逃げるは恥だが鬼は死ぬ《完結》   作:ラゼ

1 / 20
1話

 『逃げ』とは悪いことだろうか? 僕はそう思わない。戦うことが手段の一つだと言うならば、逃げることも立派な手段の一つだからだ。けして退いてはいけない時というものは、確かにある。しかしそれ以外の局面であれば、僕は逃げる。多少の損を押してでも、争いを避けたいからだ。

 

「逃げるな貴様ぁぁぁ!!」

「逃げるに決まってるだろ! バーカバーカ! お腹空いてるならその辺の草でも食ってろバーカ! もひとつおまけにバーカ!」

「こっ、の…! 必ず食ろうてやるぞクソがぁぁ!」

 

 争いが苦手──それは生来の性分であり、変える気も変えられる気もない気質である。とはいえただ逃げるのも腹が立つので、安全なところから煽るのもまた性分だ。それで争いごとが増えるなら意味ないじゃないかって? 仕方ないじゃないか、悔しいんだもの。こっちは逃げてやってるんだから、ちっぽけな自尊心を満たすくらい許されてしかるべきだ。

 

 何から逃げてるかって? 『鬼』だよ、『鬼』。そんなものがいる筈ないなんていう突っ込みは聞き飽きた。僕も過去に生まれ変わるまでは、そんなの迷信だと思ってたさ。

 

 なんの因果か明治時代なんかに生まれ変わっちゃってさ……もう大正に変わったけど。いやまあ、それはいいんだよ。問題は僕の体質である。何故かは知らんが、昔から化物をよく引き寄せるのだ。

 

 更なる大問題としては、それが原因で捨てられたことだ。そして最大にして最高の問題は、その体質のせいで人里に身を寄せ辛いことである。文明開化の音がぜんぜん聞こえてこないんですけど。

 

「ぐうぅぅ! なぜ追いつけん…!」

「こちとら三才の頃からリアル鬼ごっこしてるんですぅー! ギリシャオリンピック出ようか考えたこともあるんですぅー!」

 

 身分も金もないから無理だったけどな! それ以前に、当時六歳の子供が出れるわけなかったけども。しかし身体機能と肺活量、そして体力が人間離れしているのは幸せなのか不幸なのか。もしそれらが普通だったら、とっくの昔に死んでいたのは間違いない……が、この人生が幸せなのか不幸なのかは(はなは)だ疑問である。

 

 昔は男尊女卑の意識が強くて、風俗も乱れていた印象とかあるじゃん? 簡単に可愛い女の子とお近づきになれると思うじゃん? 意外とそんなことなかった。ぜんぜんそんなことなかった。

 

 ついでに言うと鬼は夜に襲ってくるため、昼間は体力の回復に努める必要があるのだ。つまり僕は完膚なきまでに夜型人間であり、反して大正の人間は日の出てる内が主な活動時間だ。そんなとこだけイメージ通りにしなくていいんだよちくしょうめ。

 

「…! まずい、夜明けか──……っ!? しまっ…!」

 

 朝日が顔を出し、ようやく命がけの鬼ごっこも終わりを告げる。日の出の時間が近くなると、さっきみたいに煽り散らかすのが基本である。鬼というのは、何故かは知らんが煽り耐性が非常に低いのだ。もちろん個人差はあるが、僕の目の前にいる鬼は見るからにそういう気質だ。

 

 それを利用した地形的な罠を張ると、これが意外と有効なのだ。焦った彼が身を隠したのは、ぽつんと存在した大樹の影だ。というか、そこに行くしかないタイミングを図ってた訳だけど。実際問題、本気で逃げればあの程度の鬼を撒くのは訳もない。

 

「形勢逆転だねえ。ねえどんな気持ち? いまどんな気持ち?」

「…! きっ、貴様…!」

「悪鬼滅殺……さようなら鬼の(きみ)。お前もまた強敵(とも)だった…」

「バ、バカが…! 近付けば即座に食ろうてやるぞ! 鬼殺の剣士でもない貴様ごときに、儂が殺せるものか!」

 

 …ん? きさつの剣士? 帰札……貴札……いや、『鬼殺』? もしかして鬼を殺す専門の剣士とかいるのだろうか。しかし世は廃刀令の真っ只中であり、剣を帯びた人間など即お縄である。だいたいこんな化け物たち相手に、剣もクソもないだろう。あいつらは太陽の光でしか死なない、これ常識。

 

 ヒテンミツルギスタイルでも存在するならともかく、人外相手には剣より銃の方が有効に違いない。機関銃で挽き肉状態にでもすれば、再生にも時間がかかるだろう。まあ日没から夜明けまで撃ち続けるとなれば、弾の値段だけで屋敷が建ちそうな気もするけど。

 

「ふっ……人間の叡智を舐めるなよ鬼め! 必殺! 科学ビーム!」

「ぎっ…!? ぐあぁぁぁっ!」

 

 苦し紛れに吠える鬼を目の前にして、懐から取り出したるは『太陽光線反射装置』……要はただの鏡である。角度を調整して鬼に光を当てると、これが効果覿面。当てた端から体が崩れていく様子は、ちょっとした恐怖である。苦しげに呻きながら滅んでいく様は、なんだか罪悪感を覚えるが……しかしさっきまで僕を食おうとしていた存在だ。情けなどかけられる筈もない。

 

「ふぅ……ん? 何か残ってるな……おおっ!」

 

 陽に当たった鬼は塵一つ残さず消えていくが、たまに持ち物を遺して死んでいく鬼もいるのだ。ドロップアイテム……などではなく、ただの持ち物だ。もっとシステマチックな感じだったら、僕も結構レベル上がってるだろうにね。しかし現実は厳しく、鬼を倒したからといって身体能力が上がったりする様子はない。

 

 まあそれはともかく、今は彼が遺した財布についてだ。人間に紛れて生きる鬼も稀に存在するため、金を持っている鬼というのも居ないことはない。ほぼ人間のような鬼から、ガチの化物のような鬼まで様々だが──先程の彼はおおよそ人間の外見を有していた。故に上手く偽装していたのだろう。財布には結構入ってる。かなり入ってる。具体的に言うなら、遊廓で遊び散らかせるくらいには入ってる。

 

 ………経済というのは、金が回ることによって成り立っているものだ。ここで財布ごと朽ちて消えゆくのは、世の中にとって多大な損失である。なればこそ、正常な流れに戻してやることこそが正しい行動ではないだろうか──よし、理論武装完了だ。名も知らぬ君よ、この金は大切に使わせて頂きます。具体的に言うなら可愛い女の子のために使わせて頂きます。いやっふう!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 文明開化、そして機関車。新幹線や電車に比べれば古臭い印象は拭えないものの、石炭の何とも言えない香りが、現代人の精神を捨てきれない僕の心を癒してくれる。およそ文化的とは言い難い生活を強いられていた僕だが、先日手に入れたお金を使用し、身なりはそこそこ裕福な感じに整った。不潔な人間が嫌われるのは、どんな時代の風俗でも同じである。いざ列車に乗って、遊廓へ向かうとしよう。

 

 …ん? なんか猪の被り物をしたヤベェ奴が、列車にガンガン頭をぶつけているが──いや、ヤバすぎでしょ。鬼じゃないよね? どうやら三人組のようだが、他の二人も割とヤバそうだ。というのも、こんなご時勢だというのに刀を差しているのだ。しかも一人はなんか金髪だし……どう見てもアジア系人種だから、地毛という訳でもないだろう。この時代に染める人とかいんの?

 

 一本遅らそうかな……いや、でもそれだとかなり待たされる。溢れる性欲の前には、多少のキチ案件など障害にもならない。ここも都会だし、そういう店がない訳でもないんだけど、やはりヤるからには質を求めたい。あとあまり安いと病気が怖い。遊廓だって危ないっちゃ危ないだろうけど、当たる確率は下がる筈だ。

 

 三人組から離れるために車両を進んでいると、なにやら独特な髪型をした男性が弁当を食していた。何箱食うとんねん。うまいうまいと叫んでいるが、そんなに美味しいのだろうか? もしや駅弁会社の回し者で、あれは俗に言うステルスマーケティングなのではなかろうか。あの目立つ髪型も、広告塔として目に止まらせるためということであれば、納得できる。

 

「弁当一つ」

「まいどー!」

 

 買ってしまった……あんだけうまいうまいと連呼していれば、それも仕方ないだろう。うむむ……割と美味しい。しかしどうにも、薄味感は否めないな。野宿が多い関係上、食事は野草や獣肉がメインなのだが──これがあまり美味しくない。臭いし苦いし、現代の品種改良の素晴らしさをことさらに感じさせられる。

 

 それをどうにかするための秘訣が、味噌である。とにかく味噌で煮込めば、大抵のものは食えなくもない味になるのだ。塩分過多で腎臓が心配だけど。あと今回みたいに都会に降りてきた時、食事が薄く感じるのも困りものだ。

 

 弁当を食べ終えると、催してきたので便所を探す。僕は食ったらすぐ出るタイプなのだ……まあ割とそんな人は多いだろう。食事により腸の運動が促進され、便意を催すメカニズムらしい。それはともかく、トイレトイレ……トイレ……あれ、ないな。

 

 …もしかして列車ってトイレない感じ? 嘘でしょ? 到着まであとどのくらいだろう。便意はともかく、尿意はきついぞ。ううむ……そうだ、最後方には外に出られる場所があった筈。この際、仕方ないだろう。列車内で漏らすよりはマシと思っていただこう。

 

 凄い勢いで後方に撒き散っていくお小水を眺めつつ、暗闇の中流れていく景色に思いを馳せる。列車はやっぱり速いなぁと思いつつも、よく考えたら僕の全速力より遅いことに気付く。あれ、いつのまにか人間やめてない?

 

 …まぁ鬼がいる世界だし、実は過去じゃなくて異世界とかそんな感じかもしれんな。先日の鬼さん曰く、鬼を殺すための剣士もいるようだし、だとするとその人達だって化け物じみた身体能力を持つ筈だ。じゃないと鬼なんて狩れる訳がない。

 

「…寒っ! そろそろ戻るかな……ん?」

 

 みんな寝こけてるな。そんなに列車の揺れが気持ちよかったのかな? ──いやいや、おかしいおかしい。もしかして睡眠ガス? バトルロワイヤルでも始まるの? いや、まさかだろう。完全にホラーと化した列車内を進むと、なにやら前方から激しい物音が聞こえてきた。

 

「シィッ──!」

「どわっ!?」

「むっ…! 眠りに落ちていない者もいたのか。すまないが説明している時間はない! 事が終わるまでそこを動かないでくれ!」

 

 次の車両へのドアを開けようとしたら、炎っぽいエフェクトを纏った男性が剣を振りながら蹴破ってきた。すると壁のそこかしこから気味の悪い肉塊が飛び出してきて、眠っている乗客を襲い始めた。いやもう、なにこれ。悪い夢にしても限度ってものがあるだろう。

 

「ぬおっ! てぇい! ──キモいキモいキモい! なにこれ!」

「…! 手助けは必要なさそうだな! そのまま逃げ続けていてくれ!」

「いや、ちょっ」

 

 バッサバッサと肉塊を切り落としていく男性は、凄まじい速度で後方の車両へと突っ込んでいった……かと思えば、すぐに戻ってきてまた無双し始めたりと、忙しそうだ。というかこの人数を同時に守ってるのか? 凄すぎてビビるわ。

 

 ──っとと。このキモい肉塊だが、それなりに動きの制限はあるようだ。少なくとも全方位から圧殺できるほどの質量は持っていないし、人の襲い方もどうやらオートな感じである。慣れてくれば避けるのは訳ないが、しかしいつまで続ければいいことやら。

 

 窓から飛び降りて逃げることはできるが、それは乗客を見捨てることと同義だ。『退くべき時』があるなら、それは今じゃない……僕になにができるとも言えないが、最低でも一人二人を抱えて逃げるくらいはできる。この車両から最後尾までは男性が守り続けているようなので、邪魔にならないよう前へ進むことにした。

 

 …なぜか列車の中で雷鳴が響いていると思えば、乗客を肉塊から守る可愛い鬼がいた。どういう状況なの? 不思議な力を持つ鬼がいることは知っているが、人を守る鬼がいるとは寝耳に水である。あと金髪の少年は鼻提灯を膨らませながら戦ってるんだけど……情報量が多すぎて困るぜ。

 

 まあ推測するに、彼等こそが『鬼殺の剣士』とやらなのだろう。しかしこの列車を襲っている鬼がいたとして、今まで僕が見てきた鬼とはかけ離れた実力だ。こんな大規模な力を行使する存在に襲われたことはない。不幸だ不幸だと思っていたが、意外と運が良かったのかもしれないな。

 

「──っ!」

 

 更に前へ進むべきかと思案していると、凄まじい衝撃と共に列車が()()()。手が届いた一人だけを抱え、宙に浮く列車の窓から脱出したが──なんとまあ、阿鼻叫喚の絵図である。鉄の箱の中でシェイクされて、無事でいられる人間は少ないだろう。

 

 しかし砂埃を上げている列車の内部を覗き込むと、怪我だけで済んでいる人が大半だった。あの肉塊が逆にクッションの役目を果たしたのだろうか? とにかく視界に入る限り、死者は出ていないように見える。鬼殺の剣士ぱねぇ。

 

 前方の車両付近を窺うと、額に痣のあった少年が倒れ込んでいるのが見えた。服でよく見えないけど、お腹から血を流しているようだ。そんな彼に先程の男性が近付いていったので、僕もなんとはなしに付いていく。ちらりと僕を見た男性は、目を細めて少しだけ微笑んだ。あらやだ、かっこいい。カリスマってやつかしら。

 

 息を荒げてお腹を押さえている少年の、その額に指を当てる男性……おおっとぉ。もしかしてそういう関係? そういう関係なの? 呆然としている少年と、ふわり微笑む男性。なぜか腹の血が止まったようだが、これも愛のなせるわざってやつだろうか。

 

 ──そんな彼らをワクワクしながら見ていると、なにやら轟音と共に鬼が降ってきた。どうやら今日の天気は晴れ時々鬼らしい。右目に『上弦』、左目に『参』の文字……イジメかな? 瞳にタトゥーとか、拷問以外の何物でもないだろう。そうすると、体に刻まれた紋様も『罪人の証』の延長に見えてきて可哀想だ。

 

 …そして唐突に始まる人外の攻防。いや、なんだあれ。鬼が再生するってのは知ってるけど、それは相応に時間がかかるものだ。弱い鬼なら、体をバラバラにすれば夜明けまでそのままなんてこともある。ピアノ線トラップで試したから間違いない。

 

 だというのに、『猗窩座』と名乗った鬼は斬られた端から再生していくのだ。質量保存の法則はどうなっているのだろうか。もしかして鬼を食料にすれば、世界の食糧事情は解決するのでは……うえっぷ、想像すると気色悪くなってきた。

 

「…う、あ…」

「クソ、入れねえ…!」

 

 凄まじい戦いの様子に、冷や汗をかきながら気圧されている少年……と、猪。いつの間にきたんだ。どうやら男性と彼らの実力には隔たりがあるらしく、下手な援護は邪魔になってしまうようだ。しかしそれならそれで、やれることはあるだろう。僕は二人に近付いて声をかけた。

 

「──動けないなら動けないで、やれることをしようぜ」

「え? あ、えっと……あなたは…」

「何もできねえから動けねえんだろうが! 剣も持ってねえ奴が出しゃばってんじゃねえ!」

 

 少し体を震わせてすらいる猪に、僕はため息をつく。まったく、子供はこれだから。しかし痣の少年はなにかに気付いたようで、感謝するように僕の瞳を真っ直ぐに見つめてきた。うむ、やっと理解してくれたか。

 

「やるべきことは解ったかい?」

「はい! …伊之助! 今の俺たちじゃ力になれないけど、応援くら──」

「そう、あの鬼を煽るんだ!」

「──いはできる、って、えぇぇ…」

 

 バスケの応援然り、サッカーのフーリガン然り、『野次』というのはことのほかメンタルにダメージを与えるのだ。本拠地での試合か敵地での試合かが勝率に影響を及ぼすのは、実際に数字として表れる。種族は違えど同じ言語を使用しているんだし、罵倒だって効くだろう……というか今までの鬼は効いてきた。

 

「ヘイヘイヘイ! ピッチャービビってるぅー! 武の道極めるとか言ってるけど、人間だったら何回死んでるのぉー! 再生頼りの猗・窩・座! ヘーイ!」

 

 ビキリと殺気がこちらに向かった──怖っ。しかし一瞬の隙が勝敗をわけるような状況で、それは悪手だろう。男性から放たれた鋭い斬撃が頸へと奔り、薄皮よりやや深く表面を裂いた……ん? 頸への斬撃を必死に避けた……ってことは、そこが弱点なのか? いやでも、それだって試したことはある。頸を切り落としたって、鬼は死なない筈だ。なにか条件があるのかもしれないが、とにかく今は『煉獄』と呼ばれた彼の勝利を祈ろう。

 

「ほら君たちも!」

「え、い、いや…」

「死ねオラァァ! ゴミ虫毛虫のこんこんちきが! ボケェ!」

「君、筋がいいね!」

「おうよ! 任せろ!」

「え、えー……頑張れ煉獄さん!」

「君は筋が悪いね」

「う、うぅ…」

「う・う・うっで切れたー!」

「腕切れやがった!」

「はい! はい! はい! 人間だったら何回死んでるのー!」

「ゲハハハ! 百回は死んでるぜ!」

「ヘイ、ヘイ、ヘイ、ヘイ、猗・窩・座! おーまえーが男なら! ここで一発ぶっとばせ! へい! 一発だけでもぶっとばせー! ウォウォウォウォーウ! え? 無理? 知ってた!」

 

 オタ芸を併用しながら煽りまくる。猗窩座さん、顔に血管が浮き出すぎて、狂経脈みたいになってて草。しかしこちらへ意識を向けようものなら、煉獄さんの刃が彼を仕留めてくれるだろう。安全なところからの野次とは、すこぶる気持ちがいいものである……ん?

 

「──貴様から殺す…!」

 

 憤怒を超えた憤怒を更に超えた憤怒の表情でこちらへ突進してくる猗窩座さん。ちょっ、煉獄さんなにやってんの! やめてこないでちょっとしたジョークだったんだ可愛い嘘ってやつさあばばばば!

 

「ぎいやぁぁぁ!!」

「殺す、殺す殺す殺す…!」

「──速い…! 追いつけん…!」

「煉獄さんが追いつけない猗窩座が──追いつけないあの人って…」

「俺にはわかるぜ! アイツは『煽り神』だ!」

「そんな祟り神みたいな…」

 

 へ、へーい、お、鬼さんこちっ、ダメだ煽る暇もない。いや、いま煽っても意味ないけど。しかし、しかしだ。夜明けまでの鬼ごっこを何度も繰り返してきた僕にはわかる。もうじき陽が昇る……時間にして一分もないだろう。なんのてらいもなく、これだけは言ってやる──逃げ足で僕に敵う奴は、存在しない。

 

「…貴様の顔──覚えたぞ…!」

「え? 尻尾巻いて逃げるんですか猗窩座さん! あとちょっとですよ! 手を伸ばせばすぐそこに!」

「…次は殺す」

 

 くっ、存外に冷静だ。見るからに脳筋っぽいのに、白む空を見止めると踵を返して森に消えていった。まあ日本は広いし、僕がことさらに居場所を喧伝しなければ、二度と会うこともないだろう。今までの経験からして、鬼同士にネットワークがあるようにも見えないし。

 

「…助けられたな。あのままでは負けていた可能性の方が高かった」

「そうなんですか?」

「おそらくな──だが! 負けたままでいるつもりはない! 俺はまだまだ強くなる……そして! ここで上弦の強さを確かめられたことは、何より大きい。戦い方一つ知っているかどうかが、勝敗の決め手になることもある。礼を言わせてくれ……ああ、そう言えば名前も聞いていなかったな。俺は『煉獄杏寿郎』だ」

「匿名希望です」

「『希望』か! 良い名前だ!」

「なにその天然」

「いや、冗談だ」

「分かりづらっ!」

「よく言われる!」

 

 カラカラと笑う彼につられ、つい笑顔が零れる。遠目に金髪の少年が見え、やたらと大きい籠を担いでいる様子が見て取れた。それを見た少年二人が、彼の方へ向かって走っていく。なんというか、まあ……あんな子供たちでも鬼殺の剣士というのだから、頭が下がる思いだ。

 

 優しげに彼らを見ている煉獄さんに手を差し出して、僕は──本当の名を告げた。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。