事務所に入って、私は中を見回す
いつも来る時とは違う、テレビも点いてないし、工場の方からラジオも流れていない
誰もいないし電気も点いていない、そんな空間
「ふーっ・・・あ、とりあえず荷物は私の机の後ろにでも置いておいて」
「はい、わかりました」
私は言われた通りに、雛子さんの机の後ろへ周り、床の上に自分のバッグを置く
その間に事務所の中の電気が点いていき、テレビの電源が入れられた
「ありすちゃん、私の机の横の壁に四角い機械があるでしょ?その機械の赤く光ってるボタン押してくれない?」
「これですか?」
「そうそう、それ」
壁にある棚の上に何だか黒い長方形の機械が置いてあったので、私は雛子さんに従いボタンを押した
すると、工場の方からラジオの音声が聞こえ始める
「あ、ひなちゃん戻ってきた・・・おー!ありすちゃんおはよー!!」
「お、おはようございます・・・」
工場への扉が開くと、何やら学校にあるような小さな机を持って美空さんが事務所へと入ってきた
「ありすちゃんの学生服初めて見た〜」
「す、すみません。何を着てきたらいいのかわからなくて、これなら失礼は無いかと思ったんですが・・・」
「可愛いからいいのいいの!」
「は、はぁ・・・」
そういう問題ではないのでは・・・?
しかし私が返事を返すと、ニコニコと嬉しそうな笑顔を浮かべて持っている机を雛子さんの机の後ろ辺り、私の荷物が置かれているところに置いた
「よいしょっと、急ごしらえだからこんなものしかなくてごめんねー」
そう言いながら美空さんは少し机をズラしながら位置を調整し、納得がいったのか腰に手を当てうんうんと頷く
その間に、雛子さんが事務所奥の衝立の奥から小さな金庫のような物を持ってカウンターへと戻ってきた
「あ、ひなちゃん。朝便で部品届いてたからサインして工場持ってった。伝票まだ整理してないから後から持ってくる」
「ん」
いつも通りの内容なのか、雛子さんが一言返事を返すと美空さんは私の机のさらに後ろ、様々な書類や本が置いてあるごちゃごちゃな机に座り、パソコンの電源を入れていた
私がそれを眺めていると、美空さんは''いや〜ん、散らかってて恥ずかしい〜''と机の上を覆い隠すように腕を置いていた
「いつも片付けろと言ってるんだけどこの調子なんだ、気にしないでやってくれ」
「あ、いえ・・・」
私が反応に困っていると、雛子さんが自分の机の端から雑巾の様な白い布を取り出して私に渡してきた
「じゃ、最初の仕事だ。この雑巾であそこのお客様用のテーブルとか椅子とかテレビとかを拭いてきてくれ。それが終わったら床を箒で掃いてゴミを取るから」
「はい!わかりました!」
私の最初の仕事は掃除から始まった
ーーーーーーーーーー
掃除している間に、着々と始業への準備が進んでいった
雛子さんは持ってきた金庫のお金を数えて、その間に美空さんはやることが終わったのか、大きなバインダーのような物に書類を挟んで、同じような物をいくつか脇に抱えて工場へと帰っていく
そして私も自分の仕事がひと段落して机に戻ると、机の上にいつの間にか、画用紙を三角柱の形に折り曲げたような、学校の選挙の時に立候補者の机に置いてあるような物が隅の方にポツンと置いてあり、そこにはマジックで''専務!''と書かれていた
字の形が美空さんの字に似ている
それを手に取ってボーッと眺めていると、床を掃いている傍らその様子を見ていた雛子さんと目が合った
呆然としていた私を見てふふっと笑う雛子さん
何だか子供扱いされているような感覚に恥ずかしくなった私は、椅子に座って自分の机を拭き始める
その時に、よく見知った人物が事務所の出入り口を開けて中へと入ってきた
「おはようございます」
「お、おはよう・・・」
私が挨拶するとその人物は大層疲れたような顔をさらにしかめながら、私と机の上に置かれた三角柱を見比べ始めた
「何やらお疲れの様子ですね。きちんと睡眠は取ったんですか?」
あまりにもだらしないその姿に私は思わず尋ねてしまう
しかし、いつもなら悪態をつきながら言い返してくるはずなのに、疲れた表情のまま何も言わず私の机の斜め前、雛子さんの隣のいつもの席へと座った
「察してくれ・・・」
「?」
頬杖をつき、額をその上に軽く乗せて項垂れたまま背中でそう呟く様子が見ていられなかったので、持ってきたお菓子でも一つあげようかと差し出したのだが
「チョコパイ?いや、今はいい・・・。というか、パイはもうお腹いっぱいだ・・・悪い」
「?」
ますますわからない
また誰かしらが家に行って、アップルパイだの何だの作ってお菓子パーティでもしたのだろうか?
愛梨さんや響子さんといったよく料理を作るメンバーも''日頃のお礼''だからと言って遊びに行ってるらしいし・・・
文香さんなら何か知っているだろうか?
「おはよう諸君!」
男性の渋い声が玄関から聞こえた
整えられた髭が特徴的な中年男性が事務所の光景を見て軽く頷きながら中へと入ってくると、雛子さんと零次さんがそれに気づき挨拶を交わす
「社長さん、おはようございます」
「おお、橘くん!おはよう。学生服がとてもよく似合っているよ、是非この機会に、色々な事を学んで行ってくれたまえ」
「はい、精一杯頑張ります。ですが、学生服でよかったんでしょうか?ちゃんとした服がこれしかなくて・・・」
「全然構わないよ。それに、学生らしくていいじゃないか!とても可愛らしいしね!はっはっは」
まただ
やっぱり何だか子供扱いされているようでむず痒い
雛子さんは社長さんの言葉にまたフフッと笑ってるし、零次さんを見ると若干背中を揺らしてクスクス笑い始めた
まったく、少なくともあなたよりは子どもじゃありません
「では、みんな揃ったことだし朝礼でも始めようか。雛子君、美空君を呼んできてくれないだろうか?ああ、橘君はわからないだろうから一緒に聞いていてくれるだけで構わないからね」
「はい、わかりました」
ーーーーーーーーーー
「大丈夫かな・・・ありす」
コーヒーを片手に、プロデューサーは一人オフィスビルの休憩スペースでノートパソコンを開く
ありすのスケジュール管理、ジャパンプレミアへの準備と資料作り、今回の職場体験に関する上への報告書とやることは山積みだった
ちひろさんがそれとなく専務へと話をあらかじめ流していてくれたおかげで比較的スムーズに事は進んではいるが、それはそれでまたやる事の''質''を高めなくてはならず、今回のアンバサダーの仕事にさらにプレッシャーが掛かることになっていた
しかし、彼にとってもこれは大きなチャンス、成し遂げなければならない
アイドル部門の命運がかかっていると言っても過言ではないのだ
ありすを信じていないわけではない、彼女ならやりきってくれる
だが、今回はそれだけでは足りない。全ての事がいい方向に傾いてくれなければ成功はあり得ない
様々な重荷をありすに背負わせるのは悪いと思っている
しかしそれでも彼はありすに任せてみたかった
これで彼女が更なる高みへと登ってくれると信じてみたかった
殻を破るには十分な機会だ
「あら、あんたありすのプロデューサーじゃない」
「あ、梨沙ちゃん。おはよう、今日は早いね」
「おはよう。あんたも・・・あー、あの仕事ね。どこもかしこも一緒じゃない」
プロデューサーの後ろから話しかけてきたのは的場梨沙
いつも通り黒髪ツインテールを引っ下げて、いつもの口調で話しかける
しかし、梨沙も今日の朝は少し様子が違っていた
話し終わると、はぁ・・・と一つため息をつき、壁際に設置されているドリンクコーナーでメロンソーダを注文し、プロデューサーと同じテーブルにつく
「なんだか、お疲れの様ですね」
「ホンッッットよもう、朝からウチのチビプロデューサーはありすのことでギャーギャーうるさいし、チビたちはチビたちでギャーギャーうるさいし、落ち着いてパパと話しもできないわ」
「あはは・・・うちのありすがお世話になってます」
「ありすはいいわ、うるさくないもの」
フンッと次から次へと溢れ出す感情を抑えるようにメロンソーダを飲む梨沙
そんな彼女を見ながらプロデューサーもノートパソコンに向かい、仕事を進める
「これね、ありすの仕事っていうのは」
「ええ、皆さんご存知の通りです」
ジャパンプレミアの資料を開いていると、プロデューサーの後ろから梨沙がパソコンを覗き込む
その資料に目を通していくうちに、次第にその表情が険しくなっていく梨沙
一読すると自分の席へと戻っていった
「こうして改めて見てみたらやっぱり大変そうねあの子。大丈夫なのかしら・・・」
「ええ、大変な事を背負わせていると自覚はしています。ですが、本人もやる気みたいですし、察しているとは思いますが、事務所全体が''そういう感じ''に傾いていますから今更断ることも出来ません」
「ふーん・・・」
ストローでメロンソーダをすする梨沙に、プロデューサーもコーヒーを一口飲む
お互いそうしていると、梨沙がふと気づき周囲を見回す
「そういえば、肝心の本人はどこ行ったのよ。てっきり朝からその事で相談してるのかと思ったのに」
「実は、今回は車の事について理解を深めるという名目で青葉自動車さんへ職場体験に行っているんです。皆さん大変信頼を置いていると聞きましたし、北崎さんとも皆さん仲良くされているとよく周りのアイドルたちが話しているのを目にするので」
「ケッッッ!!」
プロデューサーが言い終わると同時に梨沙はストローから口を離し、露骨に嫌な顔をしながら一言というか一文字吐き捨てた
「あんな男のどこがいいのよ!散々ケンカふっかけてくるし、かと思ったら桃華と346カフェで楽しそうに紅茶を飲んでるし、その後に別館に行ったと思ったら卯月とか悠貴とかにお菓子貰って一緒に話してるし、その次に本館まで戻ったら唯とか周子に引っ付かれて絡まれてるし、帰り際には瞳子とかレナに飲みに誘われてるんだからもう・・・見ててイライラするわ!なーに他の女の子に引っ付かれてヘラヘラしてるのよ!ホンッッット嫌!」
言いたいことを全てぶちまけたのか、梨沙はその熱くなった唇を冷やす様に一気にメロンソーダを飲み干すと、ストローを噛みちぎらんばかりに八重歯をむき出しにしてウーッと唸りながら食いしばっていた
「ふふふっ」
「何よ!」
ギョロっと、その鋭い目がプロデューサーに向けられる
「随分と、仲がよろしいんだなと」
「アンタ今の話聞いてた!?いつもアタシをイライラしかさせないのよアイツは!大体ね、この前の仕事の時なんか夕美と琴歌と・・・!」
梨沙が叫んでいる途中で、プロデューサーのパソコンにメールの着信が入った
ありすの仕事関係のようだった、社内メールのアドレスが載っている
それを開いて目を通していくと、どんどんとプロデューサーの顔が険しくなっていく
「これは・・・」
「・・・何よ、どうしたのよ」
ただならぬプロデューサーの様子に、梨沙もプロデューサーの背後から再び画面を覗き込む
読み終わる頃にはさっきまでの表情から一変、驚きと戸惑いと不安、そんな感情が隠しきれなくなっていた
「・・・アンタ、どうすんのよこれ」
水を差す、不協和音、まさにそんな表現が合うのかもしれない
この仕事の裏側から、まるでありすを利用するかのように、ジリジリと大きな影が忍び寄ろうとしていた