少し幼い頃の話をする。
あれは、いつものように、契約店まで荷車で肉を卸しに行っていた時のことだ。
中流階級の人間が生活を営む区画に、輝かしい衣服を身に纏った輩が目に入った。つい思わず、見惚れてしまうくらいに綺麗な御人、擦れ違い様に嗅ぎ慣れぬ良い匂いが鼻先を擽ぐる。それに誘われ振り返ろうとした時、見窄らしい、と背後から嘲笑する声が聞こえてきた。憧憬は、数分と持たない内に別の感情へと書き換わる。
羨ましいというよりも、妬ましかった。
後で調べてみると、この国には偉い人がたくさん居ることを知った。
名家や豪族と呼ばれる生まれながらの勝ち組、官僚という世の中を好き勝手に差配する偉い人。そんな輩を統べる更に偉い人が将軍と呼ばれたり、三公と呼ばれたり、更に更に偉くて頂点に立つ者を皇帝と呼んだ。皇帝は名家や豪族と同じように生まれながらの勝ち組にしかなれないが、官僚と将軍には頑張ればなれるという話を聞いた。
この時から私は将軍と官僚という言葉に強い憧れを抱くようになる。
しかし、この時はまだ、そういった存在は天上人のようであり、私とは生きている世界が違うと思っていた。街中で綺麗な衣服を着る者達を、親の仇のように睨み、妬み、美しく整えられた彼女達の姿を見る度に、獣臭く、血生臭い自分自身の下賤さに嫌気がさして惨めになる。
この生活から抜け出したい、この状況から抜け出したい。しかし、その日を生きる為に仕事を止めることもできない。
惨めさを耐え忍ぶように下唇を噛み締める毎日、燻る気持ちは日に日に熟成されていった。
†
親を殺した、細かく刻んで山に撒いた。
今日も今日とて、羊を肉にして売りさばく仕事に従事していると洛陽の大通りで軍隊行進の催しがされるという話を聞いた。
それは漢王朝の権威を誇示する為の見世物であったが、この時はまだ洛陽には活気があった。軍隊行進の当日、大通りの両端では屋台が建ち並ぶ程の盛況っぷりであり、その活気に私もあやかろうと考えて、即席の屋台と一緒に串肉を持ち込んだ。この時の売り上げは何時もの倍以上で、帰りに趣向を凝らした櫛の一つでも妹に買ってやろうかと思えるほどに気分が良かったことを覚えている。
この時はまだ軍隊行進とか興味がなかった。その日を生きるので精一杯だった。
儲かった。と銭袋を片手にニヤついていると、ふと、鎧に身を包んで、片手に槍を持った兵士達の行列が大通りを横切っていった。ザッザッと規律の整った足音がする。隊列は乱れず、全員の手と足が同じ動きをしていた。店回りにいる観客の話声から、この時、兵を率いていたのは皇甫嵩と呼ばれる将軍だと知る。それが誰のことなのか、遠目からでも一目見てわかった。威風を纏い立ち姿、毅然とした態度で兵達の指揮を執る。その美しい姿に、私は肉が焦げる臭いにも気付かずに見惚れてしまった。大通りを囲む領民からの羨望の眼差しや黄色い歓声を堂々とした佇まいで受ける彼女を見て、このような人物が世の中を差配するのだと確信した。
それが間違いだと思い知らされたのは直後のことだ。
皇甫嵩の背後で煌びやかな衣服に身に纏った女がだらしない体で、情けない笑みを浮かべながら観衆に手を振っていたのを見た時だった。見た目からして、明らかに皇甫嵩よりも格落ちする女が、皇甫嵩よりも豪華な衣服と装飾で身を飾り、まるで皇甫嵩を従えるような立ち振る舞いを見せるのだ。
思わず、あれが誰なのか観衆の一人に問いかけると「知らないのかい、あれは大将軍だよ。帝を除いて国で最も偉い奴なんだ*1」と教えて貰った。へえ、あれが。と再び大将軍を見つめる。あんな奴が。と困惑する想いを抑えきれない。明らかに皇甫嵩の方が上に立つ人物として相応しいではないか、現に観衆の歓声は皇甫嵩に向けられたものであり、それをあの愚物が自分のものと勘違いでもしているかのように民衆に手を振り返している。そして当の本人である皇甫嵩は怒るでもなく、粛々と行軍の指揮を執った。
可笑しい、と思った。この国は可笑しい、と思った。
この国はこんなにも可笑しいのだから、まかり間違って私のような奴が大将軍になることもあるのではないかと思った。私のような下賤な身分の出身であったとして、皇甫嵩のように出来た女を従えることもできるのではないだろうか。これまで私のことを嘲笑し続けてきた女共を跪かせることも不可能ではないのかも知れない。
そう思ってしまった。
私はこれまで何をしていたのだろうか。片手に握り締める銭袋が、やけに浅ましい物のように感じられた。
あゝ、馬鹿馬鹿しい。できない奴が出世して、できる奴が頭を垂れる。こんなにも世の中が狂っているのであれば、この私が成り上がる隙間は必ず存在しているはずだ。私が出世すれば、もう誰からも馬鹿にされることはない。私のことを見下す奴はいなくなる、今までのような惨めな思いをしなくても良くなる。
燻る想いが、今まで蓋を感情が、嗚呼、妬ましい。と器の縁から漏れ出した。
†
真夜中、解体用の包丁を片手に屠殺場へと赴いた。
屋内は独特の噎せ返るような臭いが充満しており、壁や床には血と油が染み込んでいる。そして部屋の端には檻に詰め込まれた羊が数頭、この場所の空気に慣れないのか、その目は怯えているようにも見えた。しかし関係ない、と私はその内一頭の羊を檻の名から引っ張り出して、その角と柱を太縄で括り付ける。そして羊が暴れない内に頸動脈を切り裂いた。もう手慣れたもので、家畜を潰すことに感慨を抱くことはない。
親からの教育で幼い時、今から潰す羊の瞳を見つめてから頸動脈を切るという行為を百頭やらされている。それだけしてると手慣れたもので、淡々と作業を熟すように羊を潰しては天井に吊り下げる。地面に落ちる血が収まったのを見計らって――まあ、大体、早朝くらい、あの山の向こうから太陽が顔を出す少し前辺りで、解体専用の包丁で肉を切り分ける。上質で美味い肉は刺身で食っても舌触りよく食べられるように、屑にしかならないような肉は雑に細かく切り刻んだ。骨に残った肉も丁寧に削ぎ落として、後に残るは煮ても焼いても食えぬ場所、それすらも煮込めば良い出汁は取れると加工する。
解体作業が終わる頃には、暗い紺色だった空が憎らしい程に晴れやかな水色になっている。解体した肉は荷車に載せて、そのまま直接、契約している食料店とか、加工店とかに送り届ける。じりじりとした太陽に焼かれつつ、隣を悠々と抜き去る馬車に舌打ちしながら、えっちらほっちらと金銭と引き換えに納入した。そして、全ての肉を納め終える頃には汗だくで、肌は砂埃塗れで指で触れるとザラッとする。出かける前に体を軽く拭いているが、時折、裏口に案内されることがある辺り、私の体はきっと臭いのだと思っている。それもそのはずで、焼けて浅黒くなった肌には獣の血と肉油が染み込んでおり、何時だって滑っとしており気持ち悪かった。家に帰ると先ず最初に桶に水を溜めて、手拭いで全身を綺麗に拭き取っているのだが――その後、桶の水を見ると驚くほどに白く濁るので、見慣れていてもウッと来る。だから私の体は誰にも触れさせないし、負い目から誰かに触れようとも思わない。
汗が染み込んで、べっとりとした前髪を掻き上げる。そして、天を見上げて睨み付ける。
こんな世の中クソ喰らえ、だと。