この子が死ねば、お前は笑うのだろう。
騙したときと同じ顔で、笑うのだろう。
そうしたら、今度は誰がお前を殺すだろうか。
私だ。私が殺す。
たとえ私が私でなくなっても、この感情が色褪せたとしても。
復讐以外の何物も分からなくなってしまったとしても。
復讐をしよう。一心不乱の復讐を。
だからお前に呪いの声を。
地獄では、きっとお前には生ぬるいだろうから。
私が直々に手を下そう。
私がやる。
私がお前を殺す。
お前のもたらした残酷な仕打ちを、私の怨嗟の声に重ねてそっくりそのまま返してやる。
嘆き、悔やむがいい。
幾千の夜が過ぎようと、幾万の星を超えようと忘れぬ後悔を知るがいい。
そのうすら寒い月の都で、復讐に怯え震え続けるがいい。
この憎しみを言葉で形作ることなど、もはや叶わない。
心が、ただそれのみに満たされてしまった。
もはやこれが本当に憎悪だったのさえもわからなくなってしまった。
それでも。
私に残されたもの。その全てを復讐に投げ打とう。
全部だ。全部使って、その悉くで呪い尽くす。
広がる天蓋が続く下のどこにいようと──否。
たとえ同じ天を戴かずとも、お前を許しはしない。
不俱戴天の仇。嫦娥よ見ているか。
私は、ここにいる。
■
瘴気溜まりの酷い、欝蒼とした夜の森の中。
一人の男が松明を片手に、木の根が入り乱れた凹凸の激しい地表を踏み越えながら進んでいく。
風に揺られてざわざわとけたたましく鳴る木の葉の屋根の隙間からは、毒々しい月の燐光が差し込んでいた。
ちらちらと見え隠れする望月は、白か青、あるいは赤ともとれる不吉な色の移り変わりを露わにしていた。
きっと、本質的には月の光は変化していないのだろう。ただ単に日が悪いのかそれとも森の瘴気の仕業なのか。
科を作るようにくねりを見せる朧気な月光の色彩は、そこに一種のおぞましさを秘めていた。
「もし。そこの御仁」
「……なんだよ。先を急いでるんだ」
足早に過ぎ去ろうとする男を呼び止めたのは、星の無い夜空のような闇に溶け込む黒装束の女。水面に揺蕩うような掴みどころのない声音だった。
こんな闇夜に森の中で女が一人。ただ事ではない。ただ、人を騙す妖怪というにはどうにも気品がありすぎる。
男は面倒事の気配を察知して顔を顰めた。
「そうお時間は取らせません。ただ、一つ問いを」
女の方に松明を向けると、装束の前面に施された赤と金の刺繍が明るい橙色で照らされた。
狂おしい月光に濡れる女は、月を紐解いたように髪の一つ一つが黄金に煌めいていた。
美しい女だ。だが、だからこそ恐ろしい。
格調高い服装を見るだけでもこの女がただの道に迷った不幸な町娘ではないことくらいわかる。
「誰かが、ここで嫦娥という名を口にしてはいませんでしたか」
加えてこの緋色に濁った双眸。まともな奴がこんな目をするはずがない。
奇妙な引力のある目だ。迂闊に目を合わせたら、そのままずっと離せなくなる。
それはまるで不死人にとっての火のような存在感だった。じっと見つめていれば、きっと虜になって囚われてしまうだろう。
「青娥って名前なら聞いたぜ。大方、人違いかなんかだろう」
「……そうですか」
「用は済んだかよ。……じゃあな」
迂闊に目を合わせてしまわないように気を払いつつ、男は女の明瞭な意思のない不気味な美貌を一瞥して松明の光を外した。
金髪と紅い目のやつには関わらないようにする。ここ最近になって男が新しく決めたルールだった。どちらの要素もこの時代ではそう滅多にお目にかかるものではないというのに、男は早速それを適用させていた。
だが、やり方が半端だった。関わらないようにするなんて不明瞭な決め方がよくなかった。もっと口を利かないようにするとか、姿を見たら一目散に距離を取るとか、それくらい大げさな手段を採るべきだったのだ。
詰めが甘い。
だから、こんなふうに去り際に余計な言葉を残してしまう。
「月の陰険どもに何の用か知らねえが……酔狂なことだ」
木々の騒めきしかないこの空間で、男の小さな声は確かに女の耳朶を打った。
女はその言葉を半ば呆けたように聞いていた。
「酔狂……?」
呆然と言葉を繰り返す。
女は確かに男の言葉を耳に入れつつも、まるで意味が理解できなかったかのように不自然に動きを止めている。昏い紅色の瞳は、ここを去ろうとする男の背をじっと凝視していた。
「……これが?」
ぽつりと呟く。
女の視線の濁りが晴れていく。曇りの向こう側にあった深紅の瞳が、光を取り戻していく。爛々と輝くガーネットのような瞳。
その内には、煮え滾るおぞましい狂気が秘められていた。
「この憎悪が、激情が、宿怨が──酔狂ですって?」
みし──ばちゅん。
氷塊を万力に掛けたような奇妙な軋轢音がしたかと思えば、それはすぐに水の弾ける音に変わった。
男が赤い肉塊に変貌していた。
即死だ。抵抗する暇さえなかった。
女の背からは藤紫色の尾のようなものが七つ生えている。先ほどまでは無かったものだ。触手のようにも見える半透明のそれは、不規則なうねりを繰り返している。
「は、ハハ。 言うにこと欠いてこれを酔狂とは!」
希薄だった女の気配が、ふつふつと燃え上がるように大きくなっていく。
たった一人から昇り立つ、怨嗟の摩天楼。
「嫦娥嫦娥嫦娥嫦娥よ! 我が宿命の怨敵よ、見ているか! 死んだぞ、人が一人死んだ!
お前が殺した! お前のせいで無辜の人間の命が一つ散った! 貴様の罪が廻り巡って新たな罪を重ねたのだ!
可哀そうに、ああ……可哀そうに! この男には何の関わりも無かったというのに、嫦娥のせいでこうして屍を晒す羽目になった!
お前の罪だ。逃れるな、目を逸らすな、遠ざけることなど許さんぞ! これがお前の業だ!
私は貴様を許しはしない。私はお前が出てくるまで幾度でも罪を重ねるぞ! 夥しい数の生命が失われるぞ! 私の罪が、何の意味も意義もなく終えていく生の数々が訴える憎悪全てがお前の罪だ!
死ね……死ね、死ね、死ねッ!」
激昂した女が凄惨な笑みを讃えて月に吠える。
「罪を知りながら檻に匿う薄汚い月人の連中も! 己が身の可愛さ故に何も知らぬ我が愛し子を殺めた嫦娥も! 私の無垢なる赤子に仇なした下衆どもは、みな死ねばいい!」
品のある穏やかで礼儀正しい貴人の姿は、もう見る影もない。
びりびりと大気を震わせながら、女が呪詛を振り撒く。
「嫦娥よ、我が心の在り処よ。いつになったらお前は私の心から消えてくれる? どうすれば私の血肉が呻くのを止められる?
もはや私は、怒れる狂気のみを満たした復讐を遂げるだけの器と化した!
瞳から怨嗟の血涙が吹き零れて止まらないんだ。空も月も風も花も全部全部真っ赤じゃないか。
空は、青かったのか? 海は青かったのか? この星は、青いのか?
嫦娥よ。憎き仇敵、旧き友よ。
私の子供は、どんな顔だった……?」
怒りだけが彼女を支配していた。子を慈しむ想いも、過ぎ去りし思い出も、全部全部、彼女は怒りの炎に焚べてしまった。自らの持ちうるものを全て手放し、何もかもを怒りへと注ぎ込んだ。
その恩讐の彼方が今の彼女。
「答えろ嫦娥!! 見ているんだろう! アハハ、嫦娥!! ハ、ハハハハ! 嫦娥! 嫦娥! 私はここにいるぞ! アハハハ!」
獣の断末魔のような声で、月を望み壊れた人形のように嗤う。
哄笑は止まらない。
「イかれてるよ、お前」
「──なぜ生きている」
女の狂熱を冷ましたのは、男の力の抜けるような覇気のない声だった。
女が男の死骸の方へと目を向ければ、無傷の男が血溜まりの上で佇んでいた。
微かに狂熱の残り火を残しているものの、信じがたい光景を前に女は瞳に理知的な光を取り戻していた。
「死穢はあった。穢れのみが純化されれば、生きとし生ける者は即座に絶命する。月人も、蓬莱人でさえも例外ではない」
女の赤い眼光が男を明瞭に貫く。
「だが、お前は今生きている。死穢では死に至らない? 生死の根源が別の何かに依存しているのか? けれどお前は人間だ。精神に存在が由来しているわけではない」
「生憎と死ねない身の上でな。これは流石に肝が冷えたけどよ」
「蓬莱の薬、か? ……いいや、違う。あれは、極限まで最小化した生死の輪。観測できぬまでに縮小された輪廻。今のお前は、生死の輪の外側にいる。まるで生命の否定。世界の始まりよりもずっと古くから、終わりのずっと先まで在り続ける──真の永久不滅」
「──何者だ、貴様」
「人間だよ」
「人間。だとすれば、不可解なことがあなたには多すぎる」
「てめえの手品にゃ負けるがね」
例え死なずとも、男は確かに再起不能になるほどの損傷を受けていた。それが瞬く間に復活したのには理由は二つある。
一つが奇跡『惜別の涙』の存在。
古くは眠り竜を祀る聖都サルヴァに始まり、カリムの司教に伝わった奇跡。死にゆく者を今わの際に引き留め、死出の旅路の前に最後のひとときを与える奇跡。
この奇跡がもたらす最期の時は、何よりも遺される者のためにある。
だがこれを不死者が行使した場合には、肉体の崩壊を寸でのところで食い止める効果に変わる。
死なずがありもしない生にしがみつく滑稽な奇跡だが、今回ばかりは奇しくも男を窮地から救っていた。
そしてもう一つ。血だるまになった男が瞬く間に傷を癒した秘密は、右の手にある蒲公英色の絢爛な薬瓶にあった。
それは"女神の祝福"。太陽の光の王女の強力な祝福が施された聖水。あらゆる傷と万病を一瞬で癒す奇跡の代物、癒しの最高峰。その回復力は火の熱を閉じ込めた不死の宝『エスト瓶』を優に超える。
「私は純孤。名もなき存在」
「今純孤って名乗ったが」
「純孤という言葉に名前としての意味はないわ。言わば我が復讐の命題。墓碑銘にして処刑台」
「そうかい。興味ねえけどよ」
血を払いながら、男がにべもなく言う。
「貴方、名は?」
「あ? ねえよ、そんなもん。もう行くぜ。先を急いでる」
「ねえ、先ほどの非礼は詫びるわ。もう少し話しましょう」
男は露骨に嫌そうな顔をする。ただでさえ先を急いでいるというのに、何が楽しくて先ほどの狂人っぷりを見せつけられた相手との談笑に花を咲かせなくてはならないのか。
「興味があるの。貴方が気に入ったのよ。何か、私が忘れたものを持っている」
「気のせいだろ。寝て起きたら忘れてるぜ、きっと」
無視して先に進もうとする男の横から、純孤が顔を覗き込みながらついてくる。
「似ているのかしら。でも、誰に?」
「俺が知るかよ」
前だけを見て進む男の視界の端には、横を歩く純孤が瞬きもせずにずっと目を合わせようとしているのが映っていた。
男はずっと嫌な予感が止まらなかった。純孤の問いかけに短く答えながら、その予感を振り払うように前へ進む。
「貴方、家族は?」
「さあな。随分前から、声も顔も思い出せなくなったよ」
「そう。……それは、とても悲しい事ね」
それは温もりのある声だった。ずっと喉を裂くような慟哭を繰り返していた彼女から飛び出すとは思えないような、とても暖かい声。
けれどどうしてだろうか、男はそれに生温い何かが這い寄る不気味な感触を覚えた。
「親を、母を忘れる。それが貴方という不死が背負った因果なのね」
純孤は男の境遇を心底から男を慮り、憐れんでいた。
森を歩く男の目を、至近距離で隣から覗き込む純孤の目が、慈しむように細められる。
「なんて哀しい。なんて寂しい。なんて忍びない。顔も声も、授かった愛さえも手のひらから零れ落ちていく。あまりにも痛ましい」
「あんたが気にすることじゃない」
彼女の言葉だけを掬って考えれば、それは優しい母親の言葉。だが、今の彼女を傍から見ればそれは異様な光景で、異様な行為だった。いかにも、純孤はまだ種を別にする狂気に身を浸らせている。
いや、もとより彼女に正気などないのだ。
「いいのよ、強がらなくて」
……いま目を合わせたら絶対にマズい。男は直感からそれを悟っていた。
純孤の柔らかい両の手のひらが、血の枯れた男の顔へと伸びる。それはまるで、獲物を優しく絡めとるどろどろとした生温い触手。
「ねえ……」
男が思わず顔を背けて避けようとすると、それを許さないかのように伸びてきた純孤の手が俺の顔を包んで、強引に目を合わさせられる
「私のことを、母親だと思っていいのよ……?」
「悪いが、そういうのは間に合ってる……!」
思わず手を振り払おうとするが、顔に触れた手は恐るべき怪力で固定されており、びくともしなかった。
「なんつう力してやがる……!」
「怖がらなくていいのよ……心配いらないわ。全部包んであげる。ほら、甘えて」
視界いっぱいに純孤の端正な顔が広がる。息遣いさえ聞こえるほどの距離で浮かべられる情愛の溢れた笑みと、客星のよう瞬く朱い眼にこれ以上ない危機感を覚えながら、全力で男は脱出を図っていた。
「まだ素直になれないのね。そう……」
ふわりと純孤の笑みが更に深まり、既に近い顔をさらに近づけ全力で抵抗する男を尻目に、優しく宥めるように耳元で囁いた。
「大丈夫よ、怖くないわ。私を信じて。ほら、力を抜いて」
「マジにやべぇぞ、こいつ……!」
いつのまにか純孤の手は背へと回され、男は力強く抱きしめられていた。骨の軋む音がする。優しく抱きすくめているようで、その実凄まじい怪力で男を抱擁していた。
死を覚悟するほどの圧迫感に男は身をよじり押し返そうするが、純孤はそれにびくともせずぎゅっと抱きしめ返す。
『惜別の涙』は掛けなおしてあるが、この奇跡はあくまでも死の淵の限界ギリギリで踏みとどまる程度の効果。純孤はきっとこのまま男の背骨をへし折った後も抱擁を止めないだろう。
純孤に悪意は一切なく、ただ迷い子を慈しむ純粋すぎる慈愛でよってのみ行動していた。そこにはなんの混じり気も無い。対価を求めない、尊き無条件の愛。それはまさしく母の愛の形だった。
不幸だったのは、それが復讐に身を捧げた純孤が持ってはならないものだったということ。ただ母の愛を遂げる為ひたむきに行動する彼女のもとには、きっと悲劇的な結末しか訪れないだろう。
だが、彼女にとって幸運だったことが一つある。
それは、母の愛を見出した相手が、ただでは死なない不死の男だったことだ。
げに恐ろしきはこのはた迷惑な無条件の愛が無条件だからこそ拒むことが許されないということだろう。
過去最大級のピンチに陥った男は、一つのアイテムを使うことを決めた。
脱出には、平時であれば帰還の骨片というアイテムを使う。だが、これはもう使えない。帰るべき篝火がもうないからだ。
だからこの場から脱出するにはもうこれしかない。
男は『赤い瞳のオーブ』を取り出し、異界へと飛んだ。