『みなさん、エリア11副総督ユーフェミア・リ・ブリタニアです。今日の良き日にゲットー初の病院となる、このダマスク記念病院を開院できる事を嬉しく思います。これまでは日本人の方に充分な医療を受けていただく事ができず、大変な苦労を強いてしまいました。そしてその苦労は医療だけに留まらず、住居や労働、様々なもので感じられている事でしょう。それを一度に解決する事は、残念ながらできません。ですが、みなさんが感じられている苦労や不便をこれから一つ一つ解決していく事を、わたくしユーフェミア・リ・ブリタニアの名に誓ってお約束します。
このダマスク記念病院はその最初の一つであると同時に、わたくしとみなさんの約束の証となります。願わくば、ダマスク記念病院がこのエリアを――いえ、世界を優しく変えていくための第一歩である事を祈り、ここに開院を宣言します』
ユーフェミアの挨拶と共に開院したダマスク記念病院には、とんでもない数の日本人が押し寄せた。
何しろブリタニアが日本を占領してからの7年間、日本人は風邪を引いても怪我をしても、まともな治療を受ける事ができなかったのだ。それが可能だったのは名誉ブリタニア人となった日本人だけで、ゲットーに住むイレブンは同じイレブンの闇医者に診てもらうしかなかった。それも素人に毛が生えたような医者が設備も器具もない場所で診察をするのだから、とても満足な治療など望むべくもない。
さらにゲットーは生活環境が劣悪なため、不衛生で病気になりやすい。そのせいで治療を受けたくても受けられない患者が大勢おり、結果的にイレブンも平等に治療する事を公言するダマスク記念病院には、違う区のゲットーの住人すら治療を求めて押し寄せた。
開院からの1週間は無料での治療を約束している事も人を集めるのを後押しし、来院人数は病院の収容人数を遥かに超え、中に入れず立ち往生をする人が病院の前に溢れ返る事態にまでなっていた。
この混雑を想定してブリタニア軍が警備に回っていたが、さすがにここまでの規模になるとは予想していなかったのか、明らかに人手が足りていない。幸い目立った問題は起きていないようだが、小さないざこざはあちこちで発生していた。
「これは……もしかしたら診察してもらうのは難しいかもしれません」
想像を軽く凌駕する人混みを目の当たりにして、大きめのリュックを背負った咲世子が率直な感想を呟く。
大勢の人の気配に、車椅子を押してもらっているナナリーもひざ掛けの上の手をきゅっと握りながら首を縦に振った。
「私は急いで診察してもらわなければいけないわけでもないので、日を改めた方が良いかもしれませんね」
まだ日が昇ってから数時間も経っていないにも関わらず、いまここにいる患者を診察するだけで一日が終わってしまいそうな混雑具合に圧倒され、来たばかりだというのに帰宅を検討する二人。
これだけの日本人が診察を待っている中、ブリタニア人であるナナリーが順番を待っていては謂れのないいちゃもんをつけられる可能性もある。実際に日本人同士でも既にいざこざが起きているのだ。
「ひとまず約束の時間まで待ってみてはどうでしょう? 整理券も配っているようなので、貰った後は目立たないところにいればトラブルに巻き込まれる事もないかと思います」
「……そうですね。いまから戻ってもみなさんの邪魔になってしまうかもしれませんし、そうしましょう」
方針を決めたところで、咲世子が車椅子を押して列の最後尾へと並ぶ。
整理券を配っているといっても、あまりの人数にまだ大半が貰う事すらできず列に並んでおり、数は時間が経つにつれてどんどんと増えていっている。整理券を貰って列からはける人と、新たに後ろに並ぶ人の数は後者の方が多く、整理券を配っても配っても列は竜のようにどんどんと長くなるばかりだった。
順番を待つナナリーはトラブルに巻き込まれる事もなく30分ほどで整理券を貰う事が叶い、列から離れて呼ばれるのを待つ場所を咲世子と共に探していると、予想外の方向から声を掛けられた。
「ナナリー様」
ナナリーと咲世子はその呼び掛けに一瞬だけ振り返りそうになりながら、なんとか堪える。
そして聞こえないふりをして早足に立ち去ろうとしたが、声を掛けてきた相手はすぐに二人の進路へと回り込んだ。
「お待ちくださいナナリー様」
二人の前に膝をついたのは5人の軍人。
呼び止めたのはその先頭にいる男で、彼はコーネリアの腹心であるアンドレアス・ダールトンだった。
「申し訳ありませんが、人違いをなさっているのではないですか? 私はナナリーという名前ではありません」
瞼を閉じたまま困惑気味にナナリーが答える。
ブリタニアを出てから8年の月日が経ち、髪も金髪のカツラを被っている。コーネリアやユーフェミアのような身内ならともかく、大して面識もない人間がナナリーの人相を見分けるのは不可能に近い。だからもし正体がバレそうになった時はとぼけるようにと、ナナリーは予め言い含められていた。
「ご冗談を。姫様からナナリー様を丁重に保護し、お迎えするようにと命じられております。どうか我々と共に政庁までお越しください」
下手な誤魔化しなどに一切迷わされる事なく、ダールトンはナナリーに同行を求める。
年齢、車椅子、盲目とナナリーには人相以外にも特定される要素が多過ぎた。
「ですから勘違いです。私はユイミーで、ナナリーという方ではありません。失礼します」
あくまでも別人として言い張りナナリーは咲世子を促して強引に横を通り抜けようとしたが、当然そんな単純な逃走が許されるはずもなかった。
「どうかお待ちを。姫様はナナリー様がお立場に相応しい待遇を受けられていない現状を嘆いておいでです。決して悪いようにはいたしませんので、ご同行願えないでしょうか?」
「だから勘違いだって言ってるじゃないですか! 私と、そのナナリーという方は別人です!」
慇懃な態度でありながらこちらの主張にまるで耳を貸さないダールトンに、とうとうナナリーは悲鳴のような怒声を上げる。
しかしそれすら堪えた様子はなく、ダールトンは同じ要求を繰り返した。
「ルルーシュ様同様、ナナリー様がブリタニアへ戻る事を良く思われていない事は存じております。しかし姫様は何があってもお二方を守ると仰られました。どうか一度だけでもいいので、お話しする機会をいただけないでしょうか?」
深く頭を下げるダールトンは、傍から見れば誠実な騎士の鏡だろう。だがやっているのは、少女の行く手を遮り、意見を聞かずに同行を強要するという騎士とは掛け離れた所業だ。
野次馬が集まるほどの騒ぎに発展してしまった事態に、ナナリーは怒鳴り声とも哀願とも取れる声で訴える。
「何を言っているのか私にはまるで分かりません! お願いですから、そこをどいてください!」
大きな静寂が辺りを支配した。
ナナリーの叫びを聞いた誰もが、軍人達の答えに注目する。
そんな中でゆっくりと、ダールトンが下げていた頭を上げた。
「できれば手荒な真似はしたくなかったのですが……」
渋面を作りながら不穏当な言葉と共に一歩、ダールトンがナナリーへと近付く。
「な、何をするつもりですか……」
「多少強引にでもお連れするようにと、姫様から仰せつかっております」
それは実力行使に踏み切るという宣言だった。
「い、いやっ……!」
手を伸ばしてくる気配に咲世子は車椅子を引き、ナナリーは両手で身体を抱えて怯える。
しかしダールトン達だけでなく、警備をしている軍人が周りに大勢いるこの場では抵抗など無意味に等しい。
なす術なくダールトンの手がナナリーに触れようとしたその時、割って入る者がいた。
「何をしてるんだ! 嫌がってるじゃないか!」
ダールトンの手を叩き落とし、二人の間に強引に割って入ったのは日本人の青年だった。
年は10代後半、黒髪黒目の精悍な顔つきをした青年は、敵意に満ちた目でダールトンを睨み上げる。
「歩けない女の子を力づくで誘拐しようとするなんて、それがブリタニアのやり方か!」
周囲の誰もが思っていても言えなかった事を、真っ向から青年は叫ぶ。
それに賛同する声が上がらなかったのは、相手がブリタニア軍人であるが故だろう。
彼らに逆らえばどうなるのか、それを知らない日本人はいない。
「関係のない者が口を挟まないでもらおう。こちらにも事情というものがある」
いきなり横槍を入れてきた青年に対して、ダールトンは極めて冷静に言い放つ。
これがイレブンを見下す一般的な軍人であれば、口ではなく手か銃が出ていてもおかしくはなかったが、ユーフェミアが手掛けた病院の前で騒ぎを起こす愚かさをダールトンは十全に理解していた。
「関係あるとかないとか、それこそ関係あるもんか! 目の前で女の子が無理やり連れ去られようとしてるのに、それを見過ごすなんて僕にはできない!」
「貴様っ、言わせておけば――!」
「やめろ!」
青年の叫びにいきり立った軍人が前を出ようとして、それをダールトンが押し留める。
警備として配備されていた軍人達も集まってきていたため、生意気な口を利くイレブンに対する悪感情が膨れ上がっているのを感じつつ、ダールトンは青年のためにも警告した。
「その正義感は立派なものだが、これ以上邪魔立てするならこちらも強硬な手段で応じるしかなくなる。その前にこの場は退く事を勧めよう」
ダールトンの目に鋭さが増し、声も低くなる。それは言葉通りの対応を取る事を分かりやすく示すもので、場の緊張が目に見えて高まった。
しかし態度とは裏腹に、ダールトン個人としては軍人相手に啖呵を切れる青年を好ましく感じていた。正義感を立派だと言った言葉にも嘘はない。
だが個人的感情と任務遂行は別物だ。故にいくら気骨のある男と認めようと、任務の邪魔になるなら排除する事に躊躇いはない。
「そうやってなんでもかんでも、力で押さえつけられると思ったら大間違いだ! 僕は絶対にこの子を見捨てたりしない!」
青年はダールトンの脅しに屈する事はなかった。
その選択を内心で賞賛しながら、ダールトンは無表情に頷く。
「そうか。残念だ」
「なっ……やめろ!」
周りにいた親衛隊が、青年の両腕を掴んで強引に引きずっていく。
部外者がいなくなり再びナナリーと向き合ったダールトンは、任務を遂行するために一歩分離れていた距離を埋める。
それにビクッと小さな身体が震えた。
「ナナリー様。ご無礼をお許しください。この罰は後でいかようにも――」
「その子に、近付くなあああぁ!」
謝罪の言葉を遮り、拘束を振りほどいた青年がダールトンの胸倉を掴む。
そして振り上げた拳がその顔面に狙いを定める。
イレブンがブリタニア軍人に手を上げればどうなるのか、それが分からない日本人などこの地には存在しない。
ある日本人は制止しようと叫び、ある日本人は巻き込まれるかもしれない恐怖に息を呑み、ある日本人は子供の目を咄嗟に手で覆った。
しかし誰もが予想した光景が訪れる事はなかった。
人の肌に拳がぶつかる音も、人が地面に倒れる音も、軍人の殺気に満ちた怒声も、聞こえる事はなかった。
ただ乾いた銃声だけがその場に響き渡った。
「――――――――――――――――――――えっ?」
青年の小さな呟きがやけに大きく響き渡り、次の瞬間にはその口から血を吐き、手で押さえた腹部の服が赤く染まっていく。
ゆっくりと、青年の身体がうつ伏せに倒れた。
次の瞬間――――
『きゃあああああぁぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁああぁぁぁぁぁぁぁぁああああぁぁぁ!』
そこかしこから耳をつんざく大声量の悲鳴が上がる。
自分も撃たれるかもしれないという恐怖から、日本人が一刻も早くその場から離れようと走り出し、それは診療のために大人数が集まっていた事で、押され転び踏みつけられと、とんでもない大混乱の津波へと変化する。
軍人はもちろん、ダールトンでさえ咄嗟の事に判断に後れを取ってしまう事態だったが、その中で誰よりも早く動き出せたのは37代篠崎流の当主だった。
「ユイミー様、失礼いたします」
そう言ってナナリーを抱きかかえると、即座に溢れ返る大混乱の群衆の中へと飛び込んでいく。
「ナナリー様!」
目の前で連れ去られるナナリーの名を呼ぶが、当然そんな事に意味はない。
一瞬の隙を後悔するも、すぐにそんな場合ではないとダールトンは親衛隊に指示を出した。
「ナナリー様を追うぞ! 絶対にこの場で保護しろ!」
『イエス・マイロード!』
ナナリーが消えた方へとダールトンと親衛隊が群衆をかき分けて突っ込んでいく。
あとに残されたのは、座席部分が不自然に沈んでいる車椅子とナナリーが使っていたひざ掛け、そして倒れ伏す青年だけだった。
『そうやってなんでもかんでも、力で押さえつけられると思ったら大間違いだ! 僕は絶対にこの子を見捨てたりしない!』
『その子に、近付くなあああぁ!』
ほんの数時間前の映像がディスプレイから消え、真っ暗な画面に反射する執務室は重苦しい沈黙に支配された。
その沈黙は今後の先行きを暗に示すかのように、打ち砕くには多大な力を必要とした。
「……この映像は既にネットに拡散されており、多くのゲットーでデモが発生し、租界でも感化された名誉ブリタニア人や主義者が騒ぎを起こしているようです」
コーネリアがエリア11に赴任してから最も治安の悪くなってしまった状況を、ギルフォードは堅牢な沈黙を破り報告する。
それを無言で聞くコーネリアの眉間には深い皺が刻まれていた。
「現場のダマスク記念病院が建設された目黒ゲットーでは、ユーフェミア様が自ら混乱の収束に努めておりますが、重傷者だけでなく死者が出てしまっている事もあって芳しくありません。暴動に発展する恐れもあるため、万が一の際は鎮圧できるようナイトメア部隊を派遣し、ユーフェミア様の護衛にも私の部下を増員しております」
ダマスク記念病院前の混乱は凄まじく、逃げようとした市民同士がぶつかり合い、他人を押しのける者で溢れ返った結果、子供や転んだ者が踏みつけられて怪我をするという事故が多発した。それだけならまだしも、混乱を収めようとした軍人が安易に銃を抜いたためにさらなる混乱を引き起こし、錯乱して軍人に殴り掛かる者まで現れた事で、それに応戦しようとした軍人が発砲して死亡者を出してしまい混乱は一層加速した。
未確認ではあるが黒の騎士団が動いているとの情報もあり、目黒ゲットーはおそらくいま、この地がエリア11となってから最も酷いパニックに叩き落とされている。
「ユフィはやはり、戻ってこないか……」
「はい。責任を感じられておられるようで、危険であるためお戻りになるようにお伝えしても耳を貸していただけないとの事です」
開院の挨拶をした後で政庁に戻ってきていたユーフェミアは、ゲットーでの事件を聞いてすぐさま病院へととんぼ返りした。姉であるコーネリアや周囲の反対も聞かず、病院に残っていた補佐のミレイと合流した後は現地で軍に指示を出し、怪我をしたイレブンの救助や過激な鎮圧を行わず穏当な対処を徹底させる事で事態の鎮静化を図っている。
「まさかこんな事になろうとは……」
右手で両目を覆い、コーネリアはやり切れない思いを零す。
当初の目的であったナナリーの保護は混乱のどさくさで叶わず、順調に進んでいたユーフェミアの政策はよりにもよって大々的に宣伝した病院の前で事件が起こってしまった事で暗礁に乗り上げた。間違いなくこの事件を契機にエリア内の治安は悪化し、テロリストもさらに勢いづくだろう。
ドミノを倒したように全てが悪い方へ向かっていく事態は、まるで悪夢でも見ているかのようだった。
「最初に撃たれたイレブンはどうなっている? 死んでいないのなら、無事を報道する事で少しは混乱も収まるはずだ」
「それが……いつの間にか現場から消えていたそうです。おそらくは軍の者が邪魔だったため片付けたか、被害者の家族が遺体を運び出したのだと思われます」
現場の混乱は留まるところを知らないため、状況把握すら難しくなっている。そんな状態ではイレブンの死体を気に掛ける余裕がないのも当然であり、コーネリアは表情に出さないよう不満を抑える。
「となると、問題に一つずつ対処していくしかなさそうだな」
「はい。発砲した者を罪に問うわけにもいかないので、いまはそれしかないかと」
今回の件はダールトンに掴み掛かったイレブンをその場にいた軍人が撃った事が発端となっているが、発砲した軍人は上官を守るために当然の行いをしただけであり、罪はない。
つまりこれは、責任を取る者が存在しない事件なのだ。そのためイレブンの混乱と怒りを収めるのに一番簡単な方法である、原因を作った者に責任を取らせるという手段は取れず、地道に混乱の収束を図るしかない。
「ひとまずナナリーの捜索は打ち切るとしよう。ダールトンにはそのままユフィの補佐に就くように指示を出せ。各地のデモに関しては地方長官の裁量に任せるが、暴動に至らない限り鎮圧を名分とした過剰な虐殺を行う事は禁じる。これ以上イレブンを刺激すれば、さらなる厄介を招きかねんからな」
方針を定めたコーネリアは、これまで戦場で培ってきた判断力と行動力を発揮し、テキパキと対応を決めていく。
ここでの対応の遅れは致命的な治安の悪化につながる。そしてそれ以上に、何か嫌な予感が戦士としてのコーネリアの感覚に危機を訴えかけていた。
「それから目黒ゲットーに関しては――」
その嫌な予感は、すぐに形として目の前に現れる事となった。
突然真っ黒だったディスプレイが光り出す。
誤ってリモコンを操作したわけでもないのに、ディスプレイは砂嵐のようなノイズを吐き出した後、ある男を映し出した。
『私は、ゼロ』
最も忌々しく、最も愛しい、真っ黒な仮面を被ったテロリストが画面の中にいた。
今回の話に出てきたダマスク記念病院の名称やナナリーの偽名の由来が分かった人は、相当なギアスファンかもしれません。きっと私も書く側じゃなかったら普通に読み飛ばして気付かなかったと思うので。
次回:建国宣言