「『愛』って何? 『運命』って何?」
朝一番にモモはアスカへそう訪ねたのであったが、乙女2人がいくら考え込んでも答えは出ない。もやもやを抱えながらも、一旦忘れることにするモモ。
デザートランナー内の運転席へモモとアスカは向かうと、サーヴァント2体が何事か悩んでいる様子だった。
助けを求めている都市の無線を受信したが、罠の可能性が高い……という話らしい。どうするべきか迷う4人の元へ、少女の声が届く。
『ごちゃごちゃ言わずに来なよ、もう……』
その言葉の後、地面に突然穴があき、車体が落下。モモは衝撃で気絶してしまう。
──モモが目を覚ました場所は、木造の診療所だった。窓からは広大な海が見え、植物が生い茂っている。
スローネと名乗る初老の医師にもてなされ、魚料理に舌鼓を打つモモ。しかし彼女は気づいてもいた。海も植物も魚料理も、本来はこの世界に無いものだと。
食事を食べ終えたモモへ、スローネは告げる。「私の村、『実験都市711』を案内する」、「私は人類を応援する都市運営システム。個体名はフュンフ……じゃなくて、スローネ・エーテルウェルという」
……仲間とはぐれたモモの前に現れた親切そうな人物は、都市と人間を管理するAIだったのだ。
「スローネせんせー、こんにちはー!」
「はーい、こんにちは!」
バスケットを腕に抱えたAIと私は、並んで歩いている。
地面は敷き詰められた石畳、道以外の場所には木々が生い茂り、風は爽やかだ。
白い石で出来た建物がぽつぽつとあり、目線を遠くへ向ければ、私が目を覚ました建物から見えた、エメラルドの海が広がっている。
昔見た、南イタリアを舞台にした明るい映画を思い出した。
「スローネ先生! 朝取れたばかりのうまい貝がありますよ! 後で酒と一緒に届けましょうか!」
「いやー、遠慮しておくよ」
……人間が、ごく当たり前のようにいた。
子どもも大人も通りを歩いていて、通常の地下都市で支給される画一的なシンプルな服ではなく、素材も色も様々な、薄い布地の服を着ている。
だが、私が一番恐怖を覚えたのは。
「せんせ!」
「スローネ先生!」
上位存在として人間を庇護し、無慈悲に管理しているAIが、人のように振る舞い、人と交流していたことである。
「こっちの道に曲がるよ、トバルカイン」
彼の案内に従い、石畳の敷かれた薄暗い裏路地に入る。
周りに人の気配はない。私は息を深く吸ってから、彼に質問をぶつけた。
「彼らは、貴方が人ではないという事を知っているの?」
スローネは足を止めると、愛嬌ある丸眼鏡の向こう側から、青い瞳でこちらを見た。
「知らないよ。私が言っていないからね」
何も思っていないかのように軽く言い放つと、言葉を続ける。
「でも……真実知るのが人の幸せとは直結しないし」
そして、歩みを止めている私を無視してすたすた歩き出した。
「到着だ。
……アドリアー! 食べ終わったご飯の器を持ってきたよ!」
突き当たりの、海を背にした家のドアをスローネはノックする。
すらりとした体の、30代ほどの活発そうな赤い髪の女性が扉を開けて出てくると、バスケットを受け取った。
「あら、昼行灯なスローネ先生にしては素早いですこと」
「私だって返すべき物があれば、ぼんやりせずに直ぐ行動するさ」
「でしたら、
「えっと、どこにやったっけかなー……」
和やかな会話が繰り広げられている。
「先生の後ろにいるのが噂の女の子ね、へぇ……」
アドリアと呼ばれた彼女が私を見つける。
そして、赤いまつげをばしばし踊らせながら、チャーミングなウインクをしてくれた。
「貴女が食べたお昼ご飯ね、私が作ったのよ。美味しかった?」
「あっ、はい、とても……」
素敵な彼女の、裏の無さそうな言葉に、私は素直に反応してしまった。
「アドリア、数日の間、この子を頼めるかな」
「いいわよ!」
AIスローネの頼み事にアドリアは快い返事をして、ずいっと家から進み出ると、私の手を取った。
「私アドリア……って、流石に分かるわよね。貴女のお名前は?」
「モモタ・トバルカインです……えっと、アドリアさん」
何も事情を知らない人に対して、私はとげとげしく振る舞えず、質問に答えてしまう。
「モモちゃんって呼ぶわね。中に入って、家族に紹介するから」
手を引かれて、ひんやりとした室内へ連れて行かれる。
「……仲間に再会したければ、良い子にしていて欲しいな、モモタ・トバルカイン」
スローネが私に言い残したそれは、人々の交流の際には見せない、AIらしい平たい声だった。
「旦那はまだ仕事……どーせ酒場でみんなと飲んでるんだろうけど」
歩いてきた道とは違い、室内は木製の床だった。
「私の子ども、3人いるから紹介するわね!
──お客様だよー! 全員集合ー!」
アドリアさんが大きな声で号令をかけると、小さな足音がいくつも駆け寄ってくる。
絨毯の敷かれたリビングに、年齢のバラバラな幼い子どもが集合した。
……なぜ、みんなボーダー柄の半袖を着ているのだろう。
「上から順に自己紹介をお願いします」
母親の軽快な指示と共に、一番体が大きい赤髪の男の子が手を挙げる。
「おれフェデリコ! 今年で7歳!」
次に赤い髪を横にまとめた女の子が声をあげる。
「あたしルーチェ、5さいなの」
お兄さんのフェデリコとお姉さんのルーチェが、よだれかけをつけた黒髪の男の子の手を持ち、万歳させる。
「こいつが一番下のジーノ、まだ1歳なんだぜ」
「お姉ちゃんのお名前は?」
立て続けの質問と、至近距離に立つ子ども達の存在に、私は面食らっていた。
子どもとこんなに直ぐ側で触れ合う経験など、ほとんどなかったからだ。
「モモちゃん……です」
制服のスカートを握りしめながら、私は名乗る。
「モモちゃんだー!」
「モモちゃん、かわいー!」
「うー」
私を中心に、兄妹であるフェデリコとルーチェがぐるぐる回り始める。
その様子を見て、アドリアさんは満足そうに頷いた。
「仲良くなれそうで良かったわ!
洗い物してくるから、少しの間ちび達の面倒見ていてねー!」
「あの! その! ええ……」
私が大いに混乱している間に、彼女は赤い髪を揺らしながら別室に移動してしまう。
「やっぱりボール遊びだよな! な!」
「えほん! えほんよんで! モモちゃん!」
「まっ! まっ!」
2人が私の右と左の手を引っ張り、幼い赤ちゃん……ジーノが私を支えに掴まり立ちする。
(……みんな、無事でいますように)
私はどこかにいる仲間の安全を祈りながら、子ども達に揉まれていった。
「あらら……大丈夫?」
1時間後。
「ううう……」
私は満身創痍でリビングに転がっていた。
周りには、絨毯の上で寝息を立てている子ども達3人の姿。
「遊び疲れて全員爆睡ね。
でもちょうど良いわ、夕食まで寝かせておきましょう」
アドリアさんは散らばっている積み木やボールを籠に片付け、1人1人に薄い毛布をかけていく。
「モモちゃんもお昼寝したら? 何かあったら起こしてあげるし」
「……はい」
お言葉に甘え、毛布を受け取った。
クッションを枕にし、疲労感のある体を絨毯の上に横たえる。
ふと、自分の手の甲が目に入った。
「令呪……」
私は手の甲にある、1画減ったそれを見つめる。
マスターである証明、刻まれた印。
動くことのない時計の長針と短針が、皮膚の上には依然ある。
(あと2回しか使えない、判断ミスは出来ない)
そういえば、アスカの令呪はどこにあるのだろう。
(場所知らないなぁ……)
と、思ってもみたり。
(みんな……バーサーカー、どうしてるかな……)
不安を感じつつも、私は眠気に勝てず、目を閉じた。
「……きこえるんだ」
湿度の高い空気が、肌にまとわりつく。周りには濃い緑の木々と、地面を覆う草花。
私はいつの間にか見知らぬ場所にいた。
「なにがだい?」
つぎはぎだらけの粗末な薄い服に身を包んだ、妙齢の黒髪の女性が、心配そうに誰かへ声をかけた。
その相手は、草の間にしゃがみこみ、両耳を手で塞いでいる幼い少年。
着ている物は女性と同じく粗末なもの。
歳は5つ頃に見え、その顔立ちは。
(バーサーカー?!)
黒と見紛うばかりの深い緑の瞳は、戦っていない時の彼と同じ色だった。
顔半分には見慣れた木製の仮面はなく、あどけない大きな両の目をうろうろと動かしている。
彼の目線の通る道に私は立っていたが、彼が気にする素振りはなかった。
瞳にも映っていない……今の私は透明人間のようなものなのだろうか。
「……赤ん坊の泣き声だよ、母さま」
絞り出された声は震え、怯えと不安が混ざっている。
「またかい、お前は本当に……」
女性は息を吐くと、呆れたように後頭部をかいた。
「そんなに気になるなら、またお寺様にお祈りにいくかね……」
地面に座り込みそうになっている幼い姿のバーサーカーを、母親である女性は抱え起こすと、手を取ってしゃんと立たせた。
「おれの頭の中でさ、赤ん坊がずーっと泣いてるんだ。ぎゃあぎゃあって」
「はいはい、飯食って寝れば治るさ。
それでも治んなきゃ……そうだねぇ、薬師如来様にでもお祈りするかねぇ」
母に手を握られている彼が立ち止まり、後ろを振り向いた。
その目には、私がはっきりと映っている。
「──聞こえないのかな、おれ以外には」
「うぇぇぇん、えーん……」
赤子の、泣き声が聞こえる。
「モモちゃん、ごはん!」
「ジーノも『モモちゃんおきて』っていってるよ!」
遊び疲れて眠っていたはずの2人の子どもは、すっかり元気になって起き上がり、眠っていた私を揺さぶっていた。
「モモちゃん、お夕食の準備手伝ってー」
別の部屋からアドリアさんの明るい声が聞こえて、私は両手を床につけて体を起こした。
「ごっはん! ごっはん!」
オレンジの灯りで照らされている食堂へ足を運ぶ。
7歳のフェデリコは、背伸びしてみんなの分のスプーンをテーブルに並べ、5歳の女の子のルーチェは、まだ赤ちゃんのジーノに、新しいよだれかけをつけてあげていた。
「モモちゃん、熱いから気をつけてねー」
アドリアさんがテーブルの真ん中に畳んだ布を置き、湯気を立てている大きなフライパンをその上にのせる。
「野菜入りの平たいオムレツよー。深く考えずに6等分に切っちゃって」
刃の尖っていないナイフを渡された。私にそう頼んだ彼女は、次の料理を取りにさっとキッチンへ戻ってしまう。
「うまく……出来るかなぁ……」
ぼやきながら、初めてやることだから慎重に、大きさに偏りがないよう切りわけていく。
断面をちらりと見ると、タマネギやパプリカ、ベーコンなどが細かく刻まれて、ぎっしりと入っているのが分かった。野菜と卵の甘い香りが食堂に漂う。
「スープですよ、熱いからお皿さわっちゃだめよー」
オムレツを初めとして、スープ、パンと、次々料理が出てきて、あっという間にテーブルの上は華やかになった。
「貴方、お帰りなさい」
食事に使うフォークやナイフを私が並べていると、黒い髪を薄い丸刈りにした、大柄の男性が食堂に入ってきた。
40代くらいか、白い半袖シャツと長ズボン、肌はよく焼けていて、黒い眼差しはたれ目だ。
「ただいま。ん? アドリア、その子は……」
「スローネ先生に頼まれて預かっているモモちゃんよ。
モモちゃん! この人は私の旦那さん、名前はバルド。一番下のちびのジーノに似てるでしょ?」
「お世話になっています、モモちゃんです……」
私は食事を並べていた手を一旦止めて、彼の方へ体を向け、ぺこりと挨拶をした。
バルドは革製の鞄を壁にかけると、私を少しだけ見て、テーブル直ぐ横の椅子に座った。
「細かい話は後にして、ご飯にしよう。腹減った」
「父ちゃんおかえりー」
3人の子どもが笑い声を上げながら、父親の下へ集まっていく。
その幸せな光景を、私はじっと眺めていた。
夕食はとても素晴らしいものだった。
ふわふわのパンに、野菜たっぷりのオムレツ、琥珀色の透き通ったスープ。
両親の間で交わされる穏やかな会話、子ども達の笑顔。
──私はまるで、幸福ばかりを映す、ファミリー映画の中に迷い込んでしまったようで、自らの場違いさにもじもじと身じろぎをした。
「私はちび達をお風呂に入れてくるから、モモちゃんは休んでてー」
アドリアさんと私の2人で食卓の片付けを行った後、彼女はそう言うと、着替えやタオルと共に浴室へ行ってしまった。
母親の周りを、歓声をあげて子ども達が走り回る。
「……」
それを見送り、無言で薄暗いリビングのソファーに座っていると、アドリアさんの夫、バルドさんが、大きな体の肩を左右に揺らしながら、のっしのっしと歩いてきた。
彼と、目があう。
「バルコニーで」
「えっ?」
「バルコニーで話さないか」
突然の提案に、私は答えに迷い、沈黙してしまった。
続くバルドさんの言葉。
「おまえさん……外の世界から、来たんだろう?」
正体を見抜かれた驚きで、心臓がどくんと跳ねる。
「……俺もそうなんだ、少し話をしよう」
落ち着いた声で話す彼に案内されて、リビングから廊下へ歩き、石造りのバルコニーに出た。
「そこの椅子に座るといい」
崖から突き出すようにあるその場所は、天高く登った月明かりに照らされ、白く輝いていた。
顔を上げれば、どこまでも続くような夜の海が見える。穏やかな波の打ち寄せる音が、世界を包んでいた。
バルドさんは海側に置いてある椅子にどっしりと腰掛けると、地平線の彼方へ目線を向けた。
私は、石のアーチの出入り口側にある椅子に座る。
「……美しい村だろう」
「はい」
私は心からそう思いながら、頷いた。
村の建物の灯りが、1つ、また1つと消えて、住民達は眠りに落ちていく。
「俺もアドリアも、この都市の外から来たんだ」
突然語られた真実に、私は息をするのを忘れてしまいそうになった。
「理由はあのふざけた聖杯戦争さ……おまえさんも、そうじゃないのかね」
「……半分、そうです」
我ながら煮え切らない返事だった。
私の返事を聞き、バルドさんはその大きな体を身じろぎさせた。
「何でも叶う聖杯の奪い合い、AI同士の派閥争い、女神の望みだとか、なんとか。
そんなくだらない理由がスピーカーから流れた後、俺の故郷の地下都市は火の海になった。
俺は自由があると信じて、その時は名前も知らなかったアドリアの手を取って逃げた……。
しかし逃げた後が、本当に大変だったがね……」
家の中から、湯上がりではしゃぐ子ども達の声が聞こえる。
「外は人間の生きていける世界じゃなかった、訳の分からない機械の怪物や、狂ったサーヴァントに襲われた……。
何人も喰われたよ、怪我と病気で死んだ奴だっていた。
水も食い物も次第に無くなって、避難民同士で争いが起きようとしていた。
……そんな時だったんだ、この都市が保護を持ちかけてくれたのは」
夜風に吹かれ、植えられた草花が揺れる。
「ここは、特別な目的のために作られた『実験都市』……だそうだ。
海の生き物と、海辺での人間の生活や文化を保管するための場所。
それと、人間が他の星に向かう時まで住む箱庭で、地球と同じ様に生きていけるかどうかのデータ収集とも、AIは言っていたな。
AIに提出しなければいけない『生存権』……チケットは存在しない。
ここで生活するということが、チケットを得るための労働になっているからだ」
家の中から、アドリアが子どもと笑いあっている声が聞こえてきた。
「……再び地下へ、檻の中の実験動物になる結果であろうと、俺や避難民は喜んで都市の一員になった。中には……」
バルドのたれ目がちな黒い目が細められた。
「記憶を消して、新しい名前を貰い、この都市の住民になった者もいる。
……アドリアがそうだ。彼女は、地下都市で生きていた記憶も、残酷な外の世界で見てしまった事実も全部消して……『アドリア』という人間に生まれ変わった」
冷たい汗が自分の背筋を流れていくのが、はっきりと分かった。
「明日もう一度スローネが来る。おまえさんに決断を迫りにだ」
「決断……?」
その言葉を繰り返した私に対し、バルドが首を縦に深く振る。
「この都市の住人になるか、ならないか……」
「住民にならないと言ったら……?」
「……スローネと島の守り神が、処理をする」
私は緊張感から、親指を唇に当てる。彼の話は続く。
「島の守り神は少女のような姿だが、この上なく残酷だ。都市の管理者たるスローネでさえ、彼女に指図は出来ない」
「……外に出たければ、その2体を何とかするしかないと」
恐ろしい現実にも迷いを見せない私に、バルドは目を閉じると、天を仰いだ。
「モモ、俺にはおまえさんの気持ちがよく分からん……。
確かにここは地下で、海も空も月も、何もかも人工の造りもので、人間は生活を管理される実験動物だ。それでも……」
彼は椅子を揺らしながら、あご髭を撫でる。
「危険もない、明日に怯える必要もない……ここには、穏やかな幸せがある。
どうして、恐怖ばかりある外の世界に行きたいんだ」
私は椅子からゆっくり立ち上がりながら、覚悟の言葉を伝える。
「今この瞬間も苦しんでいる誰かと、世界を救うため、です。
世界のことなんて、まだほとんど知らないけれど……だからこそ、外の世界を旅して、知らないものを知りたい、誰かに出会いたい」
彼は閉じていた目を開き、怯える人のように背を丸めると、美しい海を眺めながら言った。
「モモは強いんだな、逃げることしか選べなかった俺よりずっと。
……俺は、俺と好きな人を救うだけで精一杯だったよ」
私はずっと座っていた椅子から立ち上がった。そして、月光降り注ぐバルコニーから立ち去る前に、彼の背に言葉を贈る。
「バルドさんも、強い人だと思います。
だって、私に全部、辛いことや悲しいことを話してくれた……」
背は丸まったままで、返事はない。
遠い潮騒だけが、その場から立ち去る私に贈られた。
アドリアさんから貸していただいた、肌触りのよい寝間着に身を包み、ベッド代わりのソファーに寝転がりながら、手の甲の令呪を指でなぞる。
「バーサーカー」
私の武器であり、信頼できる家族のような存在である彼の事を考え、心を強く保つ。やってくる明日を覚悟しつつ、目を閉じた。
……肌にまとわりつく、この空気の湿度を私は知っている。
お昼寝の中で見た夢の中と同一のものだ。
辺りは白い朝靄に包まれていて、数m先も見えない。
足下に目線を落とすと、細かな砂利が敷かれているのが分かった。
(玉砂利って言うんだっけ、こういうの……)
風が頬を撫でると、私のピンクの毛先が揺れる。
それに気を取られていたら、いつの間にか前の視界が開け、朽ちた神社のようなものが姿を見せた。
「……」
勇気を出し、ローファーを履いている足を一歩出す。
玉砂利を踏みながら進んで、崩れかけの階段の前に立つ。
靴を脱いで、置き、暗い色の木の上に、白の靴下で包まれた足を乗せた。
中にある板の間には小さな布団が敷いてあり……誰かが寝ている。
見てはいけないものを見ているという実感に、心臓が止まりそうになる。
「……っ」
11歳程の子どもがそこにいたが、髪も目の色も判別できなかった。
──全身が、包帯で被われていたからだ。
褐色の古い血も、鮮やかな新しい血も、まだら模様になって布に浮かんでいる。
「俺、『箱』なんだって」
その固まりが、少年の声で独り言を話し出す。
「だから、中に俺以外を詰めないといけないんだって」
綺麗な鳥の声が、朽ちた天井の上から聞こえた。
「それが俺の『運命』なんだって、俺をこうした奴らが言ってた」
少年は呟く。
「また頭の中で泣いてる……『いえにかえりたいって、母さまにあいたい』って」
風が森をざわざわと揺らす音が、私の心もざわつかせた。
「じゃあ、聞こえるこの声が、俺の『運命の人』?」
誰にもいないはずの空間に、少年は言葉を投げていく。
「……運命の人に会ったら、俺のぜんぶ、無くなっちゃうんだろうな」
私は胸に拳を当てながら、声をただ聞いている。
「心も魂も、全部抜かれて……」
響く鳥の声は2羽に増え、仲良くさえずり合っている。
「こわい……けど、運命の人に出会うって、そういうことだ」
布に包まれた丸い頭が、もぞもぞと動く。
「相手の辛いことも、悲しいことも、納めてあげられるように、空っぽの箱になること」
覚悟にも達観にも見える態度。私は少年の額にそっと触れ、目を隠す包帯をずらした。
「……夜明けの空が見える。緋色で、桃色な」
緑の瞳に、私のピンクの髪と瞳が映っていた。瞳孔が開き、少しずつ光が入っていく。
「明日が来るの、楽しみだな」
少年は乾いた血のついた顔のまま、微笑んだ。
「モモちゃん、かおこわいぜ」
「きょうはあそんでくれないの?」
「うあー」
窓から見える偽りの空は快晴だ。
制服に袖を通す。これは、私の戦衣装。
「モモちゃん、これ、私が若い時のだけど……どう?」
アドリアさんが持ってきてくれた服を、両手でそっと押し返す。
何も言えなかった。『ここに残りたい』という、未練が育ち初めていたからだ。
「モモちゃん、いっしょにごはんたべよ」
「どうしちゃったの?」
うろたえている子ども達とアドリアさんの向こう側に、バルドさんが立っているのが見えた。
「私、行ってきます」
声は震えていたけれど、バルドさんは後押しするように強く頷いてくれた。
「気をつけてな」
励ます言葉まで、私にくれた。
「はい」
木製の温かみのある扉を開け、幸せに満ちた世界に別れを告げる。
人の気配のない路上。朝の冷たい空気の中、スローネ・エーテルウェルが丸メガネを滑らかな布で磨きつつ、立っていた。
「おはよう、モモタ・トバルカイン。私と一緒に来てもらうよ」
バルドから聞いていた通りだ。
「美しき島の守り神の下へ」
ガラス越しに、青い瞳が私を見た。
第16話 幸せはどこにある?
終わり
単語説明
実験都市
地下都市の一種。ある目的のために設置された都市。
実験のため、文化や生物の保管を行われている。地下内部空間に、広大な海や自然が備え付けられたものなども存在している。