ここ二、三日。姉さんの様子がおかしい。ずっと考え事をしていて、私が話しかけても上の空な状態が続いている。リビングから部屋に戻ろうとして閉まっている扉にぶつかったり、水を飲もうとしてコップに水を入れるのはいいけれど、コップから水が溢れていても蛇口を止めない――などなど。姉さんの様子がおかしい個所を上げ始めたらキリがない。
リサ姉さんなら何か知っているかも――と、思った私はアプリでリサ姉さんに連絡を取ってみた。なんでも、あこちゃんが二週間後に行われるライブで新曲をやりたいと言ったのが一昨日の事。紗夜さんは練習時間が限られている事から、最初から反対派。姉さんはとりあえず新曲も含めてセットリストを考えてみる事にしたらしい。
それだけなら姉さんの様子がおかしくなる理由がない。セットリストを考えるだけでそこまで悩む必要があるのかな?何か別の事で悩んでいる――そんな気がしてならない。私が聞いて何とかなるのなら、姉さんに聞くところなのだけれど……。それができないでいた。
聞いてもはぐらかされて終わるだろうし、なによりもRoseliaのメンバーじゃない私がどこまで関わっていいのか分からなかったから。
今日も、練習が終わって夕飯を食べてからは、風呂以外じゃ部屋にこもりっきり。扉をノックしても返事が無いから、なんらかの作業に集中しているのだと思うのだけれど……姉さん一体何を悩んでいるの?
「無理してなければいいんだけど……」
私は小さくそう呟いて自分の部屋に戻る。姉さんの悩みがなんなのか分からないまま……。
「お父さんは……いったいこの曲をどんな思いを込めて歌ったの?」
イヤホンを外し、ベッドに身を投げて天井を見上げる。先日、たまたま見つけたインディーズ時代のお父さん達の曲。それをRoseliaの皆に聞いてもらったはいいけれど、私にはこの曲を歌えない。だって、この曲を歌っているお父さんのように、純粋な感情で私は歌っていないのだから。
そう。私の音楽は全て私情から始まっている。華那がメンバーを揃えてくれたのもあるけれど、その延長線上でRoseliaを結成した。そんな私じゃ純粋にこの曲を歌いきれない。
純粋な思いというのもそうだけれども、華那の歌声を奪った私がこの曲を歌っていいのか……。華那がこのお父さん達の楽曲を歌っている姿を想像してしまった私は、この歌は私にはふさわしくない。今の私のレベルでは歌いきれないという判断を下した。だから、私はあこ達がこの曲を演奏したいと言ってくれた時に難色を示してしまった。今の私の状態でこの曲を歌う資格なんてない――と言って。
「はあ……」
小さくため息を吐く。頭の中がごちゃごちゃしてしまっているわね。一度落ち着くために紅茶でも飲もうかしら。そう考えた私は行動に移す。部屋を出て、一階に降りて台所へマグカップを取りに行く。幸いな事に、台所には誰もいなかった。今の状態で話しかけられても、正直まともに答えられるか分からない。
紅茶のティーバッグを用意してカップにお湯を入れる。ここ数日はお父さんたちの楽曲の事を考えすぎて、華那に心配をかけてしまっているので、注意しないといけないわね。特に今、お湯を入れている時に零したとなったら、大変な事になってしまうわ。
カップを持ってリビングのソファーに座ってカップに口をつけようとして気付いた。ティーバッグを外していなかったわ。危うくそのまま飲むところだった。小さくため息をついてから私は再び台所に行ってティーバッグを捨てて戻る。
再びソファーに座って、もう一度あの曲について考える。インディーズ時代のものとはいえお父さんの音楽に対する純粋な想いがぶつけられた楽曲。それをRoseliaで演奏したらどんな楽曲になるか。期待も確かにある。今のメンバーなら、今のメンバーなりの色を出せるはず。
「『私の結論を尊重する』……リサはそう言っていたわね」
皆にあの楽曲を聞いてもらった日の帰り。リサにはあの楽曲がお父さん達の楽曲であることは伝えた。それと私の迷いも。そこで言われたのは、私が純粋にその曲について考えている事。そして、私が「どんな結論に至ったとしても尊重するよ!」といつもの優しい笑みを浮かべて言ってくれたリサ。
リサは気付けばいつも傍にいてくれて支えてくれる。しばらく疎遠になった期間もあったけれど、こうやって再び話すのもそうだけれど、音楽をする事ができるのは、華那のおかげね。
「あれ?姉さん起きてたの?」
そう思っていると、ふと華那の声が聞こえたので顔をあげれば、寝間着姿で眠たげに目を擦りながら自分の部屋から降りてきた華那がいた。もうそんな時間かと思い、時計を見れば十一時三十分を過ぎていた。……もうこんな時間だったのね。通りでお母さんもお父さんもいないはずね。
「ええ、考え事をしていたのよ」
「そっか……無理しないでね?」
「ええ」
心配そうな華那に私はそう答えて紅茶を飲み干す。華那も何か飲み物を欲していたようで、台所に行って冷蔵庫からペットボトルの飲料を取り出して戻ってきた。華那は私の隣に座ってペットボトルのふたを開けて口をつけた。ペットボトルのラベルからただのお茶ね。
「……ふう。ねえ、姉さん」
「なにかしら?」
「何か悩み事でもあるの?」
と、お茶を一口飲んでから私に聞いてきた華那。やっぱり華那は気付いていたようね。確かに部屋に籠りっきりとなれば、何かあったかと気付くわよね。大丈夫よ。次のライブのセットリストを考えていただけよ――と本当の事を隠して答える。
「そっか……あまり無理しないでね?姉さん倒れたらライブどころじゃなくなるから。それに……本当に私、心配だから……」
「華那……ありがとう。大丈夫よ。無理はしていないから」
と、隣に座る華那の頭を撫でる。気持ちよさそうに華那は目を細めて私に撫でられる。その様子がとても可愛らしくて私は小さく笑う。まるで撫でられている猫みたいな表情ね。しばらく撫でていると寝息が聞こえてきた。あら?と思って華那を見れば、私に寄り掛かって気持ちよさそうに眠ってしまっていた。
「ふふっ……仕方のない子ね」
起こさないように静かにソファーに寝かせて、華那の飲んでいたペットボトルの蓋を閉め、自分のカップを持って台所へ向かう。ペットボトルを冷蔵庫に入れ、カップを洗ってからリビングに戻る。
「気持ちよさそうに寝ているわね……」
ツンツンと華那の頬をつついてみるけれど、起きる気配はない。小さく笑ってから華那を抱きあげて、華那の部屋へ向かう。相変わらず軽いわね。私より軽いかもしれない。華那の軽さを心配しながら華那の部屋に入り、起こさないように華那をベッドに寝かせる。そして毛布をかけて、華那の頭を一度撫でる。
「……華那。華那があの曲を聞いたら、私が歌ってもいいって言ってくれるのかしら……」
眠っている華那に小さく呟く。私は卑怯者ね。直接聞くのが怖くて、返ってくる答えが怖くて、こうやって答えられない時にしか聞けないのだから。自分の覚悟のなさに呆れて、私は小さく息を吐いた。その後、立ち上がろうとして気付いた。
「まったく……華那は甘えん坊さんなのだから……」
華那の右手には私の服の裾が握られていた。無理やり引き離す事もできたけれど、華那を起こしてしまう恐れがあったので、私は華那を起こさないように一緒に寝る事にした。
「おやすみなさい、華那」
華那の頭を撫でてから私も目を閉じる。明日、もう一度あの曲を聴いてから考えよう。そう決めて眠りについた。
華那と一緒に寝た翌日の日曜日。今日は練習が無く、家で発声練習と新曲の作成をしていこうと考えるも、やはりあの曲が気になってしまっている私は、再びその曲を聴くことにした。昨日はイヤホンで聴いたから、今日はスピーカーで聴いてみましょう。すこし感じ方が変わるかもしれない。
そう思った私は椅子に座りテープを再生させる。激しいドラムとギターのイントロから始まるこの楽曲。Roseliaのメンバーなら間違いなくこの楽曲を演奏しきれるわ。でも……ボーカルは……。私はこれを歌っているお父さんのような純粋な想いを込めて歌えない。やっぱり、私にはこの歌を歌う覚悟が――
「すごい……この歌声ってお父さんだよね?」
「華那!?……入るときはノックをしてほしいのだけど?」
振り返れば、床にちょこんと正座した状態の華那がいた。華那の表情はかなり真剣な表情で、今の曲について色々と考えているようだった。だが、私の言葉に慌てた様子で
「ご、ごめんなさい!ノックしても返事なかったから心配で入ったら……」
「今の曲が流れていた……という事ね?」
「う、うん」
溜息を吐く私にごめんなさいと頭を下げる華那。あやまらないで、華那。別に私は怒っていないわ。ただ、私も集中しすぎていたわ。ノックの音に気付かなかったのだから。私の方こそごめんなさい、華那。
「ううん!姉さんが謝る必要ないよ!……それで今の曲は……?」
華那の問いかけに誤魔化せないと判断した私は、素直にお父さん達の楽曲だと伝える。その言葉に華那はしばらく何か考えているようで、正座から体育座りに姿勢を変えた。椅子に座らなくても、何か考え事をするときはその姿勢なのね。と、私が思っていると華那が口を開いた。
「姉さんは……この楽曲やりたいの?」
「……私にはできないわ」
華那の
「このお父さんの歌声は、純粋に音楽を楽しんでいるのが凄く伝わってくる。今の私にはこれだけ純粋に歌えるかと言われれば無理よ。私の音楽に対する動機は不純なものが混ざりすぎている……。それは華那。貴女も理解しているでしょう?」
そう。始まりは復讐。お父さん達の音楽を全否定した人達を見返すために私はこの道を選んだ。そして、その後に華那と私の夢を叶えるという後付けの理由がついた。それが私達の始まり。それは華那も十分に分かっているはず。
「……確かに私達の始まりは不純な動機だったかもしれない。それでも……それでも姉さん。私は
「私だからこそ……?」
真剣な視線を私に向けた華那の言葉に私は戸惑う。不純な動機なのは華那も認めているのにどうして?
「だって、そこまで真剣に悩むって事は、それだけ
「大切……に思ってる。私が?」
華那は笑みを浮かべて話しているけれど、私はその言葉に驚きを隠せなかった。この曲を最初聴いた時、魂が揺さぶられるような錯覚が体を走ったのは事実。けれど、大切に思っていたかと言われると分からない。
「姉さんは自分で気付いてないだけだよ。それだけ音楽と真剣に向き合っている。そんな姉さんだからこそ、この曲を、今できる最大の想いを込めて歌うべきだよ」
「想いを……込める……」
華那の言葉に私は顔を上げる。想い。どんな想いでも構わないというの?歌い始めた動機が不純なものでもいいというの?私が答えられずに
「何を躊躇っているんだい、友希那?」
「!?……お、お父さん!?」
「お父さん!?いたの!?」
「ああ。扉が開いていたからな。そしたら、もう十年以上前の懐かしい曲が流れていたからな。しかし、よく見つけたな、その曲」
突然お父さんの声がしたので部屋の扉を見れば、扉に背を預け、腕を組んで立っているお父さんの姿があった。私と華那を優しい目で見ているお父さんに私は答えた。
「お父さんがこの曲に込めた純粋な情熱。音楽への想い。それら全てを私の歌声で表現する事……いえ、歌声にのせて歌える自信がないの」
下を向いて自分の思いを吐露する。そうだ。今の私は音楽に対して純粋な気持ちで向き合う事が出来ていない。華那の歌声を奪った事。お父さん達の音楽を認めさせる事。色々な想いと迷いがこの曲を歌う事を躊躇わせている。
「そうか……友希那。それなら、今友希那が想っているもの、すべて込めて歌えばいい」
しばらく無言だったお父さんが優しく微笑んでそう言った。私は驚いた。だって。私の迷いや不純な気持ちを全てのせて歌えって言ったのだから。そんなのでいいの?
「お父さん?」
「この曲、音楽に対する今のお前の想いなんだろ?それなら、それを精一杯込めて歌いなさい。どんな感情でも構わない。それを音楽にぶつけろ」
最後は真剣な表情で私に語り掛けるお父さん。華那は驚いた様子でお父さんを見ているけれど、黙って私とお父さんのやり取りを見守っていた。
……どんな感情でも構わないから、それを全部音楽にぶつける。でも、そんな想いや感情を込めた未完成な歌でもいいの?
「友希那。よく聞きなさい。完成された音楽じゃないと演奏できない音楽なんて存在しない。そして、今お前がそこまで悩んで悩んで、悩みぬいているのは、音楽に対して純粋な心をもって接しているという事。だから自信を持ちなさい。お前の想いは純粋で、誰にも真似できないものだという事を」
優しく諭すように話すお父さんに言葉一つ一つを心の中で繰り返す。そうだ。リサも同じ事を言っていたじゃない。華那を歌えなくした原因は私にある。なら、その分の想いを込めればいいという事。きっと、想いを込めれば届く。華那なら気付いてくれる。なら私がやる事は――
「華那。お前にも言える事だぞ?」
「え、わ、私!?」
と、私が決意を固めている間に、お父さんが今度は華那に話しかけていた。華那は突然、話しを振られた事に驚いていた。でも、華那にも言える事っていったい何かしら?疑問に思った私は二人の会話を真剣に聞く。
「まだギターが正確に弾けないと思っているようだが、もっと自分は弾けるって自信を持ちなさい。お前のギターの技量は同世代の中ならトップレベルに近い。カッティング技術もそうだが、哀愁のあるトーンはお前にしかできない音だ。だから、悲観的になるな。それが音楽に悪影響を及ぼすからな」
「う、うん」
褒められた事に照れながら、きちんと話を聞いていた華那は頷いた。それを見たお父さんは言いたい事を全部言ったからか、「後はお前達次第だ」と言って私の部屋から出て行った。
沈黙が部屋に訪れる。でも、その沈黙は嫌な沈黙ではなかった。そして私はふと気付いてしまい、小さく声を出してしまった。
「どうしたの、姉さん?」
「お父さんに『ありがとう』と言えなかったわね」
そう。せっかく背中を押してくれたというのに、私達はお父さんに感謝の言葉を伝えられなかった。どうしたものかしら。
「そう……だね。後で一緒に言いに行こう?」
「ええ、そうしましょう」
華那の提案に私は乗る事にした。華那はしばらく考えていた様子を見せたけれど、私に笑顔を浮かべて「部屋に戻るね」と言って部屋から出て行ってしまった。私だけ残された自室で、先程のやり取りを思い返しながらスマホの通話アプリを起動させる。
Roseliaの全員が入っているトーク部屋を選択して、次の練習日――明日だけれども――にセットリストについて大切な話をすると連絡する。これだけで全員に伝わるはず。そこであの曲について話す。
それと同時に私の想いも。理解されなかったらどうしようとかその時は考えなかった。さてと、編曲を考えないといけないわね。特に燐子のパートと紗夜のパート。二人の意見も必要だけれど、ある程度
そして、翌日。私の想いと楽曲が誰のかをメンバーに伝えたのだけれど、みんな理解してくれて、さっそく練習をする事になったのは別の話しね。本当に、良いメンバーに巡り合えたわね。華那に感謝ね。さあ、ライブに向けて練習に集中。華那もお父さんも見に来てもらえるようにお願いするのだから、無様な姿は見せられないわ――