鎮守府は朝から騒々しかった。
起床ラッパが鳴りベッドから起きると、すぐ廊下に並び点呼を取る。部屋の代表者はその結果を当直に報告する。
点呼が終わると洗面や着替えの時間があり、その後清掃を行う。
点呼の後、北上が顔を洗っていると皐月がやってきた。
「はい、昨日言ってたチョコクランチだよ」
「ん。ありがと」
今日はバレンタインデーだ。女性比率が非常に高い鎮守府では、一年の中でも特に盛り上がるイベントである。
北上は妙に駆逐艦や海防艦から人気があるため、毎年たくさんのチョコを貰っている。渡す機会を逃すまいと、こんな隙間時間にやってくる者もいた。
清掃後は朝食の時間だ。
夕食と同様、艦娘全員が食堂に集まり一斉に食事を取る。
朝食後、食堂を出たところで後ろから呼び止められた。
振り向くと満面の笑みを浮かべた夕立が、両手で何か小さなものを持っていた。
「北上さん、これあげる!」
菓子の個袋だった。黒、赤、黃の原色が使われた派手なパッケージには『サンダーファイヤー』と書いてある。
コンビニのレジ脇でよく売られている定番のチョコだ。
「サンダーファイヤーじゃねーか」
「大事に食べてね」
「おいぽい子、これいくらか知ってる?」
「三十円」
「その通り!」
北上は「ふんっ」と豪快に包装を破り捨てた。そして中身を一口で平らげた。
「おいしい?」
「うん」
「よかった」
夕立は北上が捨てた袋を拾うと、ご機嫌に駆けていった。
八時になると鎮守府庁舎の前で朝礼を行う。
そこでは提督や秘書艦がその日の予定や連絡事項を話す。
鎮守府としても、今日が艦娘たちにとって特別な日ということは把握しているようで「チョコを渡すのは構わないが業務に支障がでないように。また、食べるのは休憩時間か業後にすること」と釘を刺された。
朝礼が終わるとそのまま午前の課業だ。
今日は十時頃まで基礎体力作りとして空手を習い、それから十二時までは机上演習を行った。
空手と机上演習の間にもチョコをもらった。予め用意しておいたトートバッグに入れ、とりあえずロッカーにしまっておく。
昼休みになると、駆逐艦娘が大挙して押し寄せてきた。
二四駆逐隊(涼風、江風、海風、山風)、二五駆逐隊(夕立、村雨、春雨、五月雨)、二七駆逐隊(白露、時雨、有明、夕暮)の面々だ。
村雨・春雨からは昨日よりグレードアップした生チョコを貰った。その他、大小様々、色とりどりのチョコを貰った。
一つ一つ受け取るのも面倒なのでまとめてトートバッグに入れてくれと言うと、不平の声が上がった。
気持ちを込めて手渡しするのが習わしだという。
そのくせコンビニでいつでも買えるようなチョコが混じっているのはどうかと思う。
さて、こんなにもチョコを貰っておいて自分からは何も無しというのも民草の不平の種になると思われたので、せめて世話になっている人にはやろうと考えた。
今から気合の入ったものを用意するのは難しいだろうから、敷地内のコンビニで済ますことにした。
お誂え向きにレジ横にチョコがあったのでそれを一掴み買った。
片手で適当に掴んだサンダーファイヤーは四つ。これをどう分配するか。
とりあえず、最初の一個はすぐ側にいた大井に渡した。
「ハァッッ! ありがとうございますっ!」
大井は変な声を出して両手で受け取った。
恍惚が多分に含まれた、なんとも奇妙な笑顔をしていた。本当に嬉しそうだ。
こんなものでこれだけ喜んでもらえるのか、と思わずにはいられなかった。
バレンタインは特別な日らしい、という実感が少しだけ湧いてきた。
残るサンダーファイヤーは三つ。
続いて向かったのは庁舎だ。
彼女らは昼食後は大抵そこにいるから、きっと渡せるはずだ。
庁舎の正面口から入って右側にはブリーフィングルームや通信指令室、左側には各部署の部屋が並んでいる。
北上は左側の廊下に進み、目当ての部屋に向かった。
途中で事務のおばちゃんに出会い、ウイスキーボンボンをもらった。何箱も持っていたから、配って回るのだろう。
少し歩いて北上は立ち止まった。目の前の扉には『統合管理』と書かれた札が貼ってあった。
「あ、北上さん!」
統合管理の扉を開けると、部屋の奥にあるデスクで読書していた女性職員がにこやかに言った。後ろの席でスマートフォンをいじっていた男性職員も振り向いた。
男性職員の方は桜井だ。爽やかな雰囲気の青年である。
もうひとりは
「はい、これ」
北上は二人に近づいてサンダーファイヤーを差し出した。
「わあ! くれるの? ありがとう!」
「なんだ、サンダーファイヤーか」
「じゃあ桜井にはやらん」
「あ、待って待って! 欲しいから! いやー、北上さんからチョコをもらえるなんて嬉しいなあ!」
「最初から素直にそう言えばいいのに」
大井ほどではなかったが、二人とも喜んでくれた。
鎮守府にいるスタッフでは一番関わりの深い二人だから、媚を売っておいて間違いないだろうと踏んだのだ。
自身の政治的判断に狂いはなかった。
最後の一人を籠絡してミッションコンプリートだ。
「そういえば、大井さんのチョコおいしかったよね」
サンダーファイヤーをかじっていた菖蒲が言った。
「うん。よくマカロンなんて作れるよね」
大井が作っていたのはマカロンらしい。
思わぬところで内容を知ってしまった。
「私もマカロン作ったことあるんだけど、難しいんだよ。特に生地作り。メレンゲと、砂糖とかココアパウダーを混ぜるんだけど、混ぜすぎると膨らまないし、混ぜたり無いと割れちゃうの。北上さんはもう食べた? 大井さんのマカロン」
「いんや、まだ」
「そっか。マカロンはね、冷蔵庫から出して三十分経ったくらいが一番美味しいよ」
「そうなんだ」
「中のクリームがちょっと溶けて生地に染み込んだ状態になるの。冷蔵庫から出したばかりだと……」
菖蒲のマカロン講義はなかなか終わらなかった。彼女は一度喋りだすとなかなか止まらないのだ。隣の桜井も苦笑いしている。
北上は用事があるからと話を切り上げて部屋を出た。
きっと桜井が身代わりになってくれるだろう。
執務室に向かいながら思考を巡らせた。
昼休み、大井に会ったのにチョコをくれなかったのはなぜだろう?確か去年は、朝一番でチョコをくれた。
マカロンは冷蔵庫から出して三十分くらいがおいしい、という話だから昼休みだと都合が悪いのだろうか。
しかし寮は往復十分足らずのところにあるから、昼食前に取りに行けばちょうどよかったはずだ。
まさか今年は北上の分は用意していないということか?だとしたらあの気合の入れようはなんだったのか。
一抹の不安を覚えながら提督執務室の前に辿り着いた。
ノックするとすぐに返事があった。
提督は北上を見ると少し驚いた顔をした。微妙に左の口角があがっているのは、単に珍しい客が来たこと以外の理由も含まれているように思えた。
「ん」
北上が右手のサンダーファイヤーをぶっきらぼうに差し出した。
提督は手中のチョコバーを凝視した。それを取ろうと右手を少しずつ動かすも、何を渡されているのか理解が追いついていないようだった。
やっとのことで――といっても二、三秒だが――サンダーファイヤーを手に取ると、北上の目を見て「ありがとう」と言った。
「そんなに意外?」
「えっ? ああ、ちょっとびっくりした。今までくれたことないし」
「欲しかったの?」
「どちらかといえば」
「ふーん。じゃ来年もあげるよ」
「ああ、期待してるよ」
提督は笑いながら言った。
またサンダーファイヤーだろうな、とでも考えていたのだろう。
残念、来年はテロルチョコだ。
終業までの間に、北上はさらにいくつかのチョコを貰った。
あらかじめ用意してあったトートバッグには既に十個を超えるチョコが入っており、持ち上げるたびに包装フィルムの擦れる音がした。
夕食の前に一度部屋に戻ってトートバッグを置いてこようと思ったが、おそらく夕食後もチョコを貰う機会がある。
そのまま食堂に向かうことにした。
夕飯を食べ始めてしばらくすると、秘書艦の妙高がおもむろに立ち上がり、いつのまにか食堂の隅に置いてあったダンボールを皆の正面に運んだ。
ダンボールを開けて中身を一つ取り出して言った。
「私からみなさんにプレゼントがあります。ドイツチョコです! 私からのプレゼントと言いましたが、ビスマルクさんに協力してもらいドイツからチョコを送ってもらったのです。ビスマルクさん、ありがとうございます」
妙高が拍手すると、それに倣って皆も拍手した。
ビスマルクは軽く右手を上げて応えた。
再び妙高が話し始めた。
「実は、ドイツのチョコレート生産量は世界一なんだそうです。深海棲艦が現れてから生産量がガクッと落ち込んでしまったそうですが、今では大分戻ってきたとのこと。というわけで、みなさんに一人一つ、本場の高級チョコを用意しました! 私も食べてみましたけど、とっても美味しいですよ!」
配られたのは正方形のカラフルなパッケージのチョコだった。一人ひとり異なるパッケージだった。
「どれも違う味なので、周りの人と交換していろんな味を楽しんでみるといいかもしれませんね。あ、チョコを食べ終わったら、こちらのゴミ箱に片付けてくださいね」
夕食を食べ終わると、自然とチョコを交換する流れになった。先程配られたドイツチョコだけでなく、各自が持ち寄ったチョコもその対象になった。
どのテーブルでも様々なチョコが並べられ、小さなチョコ市場が形成されていた。
蒼龍と飛龍はガトーショコラを全員に一切れずつ配っていた。約六十人分のガトーショコラを作るのはさぞや大変だったろう。しかしそんな様子はおくびにも出さず「いつもありがとう」と、笑顔で一人ひとりに手渡ししていた。
軽巡のテーブルには子洒落た箱に入ったチョコが置かれていた。
「はいどうぞ。喧嘩しないように仲良く分けるクマ」
「ありがとう。一人三個分くらいか?」
一口サイズのチョコがセパレートによって小分けされている。球磨が妹たちのために買った高級チョコだ。
「球磨の分はいいクマ。みんなでわけるといいクマ」
「球磨も一緒に食べたほうがきっとおいしいニャ。それに……」
「既に大量のチョコがあるから食べ切れないよねえ」
全員分に配られたもの以外にも、チーム別に配られたもの、個別にもらったものなどたくさんのチョコがある。
「そうね。こんなたくさん食べたら太っちゃう」
大井の言葉に皆うんうん、と頷いた。
チョコを貰えるのは嬉しいが、つい食べすぎてしまうのだ。リスクはできる限り分散したほうがよい。
「そういえば大井は昨日なんか作ってたみたいだけど、なんかあるのか?」
木曽が言った。
「あるけどちょっと待って。食べ頃があるのよ」
「チョコにも旬があるのか」
「そうじゃなくて、冷蔵庫から出してしばらく待ったほうがおいしいの。まあ、今のうちに出してくるわ」
そういって大井は席を立った。
冷蔵庫から出してしばらく待ったほうがいいチョコといえば、マカロンのことだろう。
ふと思い出した。昨日大井は別のチョコも作っていたはずだ。
今日一度もその話題を聞いていないが、一体なんなのだろう?
即席チョコ市場では、日持ちしないガトーショコラと球磨が持ってきたチョコだけ食べて、あとは後日食べることにした。
自室に戻った北上はチョコの詰まったトートバッグをひっくり返し、その中身をベッドの上に並べた。
あれからチョコはさらに増え、全部で二十個近くになっていた。
皐月と文月のチョコクランチ、白露のピーナッツチョコ、夕暮のボッキー、平戸のテロルチョコ、事務のおばちゃんのウイスキーボンボンなどなど。
色とりどりの包装が狭いベッドを埋め尽くした。
この中から早く食べないといけないものを選ぶ。たくさんある分、気をつけないと捨てるハメになる。
市販のチョコで未開封のものは当面大丈夫だろう。問題は手作りチョコや一度開封してから配られたチョコだ。
特に「生っぽい」ものは注意しないといけない。村雨と春雨から改めてもらった生チョコはまさしくそれで、早めに消費する必要があるだろう。
あとはケーキ類もそうだ。牛乳や生クリームが入っているからだ。該当するのは蒼龍・飛龍のガトーショコラを除くと、海風からもらったパウンドケーキだけ。
最優先で処理しなければならないのは生チョコとパウンドケーキの二つということになる。このくらいなら今日、明日で無理なく食べられるだろう。
いつの間にか部屋から消えていた大井が紙袋を提げて戻ってきた。
大井は北上のベッドを一瞥し、何も言わず自席に向かった。
紙袋から取り出したのはチョコレートマカロンの乗った皿だった。皿の大きさに対してマカロンの数が少ないから、既にほぼ配り終わったあとなのだろう。
「北上さん、どうぞ。遅くなっちゃったけどバレンタインチョコです」
「うん、ありがとう」
店で出されるものと見分けがつかないくらい綺麗なマカロンだった。
二枚のマカロン生地にはガナッシュクリームが挟まれている。小さなハンバーガーのようで可愛らしかった。
一個をつまんで半分口に入れる。生地に閉じ込められていたチョコの香りがふわりと広がった。マカロン生地にガナッシュクリームが程よく溶け込んで、心地よい食感だった。
「おいしい」
「よかった」
「大井っちも食べなよ」
マカロンは一個だけ残っていた。
「いえ、私は」
「一緒に食べたほうがおいしいって」
「……じゃあ、いただきます」
大井は咀嚼している間、視線を下の方に向けていた。マカロンよりも、別の何かに意識を向けているように見えた。
「おいしい?」
「はい」
北上がニッと笑うと、大井は僅かに口元を緩めた。
「このお皿はどうするの?」
「食堂のものです。流しに置くか、返却口に置いておけばまとめて洗ってくれるそうです」
「そっか。じゃあ」
「北上さん」
大井は立ち上がった。
「もう一個あるんです」
そう言って机上の紙袋に手を入れた。
中から皿をもう一枚取り出した。
テーブルの上に置かれたことでその全容を見ることができた。
皿の上に乗っていたのはドーム状のチョコレートケーキだった。サイズは両手の指で作った円よりも一回り大きいくらい。真ん中には白いハートが埋め込まれている。その周りはチョコホイップとハーブであしらってある。
「おお……すごいねこりゃ」
昨日炊飯釜を使っていたのはこれのためだろう。見るからに作るのが難しそうで、気合の入りようが伝わってくる。
まじまじ眺めていると、大井が口を開いた。
「実は、渡そうか迷っていたんです」
「ん? なんで?」
「作ったはいいけど、大きすぎるなって。迷惑かもしれないって思ったんです」
「大丈夫だって。さすがに今日全部食べるのはきついけど、明日くらいなら持つっしょ? それに大井っちも手伝ってくれれば余裕だって」
「そう……ですね」
大井はまだ何か言い淀んでいるようだった。何が大井をそうさせているのかわからないが、なんとなく教えてもらえないような気がした。
ならせめて自分の考えていることだけでも伝えておこうと思った。
「大井っち」
「はい」
「ありがとう。すごく嬉しいよ」
「北上さん……」
その日は二人で協力して半分だけ食べた。
最初にスプーンで中央のハートを突き刺したとき、大井は頓狂な声を上げた。
「気持ちはもう伝わったから、口に入れてしまえば一緒だ」と言うと、大井はじっと割れたハートを見つめた。やがて北上と同じようにハートを突き刺して、口に入れたケーキをゆっくり噛み締めた。