近すぎるキミ、遠い始まり   作:沖縄の苦い野菜

5 / 9
第四話 太陽のエール

 桜の絨毯が、学校の前の通学路を彩った。

 既に木々は緑葉に衣替えを終えようとしている中の春の名残だ。踏みつけられ、時間が経ち、茶色く変色した花びらは一抹の寂しさを胸に呼び起こす。

 

 もうすぐ初夏に入ろうとする朝の空気は、水で顔を洗うかのような冷たさで肌を撫でる。日差しはまだ弱く、人通りは閑散と。遠く先まで見通せる青空とつながった通学路。

 

「桜、散っちゃったネ」

 

 そんな中、エレナは隣を歩く良悟の手を取って握りしめた。肩と肩が触れ合う距離で、彼女は緑と桜を交互に見つめては、切なげに目を伏せる。

 

 良悟は「あぁ」と相槌を打つだけで、前だけを向いていた。桜が散ってしまった、という事実に共感をしたくなかった。

 

「リョーゴは、桜が大好きだったよネ?」

「そうだっけか」

「ワタシも大好きなノ。散っちゃったあとも、新しい季節がやってくるでショ? 桜は、咲いても散っても、季節の始まりを教えてくれるノ」

 

 握り返すように良悟の手に力が入る。マネキンの手のようにただそこにあって、エレナが繋いでいるといった状態から、お互いにつなぎ合う形になった。そのことに思わず笑顔が咲いた。

 

 朝からずっとこうだった。彼は魂が抜けてしまったかのように色をなくした顔で、まるで日常を再生するように生気なく動くのだ。仏壇の前での黙祷も長く、エレナが声を掛けなければ永遠と沈黙していそうな危うさがあった。

 

「リョーゴっ」

 

 両手をギュっと握りしめると、小さな震えが伝わってきた。その手はひんやりと冷たくて、少し大きくて、指の腹はちょっと硬い。握っていると、少しずつ汗ばんでいく彼の手は虚勢を張らない。等身大がそこにある。

 

「ひとりじゃないヨ」

 

 手の震えは寂しさの表れだ。その感覚はよく知っている。

 ブラジルから日本に来た当初、見知らぬ土地、聞き覚えのない言葉、周りに誰もいない孤独。来たばかりで迷子になって、だれにも頼れない、自分を中心に空白があるような疎外感。

 

 

 

 

 

 

 きっと、良悟は置いてけぼりになっている。

 春休みに母を病気で亡くして、父は仕事や諸々の手続きに手一杯。祖父母はどちらも他界していて、彼の父の多忙っぷりに手伝いを申し出る時間さえ見つからない。

 

 良悟の母は、亡くなる数日前に彼にプレゼントを渡していた。それが、彼の名前の刺繍が入った真っ白なハンカチだ。

 

 そんなプレゼントに、良悟が激怒したことを彼女は知っている。

 なぜなら、エレナも隣にいたからだ。

 

 病室の中で、彼は見ている方が竦み上がるような怒髪天を衝く形相で叫んでいた。

 

『ふざけるなっ! なにが、なにがっ、プレゼント!? こんな、別れの挨拶なんて欲しくないんだよッ!』

 

 そう言って、彼は母親にハンカチを叩き返して病室を出ていった。

 

 

 

 ――それが、母との最後の会話になるとも知らずに。

 

 

 

 

 

 

 だから、エレナも距離を測りかねていた。良悟にどんな風に接すればいいのかわからなくて、それでも会話だけはいつも通りで。寂しい時に誰かと触れ合えないことが、どれだけ辛いことかわかっていたのに、踏み込む勇気が出せなかった。

 

 勇気の一歩は、手を繋ぐところから。

 相手のことがわかる一番軽いスキンシップ。

 

 良悟は繋がれた手に視線を落として、微笑みを浮かべるその表情を見て……バツが悪そうに、また前を向いた。

 

「なんか、調子狂うな」

 

 良悟はそう呟くと、しばらく沈黙を貫いた。

 沈黙の間、エレナは良悟の手を両手で握り続けた。まるで子どもを安心させるように、壊れ物を扱うように柔らかく。紺碧の瞳は見守るように。

 

「……ハンカチ、かしたんだよ」

「えっ?」

 

 ぽつり、とこぼれた言葉にエレナの目が大きく見開かれる。その反応に、彼は思わず苦笑を漏らして続きを話した。

 

「見ず知らずの相手で、俺がヘマやらかしてさ。相手のこと全然知らないし。返ってくる保証もない」

 

 手の震えが、少しずつ大きくなっていた。

 

「でもさ。俺の不注意でやらかしたことを、他の誰かに尻拭いなんてさせられないだろ? 自分の物可愛さになんて。そんなのやったら、母さんに怒られる」

 

 ジトっと汗のにじむ感触。心なしか熱がこもり、握り返す力も強くなった。

 

「――形見、なくしたんだ」

 

 歌うように、声は春風に乗って飛んでいく。

 自分の言葉の行き先はどこなのか。良悟の視線は風を追って遠くに向けられる。

 

 初めて足が止まる。

 学校はすぐ目の前だというのに、彼の視線はどこか彼方に向けられたまま動かない。その瞳が映しているのは後悔か、それとも思い出か。

 

 すぐ隣にいるはずなのに、瞬きした次には消えそうな立ち姿だった。

 風に巻かれて目を閉じた後、目の前には花びらが舞い散るだけだった――そんな映画のワンシーンのような光景が――良悟の母が、激怒して帰った彼のことを病室の窓から寂しそうに見守る光景が。

 

 エレナの脳裏に焼き付くように流れ込んできた。

 

「――リョーゴっ!」

 

 だから、彼女は大きな声で呼び止める。手を強く引いて連れ戻す。風にさらわれてしまわないように、どこかに連れ去られてしまわないように。彼の手を引いて学校まで走り出す。

 

「ちょっ――あぶなっ!」

「難しく考えすぎだと思うナ」

 

 良悟の声をものともせず、エレナは良悟と一緒に校門を通り抜ける。

 

「リョーゴはいいコトのために、ママンのプレゼントを使ったノ!」

「そりゃ、そうだけど――」

 

 グラウンドの横を通り抜けて、校舎の入り口が見えてきた。

 

「ママンは、そんなリョーゴのコト、ぜったいに褒めてくれるヨ!」

「っ、そうかもしれないけど――」

 

 だったら! とエレナが声を上げると同時に、二人は入り口の扉を通り抜け――

 

 ――そこでようやく立ち止まり、彼女は良悟の顔を見て言った。

 

「ハンカチ、返ってくるヨ! お日様はいつも、ワタシたちを見守ってくれてるからネ!」

 

 底抜けに明るい、それこそ太陽のような笑顔が輝いた。

 見ているだけで、思わず胸の内が温かくなるような笑顔。疑いのない、まっすぐな言葉。

 

(――あぁ、昔からこんなヤツだったっけ)

 

 あまりにまっすぐで、純粋で。疑いを知らない彼女の言葉を聞いていると、ついついその言葉と行動に引っ張られてしまう。彼女の笑顔が咲けば楽しくて、「できるヨ!」と応援されれば自分が無敵にでもなったかのような錯覚をして。「明日はきっと晴れるヨ!」と試合前に言われれば、聞いた本人の気分も晴れた。天気も晴れた。

 

 だから、根拠なんてないというのに。

 彼女に「ハンカチが返ってくる」と、こうまで自信満々に言われると――本当に返ってくるような、そんな気になってくる。

 

「ぷっ――」

 

 思わず、口から笑いがこぼれ出る。言葉と笑顔だけでその気になってしまって、途端に笑いが込み上げてきた。今まで悩んでいたのは何だったんだと、心のモヤは瞬く間に晴れ渡る。

 

 

 

「――あぁ、確かに。そうだな」

 

 

 

 挑戦的で小僧っぽい、少年の笑顔がここに咲く。

 

 

 

 そんな笑顔に負けじと、太陽も輝いた。張り合うように笑顔を深めていった二人は――ある時を境に、あははは、と声を出して笑い合う。

 

「元気出たかナ?」

「あぁ、出た。ほんと、元気もらってばかりだよ。ありがとう」

「どういたしまして!」

 

 そんな遣り取りの後、彼らは微笑みを交わして、それぞれの下駄箱に向いて歩き出す。

 背中と背中が向き合った二人の表情は、やはり笑顔で。

 

 

 

 太陽は、今日も輝いている。

 

 

 




これはまだ、ほんの一部。
良悟が先に帰ったということは、エレナだけが知っている事実もあるということだ。




感想、コメント、評価、ご指摘、お気に入り登録など心よりお待ちしております。作者のモチベーションとさせていただきますとも。

章タイトル、サブタイトル、タグなどは進めながら少しずつ工事していきますのでご容赦を。



それでは、また次話にてお会いいたしましょう

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。