私以外誰もいない弓道場。私の耳に届く音は弓矢を放つ弦の撓り。そのわずかコンマ数秒後に届く的を射抜く弓矢の音。その後の私の息遣い。そして緊張を解くとわずかに聞こえる遠くで楽しそうに騒ぐ駆逐艦たちの賑声。
目を閉じて、深呼吸。もう音は聞こえない。
矢筒から弓矢を引き抜き、師から教わった姿勢を体現し、そのまま弓矢を持つ手を静かに引く。目はじっと的を睨む。
「自分の目で的を射抜くように」
そう師から教わった言葉を。普段は慣れない睨む行為。今この時は自然とできる。
「この時は的を何に例える?ただ的じゃあ怒気が強めないよ。親の仇とか、友人を葬った相手とか……提督を——」
提督を……殺した相手。
それがなぜか私の中で一番しっくりきて、今も的にそうなった場合の感情を自分の右手に込めている。
アイツが提督を……。アイツが提督を……。
頭の中に漢字の一文字が出てくる。この時の感覚が一番失敗しない。
右手の3本の指を離す。弓矢はまっすぐに的の中心を射抜いた。
「……ふぅ」
「おみごと」
「!!」
突然の自分以外の声に驚いて体全体をその方向に向ける。
そこには提督がいらしていました。背中を壁に置いて、腕を組んでリラックスした状態で私の方を見ていたようです。
「何時からいたんですか?全く気付かなかったです」
「たった今だよ。練習熱心なことは良いが、さすがにもう休んでいいんじゃないか?」
その言葉に疑問を持って近くの時計を見た。針は6時を指そうとしている。まだ夕食までは時間がある。
私はまだ夜遅くないですよ?と言うと、提督はやれやれとあきれたように首を振った。
「そうじゃない。お前が練習を始めたのは今日の午前5時だろ?食事以外ずっと練習しているんじゃ体がいつか壊れるぞ」
そうは言ってもこれが日常になっている私にとって代えがたいものがある。私は秘書官と出撃がある日以外はだいたいここに籠って来る日も来る日も特訓に明け暮れている。
少しでも上にいたいから。少しでも提督の役に立ちたいから。
「特訓をするのはもちろん良いことで構わないが、自分を犠牲にする特訓じゃ認められないぞ。自分を労わるのも特訓の一つだ」
「……はい、わかりました。少し、自分を見直すことにします」
ありがたい提督の御言葉。ここは素直に言葉通り、見つめなおすことにしよう。
「ああ、でもあまり深く考えすぎるなよ?お前の悪い癖だ」
「ふふっ、気を付けますね」
私は弓を置いて近くに置いてあるタオルで汗を拭う。さすがに出撃以外は着物姿。今は弓道着なので、汗のせいで着物が体に張り付いて少し気持ち悪い。その張り付いた感じを払うように、タオルで体の内側を拭くけど中々上手く拭けない。今は提督もいるので脱ぐこともできないので……。
「俺が拭いてやろうか?」
「提督……?」
「冗談だ」
そう言うとお互いにクスクスと笑いあう。もう内を拭うのは諦めたので、タオルを首元に巻いて提督の近くに寄りました。すると、提督はどこに隠していたのでしょう?ペットボトルを懐から私の方に投げてきて、私はそれを片手で受け取りました。
皆大好きポカリですね。まだ冷えています。
「ありがとうございます提督。でもこれを持っているということは最初から私がいることを知っていたんですか?」
このことは誰にも、提督にすら言っていないことなのに。
「仕事が終わった後に蒼龍がこの時間ならまだ天城が練習してると言ったもんだから興味が沸いてな」
「蒼龍さんですか?」
「そ、お前が憧れる蒼龍さん」
蒼龍さんは何を隠そう私の師匠です。私がここに着任した時。私が憧れる二航戦のお二人が在籍していたので、私はそのうちの蒼龍さんに弟子入りを志願しました。もちろん最初は断られましたが、ならばと私は蒼龍さんの練習姿をすぐ近くでずっと見て、来る日も来る日も、雨の時も練習している姿を“わざと”蒼龍さんの見える場所で行って、ついに蒼龍さんが折れてくれて弟子になれました。
その後は鬼……ではありませんでしたが、丁寧に私に指摘をしてもらって直してもらい、その結果はすぐに私の成績となってやってきました。
演習、実践での私の撃退数が飛躍的に上昇したんです。最初私はこれを装備のせいだと思って、そのことを蒼龍さんに報告したんですが、それは私の成長だと蒼龍さんは目一杯私を褒めてくれて、その時に初めて私は自分の特訓の成果が出たんだなと実感しました。
その後間もなく提督からも褒めてもらい、私の気持ちは最高潮。
結果がでてくる特訓というものが私は大好きになり、気づいたら来る日も来る日も特訓漬けの一日になってしまいました。
「その大好きな特訓のせいでお前が怪我をすると代わりがいないんだ。度々言うが自分の体を大切にな」
「!……はい!」
この言葉は大好きです。
自分に代わりはいない。
最初こそ底辺のような実力でしたが、自分の実績が提督にも認められ、私は今や正規空母の副リーダーを務めています。これでリーダーの蒼龍さんと、ほんとの意味で肩を並べることができました。
「……ふぅ」
あれから二人揃って弓道場の壁際に腰を下ろして、私は提督から頂いたポカリを呑んで一息つけます。すると提督は何も言わずに手を私の方に向けているので、私のポカリを差し出すとそのままゴクッと一口飲んで「さんきゅ」と一言言ってまた私の方に差し出しました。
別に間接キスだって驚きはしませんよ。はい、私は正常心です。
「でもいいんですか?もう少しで夕餉の時間なのに」
「どういう意味だ?」
「だって提督、その時間に近づくと頑なに飲み物を飲まないじゃないですか。ビールを飲むまでは飲まないって」
「…………あ」
ほんとに気づいていなかったようです。それに気づいた後提督はガックリとうなだれていましたから。
「……まあいいか。代わりに天城と間接キスをしたなら」
「なっ……!?」
こうやって口にされると私は弱いです。さっきまで平常心だったのにもうそれは持ちません。暑いです。すごく暑くて額や首元から噴き出るように汗が出ます。
提督はそんな私の姿を見るとケラケラと笑って悪戯が成功したような笑みを見せます。
こういう時の提督は意地悪です。意図的に私の心を乱すんですから。
「もう!提督なんて知りません!」
そう言ってツンと提督と逆側を向いてもこれが照れ隠しだってバレています。でも提督に今の自分の顔が見られたくなくてついこんな行動に出てしまいます。
「あれ?あ~まぎさん?」
「…………」
「無視されたか……。ほれ」
ピタッ
「ひゃんっ!?」
突然頬にひんやりとした何かがくっついて驚いてその物体の方を見ます。すると、また提督が卑しい笑みを込めて手に持っているものをヒラヒラと私の方に見せてきます。
「……熱冷シート」
「そっ、もしものためにな」
「なんのもしもですか……もう!」
提督からその熱冷シートを引っ手繰って、それをさっきまで熱を持っていた右ひじに張ります。提督はたぶんこの為にコレを持ってきたのでしょうが、それが一々性質が悪いです。
念の為に提督に「もうないですよね?」と確認します。提督は両手をヒラヒラとさせて「もうないです」とアピールします。私もさすがにもうないだろうと、改めて提督と隣通しに座り直して、もう一度ポカリを呑んで心を落ち着かせました。
提督は一度じっと私の手を見るとそっと私の左手を手に取ってまじまじと観察しました。
「……どうしました?」
「いや、この親指の怪我が気になってな」
そうやって見るのは親指のつけね箇所。今は古傷のように痕は残りはあるものの痛みはありません。
「これは矢枕を切った痕です。弓道が初心者の人はよくこの矢を乗る場所を切ってしまうんです。私もここに来た当初はよく切って絆創膏を張っていましたね」
「……今は大丈夫なのか?」
「はい、上達すると切らなくなりましたし、痕だけは自分の勲章のようにしていますね。この痕を見る度に弱かった自分を見直すことができます」
「なるほどな。今と過去を見比べることができる重要な怪我というとこだな」
「はい。…………あの、何時まで私の手を?」
話が終わっても提督は一向に私の手を離そうとしません。それどころか私の手をにぎにぎとあっちこっちを触ってとてもくすぐったいです。
「いや、とても綺麗な手だと思ってな。指は細長いし、やわらかいし……」
「一つ間違えるとセクハラですよ?どうしたんですか提督?」
いつものようなキレのある風格とは少し違う。むしろ隙だらけのような気が……。
「ん?まあ仕事も終わったばかりで気が抜けてるんだよ。許せ」
「わかりました、許します」
でも同意を得るとなぜか提督はパッと手を離して、立ち上がって体を伸ばします。
私……少しつまらないです。
「んっ……さて、じゃあそろそろ夕食でも食いに行くか。ってんどうした天城?」
「別に、なんでもありませーん」
ツンとはねのける。ほんとにどうしたのでしょう。私も今日は私らしくありません。
でもそんな私を提督は全く気にも留めないようです。
「そっか?ならとっととシャワー浴びて来い」
「え?なんでですか?」
突然そんなことを言われて聞き返す。そしたら今度は提督が驚く番でした。
「なんでも何も……夕食を食べるからだろ」
「……私と?」
「当たり前だろ。もしかして嫌がる程さっきの怒ったか?なら素直に謝るが……」
いえ提督が謝るなんてそんな……。
ただ私がそのことを全く頭の片隅にもなかったので突然のことに頭が回っていないだけです。
「い、いえ!すみません!そうですね!すぐにシャワー浴びてきます!」
私も急いで立ち上がって横に置いてあった弓一式を元あった場所に片付けます。
あ、まだ手入れが……。明日でいいか!
1分足らずで片付けを終えて、私は駆け足で提督の横まで寄ると、二人でゆっくりと弓道場を後にしました。最後に鍵を閉めて、鎮守府までのほんの少しの距離を一緒に歩きます。まだ夏本番ではありませんが、心地よい夜風が、汗が渇いた体を吹き付けてとても気持ちいいです。
こっそりと、提督が褒めてくれたその手で提督の手を握ります。提督はその手を握り返してくれました。
気づけば、外で騒がしかった駆逐艦の子達の騒がしかった声も聞こえなくなっていました。