かなり迷いましたが、作者の私以上に、読者のみんなにとっても大事なお話なんだなって感じました。
お騒がせして申し訳ない
20220325.欠落部分を記憶を頼りに復元。
情報提供してくださった読者の皆さん、ありがとうございます
穏やかな光が照らす日本家屋。その座敷の一室に二人の女がいた。
一人は八雲紫。身に纏うのはドレスではなく、八卦紋の前掛けが象徴的な導師服。
もう一人は同じく導師装束で、こがね色をした九つの尾を具えている。名を八雲藍といい、二人は主従の関係にある。藍は紫に仕える式神だった。
「『八雲の青い剣』。その名は私も知っています」
「懐かしい名前ね」
「近年ではその名を知る妖怪も減りましたか。ですが、古参の妖怪は誰しもこの名に覚えがあります」
急激にその力を増した八雲紫という一個人による勢力を厭う妖怪は多く、古くは彼女の失脚を狙い多くの抗争があった。八雲は謀略に長ける妖怪ではあるが、初めからそうだったわけではない。頭を働かせるのは、弱者が格上を喰らうための手段だ。
けれど、頭を使う事は残念なことに弱者の特権ではない。武に優れ知も冴える妖怪もいる。
紫が万全を期して動かした謀が上から力ずくで踏み潰されることもあれば、講じた策の一歩先を行かれて丸ごと利用されることもあった。
紫が本気なら、相手も本気。新進気鋭の幼い妖怪を誰も見くびることはなかった。水面下で巧みに糸を手繰る八雲紫を苦心して表舞台に引きずり出してようやく相対した境界の妖怪だ、敵も確実に始末せんと徹底的に逃げ道を潰し周到に追い詰めたとき──八雲の懐刀は抜かれる。
その正体は分からない。ただ明らかなのは、窮地に追い詰められた八雲に最悪の結末が訪れようとしたとき、一番最後に振るう力であるということ。
曰く、それは八雲が隠し持つ一振りの剣である。
曰く、それは八雲が振るう境界の能力の奥義である。
曰く、それは八雲を護る極めて強力な個人である。
どれもこれも、明確な証拠のない噂に過ぎないものだ。ただ事実としてあるのは、八雲に牙を剥いた妖怪の末路のみ。それから、どうやら青い燐光を放つ何かであること。これも誰が言い出したか分からない噂だ。
こうした噂の根拠は、遺された妖怪の骸にある。骸の特徴は二つ。
剣のようなもので切り裂かれていること。そして、骸となった妖怪が戦闘力において紫の力量を優に上回っていること。
だが八雲に剣の心得がありそうな付き人の存在は見当たらず、それほど強力な手駒を保有しているならその武力を交渉に用いないのも腑に落ちない。
依然として、その存在は謎に包まれていた。
「私も貴女にお仕えして長くなる。けれど、そのようなものがあるという気配はまるでない。ですから、いつかお目に掛かれる日を楽しみにしておりました」
「あら、そうだったの」
藍が紫と共に過ごせば過ごすほど、その正体の謎が深まる。なにせ、それにまつわる情報が一切見つからないのだ。藍には自らが最も紫に近しい者だという自負があった。だというのに、真実に至る足掛かりすら得ることができずにいる。
本人を前に不躾に調べまわるような真似はしていないが、やはり興味は隠せない。なにせ藍の心酔する八雲紫という妖怪の大躍進に深く関わる存在。関心など、あるに決まっている。
つい誘惑に負け、何度かそれとなく本人に尋ねてみたこともある。けれどその度に答えをはぐらかされていた。
そうしたことが幾度か続き、藍は自分から嗅ぎ回るような真似をせずともいずれお目にかかる機会が訪れるだろうと、そう自分の中で結論を出して紫に聞くことをしなくなった。
そして、お目にかかる機会とやらは唐突に訪れた。
──大きな落胆を伴って。
「ですから、どうか。……どうか、あの腑抜けた男が、紫様の切り札であるなんて言わないでください」
「ごめんねぇ、事実なのよ」
紫が気まずそうに眉を下げて謝罪する。悲しい現実だった。
藍もまさか主である紫の謝罪を拒みたくなる日が来るとは思っていなかった。
紫は数日前にこの屋敷に一人の男を招いた。いきさつは分からないが、男は確かに紫の能力である隙間を通ってこの屋敷に現われ、紫もまたその来訪を歓迎している。
肝心の男は座敷から少し離れた縁側に座り込み、ぼうっと庭を眺めていた。ここにきてから、男はずっとそうしていた。
強そう、弱そうという次元の話ではない。まるで気力がない。まるで降り積もった灰のような後ろ姿だ。そっと息を吹きかけてやれば、そのまま塵になって消えていくのではとさえ思う。
「あの男が全盛の常闇の妖怪を破った? 俄かには信じられません」
「まあ、そうよねぇ」
「闇祓いの心得さえ持っているように思えません。只人はおろか、一角の妖怪さえかの深淵に足を踏み入れることが叶わなかったというのに」
「あれ、怖かったわぁ。あの日死んでいないのが不思議なくらい」
妖怪が恐れる妖怪。それこそがかの常闇の妖怪である。
闇に潜む。闇を操る。否、闇を生み出す。それこそが常闇たる所以。夜より暗き黒でこの世を喰らい尽くすのだ。あの闇は、内側に引きずり込んだものを呑みこんでしまう。人も大地も妖も、神さえも例外ではない。彼女の通った後は空間ごと削り取ったように何も残らなかった。
ひどいところでは山に風穴が空き、森林に禿げ上がった一文字が走り、川の分流が一つ増えていた。
傍から見ればその有様は、触れたものを悉く消し飛ばす深淵の球体。
光で照らす? いいや、常闇の妖怪は太陽をも飲み下す。無敵とはまさにこれである。
人に最強の妖怪はと聞けば鬼の名が返ってくる。だが妖怪に同じ問いをぶつければ今度は闇の象徴の名が出るだろう。
だが、その妖怪は敗北を喫した。最強の妖怪の名を失墜させた者の名こそ、まさに八雲紫その人である。
一般に大妖怪と呼ばれる妖怪は、大いなる力でもって厄災を引き起こし、その恐怖が語り継がれることで形創られる。
八雲紫は例外だった。なにせ、人々を恐怖に陥れるような真似をしていない。境界の妖怪は不気味でこそあれど、人々の恐怖の象徴ではなかった。
それでも紫が大妖怪と謳われる理由は、古今東西の名だたる魑魅魍魎を捻じ伏せてきた過去にこそある。
このくたびれた男が、その一助となった? 到底信じられる話ではない。
「……紫様。この男も妖怪の退治屋として名を挙げてこそいるようですが、聞くのは相方の妖術の苛烈さばかり。彼の武勇に関してはとんと耳に入りません」
「そうなのよ、彼ってば、あんな秘蔵の妖術があるのにちっとも教えてくれなくて。いつもそう。自分の事なんか全然教えてくれないの」
「紫様?」
「なのにどこの馬の骨とも知れない小娘には懇切丁寧に手取り足取り教えてるし……」
「紫様!」
「あ、ごめんなさいね。な、何の話だったかしら」
珍しいことに明後日の方向に思考が走りかけた主人を慌てて藍が呼び戻す。
「彼から受け取ったという人形にしたって、謎が多すぎる。あまりに超越的で得体が知れない」
「ねえ、藍。あれに居場所を失くしたものを導く性質がある。それくらいはわかるでしょう? それは私の構想する大結界に相応しいものだわ」
まるで暖簾に腕押し。紫に言い募る藍だったが、のらりくらりとかわされて真相を聞き出すことができずにいた。
「……私は、あの男が信用なりません」
一方の男は、藍の言葉に微塵も気を立てていなかった。人に侮蔑されることなど、死ぬことよりも慣れている。なにせ何もしないで不死の使命に燃える連中をずっと揶揄うような日々を送っていたのだ。今更見下されたことに怒りを覚えるほどの情緒はない。それを行動力に変える活力もとうに尽き果てていた。
「……隣でこうもこき下ろされているのだから、お前も何とか言わないか」
縁側の男に藍が声を飛ばす。しかし男の反応は振り返ることもなく手をひらひらと振るだけで終いだった。
「……とんだ腑抜けではありませんか!」
「どうしても彼の実力が知りたいのなら、藍が私を本気で殺そうとすればいいのよ」
「……紫様。そのようなこと、できようはずがございません」
紫の窮地に青い剣は必ず現れる。そういう言い伝えだ。確かに紫と正面に相対している藍が本気で命を奪おうとすれば、その噂の真偽を確かめられるだろう。だが、そんな仮定を確かめるために敬愛する主人に牙を剥けるはずが無かった。
◆
その後、紫は藍は男の歓待を任して人形の解析を済ませるため隙間の奥へと引っ込んでしまった。
仕方がないので男を座敷の中へと引っ張り込み、出涸らしの茶を湯飲みに注いだ。とりあえず、これで男の歓迎をしているというポーズだけは作ることができた。
本当に歓待するつもりはさらさらない。
そこは四方が襖で仕切られた和室だった。部屋の中央にはちゃぶ台には、白い湯気の立ち上る湯飲みがちょこんと置いてあった。藍が注いだものだ。
ちゃぶ台には、向かい合わせに座布団が二つ置いてある。天井からはランプが一つ吊るされ、室内は橙色の光で照らされていた
「なぜ紫様は貴様を重用するのか」
「古い約束のよしみだ。詳しくは本人に訊け」
男の向かいに座って、藍が訝し気な視線と共に不躾な疑問を飛ばす。男はそれに腹を立てた様子もなく、投げやりな返事を寄越した。
この場を設けたのは、きっと紫様の計らい。この男から何かを聞き出せということなのだろう。藍はそう予想した。あの人形の詳しい由来などを聞き出せれば御の字だろう。
「むっ!」
藍が更に質問を重ねようとした瞬間、机に注いだ茶飲みが一人でにひっくり返った。ぶちまけられた熱い茶を、藍は腕で防ぐ。
「……何だ、今の」
「いかん!」
湯飲みが躍った直後、開いたままだった縁側に続く襖がスパン! と勢いよく閉じる。
藍は襖の下へ慌てて駆け寄ったが、間に合わなかった。
「どうなってんだ、この屋敷」
「……」
男は思ったままの感想を告げた。閉じた襖の前で藍が立ち尽くす。その横顔は、苦虫を噛みつぶしたようだった。
ぽつりと、藍が言葉を発する
「このマヨイガは、妖怪屋敷だ」
「へえ」
「我々は、いまこの屋敷に幽閉された」
藍が襖を開く。そこにあるべき縁側の景色はなく、見えるのはこことまったく同じ造りの別の部屋。
飛び込んだ藍が、男にいる部屋の反対にあった襖から出てきた。
「っ……」
「百聞は一見に如かずってか。実演ご苦労」
「言っている場合か!」
藍がまるで緊張感のない男を叱咤する。正しいのは藍の方だ。男が状況に対して鈍すぎる。しかも、危機的状況を理解したうえでこの態度なのだから性質が悪い。
「お前とお前の主はとんでもない場所に住んでるなあ」
「普段は境界を操るお力で部屋の境と境が明確になっているのだ。それに、紫様からそのお力の一部も預かっている。通常であればこんなことにはならん」
「力を預かってるんなら、何とかなるんじゃねぇのか」
「……先ほどの茶で、私の式神が剥がれた」
「そりゃ大変だ」
八雲藍は八雲紫の式だ。式神という力を増す術式を受け、その上で境界の能力の一部を借り受けていた。だが、式神の力は水を被ると剥がれ落ちてしまう。今の藍にこの屋敷を操ることはできなかった。
藍が飛び込んだ襖の奥を見ると、今いる部屋とまったく同じ造りをした別の部屋が見える。だが、藍は実際にその部屋にたどり着くことは無かった。八雲紫という主の手を離れたこの屋敷は本来の怪奇を取り戻している。
「私はここを抜け出す手立てを探す。お前は……ずっとそこでそうしているといい。尤も、助けなどは望むべくもないがな」
「そうかい」
そう言い残し、藍がまた襖が仕切りを踏み越えて隣の部屋へと進む。今度はこの部屋には戻ってこなかった。
男が藍の向かった部屋に視線を送っても、既に藍の姿は無い。きっと目で見える部屋と実際に辿りつく部屋は異なるのだろう。
藍を見送った男は、座敷に用意されていた座布団に腰を下ろしたまま動くことはなかった。助けに当てがあるわけではない。脱出の糸口も、もちろんない。
ただ諦めていた。男は自らが行動を起こしても何の結果にも至れないと悟っていた。
だから、時間が解決することだけを待っている。時間は己の不死を除けば大抵のことは解決してくれると、経験で知っているからだ。
そうして、男はぼうっと天井を眺めていた。なんにも考えず、ただぼんやりと天板の木目を数える。
全ての木目を数える行為を10回繰り返したあたりで……いつの間にか閉まっていた襖が、人の手によって開かれた。
見れば、そこには眉を顰めた藍の姿。
「よう。収穫はあったかよ」
男の言葉を聞いて、藍はさらに眉間の皺を深くした。
収穫が無かったことなど、表情を見ればすぐにわかる。それでも聞いたのは男のわかりやすい皮肉だった。
「なぜ襖を閉めた」
「俺が閉めたんじゃないぜ。知らんうちに、ひとりでに閉まってた」
「……そうか」
「疑うなよ、本当だ」
ずっと藍の態度は刺々しいが、だからといって意趣返しにそんなみみっちい嫌がらせするほど、男の性格はねじ曲がっていなかった。
「ここは時間の流れが淀んでいる。腹も空かぬし疲れもない」
「へえ」
「相槌を打つな。考えを整理するために声に出しているだけだ」
「けっ。嫌われたもんだ」
「ふん」
つん、とそっぽを向く藍の言葉に、男は毛ほども気にした様子はない。やはりこうした態度を取られることには慣れがあるのだろう。
一拍置いて、藍は続きを話し始めた。
「この屋敷はまったく同じ構造の部屋が格子状に接続されており、それらを仕切る襖を潜れば、無作為にどこかの部屋に入る」
また突っかかれては困るので、男は黙って藍の言葉を耳に入れている。
「しかし、部屋の数は不明。数える方法がない。襖を開いたままにしても自然と閉じてしまうし、部屋に目印の傷をつけても消えてしまう。
壁を破壊しても、天井を抜いても床を剥がしても同じ部屋が続いていた」
聞けば聞くほど厄介な屋敷だ。どうして紫もこんな面妖な場所に住んでいるのか。そんな風なことを男は思っていた。
「燃やしちまえばいいじゃねえか。この屋敷ごと」
「脱出できなければ死ぬだろうが」
「さいで」
さしもの妖怪も、炎上する木造建築の中に閉じ込められれば死は免れないらしい。男の提案は一蹴された。
さて、すぐに部屋を出るかと思われた藍は、以外にも部屋に残りちゃぶ台を挟んだ男の向かいに座った。何をしゃべるでもなく、藍は眉を顰めたままじっと男を見つめている。たまらず、男の方から藍に声を掛けた。
「なんだよ」
「……ひょっとして、私はこれから永劫の時間をお前と二人で過ごすことになるのか」
ありえない話ではなかった。むしろ、かなり現実的である。奇跡的に脱出法が見つからない限り、藍と男はずっとこの屋敷に囚われ続けるだろう。
「それはお前次第だろ。なんとか脱出する手立てを探すこったな」
「お前にここを出ようという意思はないのか」
「こういう体験は初めてじゃあないんでね。これほど狭くは無かったが」
藍はしばらく思案したあと、立ち上がった。
「行くのか」
「私にはここを出なくてはならん。貴様と違ってな」
「へえ、健気なこった。そんじゃ達者でな。次は良いニュースを期待してるぜ」
「言っておくが、抜け道を見つけたら私は一人で帰るからな」
冷たい女だ。そんな男の言葉を背にある九つの尻尾で受けてあしらいつつ、また別の部屋へと藍が姿を消していく。
そして長い時間を経たのち、またこの部屋に戻ってくる。
そんなことが、何度も続いた。
男が上の空で部屋で過ごしていると、しばらくたったのちまた藍が現れる。調査の結果を報告して、また部屋を出る。それを何十と繰り返していた。
実を言うと、藍の口から出る調査の結果は芳しくない。思いつくことはなんでも試しているようだが、進展らしい進展は何もなかった。
部屋を出た藍が、しばらくすると戻ってくる。男と少し話して、また部屋を出ていく。
それを繰り返した。
何度も、何度も、何度も。
■
「前にも同じような状況に陥ったと言ったな。そのときはどうやって抜けた」
「自分でできることを全てやって、結局人任せにしたら上手くいった」
「……話にならんな」
■
「同じ部屋を延々とうろついていると、気を違えそうになる」
「なら、先輩からひとつ忠告だ。たとえ振りでも狂うのはよしたほうがいい」
「……経験則か?」
「まぁな。そのままタガが外れて戻ってこれなくなった奴を山ほど見てきた」
「……肝に銘じておく」
■
「気分転換だ。私は寝る。襲ったら殺す」
「おっかねえ女だ。マジに不死も殺せそうな眼をしてやがる」
「いいから黙れ。私は寝たい」
「おお、こわいこわい」
■
「退屈だ。何か面白い話でもないのか」
「なんだ、藪から棒に」
「いいから」
「なら、昔話でもしてやろうか。そうさな…太陽を目指した男の話なんかどうだ」
「聞かせろ」
■
「行くのか」
「ああ。……また、戻ってきたときに話を」
「おう。次はいい知らせを待ってるぜ」
「……あまり期待はするな」
■
「話せ」
「また昔話か?」
「何でもいい」
「あー……。死病を癒す為の苗床になった女と、もろとも異形になった姉の話」
「聞かせろ」
■
「……」
「おいおい、もうちょっと余裕ってもんを持てよ、常識ねぇのかよ」
「……」
「わかったわかった! 今回は罵りと嘲り、不遇の中にあってなお最後まで一人王の都を護り続けた処刑者の話だ」
「……」
■
■
■
■
随分と長い時間が経ったように思う。本当の時間はわからない。外の太陽がどれほど傾いたかもわからないし、体内時計などあってないようなもの。
経過した時間はおそらく十を悠に超え、だが百にはまだ届かないくらいか。男の予想はそんなところだった。ただ、とにかく膨大な時間が過ぎたことは間違いない。
それでも男にとってはまるで苦ではなかった。かつては呪われた不死の地で、同じことを千年単位で繰り返していたからだ。ロードランと比べるとこの座敷のスケールは小さすぎるが、まあ同じようなものだろう。
尻に敷く座布団も、祭祀場の苔むした石柱と比べれば座り心地が良い。
頻度で言えば鴉の運ぶ他の世界の主と同じくらいだろうか、稀に戻ってくる藍の存在も良い刺激だった。
けれどその藍の姿も、もう当分見かけていなかった。
いよいよ脱出手段を見つけたのだろうか。あの女狐なら、本当に俺に伝えずここを脱しそうだ。ひょっとすれば、ここに取り残された俺の存在を誰にも伝えていない可能性もある。
それとも──どこかの部屋で狂って自死したか。
どれもこれも、ありえない話ではない。最後にあったときは、もうほとんど余裕の無い姿だった。どこをどう歩いても、同じ景色しか巡らない。焦燥感ばかりが募り、狂ってしまっても不思議ではないだろう。
そして藍は、俺と違って死に逃げることができる。だとしたら救えない話だ。
まあ、くたばったならそれでいい。あいつの面目もあるからやらなかったが、ひとつ試しにこの屋敷を燃やしてみようか。男がそう思い立った時。
襖を開き、藍が入って来た。
ひとかけらの余裕もない、ひどくやつれた様子だ。
藍は部屋の中央に腰かける男の姿を見つければ、深い安堵の息を付いてへなへなとその場にへたり込んでしまった。
「よう、元気そうじゃねえか」
男の言葉に藍は何も言わず、うなだれたままだった。今の藍には、男の皮肉に言い返せるほどのゆとりが無かった。
藍はゆっくりと顔を上げて男をみる。その表情は、親からはぐれて道に迷った童子のようだった。
「……ずっと会えなかったから、お前だけ先にここを脱したのだと思っていた」
「そりゃ残念だったな。生憎と、俺はずっとここにいるぜ」
「……そうらしい」
藍はいつもある程度の周期でこの部屋へと訪れていた。確率というものは収束していくもので、試行回数を重ねるうちにある程度の値に落ち着く。それぞれの部屋へと繋がる確率が均等だと予想すれば、ほぼ定期的に藍が男のいる部屋に巡り当たるのもおかしい話ではなかった。
だが、今回ばかりは確率の妙に翻弄されたようだ。収束すべき確率を踏み外し、天文学的な数字を引き続けていたのだろう。
「ここに来てから、どれだけ経つ?」
「百年は過ぎたろうな。五百は……どうだろうな。まだ過ぎてないと思うが」
「そうか。そうか……」
藍は男に話を請うことも無く、ずっと腰を下ろしたままだった。
「どうした、行かないのか」
「……いっそ最初から一人の方がよかった。なまじ人と話せた時間があったせいで落差が怖い」
この光明の見えないマヨヒガの漂流を繰り返すのに、しばしば遭遇する男の存在は藍にとって非常に大きな精神的支柱だった。
「次この部屋を出て、また一人で彷徨い続けるのを思うと怖くて仕方が無い」
「だったらここで一生二人で過ごしてみるか?」
「そう、だな。それもいいかもしれん……」
「あぁ? おい、こりゃあ相当参ってんなぁ」
果たして藍はその後も座敷を出ることはなく、本当に二人きりのまま一室を過ごす時間が続いた。
変わらぬ狭い世界に慣れた様子で、ずっと飄々とした態度で過ごす男とは異なり、まだまともな感性を持つ藍に、この狭い座敷で長い時を過ごす続けることは、あまりに酷すぎた。
時間の感覚の狂った閉じた世界で、永劫とも思える長い間取り残されるたった二人。
そんな環境で、藍はしばしば錯乱した。
ある時は過去の発言を翻し、男に『手を出しても良い』なんて冗談半分に行ってみるもあえなくフラれ逆ギレしたり、ある時は己の九つある狐の尾を触れさせようとしても男が興味を示さず逆ギレして尻尾に埋めて満足したり。
閉鎖した時と空間が藍にもたらした狂気のうち、その再たるものは、藍が男の首を絞め殺したことだった。
はたと正気に戻り、無限の時間を過ごす連れ添う片割れを自分で手に掛けた藍は、倒れた男の骸に縋りついて泣きじゃくった。
『俺が不死じゃなかったらどうするつもりだったんだ』とは、男の言である。
それから、果たして幾十、幾百年が経った頃だろうか。
永劫に変わらぬ座敷の一室に、ついに変化が訪れた。
「こりゃあ、たまげたな……」
「どうした」
男の視線の先には、何ら変哲の無い襖がある。ランプは部屋を隙間なく照らしている。部屋にできる影は、男と藍と、ちゃぶ台と湯飲み。この四つが全てだ。
藍は男の視線の先を追う。そして、思わず目を見開いた。
「これは……!」
なんと、男の影だけが襖の向こう側へと異様な伸び方をしていた。
「探ってみる価値は、ありそうだ」
「おう、頑張ってくれや」
「実をいうと、私は妙案を思いついた」
「あ?」
藍が男へ一枚の札を投げつける。すると札は丈夫な縄へと変化しあっという間に男を捕縛した。
「私はお前と別れるのが怖い。しかし、お前は私に同行しない。ならば私がお前を引き回して部屋を渡ればよいではないか」
我が意を得たり、と言わんばかりに藍が力強い表情でそう言い放つ。
そこに拒否権は無かった。
「正気か、お前……」
「さて、向こうの部屋か」
藍が意気揚々と影の伸びる先の部屋へと足を踏み入れる。部屋の先では、また影が伸びているのでその先へと進む。それを、ひたすら繰り返す。
繰り返すたび、伸びる影はより濃く、より太くなっていく。
百。千。万。部屋を幾つ超えただろう。影に導かれるままにひたすらに藍は歩き男は引きずられ続けた。
途方もない時間が過ぎていく。藍と男は、様々な言葉を交わした。
どれもこれも他愛の無い会話だ。永劫とも思える時間の中で、それでも男の話の種が尽きることはなかった。その甲斐あってか妖怪が過ごすに長すぎる時間を経ても藍は狂うことがなく、男の記憶が摩耗することもなかった。
やがて影を追い続けるうち、部屋の様相が変わっていった。影は部屋全体を包み、渡れば渡るほどに部屋がどんどん暗くなっていく。
遂には、襖を開いても黒塗りのがらんどうしか見えなくなった。
その頃から、男が先導し縄を握った藍がおずおずと後に続くようになった。
流石に自分で歩くようになった男は縄が煩わしくなったので、すったもんだの末、縄で繋ぐかわりに手を繋いで進むことになった。
重なり合わせた指の一本に、硬い感触がある。男は指輪をしているようだった。
まるで光を失くしたような世界の中を、男は庭のように歩いていく。
藍からしてみれば、視界は一寸先も見えぬ闇。握った手が引かれる感触と、手のひらから伝わる血の通った人間らしいぬくもり。そして、男の昔話を語る声だけが頼りだった。
その手を決して離すまいと、藍は男の手に指を複雑に絡めて握っていた。
予め男に一度手を離したら助からないと言い含められていたのもあるが、それ以上にもし手が離れてこの暗闇の中で一人置いていかれたならば、きっと今度こそ自分は狂ってしまうという確信が藍にはあった。
男の手をじっと握り、男の声だけをずっと聴いて、ひたすら歩いた。互い姿は闇に紛れ、何も見えない。それがずっと長く続く。
そうしていくうちに、恐ろしく巨大な空間に出た。
そうと分かったのは──。
「上を見てみろ」
「……これは」
そこに、光があったからだ。
男の言うままに頭上を見上げれば、視線の先の遥か上空に満天の星空のような小さな橙色の光が灯っている。
じーっとよく見れば、それがあの座敷を照らしていたランプだと分かった。どの部屋も床が抜けて木の骨組みがむき出しになっている。
足元には、大量の湯飲みの茶が湖となって溜まっていた。あちこちに水没した部屋の瓦礫が流木のように積み重なって流れている。
どうやらここは同じ部屋が縦横無尽に続くマヨイガのど真ん中を、巨大に食い荒らしてできた大穴らしい。こんなことをできる存在が、一体どこに。
藍の疑問は、凛とした鋭い声によって答えられた。
「この世のどこにいようと見つけ出す。確かにそう嘯いたけどね、これは流石に骨が折れたよ」
「いやあ、助かった」
闇を背に浮かぶ黄金。常闇の妖怪の姿がそこにあった。
◆
あのあと私は常闇の妖怪の闇渡りの力の恩恵に授かり、無事にマヨイガから脱出することができた。
驚くべきことに、あの男と常闇の妖怪は友好関係を結んでいる風だった。
紫様と常闇の妖怪は過去に確執がある。同じく八雲の名を継承する私は思わず身構えたが、彼女の方はそれを歯牙にもかけていなかった。
抜けた先は、マヨイガの入り口。最初に出したお茶は未だに熱を保っていた。あれほどの時間を過ごしたにも関わらず、外では半刻も過ぎていなかったらしい。
男は紫様と常闇の妖怪、そして退治屋の白い女に囲まれ散々罵られて、最後には常闇の妖怪らによって半ば誘拐されるようにここを去っていった。
私はもはや渦中の外で、その様子を呆然と見続けることしかできなかった。
あのとき、ずっと握ってた手には今も温もりが残っている。
だが、あとから聞いて妙に思った。生きても死んでもいない彼には、もう温かい血は巡っていないのだという。ならば、あのとき手のひらに感じた確かな温かさはなんだったのだろう。
……そういえば、退治屋の相方を務める女に炎の妖術を教えたのはあの男だとか。
私はあのとき、闇に包まれ、不安と恐怖に苛まれていた。それを察してあの男はわざわざ私の手に熱を伝えてくれたのだろうか。
彼とは、千年に迫ろうという長い時間を共に過ごし、言葉を交わし続けた。
けれど、ふと気づく。
──私はまだ、男の名前さえ知らなかった。