固まって動かなくなった毛糸を置いて、一人駆け出したあの人間……と言っていいのか分からないナニカを飛んで空から追いかける。
「っ…人間の足の速さじゃないわよ…」
人混みを掻き分けて、それこそ妖怪のソレのような速さでグングンと走っていく。必死に追いかけてはいるが、やたらと早いせいでなかなか距離を詰められない。
(これは……人のいないところに向かってる?)
あの子が今どういう状況なのか分からない、が……
野放しにして置いても愉快なことにはならないだろう。とはいえ周囲に一般人がいる状態では下手に手を出すこともできない。
「止まった…?」
人通りの少ない場所、ちょっとした広場。
その中心で足を止めたその子。
(さて……どうするか…)
急に駆け出したので追ってきてしまったが、現状何かをしたわけでもない。
ただ……あの子の中にある異常な何かを感じ取ってしまって、それが気になって仕方ないだけだ。
「……ねえ、聞こえているのなら返事をして」
返答はない。
こちらに背中を向けて、依然として固まっている。
「………」
静かに札とお祓い棒を構える。
即座に結界を張れる用意はしておく、正直目的もどんな相手なのかも何もわからない。ただ「アレは異常だ」と警鐘を鳴らす自分の勘だけを頼りに追ってきた。
そもそも、なんの不都合もなければ私から逃げる必要もない。
「なあ」
振り返らない。
アレから目を離すのが危険だと判断したから。
「一体何だってんだよ。……ミナが人間じゃない、って、どういう意味?」
「………」
「……ッ」
私より前に出て声をかける毛糸。
「なあ、ミナ、急にどうし……た……」
私たち二人とも、彼女に起こった異常を観測した。
足元から出てきた真っ黒な、泥のような何かが、彼女を足元から覆っていく。
「ミナっ——」
「待って!」
「なんでっ、離せよっ!」
「見れば分かるでしょ!!」
「っ……」
ああ、その顔だ。
その顔だけは見たくなかったのに。
結局またこうなってしまうのか。
「……っ!ミナ!!!」
ピクリと。
その声に反応するかのように、ゆっくりとこちらを向いたその子。
もう顔まで飲み込まんとしている黒い泥の中で、何故か安心したような表情をして。
「ごめんなさい」
そういった途端に、彼女の全部が飲み込まれた。
足先から頭のてっぺんまで、全てが。
(……周りは誰もいないわね)
人間がいるのが不都合だったのか、彼女の意思がそうさせたのかはわからない。
けれど今はとにかく……
「——ッ!」
嫌な予感がしてすぐに正面に結界を展開する。その直後に、あの泥に包まれた身体から太い触手のようなものが私の方にまですっ飛んで来た。
その大きさと速さから来る衝撃が結界を揺らす。
「まあ穏便には済まないだろうとは……なっ!?」
毛糸がゆっくりと、少女の方へ歩み寄っていく。
「待ちなさっ…くぅ!」
何故か私にだけ飛んでくる触手たち。それを防ぐのに精一杯で毛糸を静止できない。避けるのは簡単だがそれをすると人里に被害が及んでしまう。
「ああ、もう!」
ついさっきまで。
さっきまで私たちの隣で、一緒だったんだ。
今日からは彼女の新しい門出になるって、そう思って、寂しさを堪えて笑顔で送り出してやろうって。
「そう、思ってたのに」
なんなんだよ、その身体は。
なんなんだよ、その黒いのは。
「何が、ごめんなさいだよ」
言ってくれなきゃわかんねえよ。
「言わなきゃ、伝わらないよ」
分かんないから答えてくれよ。
何か言ってくれよ。
「なあ、ミ——」
その泥の身体に手を伸ばし、触れた瞬間に意思のような…声のような何かが一気に私の中に流れ込んできた。
『壊せ』と
人や、物に対してではない。
全てに……全てに向けられた憎悪、怨嗟の声。
「———」
顔のない泥の頭が私の方を向いたように思えた瞬間、2本の触手が私の身体を刺し貫いた。
「毛糸!!」
霊夢の声が聞こえる。
それをかき消すように、触手を通してまた私に流れ込んでくる。
『何故?』と
己の不幸に理由を求めるように。何故自分がこんな目に遭うのかと、答えの出ない疑問を抱え続ける怒りの込められた声。
「……ああ、そっか」
随分と身に覚えのある感覚だ。
「ぼーっとしてんじゃないわよ!」
地面に転がった私の体を守るように霊夢が前に出て、結界を張って触手の攻撃から私を防いでくれる。
こんなにも私の心は曇ってるのに、無駄に強い日差しが私の体を灼く。
無駄に青い空が、私のことを責めているように感じる。
ミナを覆っている泥の正体。
あれは悪意だ。
以前私が、さとりんたちが傷つけられた時に抱いていた殺意や憎しみとかの………真っ黒な感情。
あの時はそれを利用されて、呪いをかけられて、実際に死にかけた。
その後もなんとか左腕に呪いを移したけど、治るのには何十年もかかってしまった。
あの悪意は私自身のものだった。目の前のやつを殺す、償わせる、ぐちゃぐちゃにする、そういう黒い感情の塊が、私の中にあったから。
「でもあれは……あんなのは……」
あの泥は、塊だ。
どこから来たのか、誰のなのかはわからないけれど。
ありとあらゆるものに対しての憎しみを集めて、潰して、煮詰めて、混ぜたような、そんな悪感情の集合体。
私があの時抱いていた殺意とかそんなのとは比べ物にならないほどの、真っ黒でドロドロとした、人の意思の塊。
それに飲み込まれたことのある私だから分かる。
あれは人一人が抱ける感情を超えている。誰かの憎しみが集まって、ミナを依代にして、文字通り全部を壊そうとしている。
「女の子一人に、背負わせていいもんじゃないだろ……」
なんでいつもこうなのだろうか。
私が接した人間は、どうしてこうも不幸になっていくのだろうか。
私は……わたしは……
「——毛糸!!」
「っ…」
霊夢の声で思考が現実に戻ってくる。
「気持ちは分かるけど今はその時じゃない!立って!」
「……はぁ」
深くため息をつきながら、このまま倒れていようとする身体を無理やり起こす。
「これを止めなきゃ、か」
「そういうこ、と!」
ああそうだな。
しっかりしろよ、バカ。
あの泥が悪意の塊だったからってなんだってんだ。
お前はまだ何も知っちゃいないだろう。
もう向こうが話してくれるまでとか、そんな悠長なことを考えてる場合じゃなくなった。
「聞かなきゃだ」
色々ショッキングすぎて正直何も考えたくない。このままぶっ倒れて寝てしまいたい。が、そうもいかない。
止めなきゃ、聞かなきゃ。
あの子はごめんなさいと言った。
不本意だったはずだ。
傷つけたくなんかないはずだ。
何がどうなってああなったのか、私にはわからない。
なんで彼女があんなドス黒い悪意の塊に包まれているのかも、分からない。
「すぅ……ふうぅぅぅっ」
息を吸って、吐く。
あの子は多分、あの泥の正体を知っていて。
知っているけどどうしようもなくて、誰にも言えなくて、抱え込んで。
隠して、それでも笑って、さっきまで私たちの隣にいてくれた。
彼女が頑なに話さなかった、過去に何があったのか、それと関係しているのかもしれない。
知らなきゃいけない
止めなきゃいけない
「ふっ———」
身体の中を循環する妖力が身体から漏れ出る。
人里でこんなことしたら本来なら大騒ぎだが、もうすでに色々と手遅れだ。
「まだお別れには早過ぎるよな」
飛んできたやたらと太い触手を避けて、脇に抱えて受け止める。
耳障りな怨嗟の声が頭の中にガンガン響いてくるが、それを無視していると触手を引っ込めてきた。
「あんた、それ直接触って大丈夫なの?」
「ああうん、多分私は平気だけど触んない方がいいやつだね」
私は経験があるからいいけど、多分普通の人があれに触ってあの悪意の塊を流し込まれたら発狂しかねない。
それくらいにぐちゃぐちゃにされた、怨嗟の塊。
「まあ聞いてて気持ちのいいもんじゃないのは確かだよ。それよりどうやって止める?具体的な方策は?」
「今考えてる。………今のアレの状態が何かわからないから何とも言えないのよ」
「そっか、急いでよ」
「分かってる」
あの泥を剥がせればなんとかなる……って簡単な話でもなさそうだ。そもそもあれ剥がせるのか?
「妖怪なのか怨霊なのか……はたまた別の——ッ!」
「ぬぐぅん!」
霊夢を狙って薙ぎ払ってきた触手を受け止めて、氷の棘を生み出して突き刺す。
感触はある、が効いている様子はない。
突き刺さった後、その部分がどろりと溶け出して棘も外れてしまった。
「いいよ続けて!」
「………封印しかない」
触手を弾いたあとアレを警戒しつつ霊夢の方に向き直る。
「封印って……あの泥を?」
「いいえ、全部よ。分離できるのならしたいところだけれど……今は人里に被害が出ないようにしないといけないし、まず止めなきゃ助かるとかそういう話にすらならないから」
「……了解」
よほど強力な封印じゃない限りはミナも無事だとは思う。
けど……あんな泥の塊に飲み込まれて、きっと今も苦しんでるはずだ。できるだけ早く助けてあげたい。
「封印用の術式は今から組み立てないと強力なのはできないから……悪いけど、頼める?」
「何分くらい?」
「2分あれば」
「あいあい2分ね」
2分間人里への被害を出させず、霊夢を守りつつ、アレが逃げないようにこの場に押し留める。
まあやるしかないって奴だ。
「ほら、じゃれるなら私がたくさん相手してやるからこいよ」
妖力をわざと放出させる。
あの泥に自我があるのかは分からない。とにかく無差別に攻撃させるのではなく、私に攻撃を向けさせなきゃいけない。
何も考えていない……なんてことはないと思う。あれだけ強い意思の集合体なんだから。
あるかはわからないが、妖力を出して警戒心…というか、本能のようなものが私を認識してくれるように祈る。
「そうそう、こっちこっち」
霊夢の前に氷と木の根の壁を作り出して姿を隠す。
背筋を刺すような寒気がやってきたのを感じ、向こうの敵視が取れたことを実感する。
目のないはずの顔と視線があったような気がした瞬間、その背から無数の触手が飛び出した。
その数…いちにぃさんしぃ……
「8本!多いねタコかな!!?」
全部の触手が一斉に私の方に向かって伸びてくる。背後に霊夢がいるせいで回避はない。無理だ、詰んだ。移動しても人里に被害出るし。
「触手なら殴ってもセーフかぁ…?」
どうしようもなくなったので妖力を過剰に右腕に込めて、正面に向かって拳を打ち付け触手との接触と同時に爆破、前方に爆発を起こして触手を消しとばす。
ついでに私の腕も消し飛ぶ。
「うわぁ!?今の爆発はなんで…うわぁ!!!??毛糸さんの腕がない!?」
「あ、早苗」
「うわぁ!!!!??生えたぁ!!!!?!?」
あれ知らなかったの?
……いや知ってても驚きはするか。
「ちょうどよかった。あんたも手伝いなさい」
「えっ、いやあのっ霊夢さんたちは何して…」
「見りゃわかるでしょ、アレ止めようとしてんのよ」
「いやじゃあアレは一体…」
正直二人じゃ手に余ると思ってたから増援は助かる……
「本体じゃないならぶっ飛ばしても意味はないか…」
いや影響ありすぎても困るんだけど、本体に変化があったり動きが鈍ったりとかはない。
「あと1分くらい、行ける?」
「まあ多分……ん?」
触手が少しずつ細くなっていく。それに伴って先端もどんどん鋭利になっていき、硬度も上がっているように見える。
「まあ、いい変化じゃなさそうだ」
今度は8本以上…10……とにかく沢山の腕の形をした触手が不規則に動き回りながら私の方に飛んできた。
「漏らした分は弾幕で処理よろしく早苗!」
「わっ、かりました!!」
空元気だが、ちゃんと聞こえるように大きな声を出す。
氷の蛇腹剣を作り出しつつそう叫んで、妖力を纏わせて前方からやってくる泥の腕群を剣を振り回して切り刻む。
数本範囲に収まり切らず後ろに漏れてしまったが、早苗が弾幕で撃ち落としてくれたおかげで霊夢の方まで届かずに済んだ。
さっきは見えてる私だけだったのに、今度は後ろに隠れてる霊夢の方を狙ってきた。何か良くない変化が起こってるのは確実だろう。
「毛糸!」
氷の壁から出てきた霊夢からお札を投げ渡される。
「それをあれに貼り付けて!」
言い切る前に、返事をもせずに駆け出した。
すごい霊力の込められたお札だ。相当な効力の封印が込められてるってのが私にもわかる。
「もう少し辛抱してくれよ」
また泥の腕を伸ばしてきたが、処理は後ろの霊夢と早苗に任せる。
近づいた私を触手が動き出すより先に、もっと速く走り、泥の塊にまた近づいた。
「絶対助けるから」
その胸にお札を勢いよく貼り付けた。
途端に光り、足元に陣が展開されて何本もの鎖が泥の体を縛る。鎖が触れた瞬間に泥の腕が弾け飛んで地面に散らばった。
鎖を鳴らして暴れてもがくが、鎖での拘束は固く泥を離さない。
「これで……」
ぐったりとしたように動かなくなる泥の塊。そうしている間にもどんどん鎖は巻きついていく。
流石は霊夢だ。この短時間でこれだけ強力な封印をお札一枚に込めるなんて、そうそう———
「———!」
「いっ!?」
泥が叫んだ。
いや、実際に叫んだわけではない。その泥の激しく荒ぶる姿と震える空気が、空間が、まるで叫び声のように轟いた。
悲鳴のような、雄叫びのような。
何人もの人間が一緒に叫んでいるような、そんな声で。
「ちょまっ」
その泥の身体が蠢いている。
不定形に、波のように、身体をズルズルと溶かして。
「それが出来たら苦労は——」
どろり、落ちた。
お札の貼られていた部分が、泥ごと。
(泥が溶けて札を剥がしたッ。ばっかじゃないの!?)
「毛糸離れて!」
泥の化け物が叫んだ途端に身体の形状がぐにゃぐにゃと変化して、溶けるように崩れてお札が外れてしまった。それが出来るなら苦労はないわよふざけんじゃないわ。
私の言った通り下がってきた毛糸、それを追うでもなく泥の化け物は何本もの触手で自分の周りを覆い、重ねて巨大な泥の塊へとなっていく。
(あれはダメだ)
まず間違いなく広範囲への攻撃。周辺が吹き飛ぶほどの威力、避難しているであろう人間の方まで被害が及ぶかもしれない。
何度も頼りにしてきた私の勘がガンガンと警鐘を鳴らす。
妨害する?それで誘発してしまったらどうしようもない。
もう一度封印する?現実的じゃない。一旦弾幕で制圧してしまう?いやそれもダメだ。
短い間にいくつもの方法を思いつき、全部ダメだと投げ捨ててしまう。
(対応が遅れた!何しても間に合わない!)
「早苗!私に合わせて結界を!」
「でも霊夢さんたちが!」
「いいから!!」
早苗も異様な気配を感じたのだろう、既に結界を張り始めていたが、その範囲内に私たちがいることで躊躇っているようだった。
しかし言葉で諭している時間はない、睨みつけて無理やり言うことを聞かせる。
早苗の結界の内側に、さらに私が今出せる最大強度の結界を展開する。あの泥の化け物を中心に、円形に包み込むように。
あまりにも結界が小さすぎると減衰されない威力に結界が耐え切れるかわからない。あの泥だけを囲めば破られる可能性が高いからこれしかない。
(多分これでギリギリ威力を殺せるくらい!でも…)
結界の中にあの泥の化け物と私と毛糸が閉じ込められている状態。このままだと人里への被害は抑えられたとしても私たちが無事では済まない。
あの溜めはまずい。結界で閉ざした分まともに喰らえば下手をすればぺちゃんこだ。毛糸も再生できるとはいえ死なないという保証はない。
結界を解除すればそれは避けられるだろうけれど、今度はここら一体が吹き飛ぶことになる。すでに異常を察知して人間は大方避難していると思うけど、全員がそうという保証はない。
(ああもう時間がない!一か八か!)
現状をどうにかできる手段がほぼ賭けになってしまうが……これしかないのだからもう縋るしかない。
「毛糸っ、私の手をっ!」
「えあっ!?」
「早く!!」
(間に合うか——)
私と毛糸が手を取り合った瞬間、泥の化け物を包んでいた触手が一気に解き放たれる。
視界が真っ黒に染まる。
耳をつんざく異様な音、揺れる空気。
それはまるで、いつかの妖怪桜のようで。
嵐の様な、洪水のような触手の塊は結界の中で荒れ狂うように、暴れ狂うように広がり、瞬く間に私たちを飲み込んだ。