もうすっかり夕方になってしまった
時々お客さんは来るが、それでも暇だった
もっとも仕事はあるにはあったが
トントン拍子に片付いていった
笑ってしまうくらいに仕事がない
「すでにもうやることがない」
ひな先輩のデスクの上でクロさんがぼやいている
終業の一時間前、夕日が差し込む事務所の中で、俺とクロさんはキーボードを叩くのをやめて、テレビでやっている情報番組を眺めていた
一日の様子を振り返る生放送の枠でゲストに来ていたのは、なんと千枝だった
専務がこのテレビ局の番組に出ることを許可したのが信じられなかった
もしかしたら美城の上の方から言われたからかもしれない
「この子が仕事仲間か、朝も来ていた」
「ええ、まぁ」
「随分と若いな」
俺としては複雑だった
ありすのファイスピ特番で許可した時から、過去のことは水に流すようにちょくちょくと仕事の依頼は来ていたようだったが、プロデューサーたちは言い顔はしていなかったと聞く
例のディレクターは排除されたようだったが、その後テレビ局内の''文化''がどうなったのかがわからない
他にも甘い汁をすすっていた者が他にいたのだとしたら、チャンスをうかがっている可能性がある
それが考えられる以上、専務の気持ちは俺にもわかる気がした
「二人とも、お疲れ様。さぁさぁ、コーヒーでも飲んで落ち着こうじゃないか」
俺とクロさんの目の前のカウンターに、それぞれ美味しそうな香ばしい匂いのするマグカップが置かれた
「今日もお疲れ様。クロ君もすまなかったね、こっちに帰って来てたのだから、もう少しゆっくりしていたかったのではないかね?」
「ホテルにいてもやること無いですし、車も何もかも海の向こうですし、アネキに会いたかったですし、それに、十分すぎるほど···ゆっくりしてましたし。すみません、いただきます」
「ははは···なんとも、面目ない」
ジョークを飛ばしながら、クロさんはマグカップを受け取ると、社長に向かって少しマグカップを掲げて口をつけた
俺もありがたくいただくと、姉さん達にも持っていくのであろう、また給湯室へと戻って再び二人分のマグカップを持つと、工場へと向かっていった
工場からは既に三時のおやつ休憩の時から仕事らしい仕事の音は聞こえなくなった
その後やっていたことといったら、姉さんもシロさんも自分の車を入れての作業だった
姉さんはスカイラインのオイル交換、シロさんはダットラのドアに張り巡らされていたガムテープを剥がして、くたびれているドアの開閉部分のヒンジを曲げてドアがしっかり閉まるようにしていた
暇をもて余すほど暇だった
「仕事の電話は、こないみたいだな」
「気を使ってくれてるみたいで」
美城プロから貰った携帯も鳴ることなく、デスクの端に転がっていた
様々なメンバーから俺の携帯に心配の声が届いていたので、幸子にそっちは大丈夫かと聞いてみると、プロデューサーたちが何とか合間を縫って助け合いながら送迎に勤しんでいるらしい
前期末ということで色々なテレビ局を忙しく転々とすることもあるため、車での移動が重要になってくるとのこと
「明日になったら掛け合ってみていい。これだけ暇なら何とかなりそうだから。明日の予定を見てもそんなに仕事は入ってないし」
仕事に関してはあまり社長の前では言わないほうがよさそうだった
俺ももうぼちぼちと帰る準備でも始めることにした
シロさんも自分の車を工場から外に出したところを見ると、姉さん達もこの様子ならそうし始めるだろう
現に社長が戻ってこないのだからコーヒーブレイクしているだろうし
ふと美城の携帯を見てみると、千枝や梨沙からメッセージが届いていた
テレビではすでに千枝の生放送のコーナーは終わっていたようで、俺が少し心配していたのを見抜いていたのか、''無事収録が終わりました。これからりあむさんたちのプロデューサーさんに家まで送ってもらいます''とのことだった
あれだけ時間に厳しく、アイドルのことを考えているプロデューサーだ
真面目すぎるのが難点だが、今回ばかりはその性格に感謝しよう
何か局のスタッフにちょっかいをかけられる前にそこから連れ出してくれる
「零次君。この際だ、一度美城プロへ行って、大丈夫と一言だけでも伝えてきてはどうかね?」
「ああ、すいません社長。···いや、きっと大丈夫だと思いますよ。あいつらはあいつらで上手くやってるみたいだから、大丈夫そうですし」
いつの間にか戻ってきていた社長が、後ろからそう言ってくる
「そうかい?きっと彼女たちが心配しているのは、仕事のことばかりではないと思うんだがね。零次君の携帯が今日に限って鳴らないのも、彼女たちが気を使っている証拠ではあるが、大丈夫そうに見えて内心どこか、雛子君だけでなく零次君のことも気に掛けている証拠であると、私は思うよ」
「女はよくも悪くも、''嘘つき''だからな」
クロさんの言葉に、俺は再び携帯電話のメッセージに目を通す、梨沙のアカウントだ
''あんたも今日くらい、一日会社で仕事に励みなさいな。こっちはあんたがいなくてせいせいするわ''
とご丁寧に絵文字まで付けて送ってきていた
その下に追伸と書いてあり、仕事終わりに駅前の数量限定ゴージャスセレブプリンを食べて会社に帰る、あんたの悔しがる顔が見られなくて残念ねと余計な一言まで書いてある
黙っていればかわいいのに、わざわざおちょくってくるとは本当に生意気な娘だ
「それならば、零次君にお願いがある。そろそろ前期末だから、会社の車の売り上げをどうするのか今西君に聞いてきてほしいんだ。いつもなら雛子君がやっていることなんだが、手伝いに来ているとはいえクロ君ではわからないところもあるからね」
「その辺のやり取りとかコミュニティは私にはさっぱりだ」
クロさんも両手を上げて左右に振りながらわからないとジェスチャーを始める
無理もない、お客さんや会社とどういう関係で、どういう付き合いなのかは社員じゃないとわからないのは当たり前だ
ついでに請求書も出してきてほしいと、社長がひな先輩のデスクの上から一枚の紙を取り出して、会社の封筒に入れて俺に渡してくるのだった
「あら、レイジ君美城プロ行ってくるの?こっちは大丈夫だよって言ってあげてね。あと、人もいるからレイジ君に連絡してもいいよって」
「わかりました」
「キュートガール達に会ってくるんだね!そのままデートに行くのなら残念、今夜はリーダーのガレージで焼き肉なのに」
「全然デートとかじゃないですから。あと多分、今日は俺もガレージに戻ります」
工場から戻ってきた姉さんにも後押しされて、美城プロへと赴くこととなった
千枝のことや、それからそのテレビ局との付き合いについて聞いてもみたかったし、丁度良かったのかもしれない
それに、連絡が来ていないところを見ると、今日は俺の部屋にも誰もこないと思う
こんな状況だ、さすがにあいつらもわきまえていると思う
そこまで薄情ではないだろう
それに、何だか今は一人にはなりたくない気分だった
ーーーーーーーーーー
大きな玄関をくぐり抜けて、本館へとたどり着いた俺は受付へと向かっていく
相変わらず目を引く大きなシャンデリアと、豪華な大理石のような床
歩く度にそのエントランスに足音が響き、その会社の規模の大きさに感心してしまう
時間が時間なのか、仕事を終えて家に帰る格好をした社員の人とすれ違う
軽く会釈してくれるようになったのは、大分俺がここに馴染んだ証拠だと思う
「少々お待ちください」
左奥の受付に立ち寄ってお姉さんに今西さんについて尋ねると、今西さんがいる部署へと内線を繋いでくれた
やはり忙しいからか、中々電話が繋がらない
部署から部署へ内線が転々とし、親機の内線番号の光がチカチカと点滅を繰り返していた
「そうですか、わかりました。ありがとうございます。···北崎様、すみません、お待たせいたしました」
やっとお姉さんが受話器を置くと、受付カウンターの上に置いてあった地図を使って丁寧に説明してくれた
どうやらオフィスビルにいるようなので、ここまで来てもらうのも悪いと思い、自分で向かうことにした
本館を抜け、渡り廊下を歩いて、絨毯に変わったロビーを進み、エレベーターのボタンを押す
社員でもないのに既にどこをどう行ったらいいのか身に付いてしまっていた
ロビーの匂い、そして開いた扉をくぐった中のエレベーターの匂い、どれもこれももう慣れ親しんでいて、別の会社にいる気がしない
「···専務も今西さんも大変だな」
エレベーターの中で一人、扉の上に表示されているデジタルの電光板の中を目まぐるしく流れていく階層の文字を目で追いながらそう呟いた
毎日この20階以上あるビルの自分のオフィスへ向かうのも大変だ
休憩スペースでコーヒーを飲んで休みたくなる気持ちもわかる
「···」
何気なく美城の携帯を開くと、あいつらからメッセージが届かなくなった
ゴールデンの時間帯だ、きっと忙しいのだと思う
そういえば、ここに来るまでの間に一人もあいつらの姿を見なかった
中庭にもカフェにもいる様子がなかったし、何だか奇妙だ
『27階です』
エレベーターのアナウンスに合わせて扉が開いた
もう既に帰宅の時間帯なこともあり、シン···と静まり返っている廊下へと足を踏み入れる
専務や今西さんを始めとした重役の方々がいる階層のため、尚更静かだった
あいつらの事務所はもう少し上にあるから、俺もあまりここには足を踏み入れない
空調が整えられているが、緊張からか足元が何だか冷える気がする
不気味なほどに誰もいない廊下を進んで、教えられた事務所の前に着いた
「すみませーん、青葉自動車でーす」
扉をノックしながらそう言うと、ワンテンポ遅れて中から声が聞こえてきた
「はいはい···、やぁ北崎君。わざわざすまないね、さぁさぁ、入っておくれ。遠慮せずに」
「あ、いえ、はぁ···すみません」
俺はそんなつもりなかったのだが、今西さんに招き入れられてしまった
中は、今西さん以外誰もいなかった
普通のオフィスとは違う、何だか高級感のある立派な部屋だった
応接用の高そうな白いソファーとテーブルが部屋の奥に備え付けられてるし、デスクも木目調で壁のデザインと合っていてとてもオシャレだった
美城専務のオフィスとは少し違う、スタイリッシュな印象の事務所だった
これなら広々としていてゆったりできる
「コーヒーでいいかね?お砂糖はいるかい?」
「そんな、すみません。じゃあ、ブラックで···」
本当にそんなつもりなかったのに気を使わせてしまった
今西さんはこのオフィスの奥にある給湯室へと消えていくと、奥でマグカップを用意する音が聞こえてくる
「ああ、すまないね。奥のソファーに掛けていてくれるかい?」
呆然と立ち尽くしていた俺に、今西さんが給湯室から顔を出してそう言った
言われた通りにソファーに座って待っていると、香ばしい匂いがしてくる
何だか今日はコーヒーを沢山飲んでいる気がするな
この異常に座り心地のいいソファーの上で、俺は一人天井を仰ぐ
「お待たせしたね。青葉君から話は聞いているよ、少し待っていてくれ、今リストを持ってくるから」
目の前のテーブルに二人分のコーヒーのマグカップを置くと、今西さんは世話しなく自分のデスクへと戻り、一枚の紙を取り出してきた
オフィスが広いのも考えもんだな
「そうだねぇ···ここからここまでの車は前期末までに入れることにするよ。それ以外は後期にまわそうかなってね···」
今西さんがソファーへと戻ってくると、その紙を一緒に確認しながら仕事の話を始める
俺はメモ帳を取り出して今西さんが言ったことを書き留めていく
どうやらアイドル達だけでなく、話しぶりからどこの部署も忙しそうだった
そんな人たちに迷惑を掛けないように今西さんの言葉で書き記していくのだ
日頃の脚となる車のことなら尚更だった
「それと、これが請求書だね。こんなところまでわざわざありがとう。郵送してくれてもよかったのに」
「いえ、社長から直接持っていってほしいと言われたので」
俺も社長から言われた言葉をそのまま返す
しかし、今西さんの反応は違った
社長の意図を理解しているのか、ふふふっと微笑みを浮かべて、そうかそうかと相づちを打つのだった
「何だか、青葉自動車さんも大変だったようだね。命に別状がなかったのは幸いだったが、早く事件が解決するまで不安だろうに」
「ご心配を···お掛けしたみたいで」
今西さんだけでなく、その瞬間あいつらの顔も頭の中に浮かんできた
「でも、また元気に職場に復帰できるなら何よりだ。あのお嬢さんにはお世話になっているからね、早い回復を願っているよ」
「それは、ありがとうございます。本人にも伝えておきます」
「それと、お嬢さんの事を心配するのはいいが···ふふふっ、君もあまり考え込まないほうがいいと私は思うな。今回の事故はなにも、君のせいではないのだから」
「···はぁ」
俺の事を元気付けようとする様子が見てとれた
上層部にも既に伝わっているようだ、専務も同じように心配していたと今西さんは言う
プロデューサーたちが連絡してこなかったのも、専務からのお達しがあったからなのかもしれない
「専務にも、心配していただいてありがとうございますとお伝えください。それと、人手が確保できたので、送迎はできるとも伝えていただければ嬉しいです」
「そうかい、こちらとしてもそれは嬉しいことだが、本当にいいのかい?」
「ええ、社長もいいと言っていたので」
青葉君がそう言うなら···と今西さんも納得してくれたようだ
その後はコーヒーを飲み終えるまで他愛のない話が続いた
広いオフィスの中でゆったりとした時間が流れる
そんな中俺は、一つ気になる質問をぶつけてみることにした
「そういえば、さっきテレビの生放送で千枝があのテレビ局の番組に出演しているところを見ました。プロデューサーたちは、そのことをあまり良く思ってないと聞いたんですが、専務さんは許したってことなんですか?」
「うむ···、実は、このことに関しては少し難しいことになっていてね···。私としても、非常に心配なところではあるのだが···」
今西さんは言いづらそうに語り始めた
やはり思った通り、専務の一存ではなくさらに上層部からの指示があったらしい
美城プロダクションは複数の部門で構成されている企業であり、アイドル部門はその一つ
美城専務はあくまでアイドル部門の統括責任者、つまりプロデューサーたちの親玉だ
会社そのものの経営に口を出せるわけではない
会社の上層部から指示があれば、よほど無理難題でなければ美城プロダクションに勤める社員として従う責任と義務が発生してしまう
自分は会社という一つの文化の中で生きる者なのだから
「もちろん、専務は即座に異議を唱えたが、それでも上の者たちは引き下がらなかった。プレミア試写会でのありす君の活躍を理由に、もっと346ブランドをアピールできると考えたようだ。それに、あちら側から積極的に仕事を持って来てくれるのならプロデューサーのみんなの手を煩わせることもないし、絶好の機会だからね」
「···言いたいことはわかりますが、あんなことがありましたし···」
「相手側も既にそのディレクターはいなくなっているし、スタッフみんながそういう考えではないと反省の言葉を述べているのだそうだ。そこで徐々にではあるが、仕事を入れていこうという話になっていてね。···そう、専務も今の君と同じく、難しい顔をしていたよ」
俺はいつの間にか、そんな顔をしていたのだろうか
それを誤魔化すように、俺はコーヒーの最後の一口を飲み干す
それ以上は俺も踏み込んでは聞かなかったが、俺が何も言わなくとも、今西さんも何だか納得のいかない様子を見せていた
最後に、俺は改めて美城専務によろしく伝えてほしいと今西さんに言い、オフィスを後にした
今後あいつらに何か起きないように、今は願うばかりだった