遠き山に日は落ちて。

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夕焼け一つ、閉じ込めた

 夕暮れの中を歩いていた。橙色と群青色が混ざったような空の下、通り雨でぬかるんだ河川敷を学生は足早に駆け抜ける。あちこちに立っている蚊柱がどうも人のように見えてどうにも気味が悪かった。小さな村、外れの河川敷、人の姿はない。ただ燃ゆる太陽を齧るように蝙蝠だけがぱたぱたと飛んでいる。

 

 疲れたな。

 

 学生はそう呟いて足を止めると、近くに転がる岩の上に腰掛けた。空は次第に、深く、遠く。鞄の中から単語帳を取り出し開く。彼に憩いの時はない。目の前の試験を追い、受験に臨み、就職に挑む。得体の知れない何かにずっと追われながら、ただ漠然と生きていくしかない。

 溜息一つ、また頁を捲った。

 

「ねえ、清ちゃん」

 

 ふと懐かしい名前で呼び掛けられて顔を上げる。頬を赤く染めた女の子が前髪をくるくると指で巻いていた。朗らかな笑顔が、何故か胸を刺して抜けない。

 

「花ちゃん」

 

 ぽろりと口から溢れ出た。どうして忘れていたんだろう。この河川敷だった、一緒に遊んでいた近所の子が突然消えてしまったのは。夕焼けに混じって彼女の顔が陰になる。

 

「花ちゃん、今までどこにおった、何しよったん」

 

 聞きたい事は山程あった、絞り出せたのは掠れた声だった。手を伸ばせば消えてしまいそうで、その場から動く事すらできなかった。

 

「何って、かくれんぼじゃろ? 清ちゃんはいつの間にか大きくなっとるねえ」

 

 彼女が一つ一つ言葉を紡ぐ度に、彼の中で押し込めていた記憶が溢れてくる。見捨てたのだ、僕は。

 この河川敷で青草と土の匂いを漂わせながらただ走り回っていた幼いあの頃を。かくれんぼの最中に煙のように掻き消えた君。探せども探せども、影も形もなく。夜が降りてくる。怖くなって一人で走り帰った。川を攫う大人達。見つからない君。いつしか誰からもその名前を呼ばれなくなった君。

 

「帰ろう、帰ろう。花ちゃん」

 

 確かにその手を握る。どうしようもなく温かくて、もう離さないと彼は誓った。

 

「無理よ、清ちゃん。だって私、まだ鬼に見つかってないんじゃもん。かくれんぼの途中で抜けちゃいけんのよ。清ちゃんは鬼じゃないから」

 

「鬼ってなんじゃ。そんなん放っといて帰ろう。おばさんもおじさんも皆喜ぶ」

 

 彼女はううん、と首を振る。何処かその顔には怯えが混じっていた。

 

「駄目なんよ。駄目って言ったら駄目。鬼に見つけてもらわにゃ帰れんけど、私、鬼が怖い」

 

 学生は怖気を覚えた。彼女はこんな長い間、何から隠れ逃げてきたのか。同じ程の背丈だった筈の彼女と、しゃがみ込んでやっと目線が合わせられるほどの年月を。

 

「ねえ清ちゃん。一緒に逃げてくれる?」

 

 彼女がきゅっと彼の手を握り返す。鬱血したような空が濁って落ちてくる。逃げ出したくて、泣き出したくて、何故か笑ってしまった。どうせ帰っても、幾多の色褪せた現実に追われながら過ごすだけ。それなら得体の知れない何かから隠れる方がよっぽど楽な気がした。

 

「うん」

 

 思い出した。俺は花ちゃんが好きだったんだ。学生は何だか嬉しくなって、立ち上がると彼女の手を引いて駆け出す。カラスムギの中に隠れて、次第に彼らの姿が見えなくなってゆく。ただ夕焼けだけがそれを見ていた。

 

 

 

 

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 村外れの山で、失踪した青年の物と思われる学生帽を猟師が見つけた。乾いた血がこびり付いたそれが発見されたのは、捜索願が出された八日後の事であった。

 その数週間後、県境のトンネルの片隅で引き千切られたような右手首が見つかり騒ぎになった。

 それきり音沙汰は無い。その二つを関連付けようとする者もいない。今日も日が落ちてゆく。

 

 

 

 

 

 

 


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