「はぁっ、はぁっ……」
強制的に見せられた負の感情が私の心の中に入り込んでくる。
幾度となく向けられてきた感情、永らく忘れていた感情。黒く、醜く、汚れた感情。
昔の記憶が甦る、地上にいた頃の、こいしが目を閉じてしまった頃の……
「ぐっ……」
「おぉ、効いてる効いてる。気分はどうだ、最悪か?」
「何故…こんなことを……」
「さあな、心読んでみたらどうだ?」
サードアイはそれを見せられ続ける。そこから伝わった心が、感情が直に頭へと伝わると。
頭痛、吐き気、動悸……負の感情を見せられ続けて視界も揺らいでいる。
ここまでの強い感情、一体何人を……
「あぐっ……」
「そろそろ限界か?さっさと寝ちまってもい——」
突如として目の前から男の姿が消えた、代わりに現れたのは、燃え盛るような怒りを抱えた白い髪の人。その人が、私の前に立っていた。
「毛糸さん……」
無表情だけど気迫が違う。
無言でそこに立っていたけれど、彼女の感情は、今までに見た方がないほど荒れ狂っていた。
「お前が首魁か?答えろ、何故こんなことを起こしたか。返答次第では死んだ方がマシと思える目に合わせる」
「いってぇ……あ、その頭は……そうか、お前が噂の白珠毛糸か」
「答えろって言ってんだろ、殺すぞ」
「おぉ怖い怖い」
地霊殿のすぐ外、さとりんに何かをしていた男を全力で殴り飛ばした。正直殺す気で行ったんだけど反応されて防御されてしまった。
「さとりん、大丈夫?」
「……はい、なんとか…」
どう見ても大丈夫そうじゃない、明らかに憔悴しきっている。
「何があった?」
「あいつの持っている玉……あの真っ黒い奴です。あれを見せられて……っ」
……大体わかった。見せられたくないものを見せられたんだろう、覚り妖怪はその性質上…というか、さとりん自体悪意を見ることに弱いと思う。
あの玉の中にどれほどの悪意が詰まってるかは知らないけれど、見せるだけで苦しむってのは相当だ。
「にしても…おいおい、確か俺は結界を張ってたはずなんだが?」
「ぶっ壊した」
「噂に違わぬめちゃくちゃさだなぁ…」
「地上の妖怪や鬼達を操ってるのはお前だろ。もう一度聞く、何故こんなことを起こした」
妖力を全開で放出する。
「もの凄い殺気だな、まあそうかっかするな。落ち着いて話を聞いてくれよ」
「………チッ」
本音は今すぐこいつの身体をバラバラに引き裂いてやりたい。ここまでの憎悪を抱いたのはいつぶりだろうか、この数日で、ここまで。
「そうだなぁ……俺は天邪鬼じゃあないが、言ってしまうならこの幻想郷をひっくり返したかったんだ」
「ひっくり返す?」
「昔っからここは力のある妖怪達が支配してるだろ?まあそれは当然のことさ、でもな。妖怪の賢者がやったように結界を勝手に張るなんて暴挙、許されないんだよ。まるで俺たち普通の妖怪達を軽んじてるみたいだ」
「……それで?」
「だからあいつらに痛い目を見させてやることにした。地底にいる鬼や妖怪達をまとめて手下にしてしまえばあの化け物どもにも十分通用するだろ。それで今度はそいつらを操って……そうして、ここを牛耳っていた奴らを全部俺たちの踏み台にしてやるんだ」
………はぁ。
「どうだ?楽しそうだろ?」
「…まぁ、お前らからしたらそうなのかもな」
「そういうわけだ、悪いがお前も邪魔するなら痛い目見てもらうぞ」
「やってみろよクズが」
……まあ、こういう救いようのないバカどもを消すのが紫さんのやりたかったことなんだろうな。
「さとりん、こいしはどこに?」
「………」
「…さとりん?」
下を向いたまま黙ったままのさとりん。
「……なあおい、何か言えよ」
「こいしは……」
さとりんが一瞬だけ視線を遠くの方へ向けた。
その視線の先ではこいしが血を流して倒れていた。
「殺す」
「さっき聞いたから二度も言わなくていいぞー」
一々癪に触る……
自分のためなら他のやつをどうしたって構わないと思っている。当然のように踏み台にして、ボロボロにする。
私にはその感覚が全く持って理解できない、それが妖怪として正しい姿なのだろうか。
今まで優しい妖怪達と過ごしてきた私にとっては、もしそうだとしても絶対に理解できることはないのだろう。
そもそも私はこの世界に居ていい存在じゃない。だからこの世界のことにとやかく言う資格なんてないのかもしれない。
だとしても…目の前のこいつを許すわけにはいかない。許せない、許せるはずもない。
今さっき友人を傷つけた、苦しめた、そして二人とも今倒れている。それだけだ
憎悪が、怒りが、殺意が、後悔が、際限なく湧き上がってくる。
まるであの時みたいだ、でもあの時とは違って収まる気配はない。
「……こいしに何をした」
「こいし…あぁそこの使い物にならなかった奴か」
「あ?」
「覚り妖怪の心を読む力はやりようによっては相手の精神を支配できるからな、今さっきお前が助けた奴は生かしておくつもりだったが、あいつは目を閉じてたからな、邪魔されないようにってな」
「そうか」
男に近づいて右腕を思いっきり顔面に向けて押し込む。
できる限りの最高速度でやったはずだが、反応されて両腕で防御される。
「おうおう怖いねえ」
その防御した両腕を両手で掴み、敵の顔面向けて私の頭をぶつけた。
無防備な敵の頭に頭突きが入り、衝撃で奴の両腕が手から離れるが、奴の足を凍らせて地面に張り付け、そのまま腹に拳を思いっきりねじ込んだ。
「ぐはぁっ」
「…死なないか」
足の氷ごと吹き飛んでいったが手応えはあまり感じられなかった、無駄に頑丈なようだ。
だがそれでいい、あまり弱すぎると簡単に殺してしまう、もっともっと苦しめてやらないと。
「なんて…黒い………」
普段のあの温厚な毛糸さんからは絶対に感じられないような真っ黒な感情が、遠くで見てるだけにも関わらず感じ取れる。怒り、殺意や憎悪、それに後悔が彼女の心の中をぐちゃぐちゃに乱している。
多分自分でもわかっていない、あそこまでの感情を抱くことがないから、どうすればいいかもわかっていないんだ。
同時に男の思考も一緒に入ってくる。
奴の考えはさっき語っていた通りだけれど、やろうとしていることが不味い。
今の毛糸さんは感情の赴くままに動いている。本人も滅多にやらないであろう、相手を本気で殺しに行く動きを。
このままだと一つ攻撃を加えるたびに感情が増幅してしまう、そうなってしまえば奴の思うがままだ。
毛糸さんは何かを失うということを恐れていた。過去に人間の友人を一人失ってから、ずっと。
本人は平気なように取り繕っていても、心の底では未だに後悔と負い目を感じ続けている。本人が本気で大丈夫だと思っていたとしても、彼女はまだその出来事を気にしている。
こいしと私という、彼女にとって大切なものを失くしかけた。そのことが彼女の心を乱している。
特にこいしのことは彼女も気にかけてくれていた……だからこそあの姿を見て、あれだけ怒り狂っているのだ。
言ってしまえば自己犠牲。
自分より他者の方が断然優先度が高い、友人のためなら命をも平然と命をも懸ける。なんのためらいもなく、それができてしまう。
どれほど自分のことをどうでもいいと思っているのだろうか。
どれほど他人のために自分が傷ついてしまってもいいと思っているのだろうか。
あの人は……他者を失うのを恐れて、自分を失おうとしている。
だから…だからこそ、なんとかして伝えないと。
「けいっ……がっ…」
身体と頭が痛んで大きな声が出せない、加えて彼女が轟音を上げて戦っているせいで全く聴こえていない。
このままだと……
ひたすらに敵を攻撃し続ける。
でも、殴ろうと、蹴ろうと、斬ろうと、その感情はいつまで経っても消えない。私の中に深く根を張り、増大し続ける。
どうすればいいのかわからない、このままじゃいけないこともわかっているはずなのに、身体が止まらない。
奴の体の形が変わる、顔が歪む、血が噴き出る。
それを見るたびに生まれる快感と、負の感情。
そんなのは嫌なはずなのに、感じたくないはずなのに。
「このまま俺を殺したらお前は満足か?」
黙れ
「大切なお友達を傷つけた相手だ、殺したらさぞ気分が良いだろうな」
黙れ
「激情に身を委ねて殺せばいいさ」
黙れ
「くちゃくちゃいつまでも喋るなァ!!」
奴が一言発するたびに一撃を喰らわす。
奴が一言発するたびに悪意が増幅する。
奴が一言発するたびに理性が吹っ飛ぶ。
真っ黒に染まっていく。
氷の剣を作り出して、奴の首を狙う。殺意が、心の奥底から湧いて出てくる。
心が濁って、色んな色が混ざり合って、真っ黒になる。
「……このくらいか」
奴の首を刎ね飛ばす直前に、そう奴が発した。
俊敏な動きで攻撃を避け、完全に剣を振った後の無防備な懐に潜り込まれる。
何かが胸へと押し込まれた、その衝撃で身体が大きく吹っ飛ぶ。
「ぐっ……」
完全に隙をつかれたからか身体の損傷が激しい、まずは立つために足を再生する。
「……あ?」
足が再生しなかった。
いや、肉と骨は出てきている。
出てきた途端にぐちゃぐちゃになって崩れていく、いくら妖力を流し込もうと、ただ激しく血が吹き出して、形が崩れていく。
今度は腕の肉がぐちゃぐちゃになる、骨が砕けてバラバラの方向に向き、腕から飛び出す。肉は潰れたかのようにむちゃくちゃな形となって出てくる。
「ごぼっ」
口から血が流れ出てきた。
気づいた時には既に胴体も、腕や足と同じように骨が飛び出し肉がぐちゃぐちゃになっていた。再生しようとしても、しようとしたところから潰れていく。
突然、今までに感じたことないほどの痛みが襲ってきた。
今まで下半身が無くなろうが腹に穴が開こうが感じなかった頭が、激痛が、脳を直撃する。
あまりの痛みに声も出ない、というよりは既に喉が潰れて声が出せない。
「そうやって自分の感情に呑まれるのがお前の最期だったってわけだ」
男が既に地に這いつくばって血の池を作り出してる私を見下ろしてそう言う。
「じゃあな」
手足がぐちゃぐちゃになり、胴体からは骨が飛び出て、呼吸すらできないような姿になっても、もうどんな感情かもわからないドス黒い何かが私の中で増え続ける。立てと、殺せと、訴えてくる。
でも立てない、意識も朦朧としてきている。
………私、今どんな顔してるんだろう。
「そんなっ……」
毛糸さんの体が、筆舌に尽くし難いほどの悍ましい姿に変わっていく。
肉が飛び散り、骨が砕け、血が流れ落ち続ける。
段々と、彼女の思考が弱くなっていき、やがて……消えた。
「いてて…よくもまあ痛めつけてくれたもんだ。まあこれで邪魔者はいなくなったってことだな、ゆっくり、作業に戻れる」
「彼女に……何をした!!」
「そう大声を出すな、頭に響く」
明らかに異常だった、あの様子は。まるで存在そのものが歪められているかのように、再生の仕方からおかしかった。ぐちゃぐちゃの状態で、再生していた。
「あいつにさっき掛けたのは…まあ呪いか。そいつの抱いている負の感情、それが強ければ強いほど呪いも強くなる。強くなればなるほど、その身を滅ぼす」
「それは…!」
「あぁ、都合良くあいつがとんでもない負の感情を抱いていたからな。あとはこっち側でもっと感情が増幅するように仕向けてやれば、あの汚え肉塊の出来上がりってわけだ。試しにあれを見てみればいい、まだ真っ黒な感情で満ちてるはずだぞ」
「……っ」
確かに…もう意識もなく、生きてるか怪しいほどなのにまだ、黒い感情が彼女の中を渦巻いている。
彼女が地底に降りてきた時からすでに精神が安定していなかった。よく見る予定はなかったが、何か大事なものを失ったような……
それに彼女は以前にも、一度殺意を抱くと止まらなかったことがあったようだ。今回もきっとそれで……
「まあ俺も長話してる余裕ないんだ、そうだな……とりあえずその目をもらっていくか」
「っ!」
「そう怯えるなよ、命取ろうってわけじゃないんだからさ」
覚り妖怪にとってこの目は存在そのものと言ってもいい、それほど己の存在の維持に重要なものなのだ。
もしこれが失くなることがあれば、それは覚り妖怪としての死を意味している。
でも、今の私には……どうすることも…
逃げ出そうにも体が動かない、奴を見ると他に何かを持っていた。こちらの動きを封じる何かだろうか。
「それじゃあもらうぞ」
男がサードアイに手を伸ばす。
「触んな」
その言葉が聞こえる同時に男の体がまた遠くへ吹っ飛び、驚いたような表情を見せる。
「お前、なんで……生きてるっ!!」
また、この人は私の前に立っていた。