あと一日で、この世界は滅ぶらしい。
 だから、あの子に告白してみよう。

 いち高校生の前原望は、学校の人気者へ想いを告げようと、覚悟を決めて夏空の下へ飛び出す。
 ――そこで、その人気者と家の前でばったり出会うのだった。

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希望が、芽生えてしまった

 あと一日で、この世界は滅ぶらしい。

 だから、あの子に告白してみよう。

 前原望(まえはらのぞむ)は、その一心で朝っぱらからリュックを背負い、自室の窓際に置いておいた植木鉢の花にミネラルウォーターをふりかけ、そのまままっすぐに玄関へと駆け込み、高校一年からずっと愛用してきた靴を履いて、いってきますの一声とともに家の扉を開け、

 

「あっ」

「あ」

 

 二人分の気の抜けた声が、夏の青空に響き渡った。

 ――嘘みたいだ、と思う。

 だって会いたかった人が、押井歩(おしいあゆみ)が、自宅に備え付けられた門の向こう側に突っ立っていたから。

 あまりにも出来すぎだと思ったが、押井は家の門を手づかみしたままで硬直しきっている。門にはインターフォンが設けられているのだが、世界崩壊のあおりを受けて水道も電力も三日前ぐらいから既に停止中だ。押井としては、無作法ながら門を開くほかなかったのだろう。

 何はともあれ、これで勘違いというセンは消えた。

 さて、

 一枚の門に隔てられたまま、互いに空いた口がふさがらない。突拍子すぎて、紡ぐべき言葉すらろくに思いつかない。

 

「――お、おはよう」

 

 最初に、言葉を発したのは前原だった。

 恋するオトコの意地だった。

 挨拶を交わされた押井も、多少あたふたとしたような調子だったが、

 

「……おはよう、前原君」

 

 にこりと、応えてくれた。

 ひとまずの冷静さを覚え、前原は体にぐっと力を込める。なるだけ笑ってみせながら、少しずつ、少しずつ家の門に近づいていって、

 門を、そっと開けてみせる。前原と押井を阻むものなど、何もなくなった。

 

「え、えーと。どうしたの? 押井さん。何か用事?」

「あ、うん。……あー、その、ね?」

 

 押井の手が後ろに組まれ、目線が真正面以外の方向に泳ぎ始める。頬なんて、見てわかるぐらい赤い。

 すげえものを見た、と思う。

 だって押井は、どんな相手にも負けないテニス部のエースで、しかも人望もある部長で、いつも人に囲まれているような女の子だったから。

 だから、こうして臆している姿がとても新鮮だった。

 

「……んー……えーと……」

 

 前原は、良くも悪くも普通の高校三年生だ。だからこそ、押井がいま抱いているはずの羞恥心を察する。

 恋する男として、このまま黙ることなどできるはずもなく。

 

「お、俺もさ」

 

 押井が、びくりと肩を揺らす。ショートヘアが、ふわりと波を打った。

 

「これから、押井さんの家に行こうと思ってたんだ」

「ど、どうして?」

「……い、一緒に遊びに誘おうかなって」

 

 躊躇の沼に引っかかるよりも先に、本能のままに本心本音を口にできた、と思う。

 自分から目的を明かしてしまえば、押井のためらいも少しは緩和されるかもしれない。そう考えたが故の行動だった。

 

「……そう、なんだ」

 

 そして押井は、目をくりっと丸くして、

 

「……同じ、だったんだ」

 

 ふわっと、笑ってくれた。

 もう悔いなんてない、死んでもいい。割と本気でそう思う。

 ――ひとまず冷静になろう。いま押井は、何と言った。

 

「お、同じ?」

「うん」

「同じってことは……俺と一緒に、どっかで遊びたいってこと?」

「うん。だめ、かな?」

「いやいや大丈夫大丈夫、学校も休みになっちまったしいけるいける」

 

 生まれてはじめて、即答というやつを口にした気がする。

 あまりにも必死になってしまったが、押井はこれまた嬉しそうに微笑み返してくれる。

 

「そっか、よかったー……」

「ああ。つうか、押井のお誘いならいつだってかまわないけどな」

 

 それを聞いて、押井が一歩前に歩み寄ってきて、

 

「へぇー……なんでなんで?」

「え!? そ、それはそのー……」

 

 好きだから。

 

「花壇で、よく話し合う仲だし」

「……ああ」

 

 花壇。その単語を前に、押井は安心したように微笑んで、

 

「そうだよね、そういう仲だもんね」

 

 押井の眉が、ほんの少しだけへこんだ気がした。

 

「ま、そういうわけだから。俺は喜んで遊びに付き合うよ」

「そっかー……うん、ありがと」

「こちらこそ」

 

 何がおかしかったのか、押井は面白そうに笑った。

 だから前原も、同じような顔をした。

 

 ノープランの街歩きが、これから始まろうとしている。門出を祝うように、空は恐ろしいほど青い。

 

 ■

 

 押井に関心を抱き始めたのは、高校二年に進級した直後の頃だ。

 

「お前さ、隣のクラスの押井って知ってるか?」

 

 休み時間。友人が嬉しそうな声で、いやらしい顔でそんなことを聞いてきた。対して前原は、うんまあと答える。

 押井歩。その名前はなんとなく知っている、テニス部の期待のエースとして、学校じゅうが持ち上げていたから。

 

「その押井がな、また告白されたんだってよ! もちろんフったらしいけど」

 

 へえ。

 押井の顔は、学級新聞でちらりと見たことがある。白黒だったけれど、きれいだなあという印象は抱いた。

 

「でも、押井はまだまだ告られるだろうなー」

 

 なんで。前原が質問すると、友人は力なく笑って、

 

「とにかくスゲーもん、押井は。顔はもちろん、人当たりだっていい。あいつが一人きりで居る姿なんて、俺ぁ見たことがないね」

 

 そりゃあすごいな、と思う。モテそうだなと、なんとなく思う。

 

「テニス部きっての天才プレイヤーと称されても、本人は今日もストイックに練習練習。しっかも住んでいる家だってデケえ、マジで完璧だよもう」

 

 自分にはまるきり、縁の無い人だ。前原は、そう総括した。

 

「……俺も告ってみようかなあ」

 

 そう言う友人の笑顔は、どこか達観めいたものが滲みこんでいた。結果なんて、わかり切っているからだろう。

 まあ、好きなようにしてみろ。前原は、友人の腕を軽く叩くことしかできない。

 

 

 ――放課後。

 今日も今日とて前原は、何をするわけでもなく学校の玄関を潜り抜ける。外から野球部のかけ声が耳に飛んできて、他人事のように「やってるねー」と思考した。

 春だからか、午後三時くらいになると空もすっかり黄色くなる。いいもんだねえと思うが、それだけだ。

 そろそろ帰ろうかなと、前原は校門めがけ歩を進める。

 そして、校門まであと三歩というところで足が止まる。

 

 ――俺も告ってみようかなあ。

 

 押井歩は、そんなにもスゲー人なのだろうか。今になって、前原望十七歳は興味を持ち始める。

 左右を見渡す。誰も、前原のことなんて気にも留めていない。

 心の内を読まれていないようで、ほっと胸をなでおろす。

 ――確か校舎裏に、テニスコートがあるんだよな

 振り向く。なるだけ真顔で、見せかけの淡々さを露わにしながら、押井が居るであろうテニスコートへ足を運ばせていく。

 特に誰にも声をかけられず、知り合いとも遭遇しないまま、難なくテニスコートに到着し、

 

 押井が、コートの上で必死に戦っていた。

 

 まず最初に、そう思った。

 そして前原は、周囲には目もくれずにフェンスへと駆け寄っていく。

 白いテニスウェアを着た押井は、ショートヘアを羽ばたかせながらで、来るボールを確実に打ち返していく。時にはネットのすぐそばでボールが落っこちることもあったが、それすらも押井は対処し、相手プレイヤーを着実に押し込んでいく。

 しばらくの応戦の後、押井のスマッシュが相手プレイヤーを見事出し抜いた。

 ファンか友達か、フェンスの周囲から歓声が響く。

 押井は見向き見せずに、無表情で相手プレイヤーを見据えるのみ。

 そして前原は、ただただ押井の横顔を見つめるほかなかった。

 

 試合が再開されるが、押井の攻めは一向に衰えない。あまりにも一方的過ぎる。

 そんな相手プレイヤーのことを、可哀想――と思う余裕なんてない。いまの前原は、汗を流してまで、必死にテニスと向き合っている押井の事しか考えられない。

 押井の白いスカートが、音もなく翻る。押井の無表情が、今もなお崩れない。周囲から称賛されようとも、押井はただボールへ食らいつくだけ。

 スゲー人だ。そう思う。

 いつまでも見届けていたい。そう思う。

 ――話をしてみたい。そう、想う。

 

 試合は、押井のワンサイドゲームで幕を閉じた。

 相手プレイヤーと握手を交わす押井の笑顔は、とても穏やかに見える。フェンスさえ無ければ、押井の顔をもっとよく覗き見できたのに。

 そしてコートが解放されて、友人らしいグループが押井へ駆け込んでいく。やったね、すごいね、見てたよ、優勝間違いしじゃん――そんなふうに近づける友人たちの存在が、とてつもなく羨ましい。

 

 前原は、己が胸にそっと手を当てる。

 運動もしていないのに、心臓がひどく跳ね上がっていた。

 ため息をつく。

 なるほど、押井が告られるわけだ――

 

 この気持ちを確認できただけで、今日のところは満足だ。

 だから前原は、テニスコートに背を向けて帰宅することにした。一度だけ、振り向いて。

 

 

 次の日。

 押井のことがぜんぜん忘れられなくて、勢い余って早起きしてしまった。午前六時半、ダントツの新記録である。

 誰も起きていない自宅はあまりにも静かで、うっすらとほの暗い。居間が、いつもより広く見える。

 カーテンでも開けようかと、居間の窓に近づいて――やっぱりやめた。この雰囲気も、なんだか悪くはない。

 どうしようかなあと、居間の真ん中で背を伸ばす。二度寝しようにも、目はすっかりギンギンだ。ふたたび押井と出会えなければ、今日のところは安心して眠れもすまい。

 よし。

 せっかくだし、学校へ行ってみよう。

 前原望は、その一心で朝っぱらから顔と歯を磨き、簡単な朝食と準備を済ませ、そのまままっすぐに玄関へと駆け込み――『学校へ行ってきます。朝食は食べました』の置手紙を食卓テーブルの上に置いて、いってきますの一声とともに家の扉を開けた。

 

 ――通学路には、誰の姿も見られなかった。

 まるで世界が滅んだのかと思う。この世界が、自分のものになったかのような――車が歩道を横切る、少しは空気に浸らせて欲しかった。

 朝から大変だねえ、仕事かい。自分もタイヘンなんだ、恋の病を患っていてねえ。

 そんなことを考えながら、前原は、一人ぼっちの通学路をゆっくり歩んでいく。空はまだ水色がかっていて、ほんのりと空気が冷たい。電線にはスズメが二、三匹ほど乗っかっていて、元気よく鳴き声を発していた。

 両腕を広げる。

 外って、こんなにもいいものだったっけ。

 この寂しさがたまらない。それに気づかせてくれた押井には、感謝しておかないと。

 

 そうしていつもの曲がり角を曲がって、横断歩道を一つ渡れば、あっという間に校門前。

 遠く面倒だったはずの道のりは、いつもより短かった。

 ここまでか、まあ仕方がないよな。感傷ぶった苦笑いをこぼしながら、校舎に刻まれた時計を見上げてみる。余裕の七時だった。

 グラウンドには誰もいない。学校の窓を眺めてみても、生徒の姿すら見受けられない。さすがに教師は居るとしても、一番乗りの生徒はたぶん自分だろう。

 なんだか愉快な気持ちになりながら、我が物顔で校門を潜り抜けて、

 

 押井が、花壇の前で、じっと腰をかがめていた。

 

 たったそれだけの光景に、前原の自意識が釘付けになる。聖域めいた空気を勝手に作り出してしまって、おいそれと近づけない。

 それでも前原は、なんとかその足を一歩、また一歩と前に動かしていく。こんなとんでもない行為が出来るのも、恋が後押ししてくれているからかも。

 そうして七歩目を踏み、押井の横顔がうっすら見えてきて、

 前原の息の根が、止まった。

 押井が、嬉しそうな顔をして花を眺めていたから。

 テニスコートでは決して見られない表情を前にして、前原はもうどうしようもなくなった。考えられるのは、押井のことばかり。

 押井は顔が良くて、何人もの男に告白されて、テニス部きってのエースで、テニスウェア姿がすごく良くて、花のことが好きで、

 

「あれ?」

 

 死んだ。

 

「何か、用かな?」

「……いや、特にはないんだけど」

 

 間髪入れず、

 

「早起きしすぎて、せっかくだから学校に一番乗りしてみようかなと」

 

 ろくな言い訳も思いつかない、だから事実のみを口にする。

 そして押井は、「へえ」と微笑み、

 

「いいよね、一番乗り。誰もいない教室って、こう、いいよね」

 

 心まで沸騰したと思う。押井が、自分の言葉に同意を示してくれたから。

 だからか、前向きめいた気持ちが芽生え始める。わざわざ誰もいないことを確認して、前原は花壇の前で屈んだままの押井に近づいてみせた。

 

「花、見てたの?」

「うん」

「好き、なの?」

「うん、好き。見てるとすごく癒される」

「へぇー……わかるわかる」

 

 押井のすぐそばで突っ立ったまま、前原は同意の言葉を何とか振り絞る。

 嘘を言ったつもりはない。綺麗な存在は、ふつうに好きだ。

 

「これ、リナリアっていう花なんだけれど……知ってた?」

「いや、知らなかったな。でも、綺麗だと思う」

 

 リナリアという白い花は、花壇いっぱいを使って今も静かに佇み続けている。

 これまで見向きもしていなかったけれど、これはこれで、という感情が前原の中に芽生え始める。

 ――それを察してか、押井が手招きをした。

 手招きをされた。

 

「え、え?」

「いいよいいよ、こっちに来ても。花は愛でるものだし」

「いやその、気安く、近くに……」

「なんで? 同じ花好きなんだから、別にいいじゃない。私はいいよ」

 

 悟る。押井歩が、どうして人気者であるのかを。

 

「じゃ、じゃあ、お言葉に……」

「そんな慎重にならなくてもいいってー」

 

 押井の間延びした語尾に、脳ミソがぶるりと震えた、気がした。

 ――ゆっくりと、押井に触れないように、押井のすぐそばで腰を屈める。

 

「……うん……」

 

 リナリアのことを、よく見つめてみる。

 目を引く白い花びらの中央に、黄色いグラデーションが嘘みたいに調和しきっている。それだけなら派手に見えるかもしれないが、リナリアを支える緑色の茎が、まぶしすぎず暗すぎずのバランスを上手く保っているような気がした。

 だから長い間、じっと見つめることができる。何を気取ることもなく、リナリアの前で笑えた。

 だから、自然と、

 

「きれいだ」

「だよね」

 

 あえて、横は見ない。きっと、ばかなことを口走ってしまうだろうから。

 

「花か、いいな、いい」

「うん。いいよね、花」

 

 手を伸ばしたくなったが、やめた。

 傷つけてしまうような、そんな気がしたから。

 

「……あの」

「うん?」

「押井さんは、いつも花を見てるの?」

「うん」

 

 押井の返事は、とても穏やかだった。

 

「落ち着くんだ」

「……そっか」

 

 押井の周りには、常に人がいる。友人はそう教えてくれた。

 押井は常日頃から、称賛と喧騒に取り囲まれているのだろう。放課後になっても、押井はテニスコート上で真剣と緊張を携え続ける。

 自分と違って、押井には一人きりの時間というものが存在してくれていない。

 だからこそ押井は、早朝という自由時間の中で花壇に腰を下ろし、心の底から自由気ままに笑えているのだろう。

 ――そうして、しばらくが過ぎた頃、

 

「さて、と」

 

 学生鞄を片手に、押井が重く立ち上がった。前原も、それにつられるように腰を上げる。

 

「じゃ、そろそろ行こっか」

「うん。……ああ、そういや、」

 

 花をじっと眺めてきた前原の口から、疑問が転がり落ちた。

 

「水やりとかはしなくていいのかな」

「ああ――私は世話役じゃないから、勝手にやるのもどうかなーって」

「!……ああ、そっかあ、そうだよなあ」

「うん。水をまきすぎると逆効果だろうし」

「だろうなあ」

「仕方がないよねー」

「だなあ」

 

 押井の言葉は、とても行儀がよかった。

 ――けれども前原は、見えてしまったのだ。

 

「じゃ、そろそろいこっか」

「……え? 一緒に?」

「え、うん」

「……わかった、そうする」

 

 押井は、今は気楽そうに微笑んでいる。

 けれども前原は、先ほどの押井の表情がどうしても忘れられない。

 

 押井はきっと、花にお礼を振りまきたいのだろう。だから、あんな不満げに笑えてしまったのだと思う。

 

 ■

 

 数日ぶりに歩いた町は、それはもう劇的な変化を遂げていた。

 まず目に入ったのは、まったく動いていない信号機だ。通電していないせいで、赤も緑もへったくれもない。お陰で縦横無尽に車が走り回っている。どこか遠くでクラッシュ音が反響して、押井が耳をふさぐ。

 

 次に気になったものはといえば、無人のコンビニだ。

 食料や水はもちろんのこと、日用品や店員までもがすでにもぬけの殻。リュックの中に一日分ぐらいの食料は詰め込んであるから、問題はないのだけれど。

 開かない自動ドアを前にして、押井が「ふしぎだね」とつぶやく。何となく意味を察した前原も、「そうだなあ」とだけ。

 

 そうして歩道を歩んで数分、前原と押井は道端のド真ん中で繰り広げられている喧騒を目の当たりにして、思わず両足が止まった。

 白昼堂々、公衆の面前で、二人の大男が互いを殴り合っていた。

 肩幅の広い男が、マッチョめがけ重苦しいボディーブローを突きさす。鈍い音ともに、マッチョの口からありとあらゆるものが吐き出された。

 しかしマッチョも、負けじと高い蹴りを繰り出す。それは肩幅男の顔面に突き刺さり、鼻血だの涙だのが宙を舞う。

 瞬間、歓声が街中に響き渡った。

 前原は思わず、押井の前に立った。

 けれど、誰も前原のことなど気にしてはいない。「客」の関心は、大男の死闘のみに注がれれている。

 

「……なんだろう、これ」

 

 後ろにいる押井が、明らかに怖がっている声色で問うてくる。

 前原は、「たぶん」と前置きして、

 

「世界が終わるということで、パーッと殴り合っているんじゃないかな」

「……へえー」

 

 自分の答えに対して、まるで疑いもしていないような感覚。

 

「殴り合い、か」

「……道、変える?」

「……あとすこしだけ、見てる」

「う、うん」

 

 意外だな、と思った。女の子は、こういったバイオレンスは避けるものだとばかり。

 押井が、横にそっと並ぶ。その目はどこか輝いていて、先ほどでの嫌悪感はもはや微塵たりとも伝わってこない。

 ――なんでだろう。興味が湧いてきた。

 

「押井」

「うん?」

 

 押井が、自分に目を向けてきた。

 

「格闘技とか、好きなの?」

「ううん、そういうわけじゃないんだけど」

 

 マッチョが、肩幅男の首を後ろから締め上げる。肩幅男の顔が嘘みたいに赤く染まっていくが、ヤケクソのエルボーでマッチョを吹っ飛ばす。

 

「……いいなあって、思った」

「え?」

「あ、いや、なんていうかね、そのね」

 

 言葉を整理しているのだろう。押井がうんうんと唸る。

 

「――ああいうストレス発散、してみたかったなあって」

「え?」

「部長をやっていると、色々頼られることが多いんだ。うん、いろいろね」

「……ああ」

 

 押井の苦笑いから、前原はなんとなく事情を読み取った。

 押井は、人望が篤いテニス部の部長だ。だからこそ押井は、誰からも愛されて、誰からも頼られて、誰からも期待されていた。

 それはひどく大変なことだ。だからこそ押井は、花を愛でることで心を癒していたに違いない。

 ――今日までそんな愚痴を漏らさなかったあたり、ほんとうに人気者なんだなあと実感した。

 

「なあ」

「なに?」

「何か、ぶっ壊してみないか?」

「え、え?」

「ビンでもなんでもいい、おんどりゃーって壊してみようぜ。明日はどうせ全部滅ぶんだし、問題ねーだろ」

「……でも」

「いいんだよ、今まで苦労してきたんだから。少なくとも俺は許すよ」

 

 だからこそ、恋する男として、破壊活動を提案してみせた。

 押井は戸惑っているような、そんな顔つきで前原のことをじいっと見つめている。恥ずかしくて目をそらしてしまいそうになるが、ここはぐっと堪える。

 

「……そうだね」

 

 押井は、視線をひとたび地に置いて、

 

「ほんとう、君には助けてもらってばっかりだなー」

 

 にこりと、笑ってくれた。自分の目を見つめながらで。

 正直、死んでもいいとすら思った。

 

 この青空の下で、とどめのクロスカウンターが決まる。最後(・・)に立っていたのは、マッチョの方だった。

 

 ■

 

「おはよう、前田君」

「おはよ、押井さん」

 

 それからというもの、押井とは花壇であれこれ話し合う仲になった。さすがに二度目は驚かれたが、三度目になると笑って出迎えてくれて、四度目ともなるとすっかり友達感覚。

 だから前田は、何でもないかのように押井の隣へ腰を下ろす。とたんに胸の動機が早まってくるが、以前よりはだいぶマシになったものだ。

 

「どう? 今日のリナリアは」

「元気みたい。水やりはしっかりされているみたいだねー」

「……そっかぁ」

 

 水やり。その単語を聞いて、口元が思わず緩みそうになる。

 

「私も、花に何かできればいいんだけどなー」

「……ええ? 出来ているでしょ」

「えっ?」

「こんな朝から、花の心配をしたり、愛でたりしてる。それで十分じゃないかな」

 

 とっさに思いついた気遣いだった。言い終えてみて、我ながらクサいなと自覚する。

 けれども押井は、「う」と小さく唸って、頬を赤く染めながら、

 

「……ありがと、そう思うことにする」

 

 死んだ。

 

「……花も、君と出会えて本当によかったって思ってるよ」

「え? いやいや、俺はこんなナリだし」

「自虐しない。君だって、朝早くから花を愛でてくれてるでしょー」

 

 いってやったぜとばかりに、押井の眉がVの字に曲がった。

 

 ここ最近は、早寝早起きがすっかり習慣と化している。押井と出会いたいという目的もあるが、早寝は思った以上に気持ちが良いし、早起きした瞬間はめちゃくちゃ前向きな気分に浸れる。この日課を崩すつもりなど、もはや毛頭ないのだった。

 問題は朝食についてだが、当初はジャムを塗ったパン二枚でどうにか飢えをやっつけていた。ところが幾度に渡る置き手紙を目にした母が、晩メシを食べている最中に「朝から何やってるの」と問うてきたのだ。

 最初は用事があるだの手伝いがあるだのと言い訳したが、「あんた帰宅部でしょ」の一言で見事に撃沈。父の視線も怖かったので、オトコ前原望は本当の理由を述べたのだ。

 すると母ときたら、実に実に嬉しそうな顔をして、明日の朝食の分を作ってくれるようになったのだ。父も無言のサムズアップ、サンキューファミリー。

 

「……まあ、そうだな。うん、そう思うことにする」

「よろしい」

 

 にっかりと押井が笑う、たははと前田も微笑む。

 

「……そういえば」

「うん?」

「前原君って、普段はどんなことやってるの?」

「え、え!? 俺っ!?」

「ありゃ、もしかしてまずいことでも」

 

 前原は、全力で首を横に振るう。

 

「そういうわけじゃないけど。でも、聞いて面白いことなんかないよ、マジで」

「そうかなー」

「そうだって。……ま、まあ、友人とだべったり、流行りの音楽を聴いたりしてる」

「へぇぇー、いいね」

 

 あとは――

 意を決するために、咳を一つこぼす。押井は、そんな自分を興味深そうに見つめ続ける。

 

「……最近は、花を育てるようになった」

 

 瞬間、押井が前原めがけ前のめりになる。あまりに唐突すぎて、情けない声とともに顔をひっこめてしまった。

 

「あ、ごめん」

「い、いや……まあその、植木鉢にタネまいて、イチから育ててる」

「ほ、ほんとにー?」

「ほんとほんと。まだ芽は出てないけど、毎日水やりしてるよ」

 

 花を愛でる者として、ごく当たり前のことを口にする。

 けれども押井は、嬉しそうに嬉しそうに顔を明るくした。その大きな瞳は、まるで水面のように輝いているように見える。

 ――そして前原と押井は、「あ」と小さく声を出した。本人も気づいていなかったのか、顔と顔との距離がふたたび狭まっていたのだ。

 わずか数センチ程度の間だけを置いて、前原と押井はぴくりとも動けない。押井の顔が真っ赤だったが、自分も同じような顔色に染まっているだろう。

 そして、最初に距離をとったのは前原だった。

 

「ご、ごめん、前原君……」

「いや、いい。大丈夫……」

 

 ほんの少しだけの、沈黙が生じる。

 互いに視線を逸らし、互いに様子見し、前原がわざとらしく「あー」と声を上げ、

 

「そ、そんなわけで、俺はこんな感じ。お、押井は?」

「わ、私? そうだね、よく友達と映画館へ行ったり――」

 

 最初は花壇の話しかしなかったけれど、顔を合わせるうちに、いつの間にか他愛の無い雑談を広げるようにもなった。

 先日は部活の話とか、笑い話のレパートリーが多い世界史の教師について。そして今日は、前原と押井の日頃に関して。恋云々はともかく、こうして仲が進展している事実が本当に喜ばしい。

 ――気づけば、いいところの時刻まで差し掛かっていた。あと少しもすれば、ここも生徒で賑わうことだろう。

 

「それじゃあ、そろそろ行こうよ」

「ああ――じゃあ、その前に」

 

 手のひらで待ったをかけ、前原は急ぎ足で屋外にある水飲み場に駆け寄る。そして前原は、水飲み場付近に置いてある二つの器具を手にとり、器具の中身を水で満杯にした後に、ふたたび押井の元へと戻る。

 

「じゃあ、一緒に水やりでも」

「うん」

 

 押井は、きょとんとした顔で器具――じょうろを受けとり、

 

「え、え? 何これ? えっ?」

 

 押井がじょうろを揺らすからか、じょうろの中身から水の弾ける音が小気味よく響いてくる。

 

「俺、今日から花壇の世話役になってさ。まあ、その手伝いをしてくれたら嬉しいな」

「ほ、ほんとなのっ?」

「マジ。世話役ついでに生徒会員にもなっちゃいました」

 

 おどけるように、両腕を広げる。ここまで本当のことしか口にしていない。

 数日前に、前原は担任めがけ「花好きなんで花壇の世話をしたいんですけど」と頼み込んでみたのだ。すると教師は、特に疑いもせずにこれを承諾してくれた――が、世話役を務める都合上、どうしても生徒会に所属しなければいけないというオチもついた。

 ぶっちゃけ面倒くさかったが、そこは押井の笑顔を想像して何とか要求を飲み込んだ。世の中とは常に山あり谷ありで出来上がっている。

 そんないきさつがあって、晴れて堂々とじょうろを握りしめられているわけだ。

 

「――え、えと、いいの?」

「いいよ」

「……もしかして、その、私のために?」

 

 察しがいい。友達が多いのもうなずける。

 

「いや」

 

 そしてもちろん、前原は嘘をついた。

 

「花が好きになったから、それだけ」

 

 たぶん、うまく笑えていると思う。

 少なくとも、いまの言葉に偽りは含ませていないから。

 

「……そっか」

 

 押井は、渡されたじょうろをじいっと見つめ、

 

「そういうことに、しておくよ」

 

 そして、俺に笑いかけてくれた。

 

 ■

 

 大男達のタイマンバトルを見届けた後、街角の公園にて二人きりの破壊活動が開催された。

 何かブン投げられるモノは無いかと周囲を探索していたところ、押井が「あったよー」と何本かのビール瓶を持ち運んできてくれた。曰く、遊具近くで転がっていたらしい。

 破壊活動の手筈が整い、まずは押井が瓶を握りしめる。その表情は試合に臨むような真顔と化していて、もはや声すらかけられそうにない。

 そして押井は、思いきり腰をひねり、

 

「――だらぁぁぁぁぁぁッ!!!」

 

 凄まじい咆哮とともに、瓶が軽やかに高らかに大空を舞った。テニス部で鍛えられているからか、瓶はまだまだ飛ぶ。五秒、七秒、八秒――地に落ちた。

 ガラスの割れる音が、予想以上に響き渡る。公園の砂浜に、茶色い瓶の破片が広々と散らばった。まるで花火だ。

 あまりにハデハデな結果であったからか、押井はぽかんと口を開けてしまい、

 

「……すごーい」

 

 そして、笑ってしまっていた。

 ――よし。

 続いて前原も、瓶を握りしめる。生徒会の雑用で鍛えられた筋力を、今こそ押井に見せる時だ。

 

「――っせいやぁッ!」

 

 そして瓶は、にぶくひくくそらを切った。

 押井とは、てんで比べ物になっていなかった。

 何の派手さも残すことなく、ビール瓶は間もなく地面に激突する。これでも音を立てて割れたが、なんだか情けをかけられたようでいたたまれない。

 

「おー! ナイッシューッ!!」

 

 それでも押井は、弾けるような拍手を前原に与えてくれた。

 その表情はとても明るい、恐らくは純粋な気持ちで称賛してくれているのだろう。

 

「ありがとー! ありがとー!」

 

 だから前原は、押井めがけサムズアップを見せつけた。

 ――その後も、何本かの瓶が大空に羽ばたき、例外なく地面へ叩きつけられた。そのたびに前原はガッツポーズをとり、押井も体全体で喜びを表現してみせる。

 そんな押井を見て、前原は心の底から安堵する。心のケアを施すことができた時点で、このデートは成功したも同然だ。

 もう、死んでもいい。

 

 

「――ふぃー、すっきり」

 

 何本かの瓶をブン投げた後、押井は己が右肩を手で揉み始める。一方前原は、体全体で呼吸を整えていた。アナーキーも楽ではない。

 瓶投げにもひと段落がついたところで、次なるプランを頭の中で模索し始める。電気も水道も使えないこの状況の中でも、普通に楽しめる場所といえば――

 

「ねえ」

「うん?」

 

 押井の頬に、一筋の汗が流れ込む。

 太陽も本格的に眩しくなってきて、そろそろ気温も暑くなってきた。心なしか、セミの鳴き声がより一層と高くなっている気がする。

 そんな環境の中で、押井はひとつ提案を持ち掛けてきた。

 

「よかったらなんだけど、プールに行って泳ぎに行かない?」

 

 □

 

 水着を手に入れるために、前原と押井は道すがら無人のスポーツショップへと立ち寄り、難なく二人分の水着を「購入」した。

 いくつかのスポーツ用品は略奪されていたが、さすがに水着までかっぱらうような奴はここいらには居なかったようだ。

 何はともあれ、あとは市民プールへ向かうだけ。

 その途中で騒音上等の路上ライブに聞き入ったり、カーブに失敗したらしいバイクの残骸を見て「うわあ」と声を漏らしたり、真昼間の居酒屋からどんちゃん騒ぎが聞こえてきたりと、終焉も何だかんだで賑やかだ。みんな、それぞれの形で人生に一区切りをつけようとしている。

 

 そんな非日常を歩んでみれば、目的地の市民プールなんてあっという間だ。押井なんて、嬉しそうな顔をして施設を指さしている。

 施設の背はかなり高く、主に青と白でカラーリングされている。何より目を引くのは、あまりにも多い窓だ。

 前原はなんとなく、科学館みたいだ、と思った。

 押井ははっきりと、ここがプールかーと言った。

 何が出てくるかはわからないが、その時は死んでも押井を守るつもりでいる。リュックの中には、ささやかな刃物だって仕込み済みだ。

 そうして押井は、無警戒な足取りで市民プールへ立ち寄っていく。苦笑いしながら、そんな押井の背を追う。

 

 □

 

「じゃーん!」

 

 押井の、紺色の競泳水着姿を眼前にして、まずは言葉が死んだ。表情もくたばったと思う。

 しかして本能は、それに伴う思考回路は、火を噴きながらもどうにか稼働し続けられている。そうでなければ、押井のありとあらゆる箇所をガン見するものか。

 いまの自分は、この街で最も醜い男としてランクインしてしまっているだろう。

 しかし幸いなことに、プールの客たちは今この瞬間を生き抜くことで精いっぱいだ。前原望の事なんざアウトオブ眼中だろう。

 ――そう。押井を除く、プールの客たちは。

 

「……すけべー」

 

 押井が内またになって、胸を腕で隠す。もっとキた。

 

「わ、悪い。べつにその、なんていうか――モデルみたいで」

 

 なけなしの語彙力を、ここぞとばかりに掘り当てられたと思う。

 実際押井も、「うう」とか、「あう」とか、何だか悪くない調子で唸ってばかり。顔なんて、すっかり真っ赤だ。

 

「……ホントに、そう思ってる?」

「お、思ってる」

「……そっか」

 

 そうして押井は、ようやく笑ってくれた。そして一歩、前原へ歩み寄る。

 不意過ぎて、声も出なかった。

 

「君もいい体してるじゃない。運動してた?」

「い、いや? 生徒会の手伝いをしているぐらいで……」

「ふーん……?」

 

 押井は興味深そうに、前原の胸だの腕だのをじろじろ見つめてくる。そんなに楽しいのか、屈みすらもした。

 

「ああ、そっか」

「え?」

「たぶん、早寝早起きをしているからじゃない? それで健康良く見えるのかも」

「ああ――たぶんそれだわ」

 

 自分はただ、押井の言葉へ同意を示したに過ぎない。

 けれども押井は、嬉しそうに、ほんとうに嬉しそうに笑顔を咲かせる。

 もう、死んでもいい。

 

「……うし。じゃあ泳ごっか」

「OK」

 

 プールめがけ、まずは準備体操を始める。

 四角に張り巡らされた市民プールは、青く濃く透き通って見える。おそらく数日ほど取り換えてなどいないだろうが、べつに異臭はしないし汚れてもいない。

 そして程よい人数の客が、プールの中を泳いだり漂ったりしている。兄ちゃん姉ちゃんはもちろん、家族連れから老人まで、年齢など問わずにプールの世界を楽しんでいた。

 いい雰囲気になってるな、そう思う。

 体操を終え、前原と押井はプールへ身を落とす。小学校ぶりのプールは、とてもひやっとした。

 

「あー……これこれ、この感じ。泳げ……てる!」

 

 押井が軽くバタ足をする。前原も軽くクロールを行ってみたが、未だなまっていないことに感動すら覚えた。

 

「おー、いいねー前原クン」

 

 そんな前原を目の当たりにして、押井の口が挑戦的に歪む。

 これからの展開を察した前原は、勘弁してくれとため息をつく。

 

「勝負はしないからな」

「えー? なんでー? なんでですかー? 泳げるでしょー」

「運動部にかなうワケないだろ」

「水泳部じゃないから、もしかしたらもしかするかも」

「さっきの破壊活動で、身体能力の差を見せつけてくれたじゃないですか」

「それはそれ、これはーこれっ」

 

 そそくさと、押井が前原の隣に立つ。クロールで勝負をする気なのか、既に身を屈ませていた。

 観念したように、両肩を落とす。

 仕方がない、これも惚れた弱みだ。

 押井と同じように姿勢を屈み、跳ねる準備を整える。足で反動をつけることで、ロケットスタートを切るという戦法だ。

 

「じゃあ! いちについて! いち! に! さんんっ!!」

 

 最後のところで、押井の声がむやみに力む。

 ほぼ同時に前へ飛び込み、水が弾け、体ぜんたいで押井と戦い、そして――

 もちろん、ボロクソに負けた。

 

 

 そして数十分後、あるいは一時間後。前原と押井はプールの上で、ただただ無気力に漂っていた。

 カップルらしい兄ちゃん姉ちゃんがきゃーきゃー騒いでいる中、前原はプールの天井を眺めるだけ。押井もそうだった。

 まあ、仕方があるまい。

 前原も押井も、めちゃくちゃ疲れている。

 

 競争をしてからというもの、前原と押井はすっかりハイになってしまった。

 まず前原は、ビート板でサーフィンをプレイしようとして、もちろん盛大にズッコけた。それを見た押井も、負けじとサーフィンを繰り出そうとして、やっぱりものの数秒で横転したのだった。

 次に息止め合戦を行ってもみたが、これも押井の圧勝で終わった。押井は意外そうに笑ったが、これもまたテニス部のなせるワザなのだろう。肺活量が凄いだろうし。

 そうしてありとあらゆる泳ぎ方で楽しんでいたのだが、意外なことに、押井は水中における宙返りが出来ないのだという。

 だから押井は、ぜひとも宙返りを教えて欲しいと手を合わせた。

 もちろん前原は、快く承諾してみせた。

 ――それからものの数分で、押井は宙返りをモノにしてみせた。不思議と思えなかったのは、やはり押井が相手だからだろう。

 「すげえなあ、もう教えることはねーわ」。笑いながら言って、

 「そんなことない、まだまだわからないことがあるよ」。押井は、前原のすぐそばでそう告げた。

 

 ほんとう、体を使いまくったと思う。

 だからこそ、この倦怠感が気持ち良いのだと思う。押井が近くにいるのだから、なおさらだ。

 

「……あー」

「んー?」

 

 そのとき、押井のだるそうな声が耳を震わせた。

 

「いやあ、自由っていいねー、さいこー」

「だな、水の上は自由だと思う」

「ねー。水泳最高だよー」

 

 前原は、ふむうと声に出して、

 

「スイマーでも目指すか?」

「いやぁ、私はもうテニスで生きるって決めたよ」

「そっかー……そういや押井さんは、どうしてテニスを選んだんだ?」

「え? うーん」

 

 押井はほんの少し、物思いにふけり、

 

「小さい頃、パパとテニスをしてみてさ」

「ほお」

「あの真剣めいた空気が、なんだかとても忘れられなくてね。惚れたんだと思う、テニスに」

「うわあ、天才っぽい……」

「えー? そうかなあ?」

「感覚的な感じが」

「へぇー」

 

 どうして押井があんなにも強いのか、よく分かった気がする。もちろん誰にも教えるつもりはない。

 

「それで……前原君はどう? 生徒会、楽しかった?」

「え? んー、まあ、ぼちぼちだったかな」

「そっかーそうだよねー」

 

 己が胸に、手を置く。

 

「でも、花壇での水やりは本当に楽しかったぜ」

 

 もっとも言いづらくて、もっとも言いたかったことを、なんとか伝えられたと思う。

 下心と、純粋な興味が共存した早朝での日課は、前原の人生を大きく変えてくれた。これが青春なんだなあと、なんとなく悟る。

 

 ふと、手にふんわりとした温かさが生じた。

 

 気づけば自分の右手は、押井の手に繋がれていた。すぐ横には前原がいて、目すら合って、いつもと違うような微笑みを顔いっぱいににじませている。

 なんとなく、思う。

 大人っぽい、と。

 

「……前原君」

「え、なに?」

「前原君は、何か夢とか、ある? 私には、あったよ」

「え?」

 

 押井の髪が、プールの上で揺れている。

 

「テニスのプロになること、と」

 

 うん。

 

「――お嫁さんになること、かな」

 

 なんて、答えればいいのだろう。

 として、どう返すのがベストなのだろう。

 手をつながれたまま、前原はなるだけ短く、なるべく誠実にものを考え、

 

「いい、と思う。押井がお嫁さんなら、どんな人も喜ぶよ」

 

 無難で、どっちつかずの返答だった。

 

「……そっか」

 

 それでも押井は、いつまでも笑っている。

 

「……ああそうだ。俺の夢、なんだけど」

「うん」

 

 本心が読まれそうで怖かったけれども、水の中で握りこぶしを作って、どうにか意気地の無さを塗りつぶす。

 だって自分は、押井の夢を聞けたのだから。

 

「――花屋さんを、やってみたい」

「え?」

「それもいいかなって、思ってた」

 

 本心から口にしたつもりだ。自室の窓辺には、花が芽生えた植木鉢が確かに置いてある。

 最初は、押井と接点を持ちたいがために花壇を眺め始めた。けれども次第に、花というものに興味を抱いて、気づけばこんな夢まで芽生えていた。

 

「……いい、すごくいい」

 

 前原の夢を聞き取った押井は、やっぱり、いつまでもいつまでも笑っていた。

 

 □

 

 ――もう、夕暮れか。これからどうする?

 ――そだねー……じゃあ最後に、見に行こうよ

 

 世界が滅ぶまであと少し。だから前原と押井は、家へ帰る前に学校の花壇へと立ち寄った。

 花壇の主役を飾っているのは、サンビタリアという黄色く小さな花。淡い夕暮れに射され、どこか幻想的に、遠いもののように見える。

 前原と押井は、そっと腰を下ろす。

 学校には誰もいない。グラウンドから聞こえてくる野球部の大声も、テニスコートからの声援も、前原も押井もしばらくは言葉をつむがない。

 嘘みたいに静かだった。

 これから世界が終わるんだろうなと、改めて実感した。

 あと数時間で、自分は死ぬのだろう。それはとても恐ろしいことだけれど、受け入れられるとは思う。

 だって――

 

「……いい花だよね」

「……そうだな」

「これ、君が選んだんだよね?」

「うん」

「花言葉、知ってる?」

「……知ってる」

 

 気恥ずかしい。だから前原は、サンビタリアだけを見つめたまま、

 

「私を、見つめて」

 

 瞬間、決して逸らすことのできない視線を、すぐそばから強く感じ取った。

 見る。

 真顔の押井が、前原のことだけを見つめていた。顔を、真っ赤にしてまで。

 

「……押井さん」

「前原君」

 

 押井が、大きく息を吸った。また、大きく息を吸った。

 そして押井は、テニスに挑むかのような顔つきで、確かに、言った。

 

「好きです」

 

 聞こえた。

 

「前原君のことが、好きです」

 

 嘘みたいだ。最初はそう思った。

 けれども押井は、決してこんな嘘はつかない。そんなことを知っている程度には、押井との仲は確かに進展していた。

 それにしたって、どうして押井は自分のことを、

 ――ああ、そうか。自分から押井に、近づいていったからだ。

 恋のきっかけなんて、それで十分なのだと思う。その人の真剣さを見て惚れるのも、語らいのうちに惚れていくのも、立派なきっかけだ。

 思い返せば、押井からはたくさんのアプローチを受けていた。それを、友達としてのコミュニケーションとして受け取っていた自分がひどく情けない。

 

 ――ごめんな、押井。

 ――恋する男として、ぜんぶ言うよ。

 

「押井さん」

「は、はい」

「俺も、押井歩のことが大好きです」

 

 それだけで、それだけで、もう十分だった。

 押井から唇を重ねられる。俺も、押井の頭に手を回す。間もなく地に倒れて、それでも決して互いを離そうとはせず、ふたたび口づけしなおして、またキスをやり直して――

 

 

「……あのね」

「ああ」

 

 花壇の前で腰を下ろし、手で身を支えながら、前原と押井は夜がかった夕焼けをぼんやり眺めている。

 

「実はね、パパとママに、初恋を抱いたっていう事実は知らせてあるんだ」

「え、マジ」

「うん。それで色々と、こう、簡単な説明をしたら、パパとママったら大はしゃぎしちゃって」

「えー?」

「今度、家に連れてきなさいって言われちゃった」

「……そっかあ」

「……だから、どう? その、今から家に、来ない?」

 

 恐らくは、勇気を振り絞ってまでの言葉。

 押井のことは好きだ、それは間違いない。押井のためなら、死んだっていいとすら思う。

 ――けれど、

 

「ごめん。家に、家に、帰らせて欲しい」

「あ……無理を言って、ごめんね」

「イヤとか、そういうんじゃないんだ」

「え?」

 

 視線を、空から押井へ落とす。

 押井も視線を察したのか、目と目が合う。

 

「父さんと母さんと、一緒に眠りたい」

「え」

「……数日前に、父さんと母さんは、『眠る』ことを選んだんだ。怖かったんだろうね」

「――そうなんだ」

「でも俺は、やらなきゃいけないことがあるから、だから後で眠るって、そう伝えた。父さんと母さんは、それを許してくれたよ」

「……そうなんだ」

 

 いきなり、こんなことを言われても困るだろう。恋人よりも親を選ぶなんて、そう思われても仕方がない。

 

「――ありがとう、前原君」

 

 それでも、許してくれた。だって、押井だから。

 

 じょうろにミネラルウォーターを注ぎ、恋の花へ最後の水やりを施す。

 長い間、見守ってくれてありがとう。

 

「そういえば今は、家で何の花を育ててるの? 私はクロユリ」

「え? マジ?」

「えっ?」

 

 もう、死んでもいい。

 

 □

 

 家族とともに最後の晩餐を済ませ、私は数年ぶりにパパとママと同じベッドを共にすることにした。

 あと数時間で世界が終わるのだ、家族に甘えて何が悪い。だから私は、眠る前に「手を握って」と告げた。そのときのパパとママの顔は、今でも思い出せる。

 

 ――そうして、夜が更けた。

 両脇にいるパパとママは、数時間前に眠ってしまっている。こうなってしまったら最後、どんな大きな音を立てても中々起きはしないのだ。

 それにひきかえ私は、眠気という眠気がまったく湧いて出てこない。滅亡前という滅多にないシチュエーションと、前原君との思い出のおかげで、未だ興奮状態に陥ってしまっているせいだ。

 ほんとう、ここまで色々なことがあったなあ。

 でも、悔いなんてない。家にも家族にも才能にも友情にも恵まれ、その上で恋すらもつかみ取ってしまったのだ。これ以上、何を求めろというのだろう。

 

 パパに握りしめられている、右手を見つめてみる。

 

 ■

 

 すべては、旅行先にたまたまあったテニスコートから始まった。パパが「やってみるかい?」と促してくれて、小さかった私は無邪気にうんと頷いて――齢1ケタにして、真剣勝負というものが大好きになってしまった。

 家に帰って早々、私はテニスをやりたいと主張した。聞いたこともない大声を前にして、パパとママは多少困惑したものの、すぐに許してくれた。喜びさえもして。

 それからの人生は、嘘みたいに順調だった。

 勝っても負けても次の日にはテニスをプレイし、絶え間のないモチベーションとともに実力もめきめき伸びていって、瞬く間にテニスプレイヤーとしての将来を期待された。この流れに私はすっごく喜び、次第に笑ってばかりになって、気づけばたくさんの人に囲まれていた。

 週末の予定が必ず埋まるほど、私には多くの友人ができた。放課後になれば、必ず挑戦されてしまう程度の知名度も得ていた。

 それはいい、これこそ青春だ。

 

 問題は、問題は、決して少なくない異性からの告白だ。愛をささやかれるたびに、まず考えることは「お断りの言葉」。

 別に恋に興味がないわけではない、できればいいな、程度には思っている。

 ただ一方的に愛を与えられても、私にはそれ相応のお返しなんて出来ない。だって私は、その人を受け入れはすれど愛してはいなかったから。

 ――告白を断るたびに、私は常々思っている。こんな私でも、恋をしてしまえる瞬間がやってくるのだろうか。

 高校二年生の春が訪れるまで、恋をする自分の姿なんて考えすらできなかった。

 

 高校二年になっても、私は青春は常に多忙だった。

 誰かに好かれ、誰かに頼られるということは、何も良いことばかりじゃない。時にはいがみあいに挟まれたり、無茶を要求されることもある。そのたびに私は、笑ってその場をしのぎ続けてきた。

 大抵のことは、何とそれで解決してしまう。そして当事者たちは、あらゆる謝罪の言葉を投げかけて、より一層と私のことを評価してくれるのだ。

 それはいい、嬉しいとは思う。

 けれど私とて人間だから、ストレスだって溜まってしまうこともある。

 

 そんな時は、やっぱり花を愛でるにかぎる。

 

 テニスは、パパの影響から始めた趣味だ。けれど花が好きという気持ちは、生まれついてのもの。

 昔はよく、道端に咲いた花を見つけては一目散に駆け付け、これ何なんて花と両親を困らせてしまったものだ。ごめんねパパママ。

 そして年を重ねていくうちに、花への欲求はより一層と色濃くなった。今は高校生の身ではあるが、植物園へ行こうものなら間違いなく有頂天になる自信がある。

 ――ただ、それが叶うことはなかった。この街に植物園が存在しないという前提もあるが、そもそもが多忙の身だったから。

 人気者も楽じゃない。

 

 だからこそ私は、学校前の花壇に注目した。

 常日頃から友人達に囲まれている私だが、一人きりになれるチャンスが一日に二度ほどある。

 まず一つは、自宅に帰った後。

 そして次に、早朝。

 だから私は、朝早くから学校へひとっ走りして、ストレスだの欲求だのを学校の花壇に癒してもらおうと考えたのだ。

 それで、作戦は大成功。朝限定ではあるけれど、私は自由気ままに、ずっとじっと花を愛でることができた。

 お礼として水をあげようともしたけれど、それは世話役に委ねた。好きに水を与え続ければ、逆に枯らしてしまうと思ったから。

 

 そんな忙しない日々が続いていく中、私は今日も朝っぱらから花壇を眺めていた。ここ最近はケンカを仲裁したばかりだから、よりじいっと花を、リナリアを見つめていた。

 そうして癒されようとも、心のうちでは「あと数分で学校かあ」とも思っていた。べつに青春を楽しむのも良いのだが、唯一の不満は、数多い友人たちの中に「花好き」が一人もいないという衝撃の事実だ。

 別に花のことが嫌いというわけじゃない、15人中15人は花っていいよねと受け入れている。ただ、花そのものが好きというワケじゃないのであって。

 ――だから、一人きりじゃないと花を眺める暇すら与えられない。

 残念だなあ、わがままだなあとため息をついていると、

 

 一人の男の子が、私の近くで立っていた。

 

 びっくりした。こんな姿を見られて、死にそうすらなった。

 けれども、その男子はこう、なれなれしくはなかった。だから、なんとなく受け入れられたのだと思う。

 そして花を見つめあいながら、花は癒される、花はいい、そんなことばかりをずっと口にし続けた。どこかで、本音を誰かに伝えたかったのだと思う。

 その男子も、私の言葉に同調してくれた。気遣ってくれたのかもしれないけれど、とてもこう、嬉しかった。

 けれど、そんな時間はあっという間に過ぎ去っていく。

 私は花壇から立ち上がり、水まきしたいなーと不満げに口にしてしまいつつ、その男子と学校に入っていった。

 また会えたらいいな、なんとなくそう思って。

 

 で、その願いはあっさり叶った。

 叶い続けた、といった方が正しいのかもしれない。二日目も三日目も、そして四日目もそれ以降も彼とは、前原とは早朝で会うようになった。

 ただ一度たりとも、花壇の一番乗りを譲ったことはない。これはひそかな自慢だ。

 そんな前原のことは、よくは知らない。

 けれども前原は、私の話を聞いてくれた。私が花を見つめている時は、そっと沈黙を守り続けてくれる。それは、よく分かっているつもりだ。

 ――だのに前原は、なんでもない日にとんでもないことを口にした。 

 

 最近は、花を育てるようになった

 

 それを聞いた時、私はいつの間にか前原めがけ前のめりになっていた。どんな感じ、何を育てているの、なにか教えようか、言いたいことばかりが頭の中を巡りまわって、

 やがて、顔と顔とが近いという結論に陥った。

 私は顔を真っ赤にして、前原と距離をとる。失礼なことをしてしまった、嫌わないでくれるだろうか。

 狼狽する私をよそに、前原は、なんでもなかったかのようにガーデニングの近況を口にしてくれた。そのたどたどしい言葉からは気遣いの色が強く伝わってきて、私は必死になって前原の台詞に応じていった。彼にだけは、無礼なんて払いたくなかったから。

 

 そうしているうちに、朝もいい時間帯になってきた。

 名残惜しいなあと思いながら、私はいつものように学校の中へ促そうとして、

 

「ああ――じゃあ、その前に」

 

 手のひらで待ったをかけられた。

 困惑する自分をよそに、前原は急ぎ足で屋外にある水飲み場に駆け寄る。そして前原は、水飲み場付近に置いてある二つの器具を手にとって、器具の中身を水で満杯にした後に、ふたたび私の元へと戻

ってきた。

 

「じゃあ、一緒に水やりでも」

「うん」

 

 うん。

 

「え、え? 何これ? えっ?」

 

 思わず、水いりのじょうろを揺らしてしまう。重心が右往左往に偏って、地味に手首にダメージを負った。

 ――そして前原は、ほんとうに、ほんとうになんでもないような調子で、

 

「俺、今日から花壇の世話役になってさ。まあ、その手伝いをしてくれたら嬉しいな」

「ほ、ほんとなのっ?」

「マジ。世話役ついでに生徒会員にもなっちゃいました」

 

 おどけるように、両腕を広げた。

 たぶん、本当のことなのだろう。前原は、こんな嘘をつくような人じゃない。

 だからこそ私は、ぎこちなく、ぎこちなく、言葉を口にしていく。

 

「――え、えと、いいの?」

「いいよ」

 

 あっさりと。

 ――もしかしてこの人は、このひとは、

 

「……もしかして、その、私のために?」

「いや」

 

 なんで、そんな嘘をつけてしまうんだろう。

 

「花が好きになったから、それだけ」

 

 どうして、そんなずるいことを口にしてしまえるんだろう。

 

「……そっか」

 

 じょうろを見つめながら、私は思う、とても思う。

 

「そういうことに、しておくよ」

 

 どうしてよりにもよって、この人は私のことを「友達」だと見ているのだろう。

 ――この日から私は、彼からの告白を待ち続けるようになった。想いを告げたら、ぜったいに、驚かせてしまうだろうから。

 

 けれど、そんな停滞は突如として許されないものとなった。

 あと数日で、この世界は滅ぶらしい。

 だから、あの人に告白してみよう。

 押井歩は、その一心で朝っぱらからリュックを背負い、自室の窓際に置いておいた植木鉢の花にミネラルウォーターをふりかけ、そのまままっすぐに玄関へと駆け込み、高校一年からずっと愛用してきた靴を履いて、いってきますの一声とともに家の扉を開け、前原の家へと突っ走っていった。

 

 ■

 

「……幸せだな、私」

 

 走馬灯をふけり終え、私はふたたび、目をつむる。

 今ごろ、前原は眠りについているのだろうか。両親との再会を、心から願わずにはいられない。

 ――悔いなんて、ない。

 今日という日を以て、私はようやく前原と結ばれたのだ。抱き合ったし、キスもしたし、もう未練はない。

 ああでも、最後まで前原のことを名前呼びできなかったな。

 ――悔いなんて、ない。

 競泳水着を見せた時の前原の顔、すごく良い反応だった。もっといろんな服を着て、もっと意識させないと。

 まあ、そんな機会は二度と訪れないんだけどね。

 ――悔いなんて、ない。

 前原は言った、花屋さんを開きたいと。それはとても素敵な夢だ、ぜひとも応援させてほしい。お金なら、いくらでも出すから。

 なんて、彼はそれを断るだろうけれど。なんだかんだで真面目だからなあ、せめてリピーターにならないと。

 でも、夢なんてかなわなくなっちゃったんだけれど。

 ――悔いなんて、

 私の夢は、プロのテニス選手になることだ。まあ、残念ながらアマチュア止まりで終わっちゃうのだけれど。

 でも、学校で一番のエースにはなれた。これで我慢することにしよう。

 ――悔い、

 私は、お嫁さんになりたかった。

 前原望の、お嫁さんになりたかった。

 プールで、この夢は生まれてしまった。

 

 ――、

 

 まだ、前原としたいことやりたいこと語り合いたいことがたくさん残ってる。もっと笑いかけたい、もっと微笑まれたい、キスしたい、家に行きたい。

 歯を、噛む。

 なんで前原君のことを好きになった年になって、世界が崩壊するんだ。私に対するいやがらせのつもりか、そうとしか思えない。

 前原君と会いたい、幸せになりたい、死ぬのが怖い。目を開ける、目覚ましを見る、世界が滅ぶまであと数分――

 行かないと、前原君の家に行かないと。

 あのとき、私はどうして前原君と別れて――家族は大事だ、それはそうだ。

 私はベッドから立ち上がろうとして、両腕をがっしり捕まれる。睡眠中のパパとママが、私のことを無意識に離そうとしてくれない。

 今だけは、今だけは、お願い、ああもう、

 私は乱暴に体を振り払い、パパとママの愛情を振りほどく。それでもパパとママは起きない、まるで死んだように。

 

「押井さんッ!」

 

 高ぶっていた意識が、途端に冷静なものとなる。

 私はベッドから降り立ち、急いでベランダの窓を開ける。

 

「押井さん! 押井さん!」

 

 私の家の前に、寝巻姿のままの前原君が、ひたすらに私の苗字を絶叫していた。涙すら流して。

 ――思う、つくづく思う。この人はやっぱり、いつも私のそばにいてくれる。

 

「前原君! 前原君!」

 

 囚われの姫のように、私は窓際から危なっかしく身を乗り出す。今すぐここから飛び降りたかったが、なけなしの理性が自殺行為を引き留める。

 すぐ行くと叫んで、私は寝室の扉を乱暴に開け、走る。長い廊下に舌打ちし、長い長い階段に腹を立たせ、広い居間に唸り声さえ上がる。金持ちの家ときたら――

 絨毯に足をすくわれそうになりながら、私はようやく玄関前にたどり着き、

 

「前原君!」

「押井さん!」

 

 ドアから、拳が叩きつけられる音が強く伝わってくる。壊れてしまえばいいのに。

 息が上がりそうになる、どうしてカギを閉めたんだと怒り狂う。

 そして私は、玄関ドアの鍵をひねり上げ、

 

「――望!」

「――歩!」

 

 ドアノブに、手をかけ、

 

 

 

 



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