私には行きつけの店がある。
やめとけ、やめとけ! と妙に絡んでくる男から教えてもらった肉屋であり、美味しい割に安く、それなりの量を買い込めるので重宝している。それに店主の態度も悪くない。仕事帰りに買い込んでいるので必然、朝服姿で通うことになるのだが――それを見て臆することなく、かといって官僚相手だからと相場以上の値段を提示してくることもない。無口であっても気味悪がらず、相手を蔑むような態度を取らないので通いやすいのも良い。そんな訳で週に二度、仕事終わりに適当な酒屋で酒を買った足で、肉屋まで羊肉を買い込みに行くことが日常になっていた。
不満があるとすれば、ただ一つ。あの褐色肌の店主は暴力的に胸が大きい、それだけが唯一の欠点である。
比喩ではなく女を捨てた身で、気にする方が野暮と云うことは分かっているが、それでも理不尽と思わざるを得ない。あれでは羊というよりも牛だった。貧相で身長も低い自分の体と見比べて、つい自らの胸元に手を添えて悲嘆に暮れる。ペタンとした感触に乾いた笑いしか出てこない。
彼女のおかげで私は肉屋に来る度に、やっぱり世の中って糞だわ、と悪態を吐き捨てる羽目になる。
毎度のように私は、糞だ、と下品な言葉を使っているが、別に世の中に絶望しきっている訳ではない。私を取り巻く環境が糞だということは分かりきった事実であるが、本気で世の中の全てに希望がないとは思っちゃいない。この洛陽にも幸せな家庭を築いている者は居るはずで、洛陽という大都会に拠点を築いたことで成功した者も居るはずだ。そういった者達から見れば、世界はきっと希望と幸福に満ちているように見えているはずで、私のように世界の全てが掃き溜めのように見えている者にとっては、この世は地獄と相違ない。
だからまあ、こんな世界なんて壊れてしまえって思う時がある。世界の良い所も認めた上で、関係ない、と鉄槌を振り下ろして砕いてしまいたかった。
世界を壊すことが叶わないのであれば、せめて世界から自分が消えてしまいたかった。
目を覚ます。部屋の隅には洗濯物が溜まっている、やっぱり世の中って糞だと思った。洗濯物を片付けながら出世がしたいと考える。
さて、宦官になってから酒に酔い潰れることが増えた。
被虐趣味と云うべきか、自壊本能と呼ぶべきか、休日前夜に酒場に足を運んで不味い酒を煽り、頭痛で何も考えられなくなるまで飲みふける。足元が覚束なくなった頃合いで人気のない路地裏に繰り出して、誰か私を壊してくれないか、誰か私を殺してくれないか、と気味の悪い笑顔を浮かべながら彷徨い歩いた。そして誰にも手を付けられないまま朝となる。酷い頭痛と惨めさ、そして僅かな安堵が心に残る。そして失笑した。
私には魅力がないことは分かっていたが、ここまで誰も手を付けないとは驚きだ。見た目も良くない呑んだくれの相手なんて、私は死んでも御免なので当たり前の結果に落ち着いたという事は分かっている。しかし、それでも物好きの一人や二人は居るものだと思っていたが、誰一人とて拾う者がいないとは――いよいよもって救いがない。
気付けば、座り込んでいた路地裏で乾いた笑い声が溢れ出した。
もう疲れたな、誰でも良いから私の事を壊して欲しかった。このまま座り込んでいたら死んだりできないだろうか。朝方から夕暮れ時、薄汚い路地裏の中から見上げる空、その色が移り変わる様を眺めながら思い耽る。
空が淀んで見える、空気は汚物の味がした。世界は塵と埃に塗れており、この地は掃き溜めのように感じられる。夕暮れ時になると塵を焼却するように燃え盛り、夜になると臭い物に蓋をするように世界から光が失われる。空気は澱み腐敗している、呼吸をするだけでも窒息してしまいそうで、ただ少しも空気を体に取り込みたくなかった。できることなら呼吸を止めてしまいたかった。世界はゴミ捨て場だった、世界は肥溜めだった。こんな世界の空気を吸っていると肉体の内側から爛れて腐ってしまいそうだった。幼くて死んだ者は幸せだと思っている、この世の不幸を知らずに死んだ者はただただ羨ましかった。嗚呼、気に入らない。幸せな人間が気に入らない、こんな腐った世の中で幸せ面する鈍感さが気に入らない。世界の全てが気に入らなかった。
それはつまり、きっと私自身が私のことを気に入らないせいだと思っている。
あゝ、全てを壊してしまいたい。それができないのであれば、誰でもいい。誰か私を壊して欲しかった。
私が酒を飲み続けるのは、つまり、そういう理由になる。
「こんなところでどうしたんだ?」
話しかけられる、その勝ち気な声には聞き覚えがあった。
ゆっくりと顔を上げると知った顔があった、暴力的な胸があった。向こうは覚えているかどうかは知らない。
あそこは、それなりに人気があるので客が多いのだ。
「……お前、肉屋か。嫌なところを見られたよ」
苦虫を噛み潰すように笑って、視線を落とした。
嘲れば良い、惨めだなと笑えば良いのだ。今は疲れている、放っておいて欲しかった。
それとも何か、私のことを哀れんでいるのかな?
「そんなところで寝ていては寒いだろ。とびっきりに美味しい肉と安酒なら馳走してやれる」
憮然とした態度、声色に好意はない。
それでも差し伸べられる手、意図が分からなくて呆然とする。その手の先にある顔は野心に満ちていた。宮中の官僚達が放っているような淀みきった腐臭は感じられない、その瞳には熱量を帯びた強い決意が宿っている。彼女の燃え盛るような意志に私の心が焼かれなかったのは、彼女から善性を感じられなかったためだ。彼女の野心は薄暗い決意の下に成り立っている。世の中を憎み怨んで、心は荒みきっている。そんな彼女が抱く野心が真っ当なはずがない。こんな世界なんて壊れてしまえと叫んでいる。
つまるところ、私と彼女は同類であった。目を覆いたくなるほどに嫌悪する。醜いな、と鏡に映った自分を見ているような気にさせる。しかし決定的に違っている、私と彼女は致命的に違っている。どれだけ淀んでいたとしても彼女の瞳には希望があり、私は絶望だけで染まっている。美しいものが許せなかった、綺麗なものが許せなかった。私には全てが歪んで見えるから、世界の全ても歪ませたかった。幸せだと浮かれる能天気な連中の視界を私と同じにしてしまいたかった。
私を壊して欲しい、なんてのは嘘だ。そんな惨めな最期を終えたいとは思わない。死んでしまえば楽になれる、それは救いだと思う。でも、その前に幸せだとのたまう連中がいる今の世界を壊したかった。あゝ、なんて身勝手、なんて幼い願望だろうか。世界が気に入らないから壊したい、そんなのはただの駄々っ子ではないか。私は不幸だった、と悲劇的な思考を持ちたくはない。でも幸せが何なのか分からなかった。満たされない、満たされている。でも満たされていない。世界に対する苛立ちだけで心を満たされる。このような感情はきっと理解されない、でも普遍的な衝動だとも思っている。
あゝ、嗚呼、あゝ、嗚呼、こんな世界なんて壊れてしまえ、と呪詛を唱える。滅びてください、と神に祈りを捧げよう。
差し伸べられる手を振り払って、自らの足で立ち上がる。
「案内しろ、ご馳走になってやる」
こんな世界を壊してくれるなら願ったり叶ったりだ。
私には意志がない、決意がない。しかし世界に対する憎悪だけは持っている。
漢王朝や庶民の事なんて知ったことか、どうとでもなれば良い。