馬鹿だとは分かっていても。
踏み出す一歩に、男は少しの違和感を持った。
地に足が上手くついていないような、不思議な感覚によろけて壁に手をつく。なんだと足元を見れば、靴ひもが片方だけ解けていた。お気に入りの靴で出かけようと考えていた矢先、幸先の悪さに男は苦笑いを隠せなかった。
それでも気を取り直し、ゆっくりと家のドアを開ける。見えた外の天気は快晴で、雲一つない青空が広がっていた。早朝にしては暖かな空気が男の肺へと流れて来る。もう少しで春の訪れを感じさせる、気持ちのいい朝だ。
家を出て直ぐ、男の目の前を通り過ぎていく人々はにこやかに笑っていた。1人も、2人や3人ほどで連れたつ人々も。彼らは趣味に将来の夢、恋や友情等々を語り合う。思い思いに想像を膨らませているのだろう。男にとってそんな彼らは微笑ましく、幼げで可愛らしく見えた。ごく稀に男がその輪に入ることもあのだが、その様は酷く楽し気に見えた。
ただ、時折だが浮かない顔の者を見かけることがある。そんな者には、男はこぞって隣で寄り添おうとした。時間を忘れる程に話を聞いたことがある。当たり散らされ、暴力を振るわれたことがある。だが、男のやる事が変わる事は終ぞなかった。
語りかけられれば、慎誠に耳を傾けた。
『君が僕に打ち明けることで、少しでも楽になるのなら』
助言を請われれば、誠実に口を開いた。
『あくまで自分の考えでしかないのだけれどね』
それらが必要ないのなら、ただ静かにその場で佇んだ。
『ただ、此処に僕はいつでもいるから』
どんな時でも、男はただ静かに微笑む。笑って、冗談を交え、会話を重ね、彼らと関係を築いて来た。当然、彼らそれぞれの行き先は大きく異なってくる。にこやかに過ぎゆく彼らと同じく、思い思いに自分の道を進んでいった。男はそれに少しの寂しさを感じながら、彼らの背中を今日もまた見送る。
「え、ちょっ!?」
そんな何一つ変わらない、どこまでも綺麗な景色を眺めていた時だ。男の目の前で、1人の少女が転んだ。何かに足をもつれさせたのか、それは綺麗に顔からヘッドスライディングをかましていた。男は突然の出来事に目を丸く開いて固まり、次いで勢いよく起き上がった少女に肩をビクつかせる。強かに打ち付けられた顔は、仄かに赤らんでいた。
「……痛く、ないし」
間違えようもない強がりだった。
「ええ……ッ!」
男は無理のある誤魔化しに一瞬呆れるが、直ぐに表情を固くする。真一文字に口を結ぶ少女の、その足の様子に気が付いたのだ。よくよく目を凝らせば、右ひざに怪我を負っている事が分かる。皮が裂け、抉られた肉からはとめどなく血が溢れていた。見た目通り酷く痛むのだろう。瞳には零れそうな水面が膜を張り、小さくうめき声を溢していた。
「少し休んでいかない?」
男は静かにそう提案する。これまで男がしてきたように、これからもそうでありたいと願う理想像として。
「辛いし、痛いし、苦しい」
「うん」
溢す少女の弱音に、さもありなんと男は相槌を打つ。
「でも、こうするしかないから」
男は今にも泣きそうな瞳と声音に対し、困ったように笑った。男自身、とてもよく知っている言葉だ。これまですれ違った浮かない顔の人達が、よく口にしていた言葉だ。無謀で、向こう見ずで、怖い物知らずな恐ろしい言葉。
「いいんだよ、少しぐらい休んでも。疲れた時、辛い時、怪我をした時。君が耐えられないものと出会った時に、ほんの少しでも休んだとして、誰が君を責めるだろうよ」
転ぶ少女に、男はそう吐き捨てる。少女の話をよくよく聞いた上で、これまで浮かない顔の者と接した時のように一切変わらず。ありがちで、月並みな言葉を少女へ吐き散らかした。
けれどそれは、優しくも正しい言葉だ。確かに三文小説でよく見る文字の羅列。話す人や聞く人にとっては、酷く薄っぺらく感じるかもしれない。ただそれすらも理解した上で話す男は、至って真剣に、男自身の言葉として少女に寄り添おうとした。男の表情、声音には本心からそう思っているという凄味があった。それがただ切実な心配として、少女に伝わればと。
「大丈夫、です」
少女は拒絶した。
「もう少し、頑張りたいんです」
辛い時、苦しい時は逃げてしまえばいい。人には人の、耐えられる度合いがある。それを容易く超えてしまうような不幸を前に、逃げることはなんら恥ではない。
そうでなくとも、休むくらい許されて然るべきだ。ゆっくり休養を取り、心身を癒し、次に備えればいい。勝手な男の見立て、現在の少女はそういう類のものだ。
「色々なことに逃げないで向き合ってみたい。ぶつかってみたい」
「自分が正しいと思う方向にいけるように努力したい」
「私は、私らしくなりたい」
少女は男へと頭を下げ、また歩き始める。男は言葉の意味の半分も分からなかったが、少女の様子に見送る事しかできなかった。ただ、少女の後ろ姿は男の視界から外れない。背中を丸め、片足を引きずり、本当にゆっくりとだが進んでいく。
ふと、少女の靴紐が片方だけ解けていることに男は気づく。恐らく転んだ原因だろう。けれど少女は、気づかずにそのまま進んでいく。そんなことなど気になるものかと、少女は前だけを見据えていた。そんな少女に、男はもう声をかけることもできなかった。
男から少女の後ろ姿が見えなくなる。馬鹿みたいに大口開けて呆けている間に、その影すら分らなくなるほど遠くへと行ってしまった。
「……はあ」
暫くしてため息ひとつ。男は疲れたような表情で身体ごと振り向き、目の前の自分の家のドアを開いた。のろのろと家の中へと入ると、力ない音を静かに立てながらドアを閉め鍵をかける。
靴は脱がずにそのまま。廊下を通り抜けて男の自室へと向かう。靴を脱ぎ忘れる程に頭が回らないのだろう。表情は真っ青を通り越して白く染まっていっており、死人を易々と連想させた。幸いと言っていいのか、踏みしめた廊下に足跡のような物は見当たらない。隅に埃が少し溜まっている程度の、ごく普通の廊下が草臥れた男の背中を見送る。
「あ、やっちゃった」
自室に着くと直ぐにベッドに横になろうとする。その際ようやく気づいたと言わんばかりに足元へ目を向け、部屋の隅へと脱いだ靴を転がした。
転がっていく靴を見送ることなく、男はベッドに置かれたシーツに包まる。休もうとしているとは言い難い。頭からつま先まですっぽりと覆いかぶさり、寒気がするのか小刻みに強く震えている。何か恐ろしい物を見たかのように、幼い姿がそこにある。有様は滑稽で、いっそ哀れにも見えた。
「あの子、すごいなあ」
シーツの奥深くで、男がポツリと小さく呟く。
「なんであの怪我で動けるんだろう」
僕とは違って――付け足された声は、酷く弱々しかった。
誰に対しても分け隔てなく接する男は、遠い昔に既に心折れていた。家族、友人、恋人と理由は様々。だが確かに男自身の心は粉々、僅かばかり心落ち着く家の中で隠れるように生きていた。
望んだことではない。それは少なからずも、他者と交流を持とうしていたことからも分かる。覚束ない足を引きずり、内心泣きそうになりながらドアを開け、震えそうな声を押し殺すものだが。それでもこのままの自分ではいたくなかった――ただそれだけのために、ただそれさえ出来ればと自分を叱咤し続けていた。
実際、男はうまくやっていた。
心折れた男の過去を思えば、称賛されてしかるべし。それは誰より男自身が感じていた。自分以外の他者と交流を深める中で、ほんの少しずつだが、確かな自信となりつつあった。
そしてだからこそ、先ほどの少女を見て酷く恐ろしく感じてしまった。少女の足は見るのも憚れるほど痛ましい有様だった。動かずとも刺すような激痛が常に走っていたことだろう。それが分かって、想像して、男は理解したのだ。
「僕は、彼女のようにはなれない」
きっと自分が同じ立場なら、迷わず足を止めていただろう。少女にどんな理由があり、どんな状況に遭っていたのかなんてこれっぽちも男には分からない。ただ一度心折れたからか、痛いほどに分かった上での、静かな男の叫びであった。
『君が耐えられないものと出会った時に、ほんの少しでも休んだとして、誰が君を責めるだろうよ』
男は、少女に言った。言ったが、全てが本心からではない。それはシーツの奥、頭の上で掻き毟るように両手を静かに暴れさせる男を見れば明らかだった。きっと足を止めた時、少女は自身を責めるだろう。その確信が男にはあった。かつて、そして今現在に至るまで男が自身を責め続けているのだから。
心ない者は一定数いるが、男の周りに強く責め立ててくるような者はいなかった。そして自分の身に起きている不幸、状況は、世間一般的に見ればありふれたものだとも知っていた。知っていたからこそ、今の逃げるように隠れ生きるこの状況が恨めしく自身責めたてざるを得なかった。
他人と自身の生き方を比べても、ただ馬鹿らしいという事は分かっている。だがそれでも男はかつての自身を少女に重ねてしまい、そして少女はかつての自身を超えて行った。少女にその気がなくとも、男自身が後にふざけた考えだと鼻で笑えても。男がそう感じてしまった。たとえ的外れだとしても、それだけが事実なのだ。
男が濡れそぼった瞳を擦ると、ズレたシーツの隙間から部屋の様子が少しだが伺えた。それは部屋の隅、転がった男の靴がある場。真っ白なスニーカーは汚れ一つなく、靴紐はどちらとも固く結ばれていた。
それがまた酷く恐ろしいものに見えて、男はまた深くシーツへと潜る。やがて落ち着いた呼吸音だけが部屋に響き、暫くしてそれがまた寝息へと変わっていく。その現実と夢との狭間で、男は馬鹿だと自分を嗤いながらも願う。
――せめて夢の中では、苦痛で悲惨で凄惨な人生を
男は知る由もないが、少女は暫く歩いた後にいつかの少年と同様心折れる。その際にふと思い出して、自嘲気味に嗤うのだ。
あの時、男の言葉にもう少し耳を傾けていたら――と。
少年が、少女がどうすればよかったのか。何が正解で、何が不正解だったのか。月並みな言葉だが、そんなものは正しくどこにも在りはしなかった。
ただ解けた靴紐に気づかない人生とは、誰にとっても輝かしく見えてしまった。