朋也と渚が出会って、一年後。2人が同居生活を開始してまもないころ、が舞台。
過去(高校時代)の朋也と、現在の朋也。そのどちらにもつながるのは、渚の優しさ。
2人にとってはごくありふれた、そんな日々の生活の一コマへといたるお話です。
初出:2009年、自サイトにて(現在閉鎖)。一部加筆・修正しての投稿となります。
(また、pixivにも本作品を投稿しています)
雨。
今朝からずっと、降り止まずにいる。
この星が、地球と呼ばれる星でありつづけるために。
気が遠くなるほどの太古から、延々と繰り返されてきた――自然の、静かな息遣い。
ある者は恵みの慈雨と、喜びに諸手を差し延べながら頭上を見上げ。
ある者は憂鬱の使者と、嫌悪の情を胸に視線を落とす。
……俺は。
俺の評価は、そのどちらなのだろうか。
雨――
まだ、降り止む気配はない。
確実に言えること、といえば。
……以前の俺ならば。雨は意外と嫌いじゃなかった、ということだ。
もう、とっくに割り切っていた。
それが当たり前だと、心を定めていた。
――放課後。
多くの生徒がそうするように、そのまま家に直帰するという行為は、俺にとってはゼロといっていい。
夜中になるまで、自宅には戻らない。それが、いつものことだった。
時間を無為に空費するためだけに、俺は街のあちこちを徘徊した。もっとも、特定の部屋で過ごすことも多かったが。
そういう意味では、春原陽平という名を持つ俺の悪友の存在は、非常にありがたかった。
とはいえ、四六時中あいつの部屋に入り浸っていたわけではない。勝手な話だと自分でも思うが、さすがにそこまでは行動を共にする気になれない。
そうして、俺は……雑踏の中を、当てもなくふらついた。
歓楽街、商店街。
訪れる者のいなくなった夕闇の公園、煌々とした明かりを深夜に至っても照らしつづけているコンビニ。
そのいずれも、夜闇に周辺が覆いつくされた中でも、学生服姿のままで立ち寄ることに慣れた。
だが。そんな場所で、いくら時間を潰したところで。楽しめたことなんて、そうそうない。
子供の手を握って歩く家族。
ウインドーショッピングに興じている、若いカップル。
仕事帰りとおぼしきサラリーマン同士。
俺の周りには、そんな彼らが持っている、ぬくもりというものがなかった。
彼らのような、笑顔とは無縁だった。そんな笑顔など、誰かに向ける必要なんてなかった。
だから。
雨――
まだ、降り止む気配を見せない。
うっかり、気分が沈んだ時。
雨ならば、それを理由に春原の部屋へ早めに行くことができたから。
この口実を案外気にいっていたし、そんな時だけは春原の能天気面も役に立った。
それなのに――
◇ ◇ ◇ ◇
「朋也くんっ」
そんなふうに、俺のことを呼んで。
ひたむきに、瞳を向けて来るやつがいる。
ただ、まっすぐに。
澄みきった、琥珀色の瞳を。ただひたすらに、相手を心から信じきった双眸を。
「朋也くん、大丈夫ですか? 左側の肩、はみ出して濡れちゃっていませんか?」
雨にけぶる、風景の中。
通学路を、俺たちは連れ立って歩く。
二人で、歩いている。あの時、長い坂道の下で出会ったその日から。
今日、いまこの時を。
そしてきっと、明日も変わらずに。
「俺の方は、どうだっていいよ。それより、お前こそそっちの肩濡れてないか?」
「い、いえ。傘を一つだけしか持ってこなかった私が悪いんですから」
肩先に触れるか触れないかくらいの位置まで伸びたセミショートの髪が、ふるふると左右に揺れる。
いくぶん湿気を吸っていようとも、栗色の髪の柔らかそうな印象は変わることがない。
……こういう性格なのだ、こいつは。
自分よりも、まず他人のことを先に心配して。打算とか利益とか、余計なことはすべて置いてけぼりにしたままで。
それが、こいつの素の反応であり、その身体に根付いている性格なのだ。
出会った当初は、そんな渚という存在が珍しく――そして、羨ましかったのかもしれない。
「お前の傘なんだし、そもそも持ってきてない俺の方が悪いんだよ。だから余計なこと、気にするな」
そうは言っても、納得はしないだろう。こういうところは、妙に頑固でもある。
だから……。
「……ほら」
「あ……」
俺は一方の手に傘を持ち替えると、ぶっきらぼうに渚の肩に利き腕を延ばしてやった。
軽く引き寄せた彼女の制服は、わずかばかり湿っていて。
そして――
俺は。
そんな古河渚のことが、たまらなく好きになっていた。
「えっと、その……おじゃまします……」
きっと俺も渚も、赤面してると思う。
――俺と渚とがこんな関係になって、まださほど経ってはいない。
だから、俺は。まともに、相手の姿を見れないまま。
「……ああ」
とだけ、ぶっきらぼうに答える。
ピンクの傘。おまけに柄には例の「だんご三兄弟」が、これみよがしにプリントされている傘。
子供っぽいそのデザインとぬくもりさえ伝わってきそうな渚との近接状態と、どちらが恥ずかしいだろうか……などと、俺はしばし真剣に考えた。
構うものか。
馬鹿にしたい奴は、いくらでも馬鹿にするがいい。
「……」
「……」
お互いに、言葉もなく。
しばらくの間、俺たちはもくもくと歩いた。
触れているのに、前に歩を踏み出した瞬間にすっと離れてしまう。こんなにまで、渚が肩を寄せてきているのに。
周囲に充溢する雨の匂いの中から、ほんの数瞬ばかり。彼女の香りを、俺の鼻腔が捉えたような気がした。
華美ではない、ごく自然な、やさしさと温もりを感じさせる香り。
……それにしても。
一度妙な意識をしてしまうと、元に戻すのはなかなか容易ではなかった。
遠慮や、躊躇い。そんな必要など、どこにもないはずなのに。
しかし、それでいて。俺と渚も、これ以上踏み込めずにいる。
わずかにあと数センチ、いや、ほんの数ミリ……お互いの距離を、詰めたくても。本当はもっと、相手に触れていたいのに。
きっかけが、何か欲しかった。
「……あの、朋也くん」
「あ……ああ。どうした?」
「いえ……その、すみません、何か大事な考え事でもしていましたか? 声をかけるの、ひょっとして迷惑だったのでは……」
「……いや、悪い。いきなりだったんで、少し驚いただけだ」
渚がすべて言い切るより先に、その意図を察した俺は彼女の懸念を否定する。
めんどくさい。
面倒でたまらない……と、これまで思い込んでいたのに。
誰かを好きになる、ということに。今はこんなにも、心地よさを感じている俺がいる。
「……お前さあ」
しばらくして。
自分から話しかけておきながら迷ったように黙り込んでしまった渚に、逆に俺の方から話しかける。
「あまり遠慮ばかりするなって、な?」
「はい……」
「その、何ていうかさ。お前は……俺の彼女なんだから」
言って、身悶えしたい感情に襲われた。
こりゃ、猛烈なまでに恥ずかしいな。
他人からどうこう言われることには、多少は慣れた。
やっかみもあるにはあるだろうが、それよりも祝福の方が多量な成分であるのなら、無下に退けるわけにもいかないだろう。
俺はともかく、渚を祝福してくれているのなら、なおさらだ。
だが……自分自身の口から浮いた台詞を発するとなれば、それはまた別な話。
あー、我ながら余計なこと言った。
そんな俺の内心を、見抜いてか。
渚が、さっきの言葉に反応する。
肩越しに、彼女がくすりと小さく笑ったような気がして――
「……笑うとこか、ここ?」
「はい。笑ってもいいところだと思います」
自分自身でも、嫌になるくらいに分かる。
こんな愛想のひとつもない俺に、渚はいつも笑顔をよこすのだ。
そんな俺でも。
こんな俺も、いつの日か――
臆面のないままに。心に生まれた思いを、飾らずに伝えられる日が来るのだろうか。
まだ、分からなかった。
今の俺は、どうだろう?
不意にその疑問が脳裏に明滅したのは、どんな場面でのことだったかはもう覚えていないが。
あるとき彼女の漏らした言葉が、きっかけだった。
今は……。
断言するほどではないが、雨が嫌いになった、と思う。
「そうなんですか? でも、私はいいなと思うんですけど、雨」
「どうしてだよ?」
いつしか変化していた、俺の中の印象。
まるきり正反対になってしまったその理由について、だって……と渚は答える。
「だって、いくつかの雨の粒が寄り集まると、だんごみたく見えます」
「……」
……ぶっちゃけ、ありえねえ。
たしかに、小さな雨粒のひとつひとつも、合体していけばやがてはそれなりの大きさにはなる。
しかしその過程をじっくり観察するなど、あまりに悠長すぎる。俺ならすぐにも放り投げてしまいそうな、気の長い話だ。
「雨粒だってみんな仲良しなんです。仲良しだからこそ、みんな一緒になって水溜まりにもなっちゃうんです」
「……ああ、そうかもな」
かくり、とほんの少しだけ脱力して。
でも、すぐにまあいいかと、内心で思い直す。
渚の本心であることは、紛れもないから。それは渚が、渚であることの構成要素のひとつに違いないものだから。
「それじゃ……朋也くんは、どうして雨が嫌いなんですか?」
――まだ、目の前に舞う雨粒はその勢いを減じようとしない。ひょっとしたら、今日一日はずっとこんな調子かもしれない。
濃灰色の一色に塗りたくられた空は、さながら陽光を貪婪なまでに吸収せんと蠢く巨大な暗幕のようにも見え。
だからこそ。より一層、隣にあるぬくもりが大切に思えるのかもしれなかった。
「……傘が、邪魔だからだよ」
「……」
「……」
「え、えっと、たしかに邪魔に感じてしまう時もないとは思いませんけど……」
「……傘が邪魔で、お前の顔がよく見えないからな」
それでも……。
なんでだろな。
自分でも訳が分からない、不思議な魔法だった。
何のかんのといって、こいつの前では。気がつけば、そのままの自分をさらけ出してしまうのだ。
「わ、私は……」
「……」
「雨は好きだって言いましたけど……しょ、正直に話してくれる朋也くんも、その、好きです……」
離れていれば、雨粒によってかき消されてしまいそうな。
しかし、こうして肩を寄せあっている俺だけには、はっきりと聞こえる渚の声音。
「でも……嫌いになってしまったのは、ちょっぴり残念です……」
「あ、いや……お前が好きってんなら、俺も好きになるよう努力してみるよ」
なんだこれ。
なんで、たかが天候一つに、こうも節操なく好き嫌いをころころ変えなくちゃならないんだ?
……いや、分かっている。天気なんて、本当はどうだっていいってことは。
お安いご用だった。俺の言葉ひとつで渚の表情が笑顔になってくれるのなら、雨だろうが俺は好きになれるはずなんだ。
これって、ひとつの才能だよな。
渚の笑顔のためならば、なんでもやってやる。いや、できる気がした。
当人は、まったく自覚している様子がないが。
俺をいつも前に前にと振り向かせるのは、間違いない。渚の存在が、あるからこそだ。
肩に触れている感触を、確かめる。
渚がそこにいてくれることを、実感する。
俺は、傘を手にしていない一方の腕を動かした。
それは、肩よりも上に上がらない右腕だったけど。無理のない程度に、なんとか少しばかり持ち上げて。
ほんの軽く、ちょっと触れるくらいの力加減で。渚の頭をこつん、と叩いた。
「な、なんで叩くんですか」
「そりゃ……俺が正直者だからだよ」
そう言って、俺は笑う。
渚の髪のやさしい感触が、いつまでも手の中に残っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
「な、なんで叩くんですか」
「それは……言うまでもないだろう」
――ヘルメットごしに伝わる、ズシンとした衝撃。
その一撃で、俺は夢想の世界から現実へと、またたく間に引き戻された。
そっか、今は……。
やべ。俺、いったいどれくらいの時間――
「岡崎っ!」
「は、はい。すみませんっ!」
慌てて頭を下げたその瞬間、なんとはなしに俺の片方の手が視界に入った。
素手……ではない。滑り止めを目的とした吸盤がついた、作業用の軍手に包まれた手。
手、だけじゃない。服装だって、あのころの学生服とは違う。
今はもう、学生の時とは違うんだ。
「……どうした、小突いたぐらいじゃ、まだ夢から醒めないか?」
目の前にいるのは渚でも、ましてや春原でもなかった。
ともに同じ仕事をする仲間であり……先輩として仰ぎ、目指さねばならぬ存在。
まだ半人前の子供に過ぎない俺に相対する、芳野さんの姿がそこにはあった。
「すみません。もう大丈夫っすから」
――今になって、俺の甘さを自覚するようになった。
いや、自覚なんてものじゃない。ここ最近は、ずっと心の底から痛感しっぱなしだった。
いくら背伸びをしたところで、届きやしない。
一足飛びで手に入れることなど到底不可能な、地道に一歩ずつ踏みしめていかなければならない、一人前という名の場所。
しかし、それでもまだ、そこは中継地点に過ぎないのだろう。そこからもまた、人間ひとりの人生には、長い道がえんえんと続いているに違いなかった。
本気で仕事というものを自身の眼前に突きつけてみて、はじめてそのことを思い知った。
けれど。
(ああ。まだ俺は、頑張れる……)
たったの、ひとり。けれど、俺にとって他の誰にも替えがたい、強力な味方がいてくれるから。
俺にとってはそのひとりこそが、百万の援軍なのだ。
ひとつの姿を、思い浮かべる。
渚の笑顔を、思い描く。
脳裏に浮かび上がる彼女は、こんな俺にいつでも笑いかけてくれるから。
だから、それさえあれば。俺はまだ、挫けずにいられる。
「岡崎、次はこいつだ」
「は、はい、今すぐ行きますっ!」
電気工。
それが、俺の選択した道だった。
偶然に知り合った芳野さんのもとで、俺は本当の意味で働きはじめた。
まだ、この仕事を始めてさほど日数は経っていない。多少は身体も慣れてきたけど、それでも悲鳴を上げることはしばしばだ。
「岡崎、それを持ってきてくれ。重いが、落とさず気をつけて運んでくるんだ」
「はい!」
全身がきしむ。歯を食いしばる。
節々が、抗議の声を上げる。渚の笑顔を、思い浮かべる。
俺は、強くならなくちゃいけないんだ。
……気がつけば、その現場での仕事は片がついていた。
俺は、芳野さんの指示に必死に食らいついているばかりだった。
もし自分が芳野さんの立場になったとして、こんなふうに仕事をやりこなせるとは、とても――
「上出来だったぞ、岡崎」
「……そうですか?」
「ああ」
その言葉を聞いて、ほっと安堵する俺がいる。
叱られるよりは、誉められた方がやはり気持ちが楽になる。
「お前は、まだ新人だ。仕事をこなしきれなくても、文句を言われることは少ないだろう」
「……」
「ただ、慢心だけはするなよ。つまずいた時、悔やむ気持ちを持てれば、今はそれだけでいい」
「……はい」
「それに俺のフォローをするのも、立派な仕事だ」
そう言うと芳野さんは、会社の車に乗るよう俺を促した。
そうだ、今日の仕事はこれで終わりじゃない。まだあと一件、ラストに残ってるんだった。
……改めて、思ってみれば。
俺は、幸運だったのかもしれない。いや、間違いなく恵まれているのだろう。
望まぬ仕事、自分に合わぬ仕事を突きつけられ、やむなく意に沿わぬ日々を送っている人間と比べたら。
俺を頼ってくれ、俺に意欲と活力をいつも与えてくれる、そんな相手のいない人間と比べたら。
だとしたら。
この幸運を手放すことのないよう、俺はそれに応えなくてはならない。
――そう、思いつづけている。
「行くぞ、岡崎。残すのはあと一件だ。思いのほかスムーズに事が運んでいるし、この分だと今日は早く終わりそうだな」
「そうですね。ちょっと珍しいかもしんないっす」
久しぶりだった。いつもより、多少は早く家に帰れそうだった。
渚は、どんな顔をするだろう。
驚くだろうか。こんなことでも、喜んでくれるだろうか。
そう思うと、早くもそわそわと気分が浮き立ってくるようだった。
「……おい。だからといって、今はまだ終わったわけじゃないぞ。最後まで気を抜くな」
「……はい、すみません」
俺は、軽く左右の頬を、両の手で叩いた。
「……芳野さん」
「どうした?」
「最後の現場って……ここなんですか?」
「ああ」
暮色が、あたりを包み込んでいる。
人通りは、今のところ誰ひとりとして認めることはできない。
もともと人の往来は、特定の時間さえ除けば、それほど多くない場所だ。
俺は、見上げた。
――数十メートル先。視線のむこうに佇む、坂の入口を。
ああ。
あそこで。
あの坂の、入口で。
……過ぎ去った日々。
しかし俺の心の一部に深く刻まれた、今でもなお鮮明な思い出。
忘れることなど、決してありはしない。
あの坂の、入り口で。
あの時。
俺と、渚は。
はじめて出会ったんだ。
「道沿いの街灯の本体を交換する。場所によっては灯具そのものもだ。といっても、型は前のと変わらないからな」
坂の手前に位置する交差点で、道はいくつかの方向へと分岐する。
そのうちのひとつは、当然、俺も……そして渚も、よく知るものだ。
あの頃は。
こんな道の所々にも街灯が設置されていたなんて、ろくに気づこうとすらしなかった。
「――さしたる手間じゃない。今までと同じ調子でやればいい……聞いてるのか、岡崎?」
「……はい、聞いてます。大丈夫っす」
俺の様子に眉根を寄せる芳野さんは、返事を聞いてやれやれといったふうに軽く首を横に振る。
一瞬ひやりとしたが、とりあえずは納得してくれたみたいだった。
「……おい」
いや――
「決意を
見透かされていた。
というより、むしろ俺の態度が露骨だったのかもしれない。
……しかし。
ならばこそ。切り出すには、この瞬間が絶好かもしれなかった。
言い出しかねて、最後まで言い出しそびれたら……きっと、いつまでも後悔してしまいそうな。
そんな思いに、俺はとらわれていた。
「あの……」
「……なんだ?」
「芳野さん。お願いがあるんですけど――」
渚と、出会って。
それから、毎日のように歩いた道。
雨の日には、渚が差し出す傘の中に入って。晴れの日も、二人で肩を並べて。
お互いが学生服をまとった、なつかしい思い出の場所。
……もっと渚のそばに踏み込むきっかけが、欲しくて。
今から思えば滑稽にすら感じるほど、最初はぎこちなかった俺たち。
――もう、過ぎ去った日々は二度と戻ってこない。
渚にとっては、三度目になる高校三年の生活。
見た目は似ていても、二度目のそれとは確実に違う。そして俺は、学生服に腕を通す事すらなくなってしまった。
けれど。
そんな、あの頃の俺たちは……。
ずっと、こいつらに見られていたんだな。
道の向こうにずらりと立ち並んだ、桜の並木に。
ここから見上げる、小さな街灯に。
そう、思うと。
やっぱり俺は、芳野さんに言わなくちゃならない。
◇ ◇ ◇ ◇
「お帰りなさい、朋也くん」
家にたどり着いた俺を、暖かく迎えてくれる声。
渚と二人きりで暮らす、俺たちの生活。それもいくらかの月日を経て、ようやく慣れてきた。
「……今日は渚に、ちょっとした土産があるんだ」
「私に……お土産、ですか?」
そう言って、小首をかしげる渚。
俺は笑顔でうなずき返すと、ごそごそとポケットをまさぐった。
「で、でも私、何かお土産をもらえるようなことをしたでしょうか?」
「いや、そんな大層なものじゃないけどさ。あまり過剰に期待されすぎると、逆に困るくらいだけどな」
言いながら、ポケットの中でそれの感触を確かめる。
一本の、武骨な――
今は、俺の手の中に収められた。
何の変哲もない、転々とした錆の見える、工業用のボルト。
「……今日さ。学校前の、あの坂の入り口の近くで、仕事があったんだよ」
つい数時間前にあった出来事を、俺は渚に説明する。
通学路ともなれば、当然のように点々と設置されている街灯。でも、あの頃の俺は、その存在に気づきすらしなかった。
俺と渚の頭上に、いつだってあったはずの、それ。
渚が、坂の入り口で立ち止まっていた時も。
俺が、そんな彼女に声をかけた瞬間も。
きっと、あの日から。
肩を並べてあの道を歩く俺たち二人の姿を、こいつは知ってるんだと思った。
そして。
それはたとえ言葉にせずとも、今の幸せを肯定してくれる、証人のようなものだと俺には思えて。
「さすがに街灯そのものを持ってくるわけにもいかんから、せめてボルト一本だけでもって思ったんだけどな」
と、そんな思いに駆られて、あの坂道が見える場所の街灯を支えていた一本を持ち帰らせてもらったんだけど。
今にして考えてみれば……これはまた、ずいぶんと味気無いよな。
憑き物が落ちたかのように冷静さを取り戻してみると、にわかに俺ひとりだけが舞い上がっているようにも思えてきた。
いや、だってボルトだし。
普通、廃棄処分になるはずの工業用部品なんぞをプレゼントだといわれて差し出されても、喜ぶよりも当惑するんじゃないか?
「……いえ、そんなことないです」
でも。
それでも他愛なく暖かな気持ちに包まれるのが、俺と渚という二人だった。
「嬉しいです、朋也くんがあの時のことをちゃんと覚えてくれているって分かって」
渚の、喜ぶ顔が見たい。
そう思って選んだ行動は――滑稽ですらありながらも、やはり間違いじゃなかったみたいだった。
この仕事をやって、この仕事を選んで、よかった。
俺と芳野さんの手によって設置された、新たな電燈。そいつは、今度は誰を見つめるのだろうか。
願わくば――
そんな彼らにも、幸福という優しき
「このボルトさんも、ひとりじゃ寂しいでしょうから……」
そう言って渚は、壁際の一角にあるテレビに近寄ると。
その上部に乗っている大きなだんごのぬいぐるみの間に、挟まれるようにしてそれを置いた。
「大きさは違いますけど、ほら。こうすれば、みんな仲良しの家族ですよ」
笑顔。
日々はきっと、これからも、豊かに色づいていく。
彼女の――
渚の、笑顔ただひとつがそこにあれば。
なにもかも、変わっても。
これだけは、きっと変わらない。