かつて。
一本のバットに人生を賭けていた時期があった。
僕は、僕が生まれた頃にはもうメジャーリーグに行っていた一人の日本人選手が好きで。
毎日のようにバットを振って。
毎日のように泥まみれになって。
毎日のように、ボールを追いかけていた。
体格にそれ程恵まれていたわけではなかった。
力もそれ程。
そして特別足が速いわけでも、なかった。
ただ一つだけ。
動体視力。
それだけは、非常に長けていたと思う。
守備に就くと。
バットとボールがくっ付くその瞬間には、何処にボールが飛んでくるかを判断できた。
バッターボックスに立つと。
相手ピッチャーの投球動作から、ボールが投げられるタイミングとその軌道を想定できた。
リトルリーグにいた頃に、二期連続でリーグ首位打者を取ったことが小さな誇りだったりもした。
将来。
プロ野球に挑戦するつもりだった。
どれだけ体躯に恵まれていなかろうが。
それでも身体を大きくして。
自分の才能と努力で。
いけるところまで。
その夢は断たれる。
足の靱帯回りの骨が変形する難病に罹患し、もうまともに練習すら参加できなくなったが故に。
走るごとに骨が軋む。激痛が走る。
定期的に手術を行い、何とか日常生活は送れているが。もう走る事は禁止されてしまうほどの難病であった。
それにより。
野球を断念せざるを得なかった。
何をしたかったのだろう。
自分の人生は。
才能がなくて諦められるならばよかった。
いけるところまで、いきたかった。
いけるところまで。
でも僕がいけるところはここまで。
そう病によって告げられた喪失感を。まだ自分の才能も努力も追いついていない時期に味わわされて。
そんな時だった。
ボーダーからスカウトが来たのは。
僕がスカウトされた理由は。比較的高いトリオンと、そしてその上で病気で野球を止めた過去にあるとスカウトの人が言っていた。
トリオンというエネルギーは未知な部分が多く。
その研究が進むごとに、医療に応用できるかもしれない。
その結果として──君の病気もまた治せるかもしれない、と。
僕は。
僕の人生に。僕が病にかかった事にも。
意味を与えてあげたいと、その時に思った。
ただ僕という人間に絶望を与えただけじゃなくて。
この絶望が──また次の希望に、繋がってくれるなら、と。
僕は。
ボーダーがもたらした技術により──もう一度全力で走ることが出来る体と。
そして、僕がボーダーにいることによって集められたデータが、将来に役立つかもしれないという夢と希望と。
そして、純粋に市民を守る為の正義感と。
それらを手にした。
だから。
ここにいる。
※
はい。
もうその後のお話なのですが。
アレですね。
悪ガキを納屋に叩き込む要領ですね。
容赦のない腹パンから流れるような襟掴み。まるで襟締めの如く太刀川さんの衣類を捻り上げ、そのまま風間さんは太刀川さんを訓練ブースから引き摺りだしていったのでした。まる。
何故太刀川さんが大学に行っているのか?
僕にとって七不思議と同様の謎に包まれている事象なのでした。
「おい、勝山」
「はい。どうしましたか、米屋君」
「さっき太刀川さんがいた気がするんだけど、何処にいった?」
「気になります?」
「おう」
「一緒に行きますか? ──ちなみに風間さんに連行されました」
「......南無」
「そろそろ僕等も中間テストですが、準備は進んでいますか?」
「そんなもん知らねぇ」
「知らない....」
知らないとは?
知らないとは何でしょう。
記憶がないのでしょうか。
随分と都合のいい記憶です。
「そんな事よりも大切な事がある。ここは訓練ブースだ」
「はい」
「何のためにある」
「訓練の為ですね」
「だぜ。俺達は訓練をしなければならない。だろう?」
「勉強してください」
「ちぇ」
この人もきっとアレでしょう。太刀川さんと同類の人間でしょう。
米屋陽介。
彼はA級隊員です。
ボーダー内にはランクがあります。
下から、C、B、Aと。それぞれ三段階。
C級は訓練生です。ここで訓練や個人戦を通じてポイントを積み重ね、一定の値まで行けばB級隊員となります。
B級からが正隊員です。ここではじめて給与が発生し、そして防衛任務が発生します。給与は完全出来高制です。
そして、A級。彼等は本当に一握りの隊員によって構成されます。B級隊が昇格をしA級に行くか、それともA級隊からスカウトされることでA級になります。要はA級部隊に入れれば、A級になれます。
彼はA級7位三輪隊の攻撃手です。
A級になれば様々な特権が得られる事が出来るようで。
既存の武装をチューンナップし、自身の適正に合わせて戦うことが出来ます。
そんな彼は。
弧月を改造し、槍型にして戦っております。
戦いが楽しくて楽しくて仕方がないのでしょう。訓練ブースで一日見かけない日はほとんどない位に。
僕も個人戦は大好きなのですが、この方のそれは本当に筋金入りです。
「そんなお前は大丈夫なのかよ」
「大丈夫ではないので、こつこつ日々勉強しているんです」
「俺とは違うな!」
「勉強してください」
ボーダー提携校で隊員が留年の憂き目に遭うなど、根付さん辺りが大いに頭を抱える案件だろう。あの人多分毎日胃痛で死にかけているでしょうから、これ以上悩みの種を増やさないでいてあげて下さい。
ちなみに僕の成績は、そこそこまあまあといったところ。別段文句は言われない成績をキープしております。
「──でさ」
「はい」
「今年の新人、見たか?」
「噂には聞いていますね。本当に凄いと」
確か。
木虎という名前の女性隊員が久しぶりの逸材だと。すんごく嬉しそうに嵐山さんが大はしゃぎしていた覚えがある。彼女は確か、つい先日B級に上がったと聞きました
「毎年入ってくる隊員のレベルが高いですね。僕が入隊した時期ですと、奈良坂君や歌川君、照屋さんが大いに目立っていましたし」
「新人王争いめちゃくちゃ盛り上がってたなぁ、あの時」
「僕は蚊帳の外でしたね」
「お前がB級に昇格したの、結構後だったもんな」
はい。
そうなのです。
僕は今の戦い方を定着させるまで、割と長い期間下積みを続けてきました。
最初のうちの僕はハウンドや射撃トリガー持ちの方々のいいカモでした。C級時代の労苦を思い浮かべると、シールドが存在する今の環境のありがたさが身に沁みます。
B級以上はメイン・サブ合わせて八つのトリガーを持てますが、C級は一つのみ。弧月を装備すれば、それ一本で戦い抜かなければなりません。当初の僕は、弾幕を避けながら相手に肉薄する手段を持っていませんでした。
ただ。
その労苦があったからこそ、可能な限りシールドを使用せずに射手・銃手に肉薄する思考する癖が身に付きましたので、無駄とは思わないのですが。
「新人.....まあ普通正隊員になってから一年もたっていない僕なんて本来ならまだ新人の括りでしょうけど」
「出来てからまだ数年しかたっていない組織だしな、ボーダー」
ボーダーは三年前の近界民による大規模侵攻から発足した組織です。
その歴史の浅さたるや新興ベンチャー企業もかくやとばかりであり、たった数年でここまで巨大組織となった訳です。何処からお金を引っ張ってきているのでしょう。一時期ここは本当に悪の組織ではないのかなどと好き勝手C級で噂が立っていたのを思い出します。
「お前これからどーするの?」
「訓練ブースをぶらぶらして、ちょっと本部の技術室に行って、夕方から防衛任務ですね」
「お、防衛任務。今回お前はどこと組むの?」
防衛任務は基本的に隊ごとに行います。
どの隊にも所属していない僕は、自然とどこかしらの隊に組み込まれて行う事となります。
「今日は照屋さんにお呼ばれしまして、柿崎隊ですね」
「お。同期からのお誘い」
「はい。同期からの誘いです」
照屋文香。
全く同じ日に入隊した、一つ年下の同期です。
彼女は、こう、何というか。
お嬢様として培った教養と、生まれながらに持っている行動力とバイタリティで物事を大いに推進させる能力の凄まじさが合わさり、多分無敵なんだろうなぁと。そんな風に思っていました。
かつて。
B級に上がったらどうするか、という話題があり。
僕は暫く個人戦で腕を磨くつもりだ、と伝えたら。
彼女は──柿崎先輩が結成する隊に入隊するつもりだ、と自信たっぷりに言っていた。
そして彼女はとんとん拍子にB級に上がると、実に当然のように柿崎隊に入隊したというではありませんか。
ちなみに。柿崎先輩とは全く面識がなかったにもかかわらず入隊理由が「支え甲斐がありそうだから」。肝が据わっているとか、そういう次元のお話を綺麗にかっ飛ばした怪物の如きメンタリティを誇る女性です。
憧れか好意か、それは多分まだ本人も解っていないのでしょうけど。
本当にとんでもない人でした。
何だか妙に気が合い、よくよく個人戦にも付き合ってもらっていました。その意味では本当に感謝している人の一人です。
「それじゃあ、また今度」
「おうよ。俺もこれから個人戦の約束があるから」
さて。
どうしたもの、と僕は個人戦ブースを見て回ります。
「──あ」
丁度ブースから。
一人の女性が出てきました。
確か、あの方が──最近噂の怪物新人の木虎さんでしょうか。
ブースから出てきたものの、少し憮然とした表情を浮かべています。
どうしたのでしょうか?
対戦ブースから、別な人が出てきます。
「あ、歌川君」
「お久しぶりです。勝山先輩」
そこには。
同期の歌川君の姿がありました。
「個人戦ブースに来るの、珍しいですね」
「割と来てますよ?」
「ほら。風間隊はよくよく上から仕事を振られるじゃないですか。──ところで、今戦っていたのって」
「ええ。最近噂の新人の銃手です」
「木虎さんですね」
「はい。──強かったですよ。こちらも、三本取られました」
「歌川君からですか? それは凄い!」
歌川遼。
彼は現在A級3位部隊である風間隊所属の万能手です。
カメレオンと呼ばれる隠蔽トリガーを用いた近接戦が主体の隊であり、その一員である歌川君もまた相当な実力を持った人材の一人です。
そんな中三本を取ったという。
新人という枠を取っ払ってなお、素晴らしい成果です。
「──何も凄くはありません」
その何気ない会話が。
気に入らなかったのだろう。
「──負けたんですから」
木虎藍は実に悔し気な表情を浮かべ。
その場を去っていった。
それでも。
「凄いですね」
「ええ」
かける言葉は変わらない。
この状況で悔しさを味わえる負けん気が。
やはり凄いと。
そう思えるのでした。
※
僕は自身の身体のデータを、定期的に技術室へと提出します。
トリオン研究の一環として、トリオンを使用していることで、難病を患っている僕の肉体がどう変化しているのかを技術室が調査しているからです。
月に一回程度。
難病とはいえ、別段命に係わる事でもありませんし。
調査をするには、かなりお手軽なサンプルだったとの事です。
「あら。こんにちは、勝山君」
丁度。
同い年のB級隊員の方も技術室に来ていたようです。
「こんにちは、那須さん。あ、サンプルデータの提出ですか」
「うん。勝山君もそうみたいね」
那須玲。
B級那須隊の隊長を務める、大変整った顔立ちをされている方です。
彼女もまた、病を患っている方です。
僕の場合は歩行に障害が出ているだけで、日常生活を送る分にはさほど問題はありませんが──彼女の場合、本来ベッドから出る事すらとても困難な程に病弱な身体を抱えている。
それ故に、トリオンを応用しての医療研究の為に入隊したという、僕とかなり似通った経緯でボーダーに入ったという事です。
「身体の調子はどうですか?」
「単純に、気力が湧いてきている分だけ元気になっている気がするわ」
「隊を作ったからですね。順位も中位まで上がってきましたし、これからですね」
「うん」
那須さんはニコリと微笑みながら、そう言う。
以前は割とクールな方だと思っていたのですが。
この人は基本的に、チームメイトの話をしている時には割と表情を崩すのだな、という事が最近解ってきました。
「あ。あとこの前くまちゃんから貰った桃缶。あれ、勝山君からって言ってたわ」
「はい」
僕の地元は桃が名産でして。桃を加工した商品が非常に豊富なのです。
その事を、彼女のチームメイトである熊谷さんに話した後、何故か桃ではなく桃缶を非常に欲しがっていましたので、両親に頼んで送ってもらいそのまま手渡したのです。
成程。
那須さんは桃缶が好きなのか。
「私、桃缶好きなの。ありがとう」
「よかったです。それなら、また送ってもらって、熊谷さんにお渡ししますね」
人は。
好きなものを話すとき。
表情が朗らかに崩れる。
それを見ることが出来たので。
今日は、いい日になりそうです。