34話『理想の行方』でC.C.はGPS機能付きの携帯を持っていると書きましたが、ルルーシュがC.C.の携帯に(本人了承済みで)発信器をつけたと設定を変更しました。該当箇所は既に修正済みです。
シャーリーが街中で車椅子から落ちて蹲っているナナリーを見つけたのはただの偶然だった。
そもそもシャーリーは会長にランペルージ兄妹の事情の一部を聞いてから今日まで、自宅にひたすら引きこもっていた。会長から一般人である自分にできる事はない。だからいまは心の整理をつける事だけに集中してルルーシュの事は任せろと言われたからだ。
しかし今日に限って外出していたのは、心の整理なんてものがそう簡単につくはずもなく、気分を変えようと思ったから。
それなのに足は無意識にルルーシュがいるかもしれない政庁に向かい、それに気付いて方向を変えあてどもなく歩いていたら凄い音が聞こえ、横転している車椅子と女の子を慌てて助けたら、その人物がたまたまナナリーだったのだ。
彼女を見て最初にシャーリーが思ったのは、どうしてこんなところに? という疑問だった。
ナナリーはルルーシュと共に学園を出ており、会長ですらどこにいるかは知らないと言っていた。それなのになぜ、無防備にこんなにも目立つ公道にたった一人でいるのか。
しかしそんな事を訊いている場合じゃないのは目の前の状況からも明らかであり、まずは身体の具合を訊ねたシャーリーだったが、ナナリーは自分の身体の事などどうでもいいとばかりに、政庁へ連れて行ってほしいと訴えてくる。
早く兄のもとへ行かなければいけない。お願いだから政庁へ向かってくれと、その姿は鬼気迫るものだった。
いつもとはまるで違う切羽詰まったナナリーの様子から何かがあった事を悟り、しかし言われた通りに政庁へ連れて行く事が正しいとも思えず、ひとまずシャーリーは興奮するナナリーを宥めながら自分の家へと連れ帰った。
幸いと言っていいのか母は外出しており、リビングに通したナナリーの傷の手当てをして、その間にいくらか落ち着いてくれた彼女に紅茶を差し出す。
「どう? 怪我はもう痛くない?」
「はい。ありがとうございました、助けていただいて……」
改めて謝辞を述べ、頭を下げるナナリー。
その姿にシャーリーはルルーシュが彼女を溺愛する理由が分かる気がした。
たとえどんな状況でも厚意を受けたら感謝を忘れない。会長から聞いたような境遇で育ったとは思えない、とても心優しい子だ。
「でも私、ゆっくりしてる時間がなくて! すぐにでもお兄様のところへ行かなくちゃいけないんです!」
「うん、分かってるよ」
道中も散々聞いた言葉にシャーリーは頷く。
彼女が口にした内容から察するに、既にナナリーは兄であるルルーシュが軍に捕まった事を知っているようだった。唯一の肉親のピンチにナナリーが取り乱すのは当然で、すぐに兄のもとに駆けつけたいと考えるのも自然な事だ。
「でもその前に、訊いても良いかな? ルルが政庁にいるって、誰に聞いたの?」
「それは……」
10日ほど前にルルーシュとナナリーは学園から姿を消した。そして3日前、ルルーシュは軍人に捕まった。
ならルルーシュのいなかった3日間、ナナリーはどこでどんな風に過ごしていたのか。
目と足が不自由なナナリーは、一人では日常生活も困難なはずだ。しかしシャーリーが見た限りにおいて、精神的なものは別としてナナリーに異常は見られない。つまりこの3日、ルルーシュがいなくとも食事が食べられなかったりお風呂に入れなかった、という事はないはずだ。
ならルルーシュ以外にナナリーを世話していた人が必ずいる。
それが黒の騎士団の人なのか、それともテロリストとは全く関係のない知り合いなのかは分からないけれど。
「えっと、ごめんなさい。言えないんです……」
申し訳なさそうに顔を曇らせながら、身を小さくしてナナリーは答える。
言えないという事は、黒の騎士団の関係者なのかもしれないと考えて、シャーリーは質問を続ける。
「その人はナナちゃんやルルの味方なの?」
「はい。子供の頃からのお友達なんです」
その言葉にシャーリーは驚く。
ミレイの話から、ルルーシュとナナリーには長く付き合いのある友人などいないのだろうと勝手に思い込んでいたからだ。
世話をしてくれたのがそういう知り合いなら、黒の騎士団の団員というわけでもないのだろう。もしかしたら会長のように二人の事情を知る友人なのかもしれない。
「ねぇナナちゃん。会長から聞いたんだけど、ルルとナナちゃんって本国から隠れて暮らしてるんだよね?」
シャーリーが問うと、ナナリーはビクッと肩を震わせた。
「あの……ごめんなさい。騙すような真似をしてしまって……」
「ううん。こっちの方こそ勝手に聞いちゃってごめんね。知られたくない事だったんだよね?」
「いえ、そんな……」
罪悪感に身体を小さくさせるナナリー。
彼女の境遇を思えば仕方ない事だと分かるのに、割り切る事も開き直る事もできていないようだった。この辺りはふてぶてしいルルーシュとは真逆だな、と頭の隅でシャーリーは思う。
「詳しい事情までは聞いてないからどうしてそんな事になってるのかは知らないんだけど、それでも聞いた限りだと、ナナちゃんが政庁に行くのは危ないんじゃないかな?」
遠回しにシャーリーはナナリーの浅慮を指摘する。
ルルーシュがゼロだという事を彼女が知っているかは分からない。しかしミレイから聞いた情報だけでも、彼女が政庁を訪れるのは鴨が葱を背負って行くようなものだろう。ルルーシュがそれを望んでいるとは思えない。
しかしできるかぎり気を遣った彼女の言い回しも、いまのナナリーには鬼門だった。
「でも、お兄様が捕まってしまったんです! このままじゃお兄様が大変な目に遭ってしまうかもしれません! だから……だから私が、お兄様を――!」
「落ち着いてナナちゃん。分かってる。分かってるから」
取り乱して叫ぶナナリーに慌てて近付き、手を取って安心させるようにそっと握る。
「ルルが心配なのは私も同じ。だから落ち着いて。ね?」
優しく微笑みかけると、それが見えているわけではないだろうが、シャーリーの気遣う気配を感じ取ったナナリーは息を乱しながらも暴れる事をやめる。
「でもナナちゃんがルルを心配してるのと同じくらい、ルルだってナナちゃんを心配してるはずだよ。だってルルは、ナナちゃんの事が大好きなんだから」
冷静になってもらうためにシャーリーは分かり切った当たり前の事実を口にする。
しかしナナリーから返ってきたのは安心でも肯定でもなかった。
「そう、なんでしょうか……?」
「……ナナちゃん?」
不安げに顔を俯かせるナナリーに戸惑う。
自分のどんな言葉が彼女をそんなにも不安にさせたのか、シャーリーには分からなかった。
「本当にお兄様は、私の事を心配してくださってるんでしょうか?」
膝の上の手をスカートごとギュッと握り込んで、ナナリーはシャーリーが口にした言葉を繰り返す。
それはシャーリーが予想もしていなかった言葉だった。
少なくともシャーリーにとって、いや――少しでもルルーシュを知っている者にとって、彼が妹を何より大切にしている事など確認するまでもない当たり前の事実だ。ミレイやリヴァルはもちろん、アッシュフォードに通う大して話した事もない女生徒に聞いても、きっと同じ答えが返ってくるだろう。
質の悪い冗談にも思える発言にマジマジとナナリーを見つめるが、いままで見た事もないほど顔色を失う少女の姿は、とてもふざけているものではない。
ゴクリと唾を呑み込み、シャーリーはさっきまで座っていた椅子をナナリーの隣まで持ってくる。
寄り添うようにそれに腰掛け、意を決して彼女の心に踏み込む問いを口にした。
「何がそんなに不安なの?」
安易な否定はせず優しく問い掛けると、ナナリーは表情を険しくして、さらに強く手を握り込んだ。
すぐに答えは返ってこない。
何度も迷い、口にする事を恐れるような態度で口ごもり、しばらくしてようやく消え入りそうな声量で、ナナリーは胸の内の不安を零す。
「お兄様は……ずっと私に大切な事を隠していました。それに最近は、私の事を避けていて……」
大切な事、それがなんなのかシャーリーには思い当たる節があった。
しかしいまは口を挟む時ではないと、無言でナナリーの言葉に耳を傾ける。
「そんな事あるわけないって、本当は分かっているんです。お兄様はいつだって私の事を一番に考えて、大切にしてくれます。隠し事をしていたのも私のためで、いましている事だって口ではなんと言っていても、きっと私の事を思ってしてくれているはずなんだって……!」
抑えきれない気持ちが溢れ出るように、ナナリーの声はどんどんと大きくなっていた。
きっとそれは、彼女がずっと言葉にできず溜め込んでいた不安だったのだろう。
いままでなんでも相談できた兄にも打ち明けられず、かといって誰かに言う事もできず、ひたすら自分の中で否定し続ける事しかできなかった思い。
それは一度吐き出してしまえばもう留める事はできず、まるで罅割れた殻を破るようにナナリーは声を張り上げる。
「でも……! やめてほしいって頼んでも、お兄様はやめてくれませんでした! いままでそんな事なかったのに……! 私はただ、お兄様に危ない事なんてしてほしくないだけなのに!」
車椅子から身を乗り出し、肘掛けの部分にあったシャーリーの腕を掴みながらナナリーは頑是ない子供のように言い募る。
「どうしてですか? 私はお兄様が心配で、だから、傍にいてくれればそれだけで良かったのに! お兄様はそれだけでは――私だけではダメなんですか!?」
開く事のないナナリーの瞼から涙が零れ落ちる。
ルルーシュから真相を聞かされた時から、胸の内に燻っていた不満。
自分自身でも気付いていなかった、兄が自分ではなく戦いを選んだ事に対する怒りと悲しみ。
それをもうナナリーは抑えている事ができなかった。
「お母様がいなくなって、私にはもうお兄様しかいません! お兄様だけなんです! お兄様がいなくなってしまったら…………私は……わたしは、一人ぼっちです……!」
シャーリーが痛みを感じるほどに、ナナリーは彼女の腕を強く握り締める。
その様は怒りに震えるのではなく、縋りつくような必死さがあった。
「一人ぼっちで、私はどうしたらいいんですか? 目も見えず、足も動かないこの身体で、どうやって暮らしていけばいいんですか? いえ……そんな事はどうでもいいんです。足も目も、私には必要ありません。私にはお兄様だけでいいんです。お兄様がいない世界なんて――――そんなの、耐えられません……!」
わずかにでも想像したくないとばかりに、ナナリーは悲痛に表情を歪ませる。
その姿はあまりに痛々しく、意図せずシャーリーの口から彼女の名前が零れた。
「ナナちゃん……」
「でも……お兄様は違います。お兄様には、私以外にもきっと大切なものがいっぱいあって……」
「そんな事ないよ。ルルはナナちゃんのこと――」
「ならどうしてお兄様は私のお願いを聞いてはくれないんですか!?」
否定しようとしたシャーリーを遮って、ヒステリックにナナリーは叫ぶ。
唇を噛み、大粒の涙を流し、扱いきれない思いを持て余して。
あの時――兄が真実を話してくれた時、兄が嘘をついていた事を私は詰った。
何も相談せず、教える事すらしてくれずに私を騙したお兄様が許せなくて。
でも本当は、違うのだ。
ゼロであった事を隠していた事も、嘘をつかないという約束を破った事も、どうでもいい。
ただ私にとってのお兄様のように。お兄様にとっての私が一番ではなかった事が、悲しかっただけなのだ。
「……怖いんです。このままお兄様がどこか遠いところに――私の手の届かないところに行ってしまうんじゃないかって。……不安なんです。私の知らないところで、お兄様は傷付いて、血を流しているんじゃないかって……」
兄がゼロだと知ってから、ナナリーはずっと恐怖に耐えていた。
兄とのぎこちない関係に寂しさを覚えながら、兄の行いに拒否感を抱きながら、それでも考えずにはいられなかった。
――もしかしたら、兄はもう自分のもとに帰ってこないのではないか、と。
それは
そんな未来を思い浮かべただけで、ナナリーは目が見えなくなった時よりも、ずっと暗くて深い絶望に叩き落とされる。
それでも力のない自分は、気が狂いそうになる悪い想像に怯えながら、一人で兄の帰りを待つ事しかできないのだ。
「ついこの間までは、いつも一緒にいてくれたのに。どうして、お兄様は……」
普段のナナリーからは考えられない、兄を責めるような言葉が零れ落ちる。
しかしそれもすぐに寂しげな表情へと形を変える。
「でも、それも当たり前なのかもしれませんね。お兄様は必死に戦っているのに、私はなんの力にもなれないんですから。お兄様のお手伝いをするどころか、教えられた事にただ戸惑って、否定するばっかりで……。こんな不出来な妹、お兄様が嫌いになってしまうのも当然です」
「そんな事ないよ! ルルは何があったって、ナナちゃんを嫌いになったりしないよ! 絶対に!」
「ですが私は、これまでお兄様がどんな思いで過ごされてきたのか、そんな事にも頭が回りませんでした。私はずっと、お兄様と一緒だったのに……!」
悔いるように顔を俯け、己の浅慮を恥じるナナリー。
兄がテロ組織を作って戦おうとするほどにブリタニアを憎んでいた事に、ゼロだと告白されるまで自分は気付きもしなかった。
兄はいつも自分の事を分かってくれていたのに。
悲しい時は何があったとすぐに聞いてくれて、寂しい時は手を握ってくれた。
――なのに、私は……。
これまでの己を振り返って、ナナリーは自分を責める。
だがそれは、仕方のない事でもあった。
ルルーシュは自分の思いを、妹にだけは悟られないようにと隠していたのだから。
気付けなかった事をナナリーが悔いる理由は本来なく、これに関しては隠し通したルルーシュを褒めるか、もしくは腹の内を秘匿し続けたルルーシュを責めるのが正しい在り方といえる。
しかし兄がいなくなった事で心の安定を失ったナナリーには、いまのこの状況すら愚かな自分に下された罰のように感じられた。
「きっとお兄様が捕まってしまったのは、私のせいなんです。……私がお兄様の事を理解して差し上げられていれば、こんな事には……」
力なく項垂れるナナリーの頬を涙が零れ落ちていく。
いつも穏やかに微笑んでいた少女のそんな姿に、シャーリーは言葉が出てこなかった。
冷静に考えれば、ナナリーの言っている事は滅茶苦茶だと分かる。
二人の間にどんなやり取りがあったのかは知らないが、妹第一のルルーシュがナナリーの事を大切に思っていないわけがないし、彼が捕まってしまったところもシャーリーは目の当たりにしており、そこにナナリーの責任などない事も知っている。
混乱して思いだけが先行した彼女の言葉はまるで筋が通っておらず、自身を責めるためだけに理由をこじつけた責任転嫁のようなものだ。
しかしシャーリーには、その気持ちが痛いほど理解できた。
気持ちが暴走して、自分の事が嫌いになって殻に閉じこもってしまうその姿は、父が死んだ時の自分そのものだったから。
「ナナちゃんは……知ってるんだね。ルルがやってる事」
その一言に、ハッとナナリーは顔を上げた。
そしてようやく気付いたようだった。目の前にいるのが、兄によって身内を亡くした人だという事に。
「あの……ごめんなさい。わたし……お兄様が、お兄様のせいで……シャーリーさんの、お父様は……」
動揺して上手く言葉が出て来ない様子のナナリーに、シャーリーは優しく「大丈夫だよ」と伝える。
そして彼女の涙をそっと拭った。
「ナナちゃん」
自分の手をもう一度ナナリーの手に重ねながら、名前を呼ぶ。
「私ね、何も知らなかったんだ」
「えっ……?」
「ルルの事もナナちゃんの事も。自分が暮らしてる国の事も。全部」
戸惑うようなナナリーに構わず話を続ける。
兄の事が大好きで、でも兄の事を信用できなくなってしまった彼女に伝えるべき言葉を、シャーリーは未だに見つけられていなかった。
だから彼女は、ただ自分の思いを語る事にした。
「ルルからお父さんがどうして死ななきゃいけなかったのか聞いて。なんのために戦ってるのか聞いて。そして会長から二人の事やブリタニアって国の事を教えてもらって」
ここ数週間の間で、シャーリーはどれだけ自分が小さな世界で生きてきたかを知った。
そしてどれだけ自分が恵まれていて、その裏でどれだけ人が傷付いているのかも。
しかし――
「それでも全然分からなかった。だって誰も、間違ってるなんて思えなかったから……」
死んでしまった父も。
「ルルね。私に願いが叶った後なら殺されても良いって、そう言ったんだ」
「っ……!」
息を呑む音が聞こえた。
重ねた手から伝わる震えに、ナナリーも同じ気持ちを共有している事を感じ取って、シャーリーもとうとう堪えていた涙を零した。
「どうして……こんな風になっちゃうんだろうね。ルルもナナちゃんも、悪い事なんて何もしてないのに……つらい事ばっかりで。ただ普通に笑っていられれば、それだけでいいのに。お父さんだって……」
それはきっと、世界が理不尽で不条理なものだから。
そしてそれを変えるためには、誰かが傷付かなくてはならないから。
ルルーシュがゼロとして戦っている事情の一端を知っている二人は、明確に言葉にできなくともそれを朧げに理解していた。
しかし理解はしていても、受けいれられるかは別問題だった。
「シャーリーさんは……お兄様が間違ってないと思われるんですか?」
訊くのを躊躇う気配の後、ナナリーが震える声で問い掛けてくる。
シャーリーは頬を伝う涙を拭いながら答えた。
「それもね、分からないんだ。ルルの気持ちも、どうして戦い始めたのかも知って、でもお父さんを殺した事だけは許せないの。ルルのした事が間違ってなかったとしても、それだけは……」
自身の中に残る昏い衝動。それはルルーシュがゼロになった事情を聞いても消えてはくれなかった。
しかし彼女の抱く思いは、それだけでもなかった。
「……なのに、許したいとも思ってる。これっておかしいかな?」
不器用な笑みを浮かべ、矛盾した思いをシャーリーは打ち明ける。
許せないのに、許したい。
相反する心の在り様を聞かされ、ナナリーはブンブンと勢い良く何度も首を振った。
「そんな事ありません。私は――私だって同じです」
シャーリーの問いを否定するナナリーの手が、車椅子の肘掛けを強く握り締める。
そして小さな身体には収まり切らない思いを形にするように、ナナリーは必死に言葉を紡いだ。
「何があったって、私だけはお兄様の味方でいたい。そう思ってるのに、お兄様が誰かを傷付けたり危ない目に遭ったりするのを受け入れられないんです。私の言葉が、私の態度が、お兄様を苦しめているのが分かっているのに……どうしても、ダメなんです」
兄の助けになりたいと思う気持ちを、兄を心配する心がせき止める。
そんな矛盾した在り方をもどかしく感じるのに、自分自身でもどうしようもなくて。何も言えず、何もできない事がつらくてたまらない。
初めて知った強い感情と心の矛盾に翻弄され、ナナリーはもう自分でもどうしていいのか分からなくなっていた。
「でも、でも……!」
それでも、分かる事がたった一つだけある。
「誰かを傷付けていても、殺めていたとしても、それでも――お兄様には無事でいてほしいんです」
それだけが間違いようのない本心だった。
口にした途端、また瞼から涙が溢れ出してくる。
止まる事のない涙が頬を伝い椅子に落ちる中、額に何か温かいものが触れる。
同じ形をしたそれは、シャーリーの額だった。
「私も、同じ気持ちだよ……!」
「シャーリーさん……」
腕に雫が落ちる。
でもそれは自分の涙ではなかった。
シャーリーも泣いているのだと気付いて、なぜかさらに涙が溢れた。
すぐ傍に同じ思いを共有してくれる人がいる。
その事に理由のない安堵を感じながら、ナナリーはシャーリーと額をくっつけたまま泣き続けた。
二人の少女が泣き止み、気まずい雰囲気を払拭するために温かいミルクを飲み終えて一息ついた頃。
それを見計らったかのようなタイミングでシャーリーの家のインターホンが鳴った。
「誰かな? お母さんはまだ帰ってこないはずだけど……」
小首をかしげながら、シャーリーが玄関へと向かう。
玄関口のカメラで相手を確認すると、そこには妙齢の女性が立っていた。
黒髪で眼鏡を掛けた、いかにもキャリアウーマン然とした女性だ。
見覚えはなかったが母の知り合いかもしれないと、シャーリーは扉を開けて来客を出迎える。
「こんにちは。どちら様ですか?」
「シャーリー・フェネットだな?」
「えっ? そ、そうですけど……」
挨拶もなくいきなり名前を呼ばれ、戸惑いながらシャーリーは頷く。
女性はそんなシャーリーの様子には頓着せず、単刀直入に用件を切り出した。
「ナナリーを迎えに来た。ここにいるのだろう?」
「な、ナナちゃんですか? えっと、それは……」
調べはついていると言わんばかりの口調に、シャーリーは即答できず言いよどむ。
ルルーシュが軍に捕まり、ナナリーも身を隠している事から、知らない相手に迂闊な事は口にできないと考えたためだ。
どうにかして誤魔化せないかとシャーリーが逡巡している内に、背後から車椅子の音が近付いてくる。
「その声、C.C.さんですか?」
親しみを感じさせるナナリーの声。
彼女の姿を見て目の前の――C.C.と呼ばれた女性はわずかに安堵したように息を吐く。
「やはりここにいたか。ナナリー」
「ナナちゃん、知り合いの人?」
シャーリーが振り向いて訊ねると、ナナリーは迷わず頷いた。
「はい。その……学園を出てからお世話になっている、お兄様のお友達です」
「そう、なんだ……」
含みのあるナナリーの言い方に、シャーリーはおそらく黒の騎士団の人なのだろうと当たりをつける。
ナナリーが玄関まで来ると、女性はしゃがみ込んで彼女の手を取り、真っ先に謝罪の言葉を口にした。
「ナナリー、すまなかったな。お前が出て行った理由には見当がついている。ちゃんと話がしたいから、一緒に家へ帰ろう」
「いえ……私のほうこそあんなに注意をされていたのに、勝手に出て行ってごめんなさい。ご迷惑を……掛けてしまいましたよね?」
眉を下げ、不安そうにナナリーが問う。
しかし女性は首を振って彼女の懸念を否定した。
「気にするな。こうして何もなかったならそれで充分だ。まぁスザクは面白いくらいに慌てていたがな」
「やっぱりご迷惑を……」
「だがそれも何も話さなかった私とあいつの自業自得だ。お前が気にする事じゃないさ」
罪悪感に囚われそうになるナナリーを女性は軽い口調で慰める。
そのやり取りを見ているだけで、シャーリーには二人が親しい間柄である事が感じ取れた。
女性はナナリーとの話が終わると、立ち上がって再びこちらへ視線を向ける。
「ナナリーが世話になったな。礼を言う」
「そんなお礼なんて……。えっと、あなたはルルの?」
通りかかった人が聞いているかもしれない玄関先でまさか黒の騎士団の人ですか? なんて訊ねられず、シャーリーは曖昧に言葉を濁して問い掛ける。
その意図は女性にも伝わったのだろう。
軽く頷いて彼女はそれを中途半端に肯定した。
「お前が想像しているものとは少し違うかもしれないが、まぁ似たようなものだ」
「似たようなもの……?」
どういう事だろうとは思うものの、女性はシャーリーの疑問に答えるつもりはないのか、すぐに話題を変えた。
「ある程度の事情はルルーシュから聞いていると思うが、もし軍や他の何者かから今回の事を聞かれたなら、街でたまたま会った知り合いが困っていたようだから助けたとだけ説明しろ。そして迎えが来たから返したとな。私の外見や名前については隠したりする必要はない。ただお前はルルーシュについても私についても何も知らない。いいな?」
有無を言わせない口調に、シャーリーは言われるがままにコクコクと頷く。
すらすらと必要な事を話す女性は明らかにこういう事態に慣れており、住んでいる世界が違う事を如実に感じさせられる。
「ではナナリー、もう帰るとしようか。あまり遅いと、心配しすぎてスザクまで迎えに来てしまうかもしれないからな」
「あっ、はい。そうですよね」
女性に促されてナナリーが頷く。
車椅子を操作して身体をこちらに向けると、ナナリーは改めて頭を下げた。
「シャーリーさん。色々とご迷惑をお掛けしてしまってごめんなさい。それから……ありがとうございました。シャーリーさんに助けていただけて、本当に良かったです」
顔を上げたナナリーには零れんばかりの笑顔が浮かんでいた。
だがシャーリーには自分が彼女に対して何かできたとは到底思えなかった。むしろ一緒に泣いてしまって情けないとすら思う。
ただそれでも、沈んだ顔でこの家に招き入れた彼女が笑顔で帰って行く。その姿を見られただけで、彼女を連れてきた事は無駄じゃなかったのだと思えて嬉しかった。
「ううん、私こそ。ナナちゃんと話せて、少しだけ気持ちに整理がついたよ。ありがとね」
お礼にお礼で返し、シャーリーもまた笑顔を返す。
女性がナナリーの車椅子を後ろに回って、二人は背を向ける。
そのまま帰ろうとする女性を、シャーリーは意を決して呼び止めた。
「あの!」
足を止め、女性が首だけで振り返る。
「一つだけ、訊いてもいいですか?」
女性は答えなかった。
ただそのまま立ち去る事もせず、無言でシャーリーの言葉を待っている。
シャーリーは一度深く息を吐きだし、心の迷いを振り切る。
「ルルは、大丈夫ですよね?」
たったそれだけの質問を口にするのに、とてつもない勇気が必要だった。
ナナリーにも話した通り、シャーリーはまだ
許したいとは思っていても、父親を殺された事に心の整理はついてない。
もしかしたら結局許せずに、自分は彼と再会した時にまた憎しみをぶつけてしまうかもしれない。
しかしそれでも――このまま二度と会えないなんて嫌だから。
たとえ許せなかったとしても、もう一度会って、ちゃんと話したいから。
彼の無事を祈ってシャーリーは問い掛ける。
「心配するな」
返ってきたのはそんな簡素な一言だった。
しかし言葉数に反して、真っ直ぐ視線を合わせて話してくれるC.C.という女性からは、適当な気休めを言ってはぐらかそうとしている気配は感じられない。
ナナリーの肩に手を置き、シャーリーだけではなく彼女にも向けて女性ははっきりと断言した。
「あいつは必ず、私達が助け出す」
その宣言は特段力強くも、決意を感じさせるものでもなかった。
それどころかどこか事務的で、あっさりとしたものだった。
でも、だからこそだろうか。
まるで決定した事実を告げているような安心感があった。
女性はそれ以上言葉を重ねず、ナナリーの車椅子を押して去って行く。
その後ろ姿を見送りながら、シャーリーは想い人の無事を祈った。
いまだけは、恨みも憎しみも胸の中に押し込めて。
C.C.がナナリーを迎えに行くより少し前、スザクはようやく目を覚ました。
「ナナリー!」
自分の叫びと共に目覚めたスザクの視界は、まるで一面の雪景色でも見たように真っ白だった。
起きたばかりでいきなり遭遇した訳の分からない現象にスザクは混乱するが、鼻息でわずかに下側の視界に色がつく事から、自分の顔に何かが張られている事実に気付く。
反射的にそれを乱暴に引き剥がし、肌に張りついていたテープが剥がれる痛みに涙を滲ませながら、スザクは手の中にある何かが書かれている紙を見た。
『起きたらまず私に連絡しろ。ナナリーの捜索状況を教えてやる。C.C.』
ぐしゃりと、読んだ瞬間にはメモを握り潰していた。
同時に自分が眠る前に何をされたかを思い出し沸々と怒りが湧き上がるが、いまは個人的な感情に振り回されている場合ではない。
一刻も早くナナリーを捜して連れ戻さなきゃいけない。
その一心で隠れ家を飛び出してしまいそうになる気持ちを必死に抑えつけ、スザクは携帯を取り出す。
時間を確認すると、自分が眠ってから既に二時間ほど経っていた。
これだけ時間が経過してしまえば、闇雲にナナリーを捜したところで見つけられるはずもなく、彼女を見つけるための最善手がC.C.に連絡を取る事だというのは大して頭の良くないスザクにも理解できた。感情論を抜きに考えればの話ではあるが。
「っ……」
迷いは一瞬。
スザクは自分を撃ったC.C.の番号に電話を掛ける。
『もしもし』
『ナナリーは見つかった?』
挨拶をする時間すら惜しいと、スザクはナナリーの所在を訊ねる。
電話越しのC.C.はそんなスザクの態度に不快感もないようで、いつも通りの声で納得を口にする。
『思ったより早く目が覚めたようだな。だがまぁ、ちょうどいいタイミングだ』
質問に答えるでもなく、撃った事に対する謝罪をするでもなく、マイペースにスザクには意味の分からない事を語るC.C.。
焦るスザクは苛立ちながらも、なんとか感情を抑えて再度問うた。
『答えてC.C.。ナナリーは見つかったの?』
『それよりまず私の質問が先だ。シャーリーとかいう娘の住所を教えろ』
『は?』
まさかの質問返しにスザクは間抜けな声を上げてしまう。
しかも内容はナナリーとはなんの関係もない少女の事だ。訳が分からずスザクは衝動的に怒鳴った。
『何言ってるのさ! そんな事どうでもいいからナナリーの――』
『どうでもいいかは私が決める。早く答えろ。こうして無駄な問答をしてる間も貴重な時間は浪費されてるんだぞ』
『だったら――』
『お前が答えない限り、私がお前の求める情報を口にする事はない』
『っ……!』
いくら怒鳴ろうとまるで怯まないC.C.の脅しに、スザクは唇を噛む。
こういう時、我儘な彼女が梃子でも譲らない事は短い付き合いでスザクも理解していた。
押し問答は時間の無駄だと諦め、スザクは仕方なくルルーシュが彼女に会う時に念のため聞いていたシャーリーという女の子の住所をC.C.に伝える。
『なるほどな。良く憶えていたものだ。お前にしては上出来だよ』
『なら早く教えて。ナナリーは無事? 見つけられたの?』
『とりあえずは無事だ。ブリタニアに捕まった様子はない』
『本当!?』
『ああ、間違いない』
迷わず断言するC.C.の言葉に、スザクは心底安堵して深く息を吐き出す。
『良かった……本当に……』
『おそらくあと2時間もあれば戻れる。緊急時には呼び出すから、お前はそこで待っていろ』
『2時間? どうしてそんなに? というか、ナナリーは一緒じゃないの?』
『いいか。大人しくしていろ。決して不用意に外に出るな』
『そんな事が聞きたいんじゃない! 教えてC.C.! ナナリーはいまどこに――』
『ナナリーは必ず連れて帰る。ルルーシュを助けたいなら、いまは何もするな』
『C.C.!』
呼び掛けに返ってくるのは、通話が途切れた事を伝える電子音。
一方的に聞きたい事だけ聞き、言いたい事だけ言ってC.C.は電話を切った。
思わずスザクは携帯を床に叩きつけそうになるが、ほんの少しだけ残っていた冷静な思考が、ここで連絡手段を失うデメリットを理解してギリギリのところで踏み止まる。
「何もするなって言ったって……!」
C.C.に告げられた言葉を思い返し、スザクは歯噛みする。
ナナリーがいなくなったこの緊急事態に、隠れ家に残って呑気に帰りを待つなんて事ができるはずがない。
しかし眠らされてから既に2時間、ナナリーが家を出てからはさらに数時間が経っている。初動が大きく遅れた人探しが困難を極める事はスザクも理解しており、いまから捜索を始めてもナナリーの居所に見当がついている様子のC.C.に追いつく事はできないだろう。かといって折り返しの電話を掛けたところで、C.C.が出ない事など分かり切っている。
「C.C.が聞いてきたシャーリーって子の家に行ってみるか……?」
もしかしたらナナリーはそこにいるかもしれない。
そう考えるも、C.C.が残した一言が楔となってスザクの足を縫い留める。
『ルルーシュを助けたいなら、いまは何もするな』
もし自分が動く事で、また取り返しのつかない失敗をしてしまう事になったら?
今度こそルルーシュが死んでしまうような状況を作ってしまったら?
そんな最悪の想像が拭い去れず、スザクはナナリーを捜しに行く踏ん切りをつけられなかった。
どうして自分はこんなにも無力なのか。
守ると誓った二人が危険な状況に陥っているのに、ただ待つ事しかできない。
「…………ルルーシュ……ナナリー……!」
両手を合わせ、それを額に当ててスザクはひたすらに二人の無事を祈る。
それはスザクがいままでの人生で経験した中で最も長く感じられた地獄のような時間だった。
エナジーフィラーが尽きそうな中でブリタニア軍の精鋭に囲まれた時の何倍も、生きた心地がしない
いつもなら訓練でもしていればあっという間に過ぎる短い時間が、スザクには何日にも――あるいは何週間にも感じられた。
そしてそんな苦痛しかない時間が過ぎ去り、握り締めた携帯が着信を告げる。
スザクは液晶に表示される名前すら見ずに電話に出た。
『C.C.!』
『いますぐ私の携帯を追跡してナナリーを保護しろ!』
名前を叫ぶと、返ってきたのはスザクと同じくらい焦ったC.C.の端的な指示だった。
滅多に聞けない彼女の焦燥した叫びに、スザクは瞬時に何かが起こっている事を察して叫び返す。
『どういう事! いまどこ? ナナリーは一緒なの!?』
『詳しく話している余裕はない! 急げよ! 事は一刻を争う!』
『ちょっと、C.C――!』
スザクの問いを無視して、無情にも電話が切られる。
「いったい、何が……」
あまりに突然の事態にスザクは呆然と呟くが、すぐに呆けている場合ではない事に気付いて慌てて動き出す。
連絡を待つ間に準備していた変装道具とバイクのキーを握り締め、飛び出すようにスザクは家を出た。
地雷回。
シャーリーとナナリーの会話を書いている最中はまるで地雷原を全力疾走しているような心持ちでした。
ちなみにナナリーの主張の部分は学生時代に読んだ『山月記』を思い出しながら書きました。
全然筋が通っていなかったり、言ってる事がポンポン変わるところなんかが似てるかな、なんて烏滸がましくも思いまして。
これから先の話に関してですが、あまり間を空けずに読んでもらった方が面白いのではないかと思い、現在書き溜め作業を行っています。
現段階では3話先の話まで大体書き上がっているのですが、この倍――6話くらいは最低でも書き溜めてから次話は投稿しようかと思っています。
私としても書き上がった話はできるだけ早く読んでもらいたいという思いはあるのですが、今話の最後の展開でも分かる通りここから先はどんどんと話が動いていくので、いまは我慢の時だと戒める事にしました。
本作を読んでくださっている方、楽しみにしてくださってる方には少々お時間をいただく事になるかと思いますが、お待ちいただければ幸いです。さらに欲を言わせてもらえるなら、感想をもらえると執筆意欲が上がるので嬉しいです。書けない時はいつも感想欄を見直してやる気を上げている私です。はい。
次回:大事なのは
憂鬱話は今話で終わり(の予定)です。