カランドの巫女。
それは宗教国家たるイェラグの公的な象徴であり権威でもある。
厳しい気候のイェラグらしく厳格な戒律を持つ国教は節制や欲望を抑える事を美徳としていた。
「ドクター、煙草休憩というものはロドスにはあるのですか…?」
その頂点たる巫女がこんなことを言ったと吹聴したら一体どれ程の人が信じるだろうか。
ちなみに残念ながら原則的にそんなものは無いと伝えると彼女はガックリと肩を落とした。
「というか貴方は煙草を吸うのか?」
「いいえ。でも、もし休憩して良いというなら吸ってみようとは思っていました。」
「…きっかけは人それぞれだとは思うけれど、多分やめたほうがいいわ。」
貴方はあまり気管が強そうには見えないし、と言いながらレモンティーを机に置くパフューマーに私は礼を言ってから同意する。
「訓練が厳しいが為にそう言っているなら尚やめた方がいい。より苦しくなるだけだ。」
それに彼女がもし里帰りしてロドスで煙草を吸い始めましたなど言った時を想像すればイェラグの老人達の狼狽ぶりが目に浮かぶようである。プラマニクスの兄、ロドスと交流のあるカランド貿易の社長シルバーアッシュの愚痴を思い出して辟易とした。
それはそれで胸が空く気分を味わえる気もするが予測できる面倒は避けておくべきだろう。
「そうですか…。あ、このお茶おいしい…。」
「あら、本当?昨日仕入れたばかりの茶葉を使ったの。そう言ってもらえると嬉しいわ。」
「どこか懐かしい味がします。本当に、おいしいですね…。」
ほう、と息をついて言ったその言葉を耳にして私もカップに口をつけると、なるほど素直に素晴らしいと思えた。
正直に言えば私はこの方面に知識が明るくはないのだが丁度良い渋みと甘さを感じ…仄かな柑橘系の香りが飲んだ後も口の中に残り…爽やかな気分にさせる。まぁ、なんだ、そんな感じだった。
アフタヌーンティーというのだろうか、昼食後のゆったりとしたこの時間に合う味だ、うむ。
今我々がいるのは宿舎ではなくパフューマーの温室である。
温室の端にカフェテラスの様に置かれたテーブルがあり時間がある時はたまにここでこうして休憩させてもらっている。
和やかな空気が満ちここだけ殊更ゆっくりとした時間が流れている様な気分にすらなる。
そんな空気を壊すのは本意では無い。
だがロドスの指揮官としては見て見ぬ振りはできない事が一つある。
私はできるだけ優しい声が出る様苦慮しながら問いかける。
「で、どうしてここにいるんだプラマニクス?今はその訓練の時間のはずだが。」
想定通り空気が固まる。
プラマニクスは笑った。
カランドの巫女らしい、人に安心感を与える笑顔だった。
そうしてにこやかな顔でカップを抱えたまそっぽを向いた彼女に私はため息を吐きパフューマーは苦笑しながら灰皿を私の前に置いた。
遠慮無く煙草の封を切り口に咥える。カランドの巫女といえサボりに気を使うつもりは無いのだ。嫌なら訓練に戻りたまえ。
勿論というか効果はなくプラマニクスは居座ったままパフューマーにおかわりを頼んでいた。
「…だから今だけだ。何事も慣れだろう。後一ヶ月もすれば何があんなに苦しかったのかと言えるようになる。」
「嫌です。」
「拒絶の時だけレスポンスが早いのは何故だ…。」
取りつく島もない。私はっきり言って頭を抱えていた。
ドーベルマンから話は聞いていたがここまでやる気が無いとは正直思っていなかったのである。
訓練のメリットを滔々と説明したり、宥めたり、餌をちらつかせてみたり、思いつくことはなんでもやった。
しかし諦めることは出来ないのだ。私のためにも彼女の為にも…いや、よそう。これは私の押しつけでしかない。
私は煙を天井に吐きかけながら次なる一手を考えているとそれまで場を静観していたパフューマーが唐突にプラマニクスに問いかけた。
「ええと、ちょっといいかしら。あまり事情を知らない私が言うのもなんなのだけれど…貴方は訓練が嫌?それとも他に理由が?」
「…私は…。」
「体を動かす事が嫌いというのは私も解る。前にドーベルマンにデッキを80周しろなどと言われた時は」
「ドクターくん、しばらく黙ってもらっていいかしら。」
「…了解した。」
ケルシー医師に近い静かな威圧感を放つパフューマーをチラリとみて私は大人しく椅子に座り直して黙る。
「難しく考える必要も綺麗に言葉を並べようなんて事も思わなくていいの。貴方が思った事をそのまま口にして。私が聞いてみたいだけだから。」
気のせいだったかと思うほど綺麗に威圧感を消して、しかし優しいというにはどこか距離を置いたような雰囲気でパフューマーはそう言うと自分と私のカップにおかわりを注ぐ。
礼を言おうと口を開きかけたがパフューマーがじろりと私を見たので笑顔だけ返しておいた。見えないだろうが。
しばらく温室の空調の音だけが聞こえていたがプラマニクスはカップをぼんやりと見つめながら掠れるような小さな声で話し始めた。
「…私は…カランドの巫女として生きてきました。私はその他の生き方を知りません。」
「…戸惑っているの?」
「戸惑い…そうかもしれません。私はこんなに自由に生きられる日はありませんでした。早朝に誰も私を起こしに来たりはせず、深夜まで祈りを捧げる様を誇らしげに見にくる人もここにはいませんので。
…いえ、違いますね。私は本当は不安なんだと、思います。きっと。
いつか私はイェラグに戻りまたあの日々を繰り返さなければ。そうである事を皆が求めています。
それはいいのです。そうすべきだという事はわかっていた事ですから。ただ…。」
最後だけ早口に言い切るとまた彼女は口を噤んだ。
私達は何も言わず、次の言葉を待った。いや、何も言えなかったのだ。彼女の苦しみを無責任にわかった気になって何か言えるほど図太くはなかった。
「…私、こんな風にお茶を飲んだり、何気ない会話をできるなんて思っていませんでした。
編み針を持つのだって久々だった。」
そう言うとプラマニクスは顔をあげた。
その顔は今まで見た彼女のどれよりも幸せそうで、寂しそうだった。
「今私はエンシアの為にマフラーを編んでいます。ほら、あの子私と同じイェラグ出身なのに寒そうな格好しているでしょう?
あの子は昔から活発だったから基礎代謝、というものがいいのですね。
…あの子のためにしてあげたことなんて私、あったでしょうか。喜んでくれるでしょうか。」
「…素敵な事だと思うわ。」
パフューマーがそう言うとプラマニクスは少し照れた様に笑った。
「ありがとうございます。
…すみません、ドクター。」
「?」
「私のわがままに付き合わせてしまって。
あの子のマフラーを編み終わったら私、もうこんなことはしませんから。
だから…もう少しだけ…。」
そう言うとプラマニクスは顔を伏せた。
私はパフューマーに視線をやった。彼女は眉を下げて、ここからは貴方が、と言う風に肩を竦めた。
私は新しい煙草に火をつけてゆっくりと息を吸い、吐いてから口を開いた。
あぁ、酷い事を言おうとしているなと他人事のように思いながら。
「それで、いつになるんだ?ここでこうしていれば制作時間が少なくなるとでも?本当に完成させる気があるのか?」
「…すみません。」
咎めるようにこちらを見ながらもパフューマーは黙っていた。
いや、すまないそんな事を言うつもりでは、と言いかけたが
「…さっさと作ってやってくれ。私からしても、あいつは見ているだけで寒くなる。」
取り繕うようにそう言った。
言った後そんなことを言いたかったのか?と自嘲した。
自分が決めたことから逃げるために悪戯に傷つけてどうする?
別に、善人になりたいわけじゃないのだからいいだろうか。
だからと言って自分を慰めるつもりはないのだが…ただ、もっと冴えたやり方がきっとあるはずだと思うと自然と口が重くなる。
今の今まで考えついたのはこんな策とも言えない何かだった。
それでも私が言おうとするのは安い同情心に他ならない。
私に染み付いた糞の匂いは煙草では消せないだろう。構わない。何もしないよりは私は私を許してやれる。
さぁ言え。口を開け。
「…プラマニクス、貴方には人を殺してもらう。
カランドの巫女である貴方に人を救うために殺せと命じる。」
そうすれば、もうあとは最後まで言い切るだけだ。
「そうして戦果を挙げてもらおう。
貴方がいなければこれから先ロドスの目的は達成できないと言わせる様な戦果を。
私は貴方が鉱石病を無くす為に必要だと証明させる。
当代のカランドの巫女が世界を救ったと後世に残させる。
必ずだ。」
よくもまぁこんな事を真剣に喋れるものだと嘲る声が聞こえるような気がした。
黙れ、必ず私達は鉱石病を無くすのだ。そのついでにちょっと彼女を同じ船に乗せるだけで、夢物語などでは決して無い。
そうやって奮起しながらもプラマニクスと目を合わせたままでいられるのはほとんど奇跡と言ってもよかった。ほぼ意地だったが。
「そうなればいつ里帰りできるかわからない。
イェラグの貴族共が何を言おうが返さない。使える伝手は全て使って拒否する。
それで、人を殺してまで自由が欲しいか?」
最後の最後に余計な事が口からついて出た。選択肢など与えるつもりはなかったのに。
…いや、もしかすると私は拒否する事を望んでいるのだろうか。
自分でもよくわからない。
視界の端に映るパフューマーは目を閉じてまだ黙ってくれていた。ありがたい、何を言われてもきっと心が折れていただろう。
そうして外には出さないが内心では動揺している私から、プラマニクスは目を逸らすことはなかった。
いつも優しげな目が今は鋭く輝いていて、それはよく晴れた日の雪の反射の様だと思った。
「…カランドの然諾に『汝らに勝利あらん』という言葉があります。
山々は罪を厳しく罰しますが、しかし一方で闘争を許容します。生き残るための闘争を。
いずれ鉱石病は世界中に広がりましょう。そうなる前に私が止めます。
それはカランドの巫女として当然なすべき事です。」
耐えきれなくなって私は視線を落とす。
今更であったのだ。彼女はそれを覚悟してロドスに来ていたと思いもしていなかった。気づかないのも当たり前だ、私は彼女を哀れなカランドの巫女としてしか見ようとはしていなかった。
後悔に海に浸ろうとした私に、ですが、と少し弾んだ声が耳に入った。
「ですが、どこかで諦めてもいたのです。戦っても、勝利して、それは私がなすべき事でしかなく…私は結局救われないと。
貴方が言ったことを私は信じます。
そして私は自分の運命とも戦ってみることにします。
自分を殺して生きる未来を拒否する為に。
『汝らに勝利あらん』、私は戦って必ず自由を勝ち取ります。」
「…そうか。」
その決意に何と返すべきか色々と悩んだ末に、私は結局それだけしか言えなかった。
ふと手元を見ると煙草は根元まで灰になっている。色だけは似ているが彼女の目と比べるにはあまりにも儚く脆いな、と思いながら私は灰皿に力強くそれを押しつけてやった。とっくにしたはずの覚悟を改めるつもりで、そうした。
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「途中プロポーズでもしてるのかと思ったわ。『貴方をイェラグに返さない』なんて。」
「私をからかって楽しいか?」
「…情熱的ね?」
「やめてくれ…。」
「なるほど、こちらで結婚すればより帰らないでよい理由になる気がします。」
「考え直せ。…今度会った時シルバーアッシュに殺されそうだ…。」
「失礼する、パフューマー。ドーベルマンだ。ここにサボり魔が来てないか?」
「「「あ」」」
気づけば評価バー赤くなっててめっちゃ嬉しいなってなった。
これでまたオレンジになってもそんな一瞬があった事を忘れません…。
あと亀更新で申し訳。
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