良い状態とは言えないと、分かっているからこそより悪く感じてしまう。
それでも本気を出せば、素直になったりもするんです。
男は目覚めて直ぐ、酷く薄暗いと感じた。
まだ日も昇ろうかといった所なのだろう。安っぽいカーテンの隙間から、幾らか光の筋たちが頼りなさげに漏れ出ている。僅かなそれらで男の目につくのは、床に脱ぎ捨てられた服やゴミたちのみ。
せめて何時なのかと、上半身を起こして壁にかけられた時計へどうにか視線をやる。だが、ただでさえ不確かな視界。加えて普段の不摂生のためか落ちぶれた視力が、まともにその長針すら映すことはなかった。
アラームはつけていたなと、そう自身を納得させたところで男は何かの熱を感じた。ふと見れば、隣には見覚えのある女性。その記憶はしっかりとした、確かなものではない。うろ覚えで、どこかですれ違ったかどうかといったおぼろげなもの。何故か少し痛み出した頭で思い出すのは、決して良いとは言えない昨夜のことだ。
女性は男の、ただの知り合いだった。それは恋人でも、友人ですらない。男が飲み仲間と店に行った先で、偶然知り合った相手。その相手が、惜しげもなく素肌を晒して隣で眠っている。
痛む頭の理由が二日酔いだと気づいた時には、男は考えることを止めていた。未だ春には程遠い季節の中、感じ始めた身を刺す感覚に除けた羽毛布団を羽織り直す。
慣れた動作で再び横になった頃には、男はもう寒さを忘れていた。柔らかくもまだ熱を感じさせる寝具、抱きしめ直せば身動くも伝わるほどよい熱。それらが男から考えることを放棄させ、また深い意識の底へと沈めていく。
暫くして男が起きた時には、既に部屋の中の人間は男一人。だが慣れたように通帳とハンコの位置を確認した後、何事もなかったかのように遅めの朝食を作り始めた。男の頭には、もう件の女性はいない。そういうものだと、男にとっての日常をようやく始めていく。
近くのスーパーで買った徳用のウインナー、牛乳とマヨネーズを入れたスクランブルエッグ。あとは炊かれていた米をよそい、湧いた電子ケトルのお湯でインスタントのスープを作る。申し訳程度に置かれた二つのミニトマトが、かえって男の適当さを表しているようだった。
食後に食器を流しへ付け込めば、やることもないと言わんばかりに炬燵へ潜り込む。食事前から既につけていたため暖かく、冷水によってかじかんだ指先を元に戻していく。
テレビをつければ流れる男以外の人々。時に悲しさや楽しさを伝えてくれるそれを、男は炬燵に入り、柔らかなクッションにもたれながら見つめていた。仲間との他愛ない会話に携帯を弄りながら寄越す視線には、ただの景色程度にも映りはしなかったが。
弄る携帯から機械音が鳴り響く。煩わし気に画面上部の数字を見た男は、昨夜寝る前にセットしていたアラームが機能したことを理解した。
のっそりといった様子で立ち上がった男は、着ていた服を脱ぎ捨てタオル片手に風呂場へ。出た頃には寝ぐせでボサボサだった頭も、しかと濡れた様子で垂れ下がる。ほのかに香る石鹸の匂いを纏いながら、その日の服を着た後に髪をドライヤーで乾かし始めた。
いつも男の髪を切る美容師を真似て、こんなものだったかと慣れない手つきで乾かし終える。勧められたワックスを使った、同じように覚束ない様子でセットされる男の髪型。
セットした男自身、この髪型で合っているのか分からない。むしろ仲間たちには似合わないとすら言われていた。ただなんとなし、この後会う女性からのウケがよかったため。今朝とは違うその女性からの、送られた言葉がどれだけ軽いものなのかも自覚したまま。どうしようもないまま、男は部屋をあとにする。
部屋へと帰る頃には、既に日は沈み切っていた。扉を開けた男の足取りは非常に重たく、体中を鎖で雁字搦めにされたように鈍重のまま。震えながら暖房の電源を入れたところで、着ていた上着を床に脱ぎ捨てて倒れ込む。悲鳴のように酷く軋む音を立てながら、備え付けのベッドが男を深々と受け止めた。だが男はそんな事気にもせず、そのまま背中を丸めたように縮こまる。
パンケーキにパフェやタピオカ等々。昼に女性と過ごしてきた中で、口に入れてきた物は多々ある。だが胃の底から沸々と競り上がってくる不快感は、決してそれらだけのせいだと男には思えない。数十分では済まず、もう幾らかはそのまま、ただひたすら何かに耐え続ける。
そうでもしていないと、どうしようもなかった。寂しいという感情に呑まれそうだった。何をやっているんだと、自分自身に呆れて物も言えなくなる。気づいたらこの感情たちが、どこかへ消えて行ってくれないか。自嘲気味に嗤いながら、男はそんなことを考えていた。
機械音が鳴った。くたびれたシーツから顔だけ上げ、男が聞こえた方へと視線だけ向ける。昼頃に鳴っていたアラームとはまた別だ。ピコんと可愛らし気に、短い音が部屋に響いた。静かな部屋の中では、とてもではないが気づかないふりも出来そうにない。それでも数秒迷った後、男はおもむろに手に取って画面を開けた。
男は通知を確認し、少しの操作のあと軽く放り投げる。バイトの後輩からだ。新しく入ってきた同期がうっとうしいらしく、また愚痴会という名の飲みの予定を空けておいた。
再びうずくまった男は、逃げるようにその両目を閉じる。視覚に聴覚といった具合に、意図的に外からの情報をどんどん断っていく。狭まっていく世界は、けれど男にとってはとても心地いい。終わりには深く息を吐き出し、自らの意識すらも沈めていく。深く静かな世界を、とても心地よいと男は感じていた。
沈む時とは裏腹に、不快感を隠しきれない表情で男は目を覚ました。部屋に帰って来た時ほどではないが、あからさまに眉間へしわを寄せている。
薄らとだが感じる、鉄を口に含んだかのような感覚。男が口元に指を這わせば、端が僅かに切れていたことに気づく。暖房をかけたまま寝てしまったからだろう、呼吸するだけで喉奥が焼けたように痛みもした。
飲み物を取ろうと冷蔵庫に向かう。開ければそこに、同じ種類の酒が何本も冷やされていた。迷うこともなく手元に近い数本を取り、ベッドに腰掛けた状態で蓋を開ける。
勢いよく煽ったそれは、当然だが寝起きの男にはかえって辛いものであった。枯れた喉を炭酸がより荒し、焼けたような痛みが再び走る。数分としないうちに顔に赤みが浮かべば、思考に至っても正常とはとても言えない程朦朧とする。
再び機械音が鳴る。それは寝てしまう以前にも覚えのある、非常に大きな音ではあった。だが酩酊した男にとっては、遥か遠くのどこかしらから聞こえたように僅かなもの。だからこそ、そんな男が捉えられたということは、それほど意識に残すものがあったのだろう。
非常に緩やかな動きではあったが、放り投げていた携帯を拾い確かめる。明かりの点いた画面には、先ほどと同様に浮かぶ一件のメッセージ。だが先ほどとは違って僅かでこそあるが、男は確かに笑みを浮かべた。
画面に指を滑らせ、まだ赤みの残る耳に当てる。それは先ほどまでとは違い、よどみなくも流れるような動きであった。特徴的なコール音が揺れる脳内に、決して広くはない部屋の中で響く。そしてそれは、暫くもしないうちに鳴りやんだ。
『もしもーし』
女性の声だ。今朝とも昼頃とも違う、また別の男を伺うような声が携帯から響く。所々で雑音が混じってこそいるが、男がその声を捉えないということはなかった。
男が携帯越しに、女性へ向け返事をする。女性のオウム返しではあるが、確かに聞こえてくれるよう発したものだ。むしろ自覚できるほど穏やかなその声に、男自身で密かに驚きもしていた。
『ん? もしかして寝てた?』
携帯越しでくぐもっていたせいか、それともアルコールで喉が焼けていたからだろうか。さてはとばかりに返された疑問に、男は何故だか慌てて否定する。その様子があまりに分かりやすいものであったためか、女性はさらに声を大きくさせる。そしてそれに否定しようと男が返し、女性はまたもや言い募る。
けれど繰り返されるそのやり取りに、少なくとも男は決して不快感を抱くことはなかった。慌ててこそいるものの、語気の一つも荒げることのない言葉たち。表情を伺う必要なく、悪い気の一つもしていないのは明白だった。
『――そういえば、最近は何してたの?』
男は確信をついたようなその質問に、けれど言いよどむことなく話す。今朝起きた所から電話で話し出す直前までを含め、近頃何をしていたか緩やかに話し始めた。隠すほどのことではないと、そう男が考えている訳でもない。当然そこいらの他人に話さなければ、普段よく連れ立つ仲間たちにも話すことはないだろう。
何故なら話を聞く女性は、そんな男の在り方を過度に否定しなければ肯定もしない。話の中で時折り呆れながら、共感を示しながら男の話を最後まで聞き続けた。人によって非難されることもあれば、諭すようにひたすら語りかける者もいる。当然それらこそを必要としている者もいるのだろう。だがそうではない女性との時間を、男はとても心地よく感じていた。だからこそ素直に頼り、話すことが出来ていた。
『そっか、色々あったね。私はさ――』
男が区切りよい所まで話せば、次は女性が話し始めていく。それは気に入っている歌であったり、最近のちょっとした悩み、友人と行ったおいしいラーメン屋の話など多岐に渡る。それを女性同様、男は節々で相槌を打ちながら聞いていく。
言ってしまえば、日記のようなものだった。特に決めごとがあるわけではないが、何日かに一度、その間にどんなことがあったかを話していく。内容によって一時間ほどで終わる時もあれば、日が昇る直前まで続くようなことも。
そもそもが、以前に男と関係を持っていた女性との友人。気不味く思うことはあれ、こうして関係が続いていくとはお互い思いもしなかった。そんな何となくではじまった、当事者である男からしても不思議なやりとり。
だがその不思議なやりとりを、男は悪いと思わなかった。頼ることができる相手がおり、同様に頼られることもある。それによって安心感を覚えれば、不謹慎ではあるが、頼られる相手という事に嬉しさのようなものを感じることもあった。
男が話せば恐らく、女性は重いやつだと笑うことだろう。自覚している節のあるそれに、男は知っているとまた笑うのだ。そこまでのやり取りが朧気だが頭に浮かび、男はやはり笑ってしまった。
『今日はいつもより機嫌いいね』
そう、女性の言う通り男は機嫌が良いのだ。溜まっていたものを吐き出すことができ、女性の日常に微笑むことができ、何より酔ってしまっている。
そのため普段は碌にすることもないのだが、どこか期待した女性の声に応えたいとも思えた。常日頃から自身のことで精一杯と言って聞かない。そんな自身以外の誰かを顧みること少ない男が、素直に女性へ伝えたいと感じた。
「
男は案外悪くないなと、ありがとうと喜ぶ声を聞きながら笑った。