本日の天気は快晴、海面は波一つ立っていない。限りなく船旅に最適な天候だと言えるだろう。現に今、オジマンディアスが搭乗している船は一切のハプニングに襲われることなく悠々と海を渡っている。まさに優雅な船旅だ。乗っている船が豪華客船であれば、同行者がビビであったら正しく彼にとって至福の時間となっただろう。
だが、オジマンディアスが乗っている船は贅を拵えた豪華客船ではなく、象徴たるカモメの羽が図案された帆を広げた軍艦で、同行者は妃とは対極に位置する武装した海兵たちだ。
現在、オジマンディアスは世界政府からの命令により、海軍の同行の元、海王類が蔓延る
どうしてそうなったのか。それを知るには少しばかり時を遡る必要がある。
アラバスタの国家転覆を目論んでいた大海賊、クロコダイルの王下七武海からの失脚。
ニュース・クーによって世界中に広まったその一報は文字通り世界を震撼させ、世界中が突如と現れた正義の強者に色めき立っていた。そしてその中心地たるアラバスタは類を見ないほど、国を挙げた盛り上がりを見せていた。国民全員が挙げる歓声が国土全土を包み込んでいる最中、中心人物であるオジマンディアスが座す首都、アルバーナの王宮は対極的な緊迫状態を迎えていた。その中で普段と変わらない様子を保っているのはオジマンディアスと一人の海兵だけだった。
「悪いが、わしについて来て貰うぞオジマンディアス」
手錠を持った筋骨隆々の老兵──英雄、モンキー・D・ガープが一枚の紙切れを突き出して玉座に座したオジマンディアスにそう告げる。
「ふ、ふざけないでいただきたい!」
「その通りです! クロコダイル討伐については洗いざらい伝えたはずです!」
「そんなことをわしに言われても困るわい。なにせ世界政府からの命令じゃからのぉ」
余りに無礼な態度に護衛隊の副官であるチャカとペルが噛み付いたが、それはこの場に集う官僚や隊士達の代弁であった。
ガープが連行しようとしているのは海軍や世界政府の目を潜り抜けて大犯罪を画策したクロコダイルを打ち破ったアラバスタの英雄だ。本来なら謝辞に来るのが当然だと言うのにあろう事か連行など納得いくはずがない。
だが、それはガープも同じらしく頭を掻きながら愚痴を零した。
「イガラム、書類を寄越せ」
「かしこまりました、オジマンディアス様」
玉座に座し頬杖をついたまま、オジマンディアスは傍らに立っていた比較的平静さを保っている護衛隊長のイガラムにそう告げた。その命令に首肯したイガラムは階段を下り、ガープから書類を受け取ってオジマンディアスに差し出した。
差し出されたそれを乱雑に奪ってオジマンディアスは書類に目を通す。内容を簡略すると今回の事件をより明確化する為の事情聴取でその最後には世界政府からの発行を示す朱印が押されてあった。
「良かろう。英雄ガープよ、用意した船に案内するがいい」
手にした書類を能力で焼き払うとオジマンディアスは玉座から腰を上げ、階段を一足で飛び降りて近くにいた隊士に錫杖を渡してからその両手をガープへと差し出した。
それを見た全員が息を呑んだ。
海軍本部の中将が持つ手錠が通常の手錠であるはずがない。悪魔の実の力を封じる海楼石製のものであることなどオジマンディアスは承知している筈だ。悪魔の実の能力者である彼が武器を手放して両手を差し出す。
それはつまり───
「いや、お主には必要あるまい。その杖も持って構わん」
「そうか」
ガープは一度目を伏せると手にしていた手錠をジャケットの下に仕舞い、オジマンディアスへと顎をしゃくると先行するように王宮の出口へと歩を進めた。
「──いってらっしゃい、ラムセス」
今まで一度も声を出さなかったビビが玉座に座ったまま手を振りながら声を掛けた。それは王を案ずるのではなく、王の帰還を信ずる言葉。
そして妃の祈祷に応えてこその王である。オジマンディアスもまた振り返ることもなくビビに国を託す。
「ビビよ、暫し国を任す。──行って参る」
「……うん」
そんなやり取りを経て、オジマンディアスは海軍本部へと向かうことになったのだが、
どうしてこうなった。 とオジマンディアスは甲板の手摺に体重を預け、ここ数日なんの変化もない殺風景な風景を眺めて嘆息する。元を正せば、護国という正当な理由があったとはいえ、七武海の元締である世界政府になんの報告もなくその一角に穴を開けたことは事実だ。ましてやアラバスタは世界政府の加盟国だ。なんの断りもなく100を優に超える国が囲む卓に不和を招くのも憚られたが故に此度の召集令に応じざるを得なかった。
それに如何に理由が理由とはいえ、自分よりも幼い少女に何日もの仕事を押し付けるような形にも不満が募る。一応、程々で良いと伝えはしたが、責任感の強い彼女のことだ。恐らく寝る間も惜しんで執務室に篭ることだろう。帰ったら存分に甘やかすとしよう。 そう考えていたオジマンディアスの瞳が遂に海軍本部を捉えた──
◇◇◇
「遠路はるばる済まないな、オジマンディアス王」
オジマンディアスが指定された部屋の扉を開けると、そこには大きなカモメのオブジェがついた海軍制帽を被り、胸元に幾つもの勲章と大綬をあしらった白のハイネックジャケットを着用した巨大なアフロヘヤーと三つ編みの顎髭、黒縁の丸眼鏡が特徴な老齢な男──海軍本部元帥、センゴクと数名の将校、そして──三人の七武海が華美な椅子に座ってオジマンディアスを出迎えた。
そこにいる三名の七武海は天夜叉、ドンキホーテ・ドフラミンゴ。暴君、バーソロミュー・くま。海峡のジンベエ。
何れもがこの世界にその名を馳せる大海賊であり──此度の質疑応答には不適切な存在でもある。
なぜいるのかは疑問だが、如何に海賊と言えども流石に海軍の本拠地たる海軍本部で騒動を起こすことはないだろう、とあたりをつけたオジマンディアスは一瞥するだけに留め、センゴクの言葉に応じた。
「良い許す。大方、余の威光を恐れた者どもからの指示であろう。貴様も大変だな、センゴク元帥」
「そう言って貰えると有り難い」
金と青色の錫杖で床を小突きながらオジマンディアスは席へと歩を進めて椅子に腰を下ろし、少し離れた場所に座っている三人について問うた。
そしてセンゴクが七武海を参集させた真意を述べようとした最中、特徴的なサングラスとフラミンゴの羽を思わせる上着を着用した男──ドンキホーテ・ドフラミンゴが会話に割って入った。
「それで──そこの賊どもはなぜ招いた? 余は凡骨どもの権謀術数にさしたる興味はないのだが」
「ああ。奴等は我々が貴方に──」
「フッフッフッフッ! そう冷たいことを言うなよ、太陽王。王としての器が知れるぜ?」
込もるは嘲笑。サングラスが遮っているその瞳は窺えないが、聞く者の神経を逆撫でするような声色から彼がオジマンディアスを見下しているのだとその場に座している全員が悟った。
それを不味いと思ったか、一人の将校が弾けたように席から飛び出してドフラミンゴの胸倉を掴もうとしたが、
「そう囀るな、王に焦がれし道化よ」
それはオジマンディアスの零した一言で収まった。
「あァ?」
「余は小鳥の囀りになど意にも介さん。義憤を覚えた海兵よ、貴様の愚行を余が赦そう。再び席に座すがいい」
青筋を浮かべたドフラミンゴが殺気を込めて睨み付けるが、本当に取り合うつもりはないらしい。オジマンディアスは立ち上がった将校に着席を促してセンゴクに会議を始めるように目配せする。
完全に自分を舐め切った態度のオジマンディアスに対して隠すことなく舌打ちをしたドフラミンゴは会議に参加する気はないらしく、掛けていた椅子により深く腰を沈めて天井を仰ぎ見た。
「……話が逸れたな」
「余は赦す、と申した。二度は言わんぞ」
「七武海を招いたことは謝罪しよう。だが、奴等には我々が貴方に打診すべき実力者として認めさせる必要があったのだ」
「ほう?」
センゴクの瞳とオジマンディアスの黄金の瞳が交叉した。
センゴクは顎鬚を摩りながらオジマンディアスの顔色を窺い、オジマンディアスは口元を歪め、興味深そうにセンゴクを見ていた。
「単刀直入に言おう、オジマンディアス王。七武海の陰謀を見破った貴方の神算鬼謀の知恵と威光を以って七武海を牽制してもらいたい」
◇◇◇
「───それは神王たる余の威光を窶せ、ということか? センゴク元帥」
センゴクの言葉を聞いた瞬間、オジマンディアスが放つ神威が室内を満たした。空気そのものが数段重くなり、彼等が座していた円卓はおろか床や壁にまで及び、幾つもの亀裂が奔った。
その光景を目前にした全員が放たれている神威の正体が覇王色の覇気なのだと悟る。
だが、此処に集うは海軍本部元帥を筆頭に七武海と海軍本部の将校。覇王色を浴びたこともあれば、覇王色を宿す者さえいる。そんな覇王色に気圧されはするものの威圧に耐えられる実力者が一堂に会しているこの場で異常事態が起きた。
誰も───オジマンディアスの問いに何も答えられなかったのだ。
別に姦計を巡らせていたわけでも、何かの悪事が露見したわけでもない。ただ純粋に───新世界にさえ幅を利かせる七武海が、大海賊と鎬を削れる海軍将校が呑まれ、海軍を一身に担うセンゴクでさえもがオジマンディアスの覇気に呑まれかけていた。
指の一本さえまともに動かせない最中、センゴクだけがそれを悟られないように毅然とした態度でオジマンディアスを見つめ続けた。
「ははッ。単なる戯れだ、赦せ」
数十秒、一分。或いは十数分。そんな一瞬一瞬が途方もない時間だと錯覚させる重圧がフッと消え失せた。
極限の緊張の糸が途切れ、センゴク以外の人間が額から汗を流し、激しく息を乱しているのを眺めて下手人であるオジマンディアスは快活に笑っていた。
(クロコダイルを倒したのも納得だが……)
確かにクロコダイルの撃破も納得がいく覇気だった。これ程の実力者が秩序の均衡に働きかければ多くの海賊たちも鳴りを潜めることだろう。
だがそれでも、世界政府は彼の存在を危惧するだろう。仮にもし、彼が民間人であったとすれば権力で海軍や世界政府に取り立てることも出来ただろうが───彼は世界政府に加盟している一国の王だ。圧をかけようにも、圧をかけた時点でそれは世界政府の誓いを無碍にすることと同義だ。その瞬間、世界政府は文字通り瓦解してしまうだろう。
(───やはり野放しには出来んな。アラバスタ付近の警備をより強化する必要があるか)
表情を悟られぬように罅割れた卓の上に両肘を立てて寄りかかり、手元で口元を隠して、センゴクは心の中でそう吐露した。
「余の王威に屈さず、毅然と睨め返してみせた貴様に敬意を表し───此度の懇請、受諾してやろう。喜べ」
「引き受けてくれたこと、感謝する。では、此方の書類にサインを頼む」
神威を浴びて尚、平然と振舞ってみせたセンゴクに対してオジマンディアスは傲然と裁定を下した。
飽くまでも海軍が下で、己が上だと言わんばかりの態度に普段の将校達なら食ってかかるだろうが、覇王色に打ちのめされた今、彼らにそんな余裕はなかった。この場で唯一平静を保っていたセンゴクも折角取り付けた契約を破談させる気はないらしく、黙々と必用事項の記載された書類を渡した。
「当然、恩賞は弾む予定だ。返礼品は其方の望むものを用意しよう」
「それは有難いな。受諾した価値があるというものよ」
センゴクから書類を受け取ったオジマンディアスがそう言い、いざペンを手に取った時、彼の腕が微かに震え──硬直した。
「───赦せ、元帥。如何やら七武海の席はもう一つ空席になるらしい」
「なに? それはどういうことだ?」
オジマンディアスは口元を歪めてそう告げ、その言葉をセンゴクが訝しんだ。
その直後、彼と同じような現象が将校たちにも見られた。そして、彼等はその現象を起こし得る人物を知っている。
全員の視線が今まで無関心を貫いてきた男───ドフラミンゴに殺到した。
「フッフッフッフッ! 今回の一件をそいつに呑まれるのは困るんだよ、センゴク」
「ドフラミンゴ、貴様……ッ!」
全員の敵意を一身に受けてドフラミンゴは嗤う。
おそらく、オジマンディアスの覇王色の覇気に怯んでいた隙を見計らって目に見えない糸を身体中に張り巡らせて雁字搦めにしたのだろう。
「この場で海の藻屑になるか!? 海のクズども!!」
「おっと、暴れんなよ? アンタがおれを倒すよりもそいつらを殺す方が早いからな」
顳顬に青筋を浮かべてセンゴクが糸を引き千切り、ドフラミンゴを打破せんと椅子から立ち上がるも、ドフラミンゴの脅しによってその動きが明らかに鈍った。
そして、その瞬間をドフラミンゴは見逃さない。
即座に両指を駆使して糸を絡めた将校たちを操り、人質へと変えていく。ある者は軍刀を首に当て、ある者は絞首させることで死の一歩手前まで追い込ませた。
「馬鹿げた真似を───なにが望みだ!?」
「なに。おれの要求を呑んでくれりゃ糸は解いてやるよ」
両手を広げてドフラミンゴは冷酷に告げた。海軍の面目を殺す、悪辣な指示を。
「アンタなら簡単に出来るさ。そいつの手配書を発行すれば全員、あとで解放してやるよ」
「ふざけるな! そんなこと───」
出来るはずがない。センゴクはその顔を苦渋で染めて震えた。
だが、そんなことはドフラミンゴとて承知している。だから考える時間を与えない。焦燥しているうちに次善を取らせまいと策を弄する。
ドフラミンゴはセンゴクに見せつけるように指を僅かに動かして将校らの首に刃を少しばかり食い込ませた。
挙がる悲鳴。センゴクの歯を食い縛る音が嫌に響いた。
「ただで済むと思うなよ……ッ!」
「後のことは追々考えるさ。それよりも、どっちを取るよ───仏のセンゴク」
海軍の面目と部下の命。最早、ドフラミンゴに要求の撤回をさせるのは不可能だろう。ならば、最善手は被害が少ない方を取ることだ。
が。センゴクは不可視の糸の毒牙がオジマンディアスにも及んでいたことを捉えていた。
此処でドフラミンゴの要求を呑んでも現状の二の舞いを被る可能性がある以上、仕方がない。センゴクは己の命を天秤に載せて──賭けに出る。
将校らの命を引き換えに、ドフラミンゴを討つ。
「───這い蹲え、道化」
センゴクが能力を行使しようとした時を見計らったように男の声が上がった。
ドフラミンゴとセンゴクの視線が、声の発生源に向かい──そこには錫杖を手にして椅子に踏ん反り返っているオジマンディアスがいた。
「テメェは厳重に縛った筈だ。なんで動ける」
殺意を露わにドフラミンゴが問う。
ドフラミンゴがオジマンディアスに要した糸の本数は将校らの十数倍だ。そしてその本数はクロコダイルを倒し、覇王色に目覚めた眼前の男をそれだけ警戒していたという証左でもある。だが、その糸束をオジマンディアスは身動ぎ一つせずに解いてみせた。ドフラミンゴの警戒がさらに増した。
だが。その警戒を一蹴するように。弄した策など無駄なのだと言わんばかりにオジマンディアスは嗤った。
「余こそが太陽である。貴様は太陽の軌道に関与できるのか?」
「テメェ……ッ!」
オジマンディアスが錫杖で床を突くと彼の身体から炎が迸る。それらは将校達を雁字搦めにしていた糸を焼き切った。
ドフラミンゴの築き上げた優位が、ものの数瞬で逆転された。
だが、そんなもの、最早些事に過ぎなかった。
「もう一度言おう───天を仰ぎ、地を這え。さすれば、絶望による死を赦す」
「おれがテメェの下だと!? 図に乗るなよオジマンディアス!!」
アラバスタ、ドレスローザ。
同じく国を持つ王にして覇王色を宿した天に選ばれし者どうし。
己の信にそぐわぬ者を誅殺すべく───海軍本部を戦場に、太陽と夜叉が衝突した。