そして誰もが悪党になった。   作:にゃあたいぷ。

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8.其の者は黒幕である   -張譲

 此処は洛陽にある宮廷、その謁見の間にて。

 漢王朝で最も権威的な場所である玉座に、現皇帝の霊帝が腰を下ろしている。その台座の上から霊帝が見下ろす先、赤絨毯の上には膝を突き、最上位の礼儀を尽くす将軍が恭しく頭を下げていた。部屋の両脇には護衛の兵士が控えており、中郎令*1が無言で指揮を執る。そして霊帝の両脇を固めているのは私と趙忠の二人の宦官だ。共に中常侍*2として霊帝に仕える身の上で、そこに加えて趙忠は宦官の最高位である大長秋*3を兼任している。私は十人居る中常侍を統括する役目を担っている。

 私、張譲と趙忠の二人で宦官の全権限を収束させている。そのため私達、二人で宦官の双璧と呼ばれていた。

 台座の下で頭を垂れる女の名は、慮植と云った。

 軍事では異民族討伐で功を立て、学問では太学石経*4で功を立てる文武両道の人物として名を知られる。その性質は勤勉実直、博学で礼節を重んじる自分であった事から強い人望を持っており、心の底から世のことを憂う国士でもあった。

 其の者を眼下に私は、面倒臭い奴が来たな、と心の内で吐き捨てる。

 

「近頃の宮廷は乱れております」

 

 分かっていた内容に、思わず溜息が零れる。

 慮植の上奏内容は簡単に云えば、宮廷の乱れた政治を是正することだ。宮廷では賄賂が横行しており、不正が公然と放置されている。そのことを忠臣が上奏しても、実権を持たない佞臣を傍に起き、その意見ばかりを取り上げる。こんな事では民草のためになるようなまともな政治を行うことはできない――実際には、もっと遠回しで包み込んだ言い回しをしているが、直喩するとこんなところだ。そして話をしている時、慮植が随所で私と趙忠のことを睨みつけてくる事から、彼女の矛先が私達(宦官)に向けられていることがよく分かる。

 本人にとっては一世一代の大勝負、傍迷惑な話だった。

 霊帝は慮植の話を理解できているのか、最初から聞く気があったのか、彼女の長話を退屈そうに聞き流していた。勤勉家である慮植らしい失敗ではあるが、この皇帝に話を聞かせるには少々小難しすぎる。

 言葉が通じない、故に彼女の熱意が霊帝に届くことはない。

 

(べに)、つまりどういう事かしら?」

 

 紅とは私の真名だ。この時点で慮植は愕然とした表情をしており、問われた私は恭しく頭を下げて口を開いた。

 

「何も問題はありません」

 

 と答える他にない。

 宮廷の政治が乱れているのは今更な話である。宦官に限らず、宮廷に限らず、賄賂や不正は公然と行われている。これを是正しようものならば、それこそ漢全土を巻き込んだ大粛清が必要になる。推測できる処刑対象は宦官が半分程度、官僚が半分以上、どちらも敵に回してしまえば、大反乱の末に霊帝の世は終わりを迎えることになる。そうなれば、漢王朝の命運すらも尽きかねなかった。

 その事を彼女は知っているのだろうか。まさか宦官だけを排除すれば、政治が是正されると思っているのだろうか。台座から見下ろした慮植は、悔しそうに歯噛みをしている。きっと彼女とは分かり合えない、と小さく息を零す。

 漢王朝の命運を賭けた博打に出られるはずもない、宮廷における公然の不祥事を口にできる訳もない。今はまだ日和見に漢王朝を存続させる他に道はなかった。

 

「……中には、自らの一族を地方官に任免し、官職を専横する者も居るようですが?」

 

 悪足掻いたつもりか、棘のある物言いに心が冷めていくのが分かった。

 隣にいる趙忠は素知らぬ顔で、他人事のように微笑むばかりだ。お前も慮植の相手をしてやれよ、と目で咎めるもまるで堪えた様子はない。ただ霊帝のことを慈しむような優しい目で見つめるばかり、その霊帝は最早まともに話を聞いちゃいなかった。下手に口を出されても困るが、もう少しくらいは関心のあるふりをして欲しい。貴方の目の前で膝を突いているのは、今の世には珍しい国士なのだから――残念なのは、このような輩に限って、清廉であることを貫きたがる者が多過ぎる。真水では魚も生き続けられないと云うのに、彼女達は進んで真水の中に身を投じるのだ。

 もう何度目か、溜息を吐いて嫌々ながら慮植を見据える。

 

「そのような話は知らないな」

 

 こう答える他に、どうしろと云うのか。無念と怒りに顔を滲ませる彼女を私は蔑んでいた。

 今回は彼女の問い詰め方に問題がある。私が本心を語るには建前が必要なのだ。宦官の意思、皇帝の意思、漢王朝の意思、そういう(しがらみ)の中に立っている私が、公の場で建前もなしに本音で何かを語ることなんてできるはずもなかった。

 その程度も分からないのか、という気持ちが彼女を見下す結果になる。

 別に慮植のことを認めていない訳ではない。彼女の上げた功績の数々は決して卑下されるものではなく、彼女が持つ勤勉さは今の漢王朝には稀有な美点と云える。ただ宮廷で生きるには真っ直ぐ過ぎる、それだけの話だった。

 その後も私は慮植による質問攻めを受け続けることになり、霊帝が大きく欠伸をした時点で答弁は打ち切られることになった。絶望に打ち拉がれる慮植を尻目に、心身共に疲れ果てた私は大きく溜息を吐いた。眠そうに目を擦る霊帝、その様子を満足げに見つめる趙忠と共に謁見の間を離れる。

 十常侍の会合もあるというのに無駄な時間を過ごさせられてしまった、と密かに舌打ちした。

 

 

「……慮植に関しては以上、上奏内容については気に留める必要もない」

 

 所変わって後宮の一角、皇后の他に宦官と女官しか入れない場所が()()の会合場所だった。

 部屋に装飾はなく、ただ部屋の中心を行灯が照らしている。その揺れる火を取り囲むように十枚の座布団が敷かれており、そこに私を含めた宦官十名が腰を下ろす。

 報告を済ませた私は一息吐き、他の者達の反応を見る。

 今、部屋にいる全員が皇帝の傍に仕える中常侍の面々であり、十名の中常侍が集うこの場を私達(宦官)は十常侍と呼んでいる。宦官最高位でもある大長秋の趙忠も十常侍に組み込まれていることから、此処は実質的な宦官の最高会議の場となっており、私が十常侍に所属する前から宦官が取るべき道を話し合われてきた。その十常侍の議長を務めているのが、この私になる。

 最も高い地位にいるはずの趙忠が何故、纏め役を担わないのか――それは真正面に座っている彼女が、とても眠たそうに目を擦っている姿から察するべきだ。

 

「とはいえ少し目障りになってきましたね」

 

 と宦官の一人が口に出した。

「清流派との接触も増えてきていますしねえ」と趙忠が気怠げに付け足した。

 続けて、慮植に対する陰口が十常侍の間で交わされる。宮廷のことを何も分かっていない、とか、所詮は叩き上げの田舎者、とか、それらを耳にしながら私は、私達(宦官)も大それた存在じゃないだろう、と心の内で吐き捨てた。外戚勢力と政治闘争を続けに続けて百余年、宮廷は謀略の血で穢れてしまった。政治を是正できないのは私達の力不足と云う他になく、それを改善しようとしない時点で、本気で何かを変えようとしている人物を馬鹿にできるはずがないのだ。

 だからといって、私が彼等に嫌悪感を抱くのも間違っていた。同じ穴の狢、私も偉そうなことを口にできる立場にない。

 

「あの人望は厄介だな」

 

 彼等に同調するように、全く別の意味を含ませながら呟いた。

 慮植は基本的に有能だ、ただ切り捨てるには惜しい人材。政治を理解していないところは欠点、宦官のみを敵視する性根は致命的ではあったが――幸いにも彼女は漢王朝の忠臣でもあった。そういう輩の扱いには慣れている。

 彼女が皇帝に忠義を持ち続け、民草の味方である限り、彼女を操ることは難しい話ではない。

 

「近頃また幽州の方が騒がしいと聞いている」

 

 今までやってきた事と同じように、これから先も繰り返すように、私は口を開いた。 

 

「奴は幽州の何処かに飛ばしてしまえば良い」

 

 あまり煩いと暗殺されそうだからな、と鼻で笑いながら付け加える。

 宮廷から追い出されることに慮植は不満を持つだろうが、その事で勤勉な彼女が仕事を放り投げるとも思えなかった。何故ならば、彼女は“ど”が付いてしまう程の不器用である為だ。例えば民草が目の前で苦しんでいる姿を見た時、彼女は必ず自分の事よりも目の前の民草を優先する。飢饉で賊徒に成り果てた者達にも何かしらの策を講じると思うし、そんな彼女を地方に配置することはそのまま異民族に対する備えにもなった。

 元が有能なのだ。慮植の事を前線指揮官として捉えた時、彼女以上の逸材は片手以上に思い浮かべる事ができない。

 残念なのは政治を理解できぬ頭と、宦官を悪と決めつける視野狭窄さだけである。何時の日かまた功績を立てることで宮廷に戻ってくると思うので――その時までに、まあ、少しでも政治を理解する頭を身に付けていることを祈りばかりだ。そうなれば少しは会話をすることもできよう。

 なにはともあれ慮植の処遇に関しては以上になる。

 

「張譲殿はお優しいですね」

 

 と含みを持たせた物言いが耳に入った、それは何気ない言葉のはずで気に留める必要もない。

 しかし、それを口にした十常侍の一人は、サッと顔を青褪めさせる。はて、なんでそんなに怯えるのか分からない。

 じいっとそいつのことを見つめていると、そういえば、と趙忠が今思い出したように口を開いた。

 

「彼の名門、汝南袁氏の袁紹が怪しい動きをしているようですよ。なんでも義勇兵を組織し、勝手に賊を退治して回っているとかなんとか?」

 

 人気も出てますよ、という趙忠の報告に、思考が切り替わる。袁紹、と私が呟く視界の端で、そいつは安堵の息を零していた。

 

「確か嫡子は袁術だったはずだが……」

 

 それがどうした、と趙忠を見つめるも彼女はもうだんまりを決め込んだようで反応を見せない。

 情報を持ってくるだけで丸投げする同僚に舌打ちしながら思考する。この場で話題に出したという事は、袁紹には宦官と敵対する意思を持っているという事だ。その情報の信憑性は如何程か、ちらりと趙忠を見て、疑う余地もないと私は小さく息を吐いた。となれば彼女が私に期待している働きも見えてくる。

 面倒を押しつけてくる彼女の事を、うー、と唸るように睨みつけてやったが、趙忠は素知らぬ顔で首を傾げてみせるだけだった。

 暖簾に腕押し、馬の耳に念仏、ムキになるだけ損だと察して溜息を吐き捨てる。

 

「まあ放っておいても問題はあるまい。若気の至りに過ぎぬだろうし、それで汝南袁家が分断して弱体化するなら歓迎すべきことだ」

 

 他には何かあるか、と十常侍の面々を見渡して、特に反応を見られなかったので会合の解散を言い渡す。

 

「優しい、か」

 

 部屋に独り、呟いた。そんな事はない、と思う。

 ふうっと息を零して、前を見る。そこには薄暗い壁がある。その先の景色は見えない、壁に何かの光景が浮かぶこともない。他の者であれば、見えるものもあるのだろうか。慮植であれば、きっと見えるものもあるのだろう。私は今あるものに固執する、今ある地位を守り切れれば良い。そう思っている、思い込んでいる。それは他の皆も同じはずだった。

 なのにどうしてだろうか、少しだけ、ほんの少しだけ周りと私はズレているように思う時がある。

 

「風邪を患ったりしては駄目ですよ」

 

 まだ残っている者が居たのか、振り返ると趙忠が部屋の入り口に立っていた。

「貴方に倒れられると私に仕事が回ってくるのですから」と彼女は言いながら、座ったままの私に上着を羽織らせる。薄着になった趙忠を見上げて、「お前は大丈夫なのか?」と問い返すと「私は構いません、だって私の代わりは幾らでもいるので」と自虐的に笑ってみせる。それは私とて一緒だと思ったが、「いいえ」と彼女は首を横に振って、私のことを後ろから抱き締める。私は良い、と、でも貴方は駄目、と耳元で囁きかけてくる。少し擽ったくて身動ぎすると彼女はとても楽しそうに笑ってみせた。

 

「他の誰が居なくなっても十常侍は続きますが、貴方一人が居なくなるだけで十常侍は終わってしまいます」

 

 だから駄目、と趙忠に耳朶を咥えられた。甘い快感に一瞬、体が跳ねた。

 そのまま私の耳を舐めようとしてくる彼女を、私は横目で咎める。

 

「怒るぞ?」

「あら怖い」

 

 やだやだ、と趙忠は肩を竦めながら私から距離を置いた。

 服の裾で唾液に濡れた耳を拭い取り、何のつもりだ、と睨みつける。

 しかし彼女は「おお怖い、ああ怖い」とまともに取り合ってくれなかった。

 

「私は霊帝様の味方、霊帝様の為に生きると決めています」

 

 でも、と付け加えて、口元に弧を画いた。

 

「私が生きている間は貴方を独りにはしませんよ」

 

 私のことを確と見据える視線に、私は呆然とする他になかった。

 そのまま暫く見つめていると、フッと部屋が暗闇に包まれる。どうやら行灯の火が消えてしまったようだ。「それでは失礼致しますね」と趙忠が告げる、遠のく足音。再び、部屋に明かりを灯した時、そこにはもう誰もいなかった。

 趙忠の上着だけが、私の肩にかけられたまま残されている。

 

 

 カッカッと乾いた足音が真っ暗な廊下に響き渡る。

 私室への帰路、照明は私が手に持っている行灯の他に、夜遅くまで勉学か仕事に励んでいるのか、部屋から漏れる光があるだけだった。まだ昼は暖かい時分、それでも夜になれば冷たい風が肌を撫でる。静かに肩にかけている趙忠の上着を握りしめる。もう幽霊や妖怪に怯えるような歳ではないが、こんな時、なんとなしに人肌が恋しくなった。その事を自覚すれば急に心が孤独感に苛まれて、胸が苦しくなった。とはいえ十常侍の一人である者が、夜風に吹かれて独りが寂しい等と恥ずかしくて言えるはずもなく、いつもは寝酒を煽ることで寂寥感を誤魔化している。

 夜空に浮かぶ月の光に照らされる廊下、部屋から漏れる光から人の気配を拾い上げるように歩き続けた。

 奥に進んでいると少しずつ室内に灯る光の数が少なくなっていくのを感じる。此処は宦官の中でも高位の者に割り振られる区画であり、官位が高くなれば外に屋敷を建てる者も多く、女官との関係を持つ者も少なくない。それは中常侍であっても例外ではない。下級の宦官とは離れた区画、官位に比例して与えられる部屋も大きくなり、必然、この区画に住む宦官は顕著に少なくなる。此処まで来ると部屋の中で過ごしている宦官は半分にも満たないはずだ。

 月明かりだけの真っ暗な空間、しんとした空気、自らの足音がやけに大きく感じられた。

 恥ずかしい話だが、私は人の気配のない場所が苦手だった。漢王朝の歴史の大半は宦官と外戚の政治闘争になる。そして、その歴史の中で数多の人間が謀略に嵌められて、暗殺されてきたことを私は知っている。知識だけではなく、実感としても。十常侍の歴史は長い、少なくとも百年以上も前から続いている。また十常侍の面子は入れ替わりが多かった。私が十常侍の一員となった時、王甫、侯覧、曹節と云った傑物が十常侍を纏めていたが、この十年間で全員が暗殺ないし謀略で死んでいる。他の者も半分以上が入れ替わっている。それでも十常侍は潰えず、抜けた人数だけ、面子の補充を繰り返すことで存続し続けてきた。

 だからこそ、私は知っている。今ある立場が私の命を守る事はない、むしろ脅かすことを私は理解している。

 だから、怖れる。だから恐かった。人が呆気なく死ぬことを私はよく知っている。

 

 ――カサリ、と布擦れの音がした。

 

 その瞬間、ヒュッと息が詰まり、全身が強張った。

 落ち着け、と自分に言い聞かせる。深呼吸を数回、そして、もう近くまで来ていた私室まで静かに足を運んだ。

 何時も扉の脇には護身用の剣を立てかけている。息を潜めて、自分の部屋に聞き耳を立てる。先程した音は廊下の更に奥からだった。私室からは音がしないことを確認し、身構えながら静かに扉を開いた。中には誰もいない、ならば、と鞘に入った剣を手に取る。代わりに趙忠の上着を部屋に掛ける。これを誰かの血で穢したくなかった。

 廊下の奥、布擦れの音がした方へと意識を向けた――ススッと何かの影が動いたのを捉える。

 此処で逃げる選択はない。もし仮に相手が刺客だった時、標的になるのは私か趙忠の二人になる。私はまだ死にたくない、趙忠を殺させる訳にもいかない。護衛を呼ぶ時間もないだろう――ならば、と一歩だけ踏み込んだ。コツッと床を叩く音が鳴った、潜めた足音は先程よりも更に大きく聞こえた。自然と息は潜められ、意識は極限まで集中される。

 今日は運が良い、と思った。外は雲が晴れており、月明かりが廊下に差し込んでいる。そのおかげで角の先にいる刺客の影が丸見えだった。間抜けな刺客め、と私は自らを奮い立たせる為に笑みを浮かべてやった。鞘を握る手に力が篭る、汗で手元が滑ってしまいそうだった。剣の柄を握り締め直し、じりじりと距離を詰める。

 そして間合いに入った時、「曲者ッ!」と祈るように剣を抜き放った。

 

「ひあっ!?」

 

 という悲鳴の後、凶刃が刺客と思っていた人物の頭を掠める。

 それは咄嗟に剣筋を捻じ曲げた結果、剣を止めることはできなかった。膂力のなさ故に。そして頭上一寸先の壁に刺さる剣に、その御方は壁を背にしたまま腰が抜けたように地面に座り込む姿を、私はただ呆然と眺めることしかできなかった。彼女が、あまりにも予想外の人物であったが為に――徐々に理解が現実に追い付いてきた。そして私の体が震え出す、舌の根は乾き切っている。

 頭の中は真っ白で、何も、考えることが、できない。

 

「ねえ、(べに)……その恥ずかしい話なのだけど……」

 

 青褪めた顔の霊帝が縋るように私を見上げる、そして彼女の股間部は温かい液体で濡れていた。

 

「……漏らして、しまったわ……どうしましょう?」

 

 まだ恐怖の残る瞳で、霊帝が(おど)けるように問いかける。それで漸く私は全てを理解し、同時に全力で額を床に叩きつけた。

 

「申しわ……ッ!!」

「あ、駄目よ。大きな声を出さないで、お忍びで来ているのよ」

 

 謝罪の言葉を遮られて、私は震えながら地面に額を擦り続ける他に取れる術がなかった。

 

「ほら、顔を上げて頂戴。これでは話もできないわ」

 

 促されて、顔を上げる。きっと今の私は生気を失った顔をしているに違いなかった。

 狼狽え続ける私を腰を抜かした霊帝が宥めること数分、漸く動けるようになった霊帝に手を引かれて、私の部屋へと誘導される。この辺りのことは、よく覚えていない。濡らした衣服を脱ぎ捨てた霊帝は、私の部屋にある衣服を物色すると勝手気ままに袖に通していた。その時に私が普段使っている下着も、じっくりと見られていたような気がする。わあっ、とか、あらまあ、とか、百面相を見せる霊帝が脳裏に浮かび――思い出せないものは無理に思い出す必要はないと首を横に振った。

 

「紅の匂いがする。ふふっ、なんだか少しドキドキするわね。使っていた装飾品を下贈することはあるけども、その逆は初めてよ」

 

 今、とっても私は不敬な気がする。

 衣服の匂いを嗅がれることも恥ずかしかったが、それ以上に畏れ多かった。今、彼女が穿いている下着も私が使っていた物のはずであり、霊帝の大事な処に私の使用済みの下着が密着しているということで――嗚呼、なんだか、胃がキリキリと痛み出してきた。あまり深く考えるのは止めた方が良い、胃が保たない。服の質は普段、霊帝が着ている物と比べると数段落ちる。それでも部屋に置かれた鏡の前でくるくると回る霊帝の姿に、ゴフッと私の口の中に鉄の味が広がった。いやはや、全く以て畏れ多い。これは不敬罪、これは死刑案件、他の誰かの部屋で霊帝が同じ事をしている光景を私が見つけたら有無を言わさずに断罪している所だ。誰だってそうする、趙忠なら容赦しない。

 そんな私を心中を知ってか知らずか、鏡の前で郎らかに微笑んでくる彼女に「霊帝様が楽しそうで何よりです」と私は虚無の心で微笑み返した。

 

「霊帝様。それで、その、なんと言いますか……こんな夜更けにこんな所に来て、それも一人で、一体どうなされたのでしょうか?」

 

 恐る恐る問いかけると「夜更けの後宮に朕が居ることは不思議ではないでしょう?」と揶揄うように笑われた。

 これは霊帝の言う通りだ。真夜中、霊帝が後宮に居ることは可笑しなことではない。むしろ世継ぎの為に積極的に足を運ばれるべきであり、いや、しかし、つまり先程まで、そういう事をしていたと云うことだろうか。

 霊帝のあどけない顔を見て、モヤッとする胸の疼きに唾を飲み込んだ。

 

「……護衛も居ないのは問題でしょう」

 

 気のないふりをして、尤もらしいことを口にする。そうね、と霊帝は目を伏せると「でも、煩わしいでしょう」と片目を開けて、悪戯っぽく答える。

 

「今日は夜空を見上げると、星が綺麗だったから外で見たくなったのよ」

 

 先程とはまるで違うことを口にする、その掴み所のなさに心が乱される。

 

「でも、城壁までの道が分からないのよ。いつも案内してくれる人が居るから覚える必要がなかったせいかしら、それとも道が暗くて分からなくなったせいかもしれないわ」

 

 だから、と彼女は目を細めて、私のことを見つめてくる。

 

「紅、貴方に道案内を頼もうと思ってきたのよ」

「どうしてそうなった……いえ、そうなったのでしょうか?」

 

 そういう事は趙忠に頼めば良いじゃないか、と思わざるを得なかった。何時如何なる時も霊帝にべったりな彼女であれば、喜び勇んで霊帝の夜の散歩の供を務めるに違いなかった。霊帝と二人きり、その一時の幸福を得る為ならば、どんな地雷原でも喜んで突き進む猛者である。それがどうして私になったのか、これが分から「黄《ふぁん》は少し過保護すぎるから」あ、はい、よく理解できました。

 

「朕も良い母を持てば、黄を想うのと同じように煩わしく思ったのかしら」

 

 と霊帝は頰に片手を添えて、何処か遠くを眺めた。

 霊帝の実家は、貧乏であったと聞いている。漢王朝に連なる血筋ではあったが、彼女の両親は見栄を気にするばかりで借金を積み重ね、貴族とは名ばかりの貧相な暮らしをしていたと云う。そこを今は亡き竇武《req》元大将軍、当時の外戚勢力の首魁。《/req》が両親の借金を肩代わりする代わりに霊帝と劉協の姉妹を宮廷へと連れ去った。

 同時期、前帝の桓帝が不自然な死を遂げていることを付け加える。

 霊帝が皇帝を引き継ぐ際、驚くほどの早さで擁立されたのは今も記憶に新しい。そして実際に宮廷へと迎え入れられた霊帝は、右も左も分からないような子供であり、皇帝としての教育を何一つ受けていないことを一目見て分かってしまった。外戚連中が皇帝を傀儡化して、政権を欲しいままにしたいという意思が見て取れるようだった。そのためだけに何も知らぬ子供を外から持ってきたのだと理解させられた。

 先述する、宦官は決して良い存在ではない。

 基本的に宦官は実権を持たない官職だ。しかし皇帝の傍に仕える為、皇帝に進言する権利を有している。そのため皇帝が傀儡化されるということは、間接的に宦官の権力が失われることに等しかった。だから宦官は全力で皇帝が持つ実権を守ろうとする。自らの地位を守る為に、皇帝を守り続けるのだ。そして皇帝が外戚や名家の連中に傀儡化させられないように、皇帝としての教育を丹念に施していくのである。それ故に皇帝は宦官に育ての親に等しい感情を持つ、そうあることが宦官にとって望ましい。

 あくまでも宦官は利己的な目的によって、皇帝を守り続けている。

 しかし忘れてはならない事実がある、宦官は子を望めない体だと云うことを忘れないで欲しい。幼い頃から親身になって育て上げた皇帝に、宦官が世話役や教育係といった枠を超えた特別な感情を抱くことは珍しくなかった。その顕著な例が趙忠であり、霊帝を我が子のように想っている。見返りを求めない、ただ健やかに育って欲しいと彼女は言う。親が子を守るのは当然とでも云うように、趙忠は宦官が皇帝を守るのは当然だと言うのだ。その結果が宦官最高位である大長秋だった。まるで鬼姑だ、と言った十常侍の一人は懲罰房で一週間を過ごす羽目となった。

 私は、どうなのだろうか。あくまでも利己的な目的の為に霊帝を守り続けてきた。私には趙忠のような母性を霊帝に感じることはない。

 今だってほら、面倒臭いと感じてしまっている。

 

「……護衛は付けますよ、霊帝様」

 

 早く寝てしまいたい、と思いながら、致し方ないと口にする。すると霊帝は嬉しそうに口元を綻ばせて「ありがとう」と短く告げた。

 

「きっと黄なら今日はもう遅いからって断っているところね」

 

 その言葉を聞いた私は、軽率だった、と目を伏せて後悔する。

 あの母性の塊は、意外と締めるところは締めていたようだ。しかし、もう遅い。口にしてしまったことを今更、反故することなんてできるはずもない。何故ならば、相手はあの皇帝様である。

 嗚呼、胃が痛い、と私は天井を仰ぎ見た。

 

「黄が母親なら、きっと紅は父親ね」

 

 不意に霊帝が告げる。

 何故、そうなるのか分からない。畏れ多い、と口にするのが精一杯だった。

 この皇帝の考えることは相変わらず、読めない。

 彼女は部屋を物色するように見回していると、部屋の入り口に掛けてあった上着に目を止めて、無表情で見つめる。

 そして、くるりと体を回転させて、私に向き直り、満面の笑顔を浮かべてみせた。

 

空丹(くぅたん)

 

 霊帝は自分のことを指で差しながら、自らの真名を口にする。その行為の意味が分からずに私は首を傾げた。何故なら私は霊帝の真名を既に知っており、先程から霊帝が私のことを真名で呼んでいる通り、真名の交換も済ませてあった。だから、何を今更、と思ったのだ。意図が理解できずに思い悩んでいると「空丹」と、今度は膨れっ面で同じことを繰り返した。もしかすると彼女は真名で呼んで欲しいのだろうか? いや、しかし、それは余りにも――

 

「――畏れ多すぎます」

 

 と私は首を横に振った。

 霊帝は不機嫌そうに口先を尖らせたが、皇帝の真名を呼ばないことは私達の常識なのだ。皇帝の真名を下々の者が安易に口にしてはならない。誰が決めた訳でもないが、そういうものだと決まっている。膨れっ面の霊帝がずんずんと詰め寄ってきた。思わず、距離を取るように退いたが、すぐ背中が壁に当たり、その隙に距離を詰められて、横に逃げることもできなくなってしまった。

 至近距離で、霊帝が、真正面から、私のことを見つめてくる。膨れっ面のまま、気まずくて、唾を飲み込んだ。

 

「二人きりの時だけで良いわ。朕には真名で呼んでくれる人が居ないから、誰かに真名で呼んで欲しいのよ」

 

 そう言うと彼女は寂しそうにはにかんでみせた。

 そんなに辛いことなのだろうか。泣きたければ泣けば良いのに、と無責任に思った。泣けないのか、と考えを改める。幼い頃から頼れる存在の居なかった彼女は泣くことができなかったはずだ、守るべき妹の存在があったから泣けなかった。

 霊帝の頭に手を伸ばそうとして、握り締める。すると、霊帝はとても悲しそうに目を伏せる。畏れ多い、と思いながらギュッと目を閉じて、改めて手を開いた。そして、恐る恐る、伸ばした手の指先に、霊帝の髪が触れる。臆しそうになり、下唇を噛んで、彼女の頭に、ゆっくりと、震える手を乗せる。霊帝の頭の形が分かる、髪は綺麗で肌触りが良かった。

 

「これで勘弁してください……」

「………………」

「……空丹様」

 

 にこりと花が咲いたように空丹は笑った。

 こんなところを外戚連中に見られたら絶対に殺される。私か、霊帝、どちらかが確実に殺される。趙忠に見つかると、懲罰房で何ヶ月過ごすことになるのか分からない。そんなことを考えながら、ぼんやりと彼女の頭を撫で続けていると、空丹がとろんとした目で「ありがとう、紅」と乗せた手に頭を擦り付けてきた。

 いやもう、これは、どうすれば良いのか。とりあえず撫で続ける。ふと甘い果物の香りがして、今日は桃の香水を付けていることに気付いた。すんすん、と鼻を鳴らす。どうやら、こんなことに今、気付くほどに私は錯乱してしまっていたようだ。それはさておき何時まで撫で続ければ良いのか、何時になったら飽きるのか、無言のまま時は流れていく――

 現実時間では数分、体感では数十分、不遜にも私は空丹の頭を無心で撫で続けることになった。

 

「ええ、本当にありがとう」

 

 むっふー、と御満悦な顔を見せる空丹を見つめていると、私は漢王朝の今後について考えていた。

 今までは覚悟のようなものが足りなかったのかも知れない。漢王朝も私の代まで保てば良いと何処か投げやりに考えていた。今は少し漢王朝の今後について、気になり始めている。私には漢王朝を存続させようという意思はあっても、良くしたいと思うことはなかった。今も民草の暮らしに関しては、あまり興味はない。目の前の少女に対して優しい態度を取るのも宦官の将来の為に、即ち自分の地位の為に守り続けているだけに過ぎない。ただ同情はする、可哀想だとも思っている。だから、これはきっと、気の迷いだ。

 ふと思い返すのは昼間の事、謁見の間で見た慮植の姿だった。彼女の行動は最低でも降格、運が悪ければ処刑もあり得た。それでも彼女は身命を賭して、漢王朝と民草の為に訴え出たのだ。果たして、私は彼女と同じことができるのだろうか。分からない、できない気がする。でも猫が甘えるように私の体に身を寄せる空丹を見ていると、できるできないの問題ではないと思った。きっと、その時がくれば、私はやる。何故だか、そう思えてしまった。

 この後、好きに空丹を甘えさせていたら予想以上に時間が過ぎてしまったので、夜空を見るのはまた別の機会ということになった。約束ですね、と告げる彼女に、また抜け出してくるつもりなのか、と察した私の胃がキリキリと痛み出す。それからまあ、色々とあって、空丹と別れた後、部屋の入り口に掛けていた上着がなくなっていることに気付いた。肌寒かったのかもしれない、心身共に疲れ果てていた私は考えるのが面倒で、もう今日はさっさと寝てしまおうと寝台へと歩き出す。その時、ふと部屋にある鏡は目に入ったのだ。

 鏡の中の私は、不思議なことに笑っていた。

 

 

 

*1
皇帝の身辺警護を務める郎官の統率する役職。

*2
皇帝の傍に仕えて、身の回りの事を司る宦官専任の役職。

*3
皇后府を執りしきる宦官専任の役職。

*4
儒学の経典を訂正する目的で作成された石碑




これで書き溜め分、終わりです。

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