正直病む過程がピークというか、病んだあとの行動って大体同じようなものな気がします。ぶっちゃけ続きは要望がなかったら書かなかった
影が伸び始め夕陽が差し込みちらほらと街灯がつき始める頃。都内某所の駅を彷徨う1人の少年の影。雑踏の中に紛れ、ふらふらと流されながら泳いでいる。それでいながら目的地ははっきりとしている。
足取りは重いようにもそれでいて軽やかにも見え、疲れているようで楽しそうな雰囲気。沈痛そうな面持ちでそれでいて憑き物が落ちたような晴れやかな顔でゆらりゆらりと歩く様は五色を狂わす蜃気楼。どれが実像でどれが虚像か判別できない。何故ならどちらも本物でもあり同時に偽物であるのだから。燃え盛る炎から現象はそのままに熱だけを奪い取り絶対零度と化したような荒唐無稽なその有り様は矛盾だらけでありながらも伽藍堂で虚無という一つの様相に纏まっている。
それ故に誰も声をかけられない。不味そうなような愉快そうなそれは理解不能なものとして遠ざけるのが一番無難であるのだから。
よって彼は誰からも止められることもなく歩き続ける。よって彼は誰か自らの断頭台へと足を踏み入れ……否足を踏み外そうとする。
一歩、また一歩と近づくたびに決意はより強くなっていく。
痛快無比の逆襲劇を今こそ始めるのだと、お前らが軽視した己のちっぽけな命がお前らを終わらせるんだと気持ちがどんどん昂っていく。
表情は今から命を断つ者とは到底信じられないような清々しく、希望に満ち溢れている。
彼は特に宗教にハマっている訳ではないから死んだら天国へ行くとか死を以て我が魂の救済とするというセンチメンタリズムに浸っているわけではないが、それでもこの先に希望はまるで見えない。
彼の将来はありとあらゆる可能性が詰みであり、同時に今この瞬間に生きていることが、広義に当てはめると罪なのだ。何かを為せる訳でもなく、姉に与えられるはずだったリソースを只々貪るだけの暴食にして怠惰の罪。些か暴論だと異を唱える人間なんてこの地球上のどこにも存在しないが故にそれが罷り通っている。仮にそのような奇特な人種がいたところでその人がおかしいだけだ。無情だがこの世は数こそ正義だ。
それでも、諦めなければ何かが変わると信じていた。いつか、いつの日にかは報われるのだと信じて足掻き続けた。
そしてたどり着いた先は地獄だった。何度乗り越えようとも更に大きな壁が立ち塞がる。それを息絶え絶えに乗り越えたらまた更に困難な試練がやってくる。いざ姉を追い抜けば、今度は勝ち続ける必要があり終わりの見えない闘争を余儀なくされる。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も……しかもその度に難易度が上がっていく無間地獄だ。
とはいえこの度し難い屑だろうが、一応は生物学上は人間であるため心というものが存在する。いくら克己心があろうが終わりがなければ擦り切れてしまう。
今の彼を止めることができるとしたら踏み台としての利用価値と彼に費やされるコストの兼ね合いからまだ踏み台として使ってもお釣りが来るという理屈で、彼自身の感情を封殺することだけだ。それ以外の存在意義など氷川暁斗には元より存在しないのだからお前はそれを全うすればいいのだ。これが現実なのだが、苦痛に思えてしょうがないから彼は自らの意思で自殺を選択した。
最も容易くローリスクで最大火力を発揮する幕引きの一撃。対価なんて有って無いような最高の取引を今この瞬間に始めよう。小さな小さな塵芥で全てをご破産にしてしまえ。
漸く駅が見えてきた。いよいよだと思うと笑みを隠しきれなくなってきていた。周囲から奇怪なものを見るような目で見られているが、どうせあと数分もしたらその全てがどうでも良くなる。
——次の瞬間信号無視した自家用車のクラクションが鼓膜を揺らした。
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私には妹と弟がいる。
どちらも大切な家族だと思っている。それに嘘は断じてない。ないのだが、私は2人のことが苦手だ。
妹の日菜は天才で何でも私の真似をして、あっという間に私より優秀な結果を叩き出してしまう。私はそんな日菜に対してコンプレックスを抱いている。私は姉なのに、何も姉らしいことが出来ないし姉としての立場がない。いなくなってしまえと何度思ったか数えるのが馬鹿馬鹿しいぐらいだ。そんな私が私は嫌いだ。
弟の暁斗は日菜とは違って際立った才能もなければ極端に出来ないこともない、正しく平凡といっていい子だ。昔から私と日菜のことを慕ってくれていた可愛い可愛い弟だ。
けれど私は日菜に対して以上に暁斗へのどす黒い感情を持っている。
暁斗は私より劣っているから決して私の居場所を奪ったりしない。抱いてはいけない感情だとわかっていたがその事実に酷く安堵していたし、それを確認すると心が安らいでいた。
そして同時に恐れてもいた。今は暁斗が私を上回ることはないけれど、いつかその立場が逆転するかもしれない。いいや、必ずその日が来るだろう。今は檻に入れられて大人しくなっているけれど、いずれ縛鎖を千切って枷を壊して必ず仕返しに来ると私は確信している。
そうなったら今度は暁斗と私の立場が逆転する。私が2人のブースターになってしまう。
それは嫌だ。怖い。あんな目には遭いたくない。
だから私は逃げ続ける。日菜に勝てるものを見つけて、暁斗から逃げ切れるその日まで私はずっと2人から目を逸らして進むしかない。
今はギターに手をつけているけど、これだっていつまで出来るか本当のところはわからない。日菜に気付かれて、興味を持たれたら多分そこで終わりだ。あの子ならやり方さえわかれば2、3日で今の私を追い抜いてしまうだろう。
そうなって欲しくないからひたすらに練習しているが、思うように上手くいかない。それに苛立ちながら練習を続けるがやはり上手くいかず、更に苛立ちが募る悪循環に陥っていた。中々抜け出せず燻っている日々が続いている。こんなことをしている場合じゃないと焦り、更にドツボに嵌る。有り体に言ってスランプというやつになっていた。
そしてつい先日、とうとう恐れていた事態が起きてしまった。
暁斗が私を追い抜いてしまったのだ。遂に立場が逆転する。
──嫌だ。やめて! 暁斗まで私の場所を取ったりしないで……暁斗のようにはなりたくない。あんなの私には耐えられない。
怖い。暁斗が私にどんな復讐をするのかわからない。どれほどの憎悪を浴びせてくるのか想像すらしたくない。
長年蓄積された憎悪と憤怒の濁流で私の全てを壊して壊して壊し尽くして無惨に変えてしまうのだろう。
そう思っていたのだが、拍子抜けなことに何も無かった。良かったといえばそうなのだが、腑に落ちないというかどことなく不気味とさえ感じる。けれど私は臆病でどうしようもない人間だから、さらに蓋をして目を逸らしてしまう。何も無いならそのまま見ないフリをしてしまうことを選んだのだ。何も無いなら何も変わらない。今まで通りでいいのだから
それがどれほど甘い認識だったのかを私は病院からの一本の電話により知ることとなる。
私の罪は消えることなど一生ない
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目を覚ますとそこは白一色の世界だった。滅菌消毒した牢獄を思わせる閉塞感とアルコールのツンとする匂い。
どうやら俺は病院にいるらしい。自身の体を確認すると包帯だらけだし点滴のチューブが何本も刺さっていて、よくわからないものが体内にぶち込まれている。自身の記憶には全く心当たりがないが、かなりの重傷らしい。
怪我をしていると自覚したら途端に全身が痛くなってきた。
とりあえず患者らしくナースコールを鳴らしておこう。
しかし、どうにか腕を伸ばそうとしても身体が中々思うように動かない。
痛みとコードによる阻害との数間にわたる格闘は扉を開く音によって中断された。
「あ、暁斗……? 良かった。目が覚めたのね」
紗夜姉の声だ。なんで泣きそうな声をしているんだ? 使い潰せるスケープゴートがいなくなるのはやっぱり困るからだろうか?
「おはよー紗夜姉。なんか凄い怪我したみたいけど、よく覚えてないんだわ」
別にたいしたことないから泣く必要なぞないだろう? ゴミ掃除をし損なったという意味ならまだわからなくもないが、苛立っている様子はないし本当に謎でしかない。
「あなた……いえ、それより日菜も呼んでくるわね。あの子も心配していたわ」
「へー。日菜姉が、ね」
日菜姉が俺の心配をすること自体おかしいと思うがそこはひとまず置いといて、重要なのは紗夜姉がそれを知っているということだ。2人の間にあった溝が埋まっている。どうやら俺が病院で寝ている間に何かあったらしい。
何があったかは知らないがあの2人が仲良くなるのならそれは多分相当良いことだったに違いない。
とりあえず看護師さんを呼んでおこう。多分骨とかも折れてるしこれから先のリハビリのことを考えなければならない。
怪我を自覚した事で襲ってきた痛みと眠気で薄れていく景色の中、何故か悲しそうな姉の顔だけが強く脳裏にこびりついていた。
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部屋を後にして、震える手で電話をかける。幸いにしてワンコールで応対してくれた。
『もしもし、おねーちゃん、どうしたの?』
「日菜、暁斗が目を覚ましたわ」
『……わかった。今から行くから待ってて』
ほんの数日前までは日菜に自分から電話をかけるなんて絶対にないことだと思っていたのに。自分でも驚くぐらい抵抗なく電話をかけていた。
妹との蟠りが解けたのだ。本来ならもっと喜ばしいはずなのに、今は全く嬉しくない。理由が理由だからだ。
ポケットから1枚の便箋を取り出す。そこには暁斗の本心が綴られていた
* * * * * *
——拝啓、この手紙をご覧になった皆様。
八十八夜も過ぎて爽やかな風が心地の良い季節になりました。皆様は益々活躍していらっしゃることでしょう。
この度はこのような形で皆様とお会いすることになり非常に心苦しく思っております。通勤や通学、或いは何処かへ出かけている皆様に多大な迷惑をかける結果になってしまって慚愧に堪えません。
まずは、どのような紆余曲折を経てこのような行動を取ったのかを説明させていただきます。私には一つ年上の姉が2人います。身内贔屓もありますが、とても美人の双子の姉妹です。双子の姉の方は文武両道才色兼備で真面目な努力家で、練習すれば大体のことは出来るようになる人です。双子の妹の方はちょっとズレているけど紛れもない天才です。一度見たものは殆ど忘れない記憶力と、それを再現できる肉体を兼ね備えています。参考者をパラパラめくって読めばテストはいつだって満点を取りますし、スポーツも手本さえあればすぐに習熟します。そんな2人に対して、私はどこにでもいる取るに足らない平凡な人間です。今の流行りで言うとソシャゲでレアリティが姉の方が高くてで成長コストは姉の方が軽いのです。だから生きているだけで劣等感が凄まじいのです。何をやっても姉以下の結果しか出ず、仮に同じ結果を出せたとしても時間は何倍も何十倍もかかってしまうのです。そして家族である以上どうしたって比べられてしまうのです。結果は最早言うまでもないでしょう。言い逃れのできない全敗です。文字通り何一つ勝てた試しはありません。故に私は2人の下位互換であり、出涸らしであり、一家の恥さらしであり、落伍者である存在なのです。けれど私も一応は日本男児でありますから、意地を張り踏ん張り続けていました。全く先が見えなく苦しいものでしたが、それでも見苦しくも足掻き続けました。しかし、このような結果になっていることから察して頂けているでしょうが、まるで結果が伴っていないので全て徒労に終わってしまいました。そして、それ故に両親は俺に何も期待していませんでした。衣食住はしっかりと保証され、暴力も無いため虐待とまでは行きませんが、両親は露骨に姉を贔屓して私はのけもの扱いでした。自分が何か一つでも姉に優る部分があればまた違ったのでしょうが、現実は非情なものです。彼らは私になんの期待もしていません。姉に割かれるべきであるリソースが俺の維持費のために使われることを腹立たしく思っていることは私の戦績を考えると酷く公正であると言えるでしょう。それに、一度だけ追いつきましたが、どうやら私は姉2人、とりわけ双子の姉のための礎であったようなので、それさえも許されることではありませんでした。そんな日々に私は疲れてしまいましたので、眠りたいと思います。
さて、長々と愚痴を書き連ねてきましたが、そろそろお別れとさせて頂きます。冥土か黄泉の国か。あるかどうかもわかりませんが、死後の世界で皆様とまた会える日を心待ちにしております。
* * * * * *
何度読んでも間違えようがない。便箋には「遺書」と記されている。
暁斗は自殺をするつもりだった。
けれど、警察の調査によると運転手の信号無視が原因の事故であり、暁斗は全く別の方法で自殺をするつもりだったようだ。
自殺、そう自殺なのだ。暁斗はここまで追い詰められていたのだ。文面は比較的軽い口調で慇懃無礼に書かれているが、一体どんな気持ちでこの文を書いていたのだろうか。
それに、暁斗は他でもないこの私のために今まで不当な扱いを受けていた。私のモチベーション維持のための犠牲だった。
自覚がなかったといえば、嘘になる。暁斗が私より冷遇されているのは知っていたし、そんな暁斗に対して暗い優越感を抱いていたのは確かだった。ああはなりたくないと見下していたのも恐怖していたのも事実だ。だから、暁斗がこんな風になってしまったのは他ならぬ私のせいなのだ。その事実が私を責め立てる。お前は人を殺しかけたのだと自己嫌悪が加速していく。死ぬべきなのは私の方だった。私が弱かったから暁斗が苦しむ羽目になってしまった。
「おねーちゃん、お待たせ! それで暁斗は!?」
息を切らして駆け寄ってきた私と似た顔を見つけたから思考を中断する。
「日菜……病院で走っちゃだめよ? 暁斗なら今お医者さんが見ているわ」
日菜とこうしてまともに話せるようになったのは暁斗が病院に運ばれてからのここ数日での出来事だ。より正確には暁斗が自殺を図っていたことが判明してからである。私と日菜も2人で暁斗をここまで追い詰めてしまったという同じ罪を抱えていた。互いの傷を舐め合い、罪悪感の共有から始まった相互理解。そう、皮肉なことに暁斗が私たちを繋いでしまったのだ。恐らく第三者から見たら素晴らしいことであることが腹立たしい。きっと誰もが意味のあったことなのだと暁斗の自殺を肯定してしまうだろう。
「あっ……おねーちゃん、診察終わったみたいだよ」
日菜の言葉の通り、病室から医者が出てきた。思わず駆け寄って詰問してしまった。
「先生、暁斗は大丈夫なんですか?」
「体の方は全身の打撲と右足の骨折ですね。車に轢かれた割には軽傷です」
「体の方は……ってことは」
「私はあくまで外科医なので断言は出来ませんが、あんなものを用意していたのですから良い状態とは言えません」
「本来なら面会謝絶が好ましいのですが、本人が会わさなきゃ這って出てでも脱走すると言い出したので……」
喜べばいいのか呆れればいいのかわからない。
「しっかりと話し合って、ケアしてあげてください」
「はい……ありがとうございました」
先生がその場を去り、いよいよ私たちだけとなった。
対面した時にどんな罵詈雑言が飛んでくるのか想像すると足が竦みそうになるけど、それは私への罰なのだから甘んじて受け入れねばいけないだろう。日菜と顔を見合せて覚悟も決まったところで扉を開ける。
「あれ? 日菜姉も来たんだ?」
「当たり前だよ、それで怪我は大丈夫?」
「暫くは入院らしいけど、割と平気だよ」
まあ折れてるから重傷重傷と包帯を見せてくる。一見すると本当にただ事故に遭っただけにしか思えない。私が第三者だったらとても自殺を図っていたら他殺されかけたと言われても信じることはなかっただろう。いや、仮に暁斗だっととしても、遺書が無かったらわからなかったに違いない。
それが何よりも私たちの胸を締め付ける。暁斗はこんなときですら弱っているところを此方に見せまいと気丈に振舞うことのできる優しい子なのに、私たちは本当にろくでなしだ。
「え、えっと……暁斗、ごめんなさい。あたしのせいで……」
ああ、日菜がとうとう堪えきれなくなってしまった。一応訂正を挟むが日菜より私の方が悪い。
「え? なんで謝っているわけ?」
……え? 今暁斗はなんて言った? まさか覚えていない?
「だ、だって……暁斗は」
「ん? 車に轢かれただけじゃん。2人は関係ないよね?」
「え? じゃああれは?」
「あれ? なんのこと?」
「日菜! やめなさ「遺書のことだよ」……」
「ああ、そういえばそうだった。俺死に損なったんだっけ……」
合点が行ったと同時に尻すぼみになっていく独り言。失意と悲嘆の中に憎悪が混じっているのが私の胸を掻き毟る。私はなんてことをしてしまったのだろう。我が身可愛さで弟をこんなにも傷付けていただなんて……
そこで日菜はようやく己の失態を悟ったようだ。やっちゃったと狼狽えながらこちらを見てくる。
けれど、暁斗が落ち着いたらいずれ自分で思い出していただろうし早いか遅いかの問題でしかないから割とどうでもいい。
それよりも……
「なんで、なんで死なせてくれないんだろうな……もう嫌だよ」
双眸の輝きが失せ、沈んだ表情で涙を流している暁斗がいる。こんなに弱っている暁斗は生まれて初めて見た。遺書から察するに今まで虚勢を貼り続けていただけで、恐らくこれが嘘偽りのない暁斗の本心だ。
悲哀と絶望で打ち震えて蹲る自身の弟がこれがお前達の罪なのだと如実に物語っている。嗚咽と呪詛によるお前はダメだの大合唱が脳味噌を攪拌していく。
「暁斗! まだ動いちゃダメだよ!」
「うっさい。もう勘弁してくれ」
どうして、暁斗がこんなに苦しまねばいけないのだろう。暁斗が一体何をしたというのだ。
客観的に見れば平均かそれよりも上は出せているはずなのに、実際には相対的にしか評価されない。私と日菜よりも劣っているのだから暁斗はダメなのだという鬼畜なんて言葉が生易しい中でそれでもメゲずに頑張っているではないか。勿論結果が伴わない努力に価値があると私は言わないし言える訳がない。けれど、その評価の基準がどう考えたってまともじゃない。
何故そんな理不尽な評価をされる羽目になったのか……ああ、そんなもの考えるまでもないではないか──
日菜が天才なのが悪い。私が日菜より劣っているのが悪い。そして私を押し上げるために暁斗を使い潰した両親が悪い。
こんなくだらないことのために自身の弟を道具のように扱っていた周囲も、そうさせた自分自身も許せない。
「暁斗、ごめんなさい……! 私のせいで……っ!」
いつの間にか私より大きくなっていた身体を抱きしめ、暁斗を宥めながら自分自身にも言い聞かせる。
許さなくていい。憎んだっていい。それでも私はたとえ一生使ってでも貴方に償うと決めたから……
離せと喉が張り裂けるほどに絶叫しながら暴れる暁斗に殴られ噛まれ引っ掻かれながら、暁斗の憎悪を一身に受ける。
今はその痛みさえも私にとっては救いになってしまっていた。
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4月は始まりの季節だ。
年度が切り替わり、進級や進学などで周囲の環境の変化が大きく、
それ故に出会いの季節とまで言われるのだ。
春眠暁を覚えず.その言葉の通り皆心地よい微睡みの中にいるであろう午前5時、机の上で夜中に充電したスマートフォンがけたたましいアラームを鳴らし始めた。しばらくしてベッドの上から這い出て、アラームを止め、覚醒する。
氷川暁斗は高校1年生になった。今日から
「暁斗ー? 起きてるー? 朝だぞー」
「いつも言ってるけど、ノック無しで入ってくんなって……もしパンイチとかだったらどうするの?」
「えー? おねーちゃんは気にしないよ?」
「俺が気にするから!」
そんなことになったら間違いなく俺が紗夜姉に折檻される。それが怖いから朝起きるのは得意になった気がするから悪いことばかりではないのが腹立たしい。ひとしきり溜息を吐いたあと、のそりのそりと緩慢な動作で部屋から出る。
漂ってくる匂いからして朝食は味噌汁と鮭の切り身か。今日は紗夜が朝食を担当したらしい。
「おはよう、姉さん」
髪を後ろで束ね、エプロンを付ける姉はなんというか意外とさまになっている。将来は教育ママになりそうだ。
「おはよう、もう出来てるから早く食べちゃいなさい。今日は入学式でしょ?」
「はーい、いただきまーす」
……うん。絶妙な焼き加減でホクホク油で照り輝く美しい鮭の切り身だ。しかも丁度いい塩味でご飯がすすむ。
今日の味噌汁は出汁からしっかり取ったようだ。昆布と鰹節の深みのある味わいと全身にしみ渡る温かさは和の心
「ところで姉さん達は今日はどうするの?」
「今日はあいつらに会わなきゃいけないから……ごめんなさい」
「……ごめん」
「暁斗のせいじゃないよ? こうして
「ええ、この部屋を借りる条件だもの。仕方ないわ」
「……そっか。ご馳走様でした」
食器を水に浸しておく。今日は朝は紗夜姉、夜は俺の予定だから任せてしまおう。
「お粗末様でした。気をつけて行ってらっしゃい。ハンカチとティッシュは持った? 制服は着崩さずにキチンとしなさい。知らない人に着いて行ってはダメよ? 終わったらちゃんと連絡しなさい。あとは……」
長くなりそうだからそそくさと退散する。
「はいはい気をつけますよー。じゃあ、いってきまーす」
「あっ……もう」
話を強引に切り上げて家を後にした。
近頃の姉2人はちょっと過保護すぎて正直あまり一緒にいたくない。常にあれこれ言われるから自由がなくて息が詰まりそうになる。でも、俺の為だってことが分かっているから強く言えないからもどかしい。
だから自然と外にいる時間が癒しとなってしまった。俺を両親から隔離して、3人で暮らせるように取り計らってくれたことには物凄く感謝している。今は紗夜姉がスタジオミュージシャンになって、日菜姉もアルバイトをすることで俺の食い扶持まで稼いでくれているから頭が上がらない。けれど、必ずどちらかが家に残り俺と同じ空間にいるのだ。まるで監視されているようで薄気味悪い。
せめてほんの少しだけでも一人の時間が欲しいと思うのはやはり贅沢な悩みなのだろうか。
とりあえず何か適当な部活に入ってそれに打ち込むことで逃げればいい。新しく友達とかも出来たら嬉しいが、それは過ぎた望みだろう。それでも時間を潰せるならそれでいい。或いはアルバイトをして少しでも姉の負担を減らすべきだろうか。
学校外で息抜きしようとするとどういう訳か高確率でエンカウントするし、こそこそと寄り道したり家から抜け出すとメールと着信の嵐だし、無視すると2人が年甲斐もなくギャン泣きするのだ。そして長い長いお説教をされる。加えてずっと死んだ目をしたままという恐怖体験のおまけつきなのだからもうお腹いっぱいだ。
だから兎に角部活に入ろう。面倒なパワハラさえ無ければどこでもいい。兎に角平穏に無難に地味にやり過ごそうってそう思っていたんだけど……
「暁斗ー! えへへ〜迎えに来たよ」
「用も済んだし、早く帰りましょう」
……まさか初日でその目論見が外れることになるとは思わなかった。
入学式が終わり、各々自分たちの配属されたクラスでHRを済ませ、いざ帰ろうとしたその瞬間をまるで狙い済ましたかのように乱入してきた。
「ね、姉さん……どうして、ここに?」
今日は入学式で在校生は来ないはずだ。天文部は今日は活動しないと言っていたのに、どうして……
「だって、暁斗が心配だし……」
「私は生徒会の打ち合わせがあったの」
……ああ、実に効果覿面だよ。まだ自己紹介すらしていないというのにここにいる全ての人間が俺があんたらの弟だって知ってしまった。少なくとも俺は氷川紗夜と氷川日菜の弟だって認識から逃げられなくなってしまった。やはり俺は
そしてタチの悪いことに恐らくこれらは全て姉の
色眼鏡は避けようがないし、物差しが姉基準になってしまう。俺の居場所がこの学校で生まれることはなくなった。
栄光はなくともささやかで平凡で穏やかな日常を送りたいと思っていたのに、冷や水をぶっかけられた気分だ。
先輩方は既に姉を知っているから無理だけど同学年ならなんとか……っておもっていたんだが、このクラスが全員ぼっちの集まりなんてことが無い限りは他クラスまで広がってしまうだろう。そうしたら自然と校内に居場所はなくなる。一日目にして早くも平穏な学校生活に暗雲立ちこめることとなってしまった。
まあ、元より期待はさほどしていない。退学というカードをチラつかせることが出来るから、中学時代のように暴力が飛んでくるってこともそうそう無いだろう。それならば一人で何も支障がない。アルバイトの方に期待するとしよう。
そう言い切れてしまうことが少しだけ寂しくなった。
* * * * * *
「ねー暁斗、部活はどうするの?」
いつもの如く俺を挟んでの帰り道で日菜姉が尋ねてきた。
「今のところは特に決めてない」
「……じゃあ天文部だね!」
喜色満面の笑みを浮かべる。どうやら同じ部活というものに憧れがあるらしい。
「それだけはない」
しかし、一体どこの誰がこの姉2人が所属している部活なんかに入るというのか。肩身が狭いったらありゃしない。
「え〜!? なんでなんで? ……おねーちゃんのこと嫌いになった?」
先ほどとは一転して悲哀たっぷりでハイライトオフの氷点下。急な温度差で風邪を引いてしまいそうだ。
「……何か、理由でもあるのかしら?」
紗夜姉が訝しげにこちらを見据えている。下手な言い訳は許さないと言いたげで、完全に天文部に引きずっていく気満々な様子だ。
「バイトしようかと思ってさ、やっぱり姉さんたちに養われているだけじゃダメだし……」
1人になりたい口実だが、実際のところそれだけのためというわけでもない。
今までは中学生だから許されていたかもしれないが、いつまでも姉に甘える訳にはいかないのだ。高校を卒業した後進学するにせよ就職するにせよ姉の手を煩わせていいはずがないのだから。
「バイト……? ダメだよ。暁斗を1人にしたら、また……そんなの嫌だ」
俺の言葉を耳にした途端に日菜姉がうろたえ出した。聞こえたのはまるで何かを恐れているような、同時に悔いているような……そんな声にならない悲鳴だった。
「日菜姉……?」
穀潰しだった俺が働くことで負担が軽くなるんだから寧ろ喜んでも良いと思うんだが、何故そんなに悲しそうなんだ?
「とにかくダメ! 暁斗にはまだ早いの!」
「えー……わかったよ」
多分俺に気をつかっているだけだろうし要らぬ心配でしかないのだが、ここはひとまず好きに言わせておけばいい。
そのうち考えを改めるだろうし、また話せばいいだろう。
……そう、普通ならこれで問題なかった。
俺は見誤っていた。
時計の針は巻きもどることはなく、前にしか進まない。
もう何もかもが遅かった……
* * * * * *
一応2人の要望に答えて学校から直帰の日々を送っているが、学校ではもう既に針の筵、家では常に紗夜姉か日菜姉のどちらかがいてストレスが凄すぎて胃に穴が空きそうだ。
もう限界が近い。早く、何とかしないと禿げそうだ。
早速3人で夕飯を食べているときに話を持ちかけることにした。
「なあ、やっぱ俺もバイt「ダメよ」……うわぁ食い気味〜」
「お金の心配は要らないよ? あのクズどもから結構搾り取ってるし、このマンションは叔父さんのものでかなり安く貸してくれてるし」
「でもなんかヒモみたいで居心地悪いんだよ。あとはやっぱりお小遣い稼ぎたいし」
……別に一緒に遊ぶような友人はいないけど。
「……なんでそんなこと言うの?」
聞こえたのは底冷えする声、抑揚がなく平坦な声は感情の爆発を理性で抑え込んでいるような……否、寧ろじわりじわりとボルテージを上げている。そんな危険信号バリバリで臨界寸前な声だった。
「なんでって……別に変なこと言ってないじゃん。お金欲しいからバイトしたいの」
実際はアルバイトを口実にして姉と少しだけ距離置きたいって目論見も有るけど。
「……私たちのこと嫌いになったんだ!!」
「え!? いやそういうわけじゃ……」
ただちょっと過保護なところに辟易としているというか思春期にありがちなやつだから嫌いになることはまずないのだが、どこかで誤解が生じてしまっているようだ。往々にしてよくある勘違い。人との関わりはとどのつまり誤解と修正の繰り返しによる相互理解というのがお約束なのだが、その誤解はまさに油。火柱にぶち込まれた燃料となってしまった。
「…………嫌だ嫌だ……私が守らなきゃ、私のせいなの。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……もう誰にも傷つけさせないから、守るから、お願いだからそばにいて離れないでいなくならないで自殺しないで嫌だ嫌だいなくなったらいやだごめんなさいごめんなさいごめんなさいもう悪いことしないから許して、許さなくていいから見捨てないで置いていかないでそばに置かせて放さないから1人にしないから……」
ゆらりと揺れる瞳と上半身。まるでゾンビみたいに姉が近づいてくる。
「ヒッ……」
その異様な光景に思わず後ずさりをしてしまった。有り体に言って実の姉に恐怖を抱いてしまったのだ。でも突然目の前の人が瞳孔を完全に開いた状態のままノンブレスでぶつぶつと何かを呟き出す様を目撃したら誰だって怖がると思う。
「私も概ね同意見ね。もう暁斗にあんな思いはさせたくないし私もごめんだわ」
万力を彷彿とさせる凄まじい腕力で肩を掴まれた。背後から紗夜姉が宣告した。『お前には有無を言わせない』という強い意志すら感じさせる声に思わず身がすくんでしまった。
もう身体は恐怖で動かないけど、不幸中の幸いなのか未だ思考はできている。いや、この状況なら寧ろ思考放棄ができないと言うべきなのかもしれない。それでもこの訳の分からない空間から抜け出すためにも脳は回さないと、詰んでしまう予感がある。
姉は一体どういうつもりなんだろうか? 俺の行動を制限して束縛して閉じ込めればはい解決っていうのは訳が分からない。
「俺の自由などお構い無しってこと? 俺の意思は関係なしってわけ?」
「それでも暁斗が死ぬよりずっといいよ。もうあんなのは絶対あっちゃいけないから、そうならないように、ずっと償うから」
俺の精神的な安らぎや幸福、そんなものより俺の命を案じている。金で囲い込み外に出さなければそれだけでいいのかもしれない。
誰がどう考えても狂ってる。寧ろ精神的に病んで自殺する可能性の方が高そうだと考える人の方が多いだろう。
それだというのにこの選択……全くもって悪手だと言わざるを得ないこの状況。狂気を孕んだ凶行のその意図が必ず何かあるはずだ。
「どうして……」
漏れる言葉はそんな疑問をなげかける声だけ。尋常ではない姉達の剣幕に怯えながらなんとか捻り出した惨めで情けないせめてもの抵抗だ。
「私と日菜は暁斗に取り返しのつかないことをしたから、償わなきゃいけないの」
「もう、傷つけさせないし傷つけない。もう暁斗が自殺なんて選ばなくていいようにするから……」
嗚呼、漸く合点が行った。この2人は
俺を追い込んでしまったという罪悪感の虜囚。いつまでも劫罰を求め続ける生きる屍と相違ない。
とどのつまり俺を自殺寸前まで追い込んだ自分自身が許せない。だから自分たちで世話して奉仕して償おうとしているんだ。家を用意して金を用意して最終的には俺が何もしなくていいようにする。この一連の抑圧は姉達による贖罪だった。
俺を守るために俺を害するなんて本末転倒な気もするが、そういう判断が出来なくなる程に2人は目が曇っている。
「ああ、そっか……そういうことか」
どうやら俺は取り返しのつかないことをしてしまったらしい。
俺はあの時死にきれなかった。
生き延びてしまったことで姉さん達の未来を、可能性を奪ってしまった。本来ならもっともっと高みを目指せるはずなのに、俺への罪悪感と贖罪の念がそれを邪魔してしまった。姉を歪めてしまったのは俺だったのだ。
「ごめん。俺が間違ってた」
姉が狂っていたんじゃない。俺が壊してしまったんだ。
「漸くわかってくれたのね。嬉しいわ」
「えへへ、暁斗は家のことしてくれたら嬉しいな」
「……わかったよ姉さん」
恐らくだがもう俺に自由は無い。下手をすればこの部屋から一生出ない可能性すらある。
それでも、壊れてしまった姉を見てこみ上げてきたのは悲嘆ではなく愉悦だった。何故なら、自殺を敢行した当初の目的通り、小さなゴミが大きな歯車を狂わせたのだ。もうかつてのような栄華を極めることはない。ただ俺を生かすためだけにその力が振るわれるのだ。
これほどの賎しめは無いだろう。両親が泣いて悔しがるに違いない。
紗夜と日菜を俺に取られ、更にはその聖性さえ俺に貶められた。これは中々に皮肉の効いた仕返しなんじゃなかろうか
だから最期はこれで締めくくりたいと思う。
本編のネタバレな気がする