも、何とかして許可を得ないといけないのだから。

 

「それとも、なにかお前がここで戦わなければいけない理由でもあるのか」

「―――」

 今動揺を表に出さなかったのは奇跡だと思った。

 

「お前の因縁に興味はないが、私情を持ち込むのは感心しないな」

 

 正人の言葉を耳に入れながら、歩人は自分に言い聞かせる。

落ち着け。ここまでは想定できていた筈だ。

 この男が口八丁で自らの失態を帳消しにすることは可能性として存在していた。

 萩原に先に会ったことを後悔していない。

 県予選会場より先に屋敷に行けば、この男も大人しくこちらの申し出を受け入れただろう。しかし、そうなると萩原による須賀への接触を止めることができない。もし、あの場に自分がいなければ間違いなく彼は連絡先を交換し、後々に繋がるパイプを作っただろう。

 良くも悪くも自らの主に対して献身的なあの男は須賀の男がもたらす恩恵を自陣営で独占するに違いない。

 

「龍門渕代表、今回僕は表麻雀界に迫る危機を何とかしたいと思いこちらに参りました」

 

 萩原に対しては貸しを作る形で協力を取り付けたが、この男はそこまで甘くない。

 こちらも賭けに出る必要がありそうだ。

 

「ですがそちらの方で対策が整っているというのなら、僕からは何も言いません。杞憂に終わったようで何よりです」

 

 それでは失礼しました、と頭を下げ扉の方へ体を反転させる。

 もしも向こうがこちらを心から必要としているならば、ドアを出る前に呼び止めるだろう。

 だが、もし何事も起きず歩人がこの部屋を出ればそれまでだ。彼の目的は叶わず、無駄足を踏んだことになる。

 恐らくこちらの思惑は向こうも気づいているだろう。ならば、様相はどちらが先に音を上げるかの綱渡りとなる。

 扉まで残り3メートル。

 

「………………」

 

 足を止めるな。速度を緩めるな。少しでも弱みを見せたらもう声はかからない。

 扉まで残り2メートル。

 

「………………」

 

 扉まで残り1メートル。

 

「…………………」

 

 扉に手をかけても、向こうは動きを見せない。

 

「………………待て」

 

 ここまでか、と諦めかけた瞬間、後ろから呼び止められた。

 

「前言撤回だ。ここまで来てすぐに帰ってもらうのも悪い。もう少しゆっくりしていくといい」

 

 歩人にはその声が神託のように聞こえた。しかし、一瞬浮かれかけた自分を厳しく律する。

 まだだ、喜ぶのはまだ早い。

 ただ正人が歩人を部屋から引き留めただけ。ここで逸って許可をねだるようではこちらの負けだ。チキンレースはまだ続いている。

 声の主へ向き直り次の一言を待つ。

 

「俺も少し休憩しようと思っていたところだ。ついてこい」

 

 これで改めて交渉の席に着けることはできた。後は如何に会話の主導権を握るかだ。部屋を出る正人の後ろにつきながら、歩人は幾つかの算段をつけた。

 

 

 

 無機質な空間から煌びやかな応接室に移動した二人は、全身が沈みそうなほど柔らかなソファーに体を預け向かい合っていた。

 部屋の隅には女中が眉一つ動かすことなく佇んでいるが、美人なだけにニコリともしないことを歩人は少し残念に思う。

 

「飲むといい。萩原の物ほど美味くはないだろうがな」

 

 ティーカップを顔の高さまで持ち上げて龍門渕家の主は淡々と告げる。この紅茶を淹れた使用人のことを考えると同意しづらい。

 

「そういうことは言わない方が………」

「ただの事実だろう。気になるなら席を外してもらおうか」

 

 そう言って正人は待機しているメイドを追い出した。その行為は彼女が客に紅茶を用意したと告げているようなものだ。

 萩原がとびぬけて凄いのであって、決してそれ以外の使用人がある程度の水準に至ってないわけではないのだろう。

 それにしたってもう少し言いようがあるはずなのだが………。

 

「娘さんに対してもそうなんですか?」

「そう、とは」

「歯に衣着せぬ物言いといいますか、その………」

「俺は公私混同はしていないつもりだが」

 

 立場もあり言いづらそうにする歩人の意図を汲み取る正人。

 そして、空気の色が変わる。

 先ほど使用人を追い出した本当の理由は、今からする話の内容を無関係の人間に聞かれてはいけないからだ。それは巻き込まれると危険だからといった他人を案じたものではない。ただ高校麻雀、ひいては麻雀界の秘密が漏れる危険性を可能な限り減らすためだ。

 

「県予選を見てきたんだろう。どうだった」

「僕はザンニに会ってきただけで会場には入っていませんよ」

「………あいつは透華から離れて何をやっていたんだ」

 

 紅茶を飲もうとした正人の手がわずかに震えた。声色から少し苛立ちが伺える。

 同僚が理不尽な叱責を受けるのは忍びないと思い、弁明に動く。

 

「そちらで世話をしている子を探していたんでしょう。団体戦の大将ですし」

「天江の子か。つくづく奴は御しきれん」

 

 紅茶を飲み干し、溜息を一つ。

 ここを歩人は狙い目だと考えた。

 ようやく見せた相手の精神的な隙を逃すつもりはない。

 

「そもそもどうか、等聞く必要はないでしょう。結果はほぼ見えているんですから」

「確かにな。どこだったか。須賀の嫡男がいる学校は」

「清澄高校、共学で無名の高校ですよ」

「そういえばそんな名前だったか」

 

 こちらを試すブラフにも惑わされたりしない。

 ここで歩人が戸惑うようならそれを理由に正人は優位に立てただろう。

 だが、情報の優位性は向こうにも存在しない。正人が萩原からの報告で裏雀士のことを知っているように、こちらも須賀家の男については知っている。

 

「うちの高校かその清澄高校。優勝するならどちらかだろうな」

「他の二校には申し訳ありませんが、勝負は残酷ですからね」

 

 それが二人の共通認識。各選手の実力、チーム力、そして外的要因(・・)を考慮して導き出された結論だ。

 

「大将だけが特別な龍門渕(うち)に比べれば、影響が5人全員に及ぶ清澄が若干有利か」

 

 身内贔屓をせず、正人がそう分析した。

 先鋒が10万点稼いでも次鋒以降で11万点吐き出せばそのチームは負ける。中学の大会ならば幾分勝手が違うが、団体戦とはそういうものだ。

 

「龍門渕が副将戦終了時点で清澄に3万点以上差をつけられたら負けと言ったところか」

「………3万点で足りますかね」

「何?」

 

 歩人の呟きに反応する正人。

 ここにきてようやく正人がほんのわずかに動揺を見せた。

 

「会場の中で二つ。他と比べて大きな反応がありました。一つがそちらの大将、そしてもう一つが清澄の大将です」

 

 わざわざ会場まで足を運んだのは萩原と情報を交換する為だけではない。各選手の実力、つまり誰にどれだけ彼の影響が及んでいるかを把握する為でもある。

 ある程度の実力を持ちやり方さえ知っていれば、近場で行われている対局の進捗度合いや周囲にいる雀士の実力を知ることなど朝飯前だ。

 その場にいなければわからないことだってある。裏雀士の出現で慌てていたならばここまで萩原から聞いてはいないだろう。

 

「馬鹿な、二ヶ月だぞ。個人で多少の差異はあれど今の天江に匹敵する雀士を0から育てるなら二、三年は影響を受け続ける必要がある」

「中学から親しかったとか、小学校からクラスが同じだったとかならどうです?」

 

 そして、狼狽している正人を見て歩人は自身の推理に確信を持った。清澄の大将について目の前の男は詳しく知らない。

 

「話はまだ続きますよ。その大将の名前は宮永咲。今の女子インターハイチャンプ宮永照と同じ苗字です」

「『宮永』なんて苗字がそんなに珍しいか」

「そうですねぇ。『須賀』と同じくらいには珍しいかと」

 

 偶然ではないか、という遠回しな問いかけを皮肉交じりに否定する。屋敷への道すがらこの会談に向け手に入れた情報だ。無駄にするつもりは毛頭ない。

 

「現象には必ず理由があると思っています。どんな(ミステリー)にも発生するための絡繰(トリック)が存在して、どんな特異性(イレギュラー)も発生するだけの理屈(ロジカル)が存在して、どんな理不尽(バグ)も発生するだけの要因(ミス)が存在します。そしてそれに気づかず偶然という言葉で片づける人間は無知な愚か者(ただのばか)です」

 

 理由がない、などと(うそぶ)く者は理由を知らないという無能を露呈させているようなものだ。

異常な存在に理由をつけずただの偶然で片づけているようでは、いつまで経っても前に進めない。そんな気構えでは生死を賭けた勝負に負けたところで文句は言えないだろう。

 そして、これはあくまでも裏の話だ。如何に愚かで無能だとしてもそれは非難される理由にはならない。そもそも普通に生きていれば地位や名誉を賭けることはあっても、生命まで秤に乗せることなどまずないのだから。

 真に可笑(おか)しいのは正常に生きている人間が無能になってしまう裏世界の価値基準だ。

 

「龍門渕さん」

 

 この男ならその真理をよく理解している筈だ。

 何せ身内にその代表のような存在がいるのだから。

 天江衣。

 全国レベルの表雀士と比べても桁違いの雀力を誇る彼女も人為的な処置の上であの力を手に入れた。

 そして何より重要なのがこの事実を一握りの人間しか知らないということだ。大衆から見た彼女は去年彗星の如く現れ、素人めいた打ち筋でインターハイ最多得点を記録した奇跡の雀士だ。どう強いか、ばかりで何故強いかには誰も頓着しない。だからこそ世界で麻雀はここまで流行し、日本麻雀協会は圧倒的な権力を手にしているのだ。何も知らない人間に感謝こそすれ、見下すつもりは毛頭ない。

 日本麻雀協会の最高幹部である龍門渕正人。

 

「僕たちは貴方が無能じゃないと信じていますよ」

 

 正人がこの言葉を深読みするとこうなる。

 彼の知る限り宮永照の間に須賀の男子との接点は無い。その上であの強さ、雀力ならばそれだけの理由がある筈だ。

 誰かが何かを隠している。

 龍門渕正人ならその結論に至るだろうと。

 その上で先ほどの言葉だ。『僕』ではなく『僕たち』。これは歩人だけの意見ではなく 彼と同じ陣営、恐らくは彼を使者とした大阪の代表も同じ思いだと考えていいだろう。

 つまりこの少年の狙いは、大阪と長野による同盟の締結だ。

 

「インターハイの時期に合わせた東京で開かれる総会。その時にうちの代表が二人で貴方との食事会を希望しています。積もる話があるのならそこですればいいでしょう」

 

 そして、茅ヶ崎歩人は遠回しに提案を持ちかける。

 回りくどい伝え方をしたのは断られた際、弱みを見せないためだろう。

 仮に直接頼み込んで、正人が断ったとする。

 そうなれば次の総会で正人は長野代表として大阪の代表から同盟を持ち掛けられたことを議題に挙げる筈だ。結果、不穏な動きをしている陣営として全員が手を組んで大阪の敵に回り、潰しにかかるだろう。

 しかし、今この申し出を却下してもただ飲みの誘いを断っただけだ。とても言葉の上では怪しいとは呼べない。

 では、今この申し出を受けて即同盟が締結されるか、といえばそれは違う。

 そもそもこの同盟を求める交渉には中身がないのだから。

 何を目的としてどのように手を組むのか。それに関する内容を歩人は何も口にしていない。前の会話から宮永姉妹と須賀家に関することだろうと予測はつけられるがそれでも曖昧過ぎる。

 今はあくまで手を組む意思があるか、の事前交渉でしかなく詳しい内容はその『飲み』の場で話すつもりなのだろう。

 言うまでもなくこんな不透明な約束は危険すぎる。後で何を吹っ掛けられるか分かったものではない。これ以上関わり合いにならないのが最も安全だ。

 

「わかった。その誘いに応じる」

 

 しかしこの誘いを正人は無下にできない。なぜなら、彼にそこまでの余裕はないのだから。一年前に犯した失態は彼の立場をかなり危うくしている。本来ならば最高幹部を辞職して当然の物だが、それを回避し今も最高幹部の椅子に座っているのはひとえに彼の手腕によるものだ。

 故に、彼は虎穴に入り虎児を得るしかこの状況を打破する方法はない。そこに住むのが虎が可愛く見える程の怪物だとしても。

 

「詳しい日時は改めてあいつに聞くとしよう」

「では」

「そうだな。長野での戦いにお前の参戦を認める。最善を尽くせ」

「はい!」

 

 それにこれは正人にとって悪いことばかりでもない。

 こうして誘いに応じた以上、食事会の日まで長野と大阪にとってお互いの関係を悪化させたり、立場が悪くなるような事態は可能な限り避けたい筈だ。

 故に歩人は正人の裏雀士に対する危機感の欠如を見逃して、正人は歩人に対して長野での戦闘許可を出す。

 彼にとって理想とも呼べる結果に落ち着いたわけだ。

 

「………今嬉しそうに返事をしたがそれは本心か?」

「勿論ですよ!日本麻雀協会(JMA)として裏雀士は見過ごせませんからね。僕がお役に立てるのなら喜ばしいことです」

「………」

「僕たちは道化だ。表雀士に幸福を振りまき笑顔を守るためならどんなことでもしますから」

 

 それでは失礼します、と茅ヶ崎は部屋を後にした。

 長野への介入という目的を果たした彼は次なる舞台へ上がっていく。

 

 

 

 

 

 

 空のカップに紅茶を注ぎ一気に飲み干した正人は、ソファーに背を預け肺の空気を絞り出すかのように大きく息を吐いた。

 今この部屋には龍門渕正人たった一人だ。ようやく誰に(はばか)ることもなく、恐怖(・・)することができる。

 自分の増援が必要ないという嘘を見抜いたのはいい。自分の顔の僅かな反応から見抜き確信したのだろう。ただそれを証拠として押し通すわけにもいかないから、歩人はあのような迂遠な手を打ったのだ。そして同盟の事前交渉が終わった今、彼はこれ以上この件を追及できない。大切なのは結果なのだから。

 真に恐ろしいのは自分が許可を出した後の歩人だ。

 言葉も態度も正義感に溢れ、使命感に燃える少年そのもの。そこに嘘の匂いはまるでしなかった。

 だというのにこのおぞましさはなんだ。あれが茅ヶ崎歩人なら先ほどの全てを達観したような物言いは誰のものなのか。まるで魂だけを()げ替えた別人にしか見えない。これを多重人格という言葉で片づけられたらどれほどマシなことか。

 清濁併せ呑む交渉術。人を容易く支配するやり口。そして何より人格に関わらず与えられた情報と状況をもとに最善の振る舞いができる才能。

 その様は正に人を、舞台を思い通りに支配する傀儡師だ。

 

「ハハハハハハハハハハッ!」

 

 天井を仰いだ時、自分が笑っていることに気が付いた。なるほど確かに道化と呼ぶべきかもしれない。まさか自分を笑わせてくれるとは。

 

「下らん。お前たちは道化の皮を被った化物だよ」

 

 自身に仕える従者を思い浮かべて、吐き捨てた。

 あんな怪物がおおよそ十人いるのだ。連中の手綱を自分たちが握っているのだと考えると笑えもしなくなる。猟犬がいつこちらに牙をむくか、気が気でならない。

 そもそも国家公認雀士などという肩書は表において何の意味も持たないのだ。あくまでそれらしく聞こえるための体裁を求めた呼称なのだから。表ではそう呼ぶというだけで真の呼び名は他にある。

 シルク・ドゥ・ルージュ、クリムゾン・サーカス。

 言語こそ違えど示す意味は変わらない。

 すなわち紅蓮のサーカス。

 それこそ日本麻雀協会(JMA)の誇る最終兵器。裏雀士に対する抑止力の名前だ。

 

 

 




 龍門渕の屋敷と県予選会場の位置関係については適当です。というのも、県予選会場のモデルとなる建物が東京の武蔵野にあるので、もし忠実に再現しようものなら茅ヶ崎の移動時間、費用、距離がえらいことになるからです。
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