腕を大きく振っている千枝に見送られて
梅雨の雨に降られながら車を出した
とにかく星花の連絡があった場所へと向かう
上から降る雨の音が、一層強くなっていく
しばらく走らせていると教会が見えてきた
雷が上空遠くの雲の中で見える
都合よく今だけは降らないでほしいところだ
ただ今は、神に祈りたい
理由はともあれ、琴歌に何もないことに
「···あ、星花」
協会の前の駐車場に着くと、玄関の屋根の下で、暗闇の中小さな電球に照らされて星花と琴歌が立っていた
他のスタッフの人達はほぼほぼ撤収しているのか、まわりでレインコートを着ながら撮影用のセットのようなものにブルーシートを被せている人達が数名いるくらいで、普段着を着ているのはその二人くらいだった
俺の車を見つけると、星歌は腕を大きく上に上げて俺に合図を送る
今なら玄関の前まで車をまわせそうだったので、そのまま左側ん横付けする形で車を停めた
「零次さまー!」
「悪い、ちょっと遅れた。いやひどすぎるなこの雨」
車から降りて素早く玄関の中に入ったつもりだったが、その僅かな間だけでも服は結構雨に濡れてしまう
そんな服についた水滴を払っていると、星花は持っていたハンカチで頬を流れていた部分も拭いてくれた
そんなことをしている間にふと琴歌のことが目に入ったが、自分のバッグを手に持ったまま黙ってうつむいているだけで、何だかいつものアグレッシブさがない
「どうした?撮影は···終わったみたいだけど」
「えっとですね···」
星花の話によると、天候の関係で教会での撮影は一旦ストップとなり、明日にまわされるそうだ
それでも天候は晴れるかどうかわからず、最悪天候が微妙でもこの現場をおさえられる時間帯が決まっているため、一番大事なシーンということも相まってまわりのスタッフのスケジュールも考えて撮影は続行されるのだそうだ
しかし、今日の撮影中夕方くらいから何だか琴歌の様子がおかしいという
休憩中も黙り込み、隣に座って話をしようとしても生返事だけで、それ以外はうつむいて座っているだけ
普段なら会話が弾むはずなのに、ゆかりが話し掛けても智絵里が話し掛けても、大丈夫ですの一点張りで、カメラが回ると明日のリハーサルに赴く
集中しているといえばそう見えなくもないが、それにしてもいきなり変わりすぎて何だか不安になってしまったらしい
こそこそと琴歌に聞こえないように話している今でさえ、本人は全く気にもとめてないのか、何だかボーッとしているような態度で少しお腹を抑えているような、完全に沈黙を決め込んでいた
「とにかく、早く帰るぞ、風邪引いちまうよ。他の···ゆかりと智絵里はどうした?」
「あのお二人は、この後別の収録があるので、撮影が終わった後、先にプロデューサー様が迎えに来られました」
「その時一緒に帰ればよかったんじゃないの?二人乗りじゃあるまいし」
「いや、その···それが···」
星花は言い淀むと、ゆっくりと隣の琴歌を見た
一緒に帰ろうかと二人もプロデューサーに誘われたが、返事をしようとした星花の腕を引っ張って琴歌が拒否したらしい
そのまま一人ここに残していくのも何だか心配だったので、星花も一緒に残り、俺に連絡したのだという
「なるほど···何か悪いもんでも食ったのか?」
「いえ···昼食はスタッフの方々が用意してくれた同じものを召し上がりましたし、その後は撮影で忙しく、飲み物すら口にしていません。日程も日程だったので、リハーサルに次ぐリハーサル、そして本番と色々···そう、''巻き''だったので」
となると···やはり思い付かない
星花の目の届いてないところで何かあったかもしれないが、そもそも俺も現場にいなかったので考え付きもしないな
「とにかく、早くここを離れよう。琴歌には後でゆっくりと聞くとしっ···!!」
「零次様!」
「···零次様!」
玄関に背を向けて二人を車まで誘導しようとしたその時、後ろから背中に向かって何かがぶつかってきた感触がした
突然のことだったのでバランスを崩し、なんとか星花と琴歌を巻き込まないように玄関側に押しやる形で、俺だけどしゃ降りの中地面のアスファルトの上に投げ出され、これまた運悪く小さな水溜まりの中へと着地してしまう
「ひゃっ···!」
「あ···」
玄関側に押しやられた二人も転びそうになっていたが、玄関から出てきた男二人組に寄りかかる形で転倒は免れていた
これで、二人が怪我をすることだけは、避けることができた
「おっとっと、大丈夫~?星花ちゃん。あぁ、おにーさん失礼失礼。わざとじゃないんだよ~、玄関の真ん前突っ立ってんのが悪いんじゃん?」
「おっと、琴歌ちゃんも。大丈夫?フラついてるね」
地面にうつ伏せに倒れてる後ろから、それは聞き覚えのあるイケメンボイスが聞こえてくる
俺は少しだけ顔をずらして後ろを覗き込むと、あの若い俳優が星花の肩に腕を回して支えるように抱えており、琴歌はそう、あのドラマの中での相手役のベテラン俳優の男に腰に手をまわされて、抱き抱えられるように支えられていた
「雨ひどいね~星花ちゃん。あ、少し顔濡れちゃってるじゃーん。待って、今ハンカチ出すから···」
「いえ、結構です」
星花は一言そう返事を返すと男の手を振り払い、この雨の中外へと飛び出して、倒れていた俺に駆け寄り顔を覗き込むように地面に座り込んだ
その高そうなスカートもアスファルトを流れる泥水で汚れてしまい、その肩にかかってるカーディガンもすっかり雨でずぶ濡れになり、せっかくのメイクも流れて、自慢の黒い綺麗な長髪も振り乱しながら、俺の両肩に手を添えてくれていた
「零次様、大丈夫ですか?しっかりなさって」
星花に肩を支えられながら、俺はゆっくりと上半身を起こして体についた砂利を払い落とす
お互いずぶ濡れになりながら、俺も星花を支えてゆっくりと立ち上がるのだった
「···お前、せっかく濡れないようにしてやったのに」
「助けるのは人として当たり前ですわ。私、カッコ悪い人間にはなりたくないものですから」
「そのせっかく高そうな服も···」
「安物ですわ、お気になさらないでください」
そう言ってくれる星花とは一転、そんな俺を見てもあの口の軽い男は悪いと思っているのかいないのか、見向きもせず今度は琴歌に近づいていく
「あ、あの···私は···」
その手に持ったハンカチで対して濡れてもいない琴歌の頬を拭い、二人の男に前と後ろから挟まれる形で居づらそうに身をよじる
もう反論する元気すらないのか、その表情はとても楽しそうには見えない
作り笑いも何だかぎこちなくて、それでもその男二人は必死に琴歌に取り入ろうと琴歌を支えているていで肩や腰を触ろうとしていた
「あいつら···」
俺が飛び出すより一歩早く、星花が乱れた髪を両手で後ろに振り払い、スタスタとその琴歌の元へと近づいていくと、その琴歌の腕を掴んで無理やり引きずり出し、その胸の中に抱き抱えるのだった
「失礼、わたくしたちはこの後予定がございますのでこれで失礼させていただきますわ。また明日、よろしくお願い致します」
「そんな~星花ちゃん。雨が上がるまでゆっくりしていっt」
「結構です」
後先考えず無理を言う相手にいよいよ星花もブチギレるかと思ったが、そこはやっぱり家柄がしっかりしてる娘さんだ、冷静な態度を崩さず淡々と笑顔を浮かべて淡々と一言そう言い放つだけだった
俺はそのやり取りをしている間に、車のエンジンを掛けて、寒くないようにヒーターを付けて、すぐに出発できるように準備を整えておいた
星花はそれを確認すると、すぐさま琴歌の肩を抱き抱えて男二人に背を向け、後ろの座席へと乗り込みドアを閉めた
それと同時に俺は車を発進させるのだが、その際に見せたあの男二人組の表情
まるで勝ち誇ったかのような、俺を蔑んでいるかのような、そんな人を下に見るような目でずっと見続けていた
「零次様、きちんと前を向いて運転してくださいましね」
「ああ、わかった」
ミラー越しに目が合った星花にそう諭されて、俺は男共から目をそらして会社に向かって車を走らせる
後ろの席では星花がハンカチで濡れてしまった琴歌の顔を拭いてあげているのだが、それでも琴歌は心ここにあらずで黙ったままだった
ーーーーーーーーーー
「ちょっと待てよ···よし、開いた。先に入っていいぞ。あ、その壁の電気点けてくれ」
「はい、ありがとうございます」
雨から逃げるように、俺は自分の部屋の玄関を開けて、琴歌に中に入るように促した
琴歌は言われた通りに中へ入ると、壁のスイッチで電気を点けて、靴を脱ぎ、廊下を歩いて奥のリビングの電気を点けてといつものように部屋へと入っていく
会社に着いた後、星花に用事があったのは本当で、そのまま事務所でプロデューサーを待っているという
琴歌のことをお願いしますと強く頼まれたので、琴歌の屋敷まで送っていこうとしたのだが、道中琴歌が''今日は家に帰りたくない''とこっちもこっちで強く首を横に振った
今日は姉さん達は出掛けているためガレージは無理、鍵を開けて入ってもいいが琴歌が今日は俺の家に来たいというからしょうがなく招くことにした
琴歌の体調も心配だし、これなら屋敷の人達に任せたほうがいいんじゃないか?
「荷物は適当に置いてくれ。部屋は···片付いてるみたいだから」
響子が掃除してくれたのか、部屋は綺麗に片付いていて、あいつらが出しっぱなしにしていたヘアアイロンやら化粧品やらマニキュアやら木刀やらベッドホンやらバイクの雑誌やらアサルトライフルやらは綺麗に棚や小物入れやらに収められていた
後で響子にはお礼を言っておかないと
「ほら、まずはタオルで髪を拭け」
おとなしくリビングのソファーに座った琴歌に洗面所から持ってきたタオルを放り投げる
そのバラバラになったピンクの長髪を撫でるようにタオルで綺麗に拭き取ると、タオルを握りしめたまま、また黙り込む
俺や星花ほど雨に打たれてはいないので服は大丈夫そう
「昼から何も食ってないんだから、腹も空いたろ」
台所の戸棚を開けて、しまってあったカップ麺を適当に出して見せたが、本人は首を横に振っていた
「じゃあ···、ん?」
またまた今度は他の奴らがどこからか買ってきて置いてあった駄菓子を見せたが、また首を横に振るのだった
何も言わないんじゃこっちだってわからない
もしかしたら、デリケートな問題かもしれないし
「なぁ、一体どうした?」
そう尋ねても''はい···''としか言わない
しつこく聞くのも何だか気が引けるし、とりあえず明日に備えてやることをやるしかないのか
「じゃあ、まず···風呂入ってこい。そのままじゃ風邪引きそうだ」
「···そうですね、そうさせていただきますわ」
風呂には入りたかったのか、すんなりと言うことを聞いた
荷物を寝室に持っていくと、クローゼットから自分の着替えを取り出して風呂場へと向かっていく
俺はその間に自分の準備を済ませようと寝室に向かおうとしたら、後ろから話し掛けられた
「零次様は···大丈夫ですか?」
「ん?何が?」
「あの、私よりも···随分と雨に当たっていたので···」
ここにきて俺の心配をする琴歌
やはり礼儀は行き届いているお嬢様だ
その気持ちは嬉しいがまずは琴歌が先だ
とにかく俺は後でいいからと伝えると、琴歌はそのままリビングの扉を閉めて出ていった
俺はベッドに座り、やっと腰を落ち着ける
しばらくボーッとしていると、風呂場からはシャワーが流れる音が聞こえてきた
今日は本当に色々なことがあった
千枝たちの撮影に同行したり、千枝とデートしたり
本当にあれで正解だったのかはわからないが、最後には千枝は笑ってくれていたので、上手くいったと思いたい
後は琴歌のことだが、一体何があったんだ?
撮影で上手くいかないことがあったとか···可能性は捨てきれない
色々と考えを巡らせてみたが、どれもしっくりと来なかった
その時だった、風呂場から何か重い物を床に落っことしたような鈍い音が聞こえてきた
「···琴歌?」
突然のことだったので俺もリビングから出て風呂場の扉の前から琴歌に話し掛ける
が、シャワーの音が響いているだけでまったく返事がない
「おい···、琴歌ー?」
扉をノックしながら話し掛けても、やはりシャワーの音だけだ
しかし、そのシャワーの音が一定でどうも体を洗っているという感じがしない
俺は意を決して風呂場の扉を開き、浴室の扉の前まで行ってみた
すると、モザイクがかかったガラスから見えたのは、床に固まって見える肌色の塊と、床の上で水を出しながら暴れまわっているシャワーベッドだった
「おい、おい!琴歌!おいしっかりしろ!」
大変なことが起きてると悟った俺は、浴室の扉を叩いて必死に声をかける
床に転がっている琴歌はもぞもぞと動いていたが返事はなく、立ち上がる様子もない
ただ転んだだけではなさそうだった
「ほんっっっとに···!こんなときに限って誰もいない···!琴歌、許せ!」
運良く浴室の扉には鍵がかかっていなかったので、琴歌に当たらないように開けると、溢れ出てきた湯気が晴れると同時に、床にうつ伏せになって倒れ込み、小さく苦しそうに唸っている琴歌の姿が見えた
「おい琴歌!琴歌!しっかりしろ!どうした!おい!」
お腹に手をまわし、俺に背中からもたれかかるように琴歌の体を支えて俺は必死に呼び掛ける
琴歌は気分が悪いのか少し唸っていながら、その呼吸はなんだか深く、朦朧としているようだった
「お前、こんなになるまで一体···」
「はぁ···はぁ···は、うっ···うっぶ···!」
突然琴歌が苦しみだした
俺の体を振り払い、口元をおさえながら浴室を飛び出していく
起き上がってその後を追いかけると、琴歌はトイレの扉を開きっぱなしのまま、四つん這いになり上半身を室内につっこんだ状態になっていた
「おえぇぇぇ···、うっ···おえぇぇぇ!ゴホッ!ゲホッ!おえぇぇぇ!!」
「こ、琴歌···」
とりあえず俺は電気を点けて、苦しそうにしている琴歌の体にバスタオルをかけてやると、後ろからその背中をさする
もう素っ裸だろうがどうでもよかった、この状態でちゃんと着替えさせるのは無理なので、とにかく寒くないようにバスタオルでくるんでやる
「ゴホッ···ゴホッ···ゴホッ!おえぇぇぇぇっ!!ぶふっ···!はぁ···はぁ···」
琴歌は両手で便器を掴み、尚も吐き出し続ける
おかしい、どう考えてもおかしい
昨日まであんなに元気だったのに、こんなになるなんて
「ごほっ···うっ···うっ、ぐすっ···うう···ううぅぅぅ···」
「···大丈夫か?」
やっと顔を上げた琴歌は、口元を拭いながら、ゆっくりとこちらを向く
その目からは大粒の涙が流れており、頭を下げながら小声で俺に謝り始める
「ごめんなさい···ごめんなさい···本当にごめんなさい···。こんな···こんな···私···」
「なんで謝る。まだ何も言ってないだろ、なんも悪いことなんてしてないじゃんか」
「だって···私···わた、おえぇぇぇぇ!!」
また便器を掴んで、琴歌は苦しみだす
救急車を呼ぼうか俺は本気で悩んだが、片手で琴歌に腕を掴まれて、首を横に振られる
とにかく俺は、聞こえてるかどうかはわからないが、今日何かあったのか尋ねると琴歌はリビングを必死に指差していた
俺は思い付く限りに琴歌に尋ねると、自分の手荷物について聞いた時に大きく首を縦に振るのがわかった
俺はすぐさまリビングに戻り、琴歌のバッグの中身をテーブルの上にひっくり返す
小さな手鏡、ペットボトルの飲み物、筆記用具に予定帳、小さな文庫本と琴歌に申し訳ないと思いつつもバッグの中を漁る
すると、一つ小さなゴミのような物がポロポロっと落ちてくるのが見えた
なんだろう、ひっくり返しておいてナンだが、色々と物は入っていてもゴミなんて一つも入っておらず、キチンと整理されているように見えたんだけども
とりあえずバッグを置いて、その落ちてきたゴミを手に取って観察してみた
何かの···錠剤が入っていたようだ
病院で処方されるような、押して裏の銀色の部分を破って出すタイプ
何かヒントはないかとその破れた部分をよく見てみると、何かの成分か名前が読めた
クロ···何と読むのか、英語だ
こんなの俺にわかるわけがない
「おえっ!ゴホッ!ゴホッ!」
今もなお、琴歌は苦しんでいる
薬のことなら···思い付く限りではあいつに聞くしかないが···
「うっ···ぐすっ···うううぅっ···!うわぁぁぁ···うっ!おえっ、えぇぇぇ···!」
「しっかりしろ、今あいつ呼んでやるから」
時間はもう、夜遅い
俺はもうなりふり構っていられず、電話をかけることにした
このときほど、連絡先を交換しておいてよかったと思うことは今までなかった
ーーーーーーーーーー
ピンポーンとインターホンが鳴る
あれから約20分くらい、俺はすぐさま玄関のドアを開けると、そこにはレインコート姿のまま雨でびしょ濡れになっていた一ノ瀬志希が立っていた
「こんな夜に悪かった」
「いいよ、家近いし。で、本人はどこにいるの?」
普段のおちゃらけた口調ではなく、至って真面目に、鋭い目付きで俺を睨み付けていた
俺が説明するより早く、背後のトイレにいるのを見つけると、レインコートを脱ぎ捨てて俺に預け、玄関に靴を脱ぎ散らかして素早く本人に近寄っていく
「これは···大丈夫?ちょっと顔上げてもらえる?そうそう、ゆっくりゆっくり」
俺がレインコートをハンガーにかけてる間に、一ノ瀬志希は四つん這いになっている琴歌の肩に手を当ててゆっくりと上半身を起こしていく
そしてその起き上がった琴歌の顔を正面から見て、人差し指を立てた状態で顔の前に持ってくる
「はい、この指が見える?···そうよかった。はい、右、次左」
志希は自分の人差し指を琴歌の顔の前で左右に行ったり来たり
琴歌の後ろから見ているので俺からは琴歌の反応はわからないが、一ノ瀬志希の様子を見る限り大丈夫なようだ
「ふむ···、目の充血はない。視点もブレてない。受け答えも出来てるし、意識もハッキリしてる。中毒症状もなさそう、だけど···」
「うっ···!おえぇぇぇっ!」
一ノ瀬志希を押し退けて琴歌は再び吐き出し始める
その様子を背中をさすりながら見ている一ノ瀬志希は、ひとまず立ち上がって俺のもとへと近づいてきた
「この吐き気···、で、例の物は?」
「あ、あぁ」
俺は言われた通りに、琴歌のバッグから出てきたあのゴミを一ノ瀬志希に見せた
形状、そして裏の銀色の部分に書かれていた成分を読み取っていく
そして何かにピンと来たのか、難しい顔をしながら、一ノ瀬志希は琴歌に聞こえないように俺に尋ねてきた
「ねぇ、アタシあんまりプライベートすぎる問題には首つっこみたくないんだけど、琴歌ちゃんって婚約者とかいるの?」
「いや、俺は聞いたことないけど」
お金持ちだからもしかしたらとは思ったが、琴歌の口からもそんな話聞いたことないし、昨日のお父さんの口ぶりからもそんな感じはしなかった
部外者だから話さないっていうこともあるとは思うが、男の勘では今までの行動を考えるとそんなそぶりはないと思う
「じゃあ···恋人がいるとか、別に恋愛禁止じゃないし」
「いや···それも聞いたことない」
恋人がいたら俺の部屋に入り浸ったりはしないだろう、いくら何でもそんなレベルで常識外れなお嬢様じゃないだろうし
一体何だ?一ノ瀬志希は何が引っ掛かってるんだ?
「じゃあ、零次さんに聞くね。''クロミフェン''、''シクロフェニル''、''レトロゾール''、この中でピンと来た単語はある?」
「いや、全然」
「じゃあ、第三者ってワケか···、この状態じゃ琴歌ちゃんもまともに答えられそうにないね」
二人で琴歌を見るが、苦しそうにしている様子は相変わらずだ
さっきよりはほんの少し···マシになった気もしないでもないが···
「なぁ、一ノ瀬志希。それは一体何だ?ヤバい薬なのか?」
「いや、ヤバくはないよ。ヤバくはないけど···使い方によってはヤバい」
「···どういうことだ。何の薬なんだ」
聞き返すと、一ノ瀬志希は覚悟を決めたのか、一度深呼吸して俺にその薬の入っていたゴミを見せつける
「これね、あのね、赤ちゃん作る時に使う薬なの」
「おえぇぇぇっ!!ゲッホ!ゲホッ!」
正直言って、最初は一ノ瀬志希が何を言ってるのかわからなかった
ーーーーーーーーーーー
「んっ、んっ、っかぁ~、いや~ご馳走さまっす先輩!」
「ふふっ。ほら、まだ食え。明日で撮影も終わりだからな」
「じゃあ、明日にすればよかったっすね」
「明日はほら、''忙しい''」
男二人は、周りの客たちに紛れ、お互いにビールジョッキを片手にしながら、居酒屋のカウンター席に座って、アルコールに身を任せながら陽気に会話をする
机の上には酒のつまみとして定番な枝豆と唐揚げ、しかし彼らの本当の''つまみ''はその食べ物ではないらしい
「最終日だ、きっと何かと理由をつければついてくる。あそこまで他人を信じやすい女の子は初めてだよ。そう思わなかったか」
「そうっすね~、じゃないと''アレ''は飲まないっすもんね普通。まぁ、サプリだって言ったのもあれっすけど。でもほんとダメっすよ?普段サプリだけじゃ」
「わかってるわかってる。だからこうして飯を食いに来てるじゃないか」
「酒入ってますけどね~。それにしてもあの薬本当に大丈夫なんすかね?何回あげてたんすか?アレ」
「大丈夫だと言われたんだから大丈夫だろう。女が飲むものには変わりないんだから」
「それもそっすね~」
会話を弾ませながら、二人は再びビールを胃に流し込んでいく
追加のつまみも届いたところで、ふと居酒屋な中を見回した男の視線の先に、女性たちのグループが映るのだった
「おいっ」
「なんすか?おお、美人さんたちっすね、行くんすか?」
「声かけなきゃ失礼ってもんだろ?奢ってやるって言ったら俺たちなら一発よ」
「それも···そうっすね~!」
そして男二人は、その女性たちのグループがいる個室に向け、足を進めるのだった
ーーーーーーーーーー
「はぁ···はぁ···はぁ」
さっきよりは少し落ち着いたことがわかった
ゆっくりと背中をさすってやると、ゆっくりと顔を上げて、座り込むことができるようになっている
少し嗚咽は残っているのか、時折口元を手で抑える仕草はしてはいたが、大分意識もハッキリしてきて、受け答えも出来るようになっていた
「うん、お風呂も見てきたけど、出血はなさそう。大丈夫?お腹がどっかめちゃめちゃ痛かったとかなかった?」
「いえ···、なんだか違和感を感じる時はありましたが、うっ···そこまでは···」
「そっか、まだ比較的軽症だね、よかったよかった、頑張ったね~」
風呂場から戻ってきた一ノ瀬志希は、座り込んでいる琴歌に寄り添うと、若干いつもの口調に戻しながら安心させつつ、背中をさすっていた
「とにかく、今日は安静にすること。暖かい格好をさせて、明日の朝に食欲が回復したら何か食べて栄養を取ること。ただでさえ体が冷えて免疫が下がってるから。無理はしちゃダメだよ?ゆっくりゆっくり~ね?」
「はい、すみません···ありがとうございます」
「いいってことよ~ん」
琴歌の表情にも、少しだけ笑顔が灯る
そして俺は、ずっと気になっていたことを琴歌に質問することにした
「琴歌、お前こんなに辛かったなら、すぐに病院にいくなりなんなりすればよかったじゃないか。どうしてこんなになるまで···」
「···それは」
そして琴歌はポツリポツリと話し始める
ドラマの最終回、大事なシーンで撮影できる期間も限られているため、休むわけにはいかなかったこと
家に帰ればきっと病院に連れていかれ、明日の撮影には出られなかったこと
そして何より、共演している星花や智絵里、相手役のベテランの俳優さんたちに心配をかけたくなかったこと
自分のせいでこんなことになって恥ずかしかったことなど、途切れ途切れに語り始める
「だから···私、こんな···こんな情けない···!」
最後には、両手で顔を覆って泣き出してしまった
まだバスタオル一枚にくるまっているだけの状態なのに、せきを切ったように今度は感情を吐き出し始める
琴歌に寄り添っている一ノ瀬志希が握っていた錠剤のゴミが、握り始めた拳でぐちゃぐちゃになりはじめた
「···零次さん。これでわかったでしょ?誰だか知らないけど、他人の身勝手な行動で···特にこういうことで傷つくのはいつも女の子なんだって」
その場で立ち上がって、一ノ瀬志希は俺に言い聞かせるように言うのだった
「この薬だって、本来ならパートナーと話し合って、キチンと医療機関を受診して、体に合ったものを必要な量だけ処方するものなのに。こんな···ただ女の子を赤ちゃんを産むためだけの道具みたいな扱いをする人が、世の中にはいるんだって」
「···クズだな」
琴歌は何も悪くない
ただひたすら、作品をいいものにしようとしていただけなのに
「この薬だけじゃない。ピルだって、飲んでるってことは生でヤれるってことしか考えてないバカも世の中にはいる。体調を整えなくちゃいけない日だってあるでしょ?この際だから言うけど、生理痛だってメチャクチャ辛いんだよ?それを抑えるために飲んでる人だっている。何でもかんでもセックスに繋げて考えるバカが、アホみたいにいるわけ」
俺は改めて、泣いている琴歌を見る
こうして涙を流す女の子が、世の中には沢山いるってわけだ
「そしてそれも、使うならちゃんと定期的に検査を受けないといけないし、男のエゴで言いくるめられて無理やり飲ませたり、適当にやって量を間違えたりすると」
「うっぷ···!おえぇぇぇっ!」
「···こうなる」
再び琴歌が、一ノ瀬志希を押し退けて便器に頭を突っ込んだ
「下手したら今回の薬も、子どもを作れない体になる可能性だって。さっき、お腹に違和感があるって言ってたけど、それは卵巣に作用しはじめてた証拠。本来なら必要ない排卵誘発剤で、無理やり動かすんだもん、もう少し用量を間違ってたら破裂してたかもしれない」
···何も出来ない自分が惨めでたまらない
今の琴歌の痛みを理解してやることが出来ない
生物学的に違う、同じ人間なのにまだわからないことだらけだ
「とにかく、ある程度落ち着いたらまず服を着せないと。零次さん、パーカーとかあるでしょ?貸してあげて」
「あ···あぁ、わかった」
一ノ瀬志希が琴歌の体を拭いている間に、俺は着替えを取りに行く
皆が着回しているパーカーを上下持っていき、一ノ瀬志希と協力して何とか着せた
琴歌はまだ少しフラフラしていて危なっかしかったので、俺が支えながら一ノ瀬志希が下着等を履かせたりつけさせたり
何とかして着替えを終わらせてあげると、ベッドへ運んで横にならせた
「じゃあ、朝までお願いね零次さん。朝になっても症状が回復しなかったら無理はしないこと。一緒にいてあげたいけど、アタシも明日朝早いの」
「ああ、悪かった。色々と···勉強になったよ」
「うん。ま、零次さんなら大丈夫だと思ってるけどね~。だって、まだアイドル童貞だし」
「···なんだそれ?」
「いやいやこっちのハナシ~。明日全部終わったら、絶対病院に連れていくこと。それじゃ···」
そう言って枕元から離れようとした一ノ瀬志希の腕を、琴歌は弱々しく掴んだのだった
「···あの、志希さん···」
「···ん~?」
一瞬複雑そうな表情をした志希だったが、すぐにいつもの笑顔を浮かべて琴歌に振り向いた
「···ありがとう···ございます」
「···」
そう言われると、志希は再び表情を変える
何かを噛み締めているのか、どう返事を返したらいいのか、珍しく本当に複雑そうな表情をしながら一言だけ''うん''と言って玄関へと向かっていく
「ねぇ、零次さん」
「ん?」
レインコートを着て玄関の扉に手をかけると、俺に振り返って尋ねてきた
「今日は琴歌ちゃんの側にいてあげるんだよん」
「···あぁ、わかった。···志希」
「やっとフルネームじゃなくて名前で呼んでくれたねぇ~」
それだけ言って出ていこうとする志希に俺は傘を貸してやると、子どものように嬉しそうに飛び出していくのだった
そして俺は寝室に戻ると、琴歌の枕元のすぐ近くに腰をおろして、ベッドを背もたれにして座り込んだ
琴歌はまだ少し苦しそうに、ベッドの中で唸っている
とりあえず飲み物だけでも置いておいてやろうと立ち上がろうとすると、俺の手を掴んで不安そうな顔を俺に向けてくる琴歌
俺はそのまままた座り込むと、握られた左手だけを枕元に置いて、琴歌が寝静まるまで近くにいてやった
神様、琴歌はこんなに頑張っているんだ
何とかしてやることは出来ないのだろうか
外でまた、雷が鳴り響く