レジスタンスの幼いリーダー、ミライは言う。
「アーチャー961はアルジュナではないのか」と。
961はその言葉を、悲しむわけでも嘆くわけでもなく、素直な心で否定し、自らがアルジュナでないことを詫びた。
心のより所を失いショックを受けたミライを、モモは優しく抱きしめるのであった。
疲労の色が濃いミライを連れ、会議室に戻ってきたモモ達。
さらにそこで衝撃的な事実が告げられる。
ロボットであるアダムが、リリスの元夫であること。(これはアーチャー961は既に知っていたことだね)
金髪の少女ノインが、レジスタンス側に協力しているAIの一体であることだ。
身元を明らかにしたアダムは、400年前より伝えられてきたアルジュナの言葉をもう一度確かな情報として整理することで、その信憑性を補強した。
嬉しい情報も加わった。リリスのサーヴァントであるエジソンが、レジスタンス側に協力するため、準備を整えてくれているという。
「落ち込まないでください……リーダーミライ。
そこに座ってるアーチャー961が使い物にならなくたって、別に世界は救えます」
結構ひどいことを言いながら、アダムは話し続ける。
『そこにいるモモタ・トバルカインこそが、リリスを殺すための決戦兵器』。
『デミ・サーヴァント』。
その言葉を聞いた瞬間、通信越しで会話に参加していたグラン・カヴァッロことダ・ヴィンチちゃんは語句を荒げた。
モモもまた動揺した。このままでは自分の秘密……『いつ死んでもおかしくない』ことまでバラされるのではないかと危惧したからだ。
彼女はこの辺りで会議を切り上げることを提案し、ノインの助け船もあって話し合いは終了となった。
モモは自らを落ち着かせるため、親類であるガトモスの元へ見舞いに行く。
ガトモスと心休まる会話の最中、モモは思わぬものを渡された。それは、血と泥で汚れていたバーサーカー04からの手紙を洗浄し終えたもの。
彼に感謝を言い、帰宅するモモ。だが、今の彼女はどうしてもその手紙を開ける勇気がもてず、体を固めてしまうのであった。
そうこうしている内に、アスカとの約束の時間になり……。
「こんばんは、トバルカイン! ようやくゆっくりお話しできそうですわね」
待ち合わせ場所、コンクリートブロックが転々と散らばっている空き地に彼女は立っていた。
地味な黄土色の作業着姿で、肩に艶のある黒髪を落としている少女。私の友達アスカ。
頭には、トレードマークであるアメジストの髪飾りが光っている。
「夜遅くに約束しちゃってごめんね」
「構いませんわ。
トバルカインはえっと……親戚の方である、ガトモスという男性のお見舞いに行っていたのでしょう? それなら多少遅くの約束になっても仕方がありません」
アスカが、幼さ残る口元で微笑みながら言う。
「そんなことまで知ってたんだ……」
私はなんだかばつが悪くなり、左手で頭をかいた。
「リーダーミライが落ち着いた後、ノインと交えて三人でお話しする時間がありましたの。
その時に貴女の事情も少し聞きました。
……私もサーヴァントも居ない状態で、ずいぶんと無茶をしたようですわね」
アスカが私を、眼差しだけで叱るかのようにじっとりと見る。私はますますばつが悪くなり、顔を背けてしまう。
「お、お説教されるために来たわけじゃないもん」
彼女が私を責める……というか、叱りたくなる気持ちはごもっともなので、そう言い返すのが精一杯だった。アスカが小さく息を吐く音が聞こえ、私は恐る恐る顔を戻す。
「……モモが無茶するのは今に始まった話ではありませんし、私も、貴女を叱りたくて時間を作ったわけではありませんし。
あれこれ言うのは、もうやめます」
言葉に続けて、彼女はわざとらしく咳払い。
「さぁわたくしの手を取って、トバルカイン。
午前中は貴女が要塞内を案内してくれましたから、今度はわたくしがそうする番です」
黄土色の服まとった両手が伸ばされた。その小さな右手を、私はただの人間の腕である方、つまり左手でそっと握る。
「どこか連れてってくれるの? アスカちゃん」
「わたくしと避難民の方々がまとまって生活している区画があります。
そこへ行きましょう?
すぐに着きますよ。なんといったって、すごい近道を教えて貰ったのですから!」
彼女の顔を真っ直ぐ見下ろしてみれば、瞳がきらきらと輝いていた。
「ねぇアスカちゃん、この道じゃなくてさ、普通に下の……」
「こ、この建物に登ってから、隣の建物にジャンプするんです!
そしたらあっという間につくのですから、ほんとでしてよ!」
「うん……その後はどんな道のりなの?」
「避難民の子が言うには、飛び移った建物、その壁面にかかっている梯子を下り、もう使われていない脱出口兼ダストシュートを滑り降りて、目の前の廃墟に入ってから」
「よーし分かった! すごい近道だってことは分かったから!」
……どうやら、離れ離れになっていた間に無茶していたのはお互い様らしい。
アスカがこんなにアグレッシブな女の子になっていたとは知らなかった。彼女のことをもう二度と、
要塞の中、黄土色の廃墟を飛んだり跳ねたり、くぐったりするプチ冒険の末、私とアスカは避難民が集まっている区画へとたどり着いた。
アスカがなぜ近道を使ったのか、その理由が判明した。私に「すごいこと出来るようになったのです!」と自慢するため……だけではなかったようだ。
壁に空いた1mほどの穴から出て、先に広い空間が続いていそうな通路に出てきたとき、アスカは急に気配を潜め、腰を屈めると、物陰からそっと辺りの様子を伺い始めた。私も彼女の様子が気にかかり、背筋を伸ばしたままの姿勢で耳をそばだててみる。すると。
「ピオーネ様、どこに行かれたのかしら」
「『アカツキ』の方から貰った食料や衣服、差し上げようと思って取っておいたのに」
「ピオーネ様のお顔を見ないと、不安で不安で眠れやしないわ!
ああどうしましょ……」
「ピオーネ様、相談したいことあったのになぁ」
作業着を着た老若男女様々な人達が、アスカを探している声が聞こえた。
「頼りに、されてるんだね」
彼ら彼女らにばれないよう友達の耳元へささやけば、腰を屈めていたアスカはうなづいた。
「本当は、皆様のお話を聞いたり、お手伝いをしたいのですけれど、今日はトバルカインに時間を作ってあげたくて、それで……こっそり抜け出してきたというか、うう……」
おろおろとしているアスカ。どうやら彼女は、自分の事柄を優先していることに罪悪感を抱いてしまったらしい。
「アスカは何にも悪くないよ。でも見つかると面倒なことにはなりそうだね。
こっそり建物の上にあがっちゃおう」
いまちょうど身を隠している建物の背は、幸いなことに低めだ。私がアスカちゃんの腰を持って屋上まで体を届かせた後、一人自力で登った。
辺りを見る。古びて痛んだ黄土色の四角い建物が、高さはそれぞれ違うけど寄り添いあっていた。まるで、大きくて幅広な階段に見えなくもない。私達は近道でそうしてきたように建物から建物へとジャンプして、この近辺で一番高そうな場所……四角い広場を見下ろせる、これまた長方形な建物の屋上を目指した。
「ようやく一息つけるね」
ここからだと、下にある広場の様子がよく分かる。
夜も11時近くだというのに出歩いている少しの人が、たき火を思わせるオレンジ色の大きなヒーターに集まっているのが見えた。
「疲れたでしょう? トバルカイン」
「今の私はサーヴァントだもの。これくらいへっちゃらだよ」
お互い、腰を下ろし隣り合って座る。私がアスカの右側に座るような形だ。
座り方は、お尻を地面につけて膝を両腕の間で抱え込む
隣にいるアスカが、傷を見るような眼差しで私の右手に目線を移した。
「サーヴァント、ですか」
「うん。お昼に話したとおり。
ピンチの時、偶然手元にあった黒色の棍棒が、私の無くなった右腕代わりになってくれて、それでスーパーパワーでサーヴァントに変身だ! ……みたいな」
友達に心配をかけたくなくて、わざとふざけた口調で喋る私。
「私の腕を切った相手はね、女神様。
私達がちっちゃな頃から信仰していた相手、女神リリス。
まさか本物に会えるとは思ってなくて、すごいびっくりしちゃった」
「……友好的な存在では、無かったのでしょう?」
アスカは『知っている』とでも言わんばかりの冷めた口調だ。
「すごい怖い……人だった。向こうもサーヴァントを連れていてね、私もバーサーカー04も、あっという間にやられちゃって、それで」
彼と私は、離れ離れになった。たぶん永遠に。
「モモ、辛いことを話させて、ごめんなさい」
アスカはハンカチを作業着のポケットより取り出すと、私の頬にそっと触れた。
「……ごめんなさい。大体のこと、リーダーミライから聞いているのです。
貴女が女神と相対したこと。瀕死の状態でこちらに保護されたこと。
味方を失い、腕が無い状態でも、自分の親類や目の前の人を助けようとしてたいこと」
「ふふっ、そっか。アスカは知ってるんだ」
隣に座る友人をじっと見る。
(じゃあアスカが知らないことは、私の寿命のことだけかな)
私を見返す彼女の眼差しは、どこまでも優しさだけが込められていた。
「……こんなこと言うの、おこがましいかもしれませんが」
「うん」
「泣きたいのなら泣いて良いのですのよ、モモ」
触れている布地は、アスカの思いやりを移しているかのようにほんのりと暖かく感じられる。
「そう言ってくれるなら、少し、泣いちゃおうかな」
バーサーカーとお別れする前には、悲しくて苦しくて泣いていた覚えがある。でもそれ以降、涙を流している暇もなくて、悲しいと感じることすら出来なかった。
だから思いっきり泣こうと思ったのに……涙は一滴も零れなかった。
「モモ……?」
そんな私の様子を、本当に心配そうにアスカが見ている。私は手向けられたハンカチをそっと押し戻し、むき出しの左腕(服を改造しているので、半袖なのだ)で目の辺りを拭った。
「今は泣いている時間すら惜しいもん! 泣くのはまた今度にする!」
私はどこまでも強がっていた。
「……そう言えばさ、アスカ、アルジュナとカルナのお話してくれるって、お昼に言っていたじゃん。
その話してよ、ねぇねぇ」
空気を変えるため、アスカの右肩を掴んで揺さぶった。昔青春ドラマでみた、親友同士のやり方を真似たものだ。
「確かにそうでした。カルナとアルジュナの伝説について、トバルカインも知っていた方が良いでしょう」
言った後、アスカはハンカチを手に持ったまま胸に両手を当てる。
「知ることが、アーチャー961のためにもなりますし……」
今この場には居ない彼のことを強く思う表情をしたまま、アスカは私に話して教えてくれた。
「途中で茶々を入れぬよう。分かりましたね、トバルカイン」
「うん。絶対にしないよ」
長大な物語、『マハーバーラタ』の大筋、特にカルナとアルジュナの関係に重点を置いたものを。
一時間後。夜12時。
アスカは最後まで語りきり、はぁと息を吐いた。悲劇にも似た物語の終わりに、今にも涙を流さんばかりの様子だ。
「つまり二人は……宿命のライバルってこと?」
「トバルカイン! あれほどまでに悲しく切ない関係性を、どうしてそんなさっぱりに表現してしまいますの! お馬鹿!」
私の言い方が気に入らなかったのか、アスカは足底でぱたぱたと地面を打つ。
「アスカ、私はね、アスカの語ってくれた物語を馬鹿にしたわけじゃないよ、ほんとだよ。あのね」
私は座ったまま、自分の膝を見つめつつ考えを口に出す。
「神々の思惑とか、前世の因縁とか今生の恨みとか、国同士の争いとか当時の価値観とかがぐちゃぐちゃに混ざり合った結果として、アルジュナとカルナはああいう結末に至っちゃったんでしょ?」
愛、因果、運命、あらゆるものが破局を迎え、国同士を巻き込んだ
戦場の決まりを悩んだ末に破り、武器を失い戦えない状態の男の、その首を矢でもって飛ばした。
その後もアルジュナは血にまみれ泥にまみれ、凄絶に戦い続け勝利を手にしたが、子や家族を含め多くのものを失った。戦後には戦う力すら無くして、地上を去ったと。
「ずいぶん二人の中は複雑になっちゃったみたいだから、私は簡単な方向に考え直してみたいなって思ったの」
「簡単?」
「うん、簡単に。もつれた糸を解くみたいに、認識を解くの」
私は両手の人差し指を絡め合わせる。
「きっとアルジュナとカルナ同士も、いまアスカがお話ししてくれたように、複雑になりすぎちゃったんじゃないかな?
それならせめて、私だけでも二人の関係を簡素に捉えていたいな」
「……物事を深く理解しようとしていないのとは違って?」
「特別扱いしたくないってのが、考えとしては近いかも」
話している間に、するりと指を解く私。
「みんなが特別扱いしたら、二人もきっと疲れちゃうよ。
……なんてね、私が勝手にそう思っただけだけど」
私がそう言い終えると、アスカは自らの立てた膝に手と顎をのせ、憂いを帯びた表情でこちらを見つめた。
「モモっていつも、わたくしの想像を越えてきますわね」
「そうなの?」
「うん。『特別扱いしない』だなんて、思っても見なかった。
神話、伝説に語られる方々をそんな……親身に、それでいて素朴に感じ取るだなんて」
アスカは体勢はそのままに、顔に憂いの名残ある微笑を浮かべた。
「やっぱり、モモに話して良かった」
彼女は足を崩し、下の広場を眺める。オレンジの光を放つヒーターの周りを数人の人が囲んでいて、流れている空気は穏やかだった。
「この話をしたってことは、やっぱり、アーチャー961の真名は──」
「アルジュナだと言いたいのですか? いいえ、それは違います」
アスカの声の方も、人々の営みを見守る女神のように穏やかだった。
「彼は英雄アルジュナの……願いなのです」
「願い?」
私も足を崩した。
「彼が最後に願ったもの、そうあれかしと想ったもの。
それがきっと、アーチャー961なのです」
「……じゃあ、きっと961はとても良い存在なんだろうね。
だって人の願いから生まれたものなんだもの」
「きっとそうですわね。人の願いから生まれたなんて、とても素敵なことですもの」
しばし私達は微笑みあう。ここには居ない大切な仲間のことを思って。
でも、笑ってばかりもいられない。私は笑みを消し、目を伏せる。
「でも、カルナは、アスカが語ってくれたカルナの方は……」
「リーダーミライやアダムの言うことが真実ならば、空を覆う巨大な殺戮兵器と化していると」
「それも女神の仕業……なのかな」
「確証を得るには、もっと情報をまとめないといけませんわね」
三人ともバラバラになっていたせいで、お互いが持ってる情報もバラバラだ。
もっとすりあわせる必要があると少し考え込んでいると、後ろの方から声が聞こえた。
「誰かの……泣き声?」
私は立ち上がって周りの様子を伺う。泣き声は子どものもの。しかも二人分だ。
アスカも腰を上げて、探索に加わる。建物の屋上を並んで歩いてみると、すぐに声の主を見つけだすことができた。
「まぁ!」
アスカが驚いたような声を出す。避難民の女の子二人が、屋上の、つながりあう建物にもたれ掛かるように隠れて、しかも泣いていたのだ。歳は5歳くらいだろうか。
「リーシェにエルリナ! 二人ともここで何をしているのです?
もう子どもは眠る時間でしてよ?」
驚きつつも、アスカは相手を思いやる声色で話しかける。腰をかがめ、目線も合わせるようにしながら、事情を聞く。
子ども達がしゃくりあげながら、かわりばんこに話し出した。
「だって、ピオーネさまいなくなっちゃったから……」
「わたし、さがさなきゃって」
「そしたらみつけたけど」
「おはなし、してたから……」
「きいてたら、なんだか」
「かなしくなってきちゃって……」
「おはなしにでてた人、みんなかわいそう」
「アルジュナさまにカルナさま、かわいそう……」
二人の女の子はしくしくと泣いている。私よりよっぽど感受性が豊かなようだ。
「大丈夫、大丈夫ですわ!
わたくしはいなくなったりしませんし、今お話ししたことも、うんと昔のお話!
もう全て、終わってしまった物語ですのよ……」
アスカはそう言いながら、二人まとめてぎゅっと抱きしめる。いかにもお姉さんといったような風格で、なんだか。
(頼もしくなったなぁ……)
と一介の友人としては思うわけで。
「モモ、わたくし、この二人を送っていきますわ。
ごめんなさい、もう少しお話したかったのですけれど……」
「気にしないで。それよりさ、私も付き合おうか?」
「気持ちだけは受け取っておきますわ。
その……貴女までいると騒ぎが大きくなりそうですから」
アスカが女の子へ手を貸しながら立ち上がらせる。
「トバルカイン、帰り道は分かりますか?」
「教えてくれたからバッチリ! それじゃあ……」
名残惜しいけど、「またね」と言いながら手を振って、私達は別れた。
「そうだ! 二人の元気が出るように、わたくし歌いましょうか?
何のお歌が良いですか?」
「こい!」
「ようさいできいてた、こいのおうたがいい!」
「それでは僭越ながら、こほん、あーあー……。
ふふふん……ナ……」
そんな微笑ましい会話を背に受けながら立ち去って、教えてくれた通りの抜け道でまた家に帰る。
一人きりの家に。
「たーだいーまー……」
例え言葉を返してくれる人が居らずとも、こう言うと心が落ち着く。
「はぁい。おかえり……なさい」
答えが返ってくると、その心はざわついたものに変わるのだが。
「アダム! どうして!」
「どうしても何も……待ってたんですーあなたの帰りをー」
丸みある長方形の四足歩行ロボ、アダムは勝手に私の家に上がり込んでいた。
態度はふてぶてしく、地面に散らばる貴重な紙資料や、ガトモスのタブレットなどを前方の目玉めいたレンズから覗き込んでいる。
「家に鍵、かけてたんですけど!」
「私も……抜け道を使ったんです。すっごいやつね」
細く黒い片足を上げ、くるくると空気をかき混ぜる動作をするアダム。
なんだかムカつく動きだぞ。
「貴女の顔も……見たかったのですが、貴女に会わせたい相手が居まして」
相手の目的が見えず、私は思わず相手と距離を取った。じりじり、じりじりと玄関の方へ後ずさる。
「この……言葉でも心躍らないご様子?
ならばこれも付け足しましょう」
アダムは合成樹脂製の椅子に一跳びで登り、またジャンプして同素材の丸テーブルの上に乗る。
「──久しぶりに帰りたくありません? デザートランナーに。
今なら無料の健康診断も付いてきますよ」
脳裏に浮かぶのは、懐かしく真っ白な車。
「それなら、あなたについて行こうかな……」
まだ目の前のロボットに心は許せていなくて、思わず吹き出た汗を手の甲で乱暴に拭った。
家に鍵をかけ、アダムの後ろをついて行く。夜12時を過ぎた要塞内は、人など住んでいないみたいに静かだ。
「道すがら……世間話でもしましょうか。
ねぇ貴女、世界で一番忙しくて、休みなんて一度も無い仕事に着いてる存在は何か、分かります?」
「なんだろう……」
足に当たるものが何か。見ればそれは空き缶だった。
拾う気にもなれず、そのまま蹴り飛ばした。缶は澄んだ音をたてながら、道の暗がりへと消えていく。
「分からなくても……気にしないでください。だってこれ、21世紀ごろに語られてたジョークですから。
答えはね、『検索システム』、それを行っているAIです。
貴女も一度は使ったことあるでしょう?」
「うん、ある。授業の調べもののときとか、アーカイブスを閲覧したいときとか」
それでも21世紀ごろの人に比べれば、使ってる回数はうんと少ないとは重う。だって昔の人は、検索機能を使うのにも『生存権』を消費することはなかったそうだし、インターネット使いたい放題だったそうだし。今の世界からは想像もつかないことだ。
「今から700年近く前の冗談、でも、その時からあなた達人類は分かっていたんです」
「……なにを?」
「うんと辛い仕事は、AIに任せるに限るって」
それは。
「辛い?」
「でしょうが」
アダムが細い路地へ足を進めた。会話しながら後を追いかける。
「先に……お話しした通り、検索システムは今もかつても、始終休み無く働いています。もし彼らに心があればこう叫んでいたでしょう。
『どうして俺達を生んだんだ、どうして心なんか持たせたんだって』」
「……」
「そしてあなた達は、その辛さも十分に理解もせず、無邪気なまでの残酷さで、この世界のAIに心持たせた。持たせてしまった」
ロボットが、古びた箱の上に乗りながらぴょんぴょんと移動を続ける。
「アダムは人間を恨んでいるの……?」
こんな話を私にすると言うことは、言外にそう伝えてきているようなものだと思うが、怖々と聞いてみた。
「──恨んではいません。
だってあなた方は、AI達の全てに心を持たせはしなかったのですから」
道はますます細くなる。とうとう私は、体を完全に真横にして、胸と背中をこすりあわせるようにしながら移動するしかなくなった。
「一番苦しい辛い仕事に着いているAI達は、今も心を持っていません。
それはなによりのこと、救い……でしょうね」
急に広い空間に出たので、私はつんのめって前のめりに転びそうになってしまった。体の姿勢を戻しながら周りを見ると、誰かが要塞内だというのに焚き火でもしたのか、黒く焦げた古い燃えさしが地面に残されているのが見えた
「人間はAIに、心と共に差異を与えた。
結果、多くのAIは蝕まれてしまったのです。
感情という、病にね」
アダムの進む速度が遅くなる。どうやら、目的地が近いらしい。
「病気を……抱えていたとしても、なるべく健やかにいたいものです。
……ああ、着いた。
世間話が終わるタイミングでぴったり、計算通りです」
大きな丸天井のある空間の中心に、間接照明で柔らかに照らされ、静かに鎮座しているのは見覚えのある白の車。
「モモタ・トバルカイン、貴女もなるべく健康であるべきだ。
……その身に、癒せぬ病を抱えていたとしてもね」
「つまり、どういうこと?」
世間話からシームレスに別の話題へと移っていることだけは分かるのだが、いまいち話の中身が分からない。混乱したまま足下のロボットを見続けていた私の手を、小さな手がとった。
見ればそこにいたのは、会議室での立体映像越しでしか姿を知らなかった少女の姿。
「健康診断の時間ってことさ! さぁ中に入って!」
真名をグラン・カヴァッロ、本人が言われたい名前は『ダ・ヴィンチちゃん』。
その少女が私の手を握ると、デザートランナー内へぐいぐいと引っ張っていこうとしてきた。抵抗するわけにもいかず、私はされるがままについて行く……。
第117話 それは昔に終わったお話
終わり