それは6月最初、学校が長期休暇に入る直前の事だった。
「なぁ、知ってるか?」
ある男子が帰り支度の最中の女子2人に話し掛ける。彼女ら——メアリーとリリィは反射的にそちらを振り向いた。
「あっちの山で"人喰い事件"があったらしいぜ」
男子は輝かせた目を彼女らに向けたまま拳を握っている。リリィは"またそれ。"と溜息を吐いて呆れた様子を露わにさせた。
「そういう作り話ばっかり。もう、やめてよね」
「作り話じゃねえってば!マジで雑誌に載ってたんだよ!」
「オカルト雑誌でしょ、どうせ」
彼女はツンと男子に顔を背け、同じく目を輝かせ始めたメアリーの頭をコツンと軽く小突いた。
「メアリーが本気にするからダメ」
まるで保護者のような理由付けをして、彼女は帰り支度の続きを始める。その隙に男子はカバンから件の雑誌を取り出してメアリーに該当のページを見せつけた。
「な!本当に載ってるだろ?」
「ほ、本当だ……"アークレイ山地人喰い事件!凶暴な犬型モンスターとの関連性とは?"だって…!」
「モンスターってだけでやべえのに更にやべえよな!?」
2人でキラキラと目を輝かせている光景を前に、再びリリィは溜息を吐いた。
彼らが住むラクーンシティ。観光地として有名なアークレイ山地を始め、豊かな自然に囲まれた小さな街。
しかし製薬会社アンブレラの介入により、街は飛躍的な発展を遂げた。この学校もアンブレラの援助で建てられたものらしい。生徒の親がアンブレラで働いている、なんて事も少なくない。実際、メアリーの父親もアンブレラで働き、帰る暇もない程の仕事で充実しているそうだ。
「でさ。ここに行ってみないか?」
そんな男子のセリフでハッとリリィは我に返った。メアリーはというと、コクコクと同意するように頷いている。
「ちょ、ちょっと待ってよ。それは……危なくない?」
彼女が制止の声をあげると、男子はしたり顔で笑う。
「はーん…?作り話なんだろ?だったら危なくなんてなくない?」
うぐ、とリリィが怯むのを見て更に言葉を続ける。
「もしかして、リリィさん怖いとか?」
「こ、怖くなんかないわよ!」
思わず大声を張るリリィにケラケラと男子は笑っていた。それを見てメアリーはオロオロと2人の間で視線を彷徨わせた後、リリィの手をきゅっと握った。
「大丈夫だよ、リリィ。これが本当かどうか、遠くの方から確かめるだけだよ」
"肝試しみたいなものだよ"と付け足してメアリーは穏やかな笑顔を見せた。
「肝試しにしては、時期が早いような気がするけど……」
それでもリリィは不安げだった。得体の知れない恐怖が背筋から這い上るような、そんな気持ち悪い恐怖で胸がいっぱいになった。
「……じゃあリリィはお留守番、って事で」
「えっ……」
意外な男子の言葉に思わず短く声が漏れる。そちらに視線を向けると、あの意地悪な笑みはニッとした爽やかなものになっていた。
「本気で怖がってる奴を引きずっていくなんて事、出来ねえし?メアリーは今日の夜9時にアークレイ登山口な!」
言い返す余地なく、男子は勝手にパパッとスケジュールを組んでリュックを背負い教室を出て行ってしまった。
「じゃな!」
そう短く挨拶をして。
そして夜9時の30分前。
リリィは父親が仕事で遅くなると連絡を受けて密かにサムズアップした。
「やっぱり心配だし、行かなくちゃ」
救急道具やお菓子や水の入ったリュックを背負い、彼女は夜の外へと繰り出した。
いつも一緒にいるメアリーとは親友で、どちらも母親を亡くした片親という事で意気投合した仲だ。同じ境遇で頑張っているメアリーを見ていると、自分まで勇気付けられる心地になった。
そんな大切な親友が危ない事をしようとしているのだ。自分が何もしないわけにはいかない。
(確かに嘘かどうかは分からないけど……もし本当だったら絶対危ないし)
人喰い事件。犬型モンスター。
そんな物騒なものに親友を与えるつもりは毛頭ない。
「あ、リリィ!やっぱり来てくれたんだね!」
路線バスに乗ってアークレイ登山口に辿り着くと、メアリーが大きく手を振ってにこやかに笑い掛けていた。
「あれ、メアリー1人?」
時刻は夜9時を少し回った辺り。女の子をここで1人待たせるなんて、とリリィは思ったが、彼女は苦笑いを浮かべる。
「やっぱり親に見つかっちゃった、って。さっき家出る前に電話があったの」
"大変だよね"と付け足していた。
親2人に他の同居している家族の目を掻い潜ってなど、難易度が高過ぎる。それに子供がこんな時間に外出だなんて普通は考えられない。
「でも、どうして……」
それなのに何故メアリーはここにいるのか。中止の電話があったなら、来なくてもいいはずだ。
すると彼女は苦笑いを微笑みに変えた。
「リリィの事だから、私の事が心配で来ちゃうかなって思って。誰もいなかったら嫌でしょ?」
リリィはたびたび、メアリーの保護者のように振る舞いがちだ。というのも、メアリーは好奇心旺盛でちょっと心配になる時があるのだ。でもいざとなれば、このように想像力がいい方向に働いたり頭の回転が早い時もある。
「……そうだね。実際に来ちゃったし」
観念したようにリリィは苦笑いを浮かべる。それを見たメアリーは彼女の手を引いてアークレイ山地に足を踏み入れた。
「よし、そうと決まれば行こう!」
「えっ!?帰るんじゃないの!?」
夜の山。それだけでも十分危ないのに、メアリーは持参した懐中電灯のスイッチを入れて微笑む。
「どうせ何もないよ。私、あんな記事だったから緊張してたけど……特に封鎖もないし看板もないじゃん。きっと大丈夫だよ」
リリィは辺りを見回した。確かに犬型モンスターや人喰い事件があるなら注意書きのひとつ、あってもおかしくはない。
やはりあんなゴシップ雑誌の記事などで躍らされたこちらがバカなのかもしれない。
そんな事を考えているリリィをよそに、メアリーは彼女の手を引いて夜のアークレイ山の登山コースを辿っていった。
それから数十分。
登山コースの看板を見ながら2人の少女は緑豊かな夜の山を登っていた。ここは観光地としても有名なため、頂上だけでなく中腹辺りにも展望台があるのだ。そこからならきっと、夜空も綺麗なのだろう。今回の肝試しはそこをゴールとする事にした。
しかし。
「展望台まで……あと1km…!?」
あれから随分歩いたのにまだそれ程の距離がある。2人は看板の下に設けられた切り株を模したベンチに腰を下ろすと水分補給をしながら上がった呼吸を整える。まだ明るいうちならともかく、夜で視界も悪い中を進むのは知らずのうちに気を張ってしまうものだ。それもあって疲れは倍増しているようにも思えた。
「やっぱり今日は帰ろうよ……学校も終わったんだし、また明日でも昼間に時間取れるよ」
リリィもお手上げといった状態だ。今まで何もなかったとはいえ、何故か不気味な雰囲気に包まれているのは夜だからというだけではないだろう。メアリーは今更のように恐怖を少しずつ募らせていった。
「そうだね……やっぱ帰ろっか」
休憩もそこそこに、メアリーは再びリリィの手を握って立ち上がる。2人とも手のひらが汗でじっとりとしていたが、繋いでいないと不安だった。
「ッ!?」
そこに、少し遠くの方でガサガサッと木の葉が擦れる音がした。今この瞬間、風は吹いておらずその不自然な音は2人の鼓膜を敏感に刺激した。
「……!ねえ、ちょっと……!!」
しかし何を思ったのか、メアリーはリリィの手を引いて音のした方向へと、登山コースを外れて歩き始めたのだ。観光客に踏み締められた道とは違い、整備もろくにされていない自然のままのフィールドは懐中電灯の光があっても心許ない。
「ねえ、帰れなくなっちゃうよ。それにこんなの……」
「だ、大丈夫、真っ直ぐ歩いてるだけ。ヤバかったら真っ直ぐ戻ってくればいいんだよ……」
メアリーは不安げなリリィに、そして自分にも言い聞かせるように呟く。バクバクと心臓が鳴っているのが聞こえる。繋いだ手から、懐中電灯を握る手にも汗が噴き出す。
「……ッ!!」
その時、少し先の足元を照らす光が、血塗れの肉片を映した。
次いで何かを咀嚼するようなクチャクチャとした嫌な音が聞こえる事に気付く。その音の正体にゆっくりと懐中電灯を向けた時、2人は初めて気付いた。
本当に恐怖を感じると、足が竦んで動けないし、声も出ないんだと。
ぬるりとした汗がガクガクと震えるメアリーの手から懐中電灯を落とさせた。その光に照らされた爛々と光る目は確実に2人を捉えて離さない。
「犬……っ」
ようやく絞り出せたどちらかの声がそう紡いだ。
そう、犬だ。咀嚼音を出していたのは目の前にいる犬。犬種はドーベルマンだろうか。しかしその足元に転がっていたのは餌でよく見るような形状の肉ではない。
茂みに隠れて全ては見えなかったが、あれは間違いなく、視認できた範囲に転がっていたのは人間の頭部だった。
不思議だった。もう懐中電灯は自分の手から離れていて見当違いな場所を示しているのに、犬の両眼は光を放っているかのように見えるのだ。そしてそれは、自分達の方へゆっくりと近付いてきている。
「……ッ……ッ」
助けを呼ぼうにも声が出ない。そもそも、こんな時間にこんな場所で声を張り上げても誰も来ない。
リリィは無意識にメアリーの肩を抱き、メアリーもまた彼女の腕にしがみついていた。
涎を垂らしながらあの光る両眼がこちらに飛び掛かってくるのが、まるでスローモーションのように思える。
そしてそれは固く目を瞑った直後に聞こえた銃声のような破裂音と共に終わりを迎えた。
暗転。
直後、パチッと光に照らされて意識が急速に戻った。
いつのまにか腰が抜けて座り込んでいたようで視界が低く、目の前を見ると懐中電灯を手に自分達に合わせるように屈んだサングラスの体格のいい男がそこにいて、その事にもビクリと肩を震わせて2人で驚いた。
「山奥で夜遊びか。随分と野性的だな」
男の低い声は溜息混じりに呟いていた。
どれくらい目を瞑って五感を塞ぎ込ませていたのか分からない。だが目の前にいるのは男で、犬はいない。
(ゆ、夢……?)
メアリーはクラクラと視線を彷徨わせた。しかし男の足元に視線をやると静かに息を呑む。
鮮やかな新緑の落ち葉に血痕が付着している。加えて男の腰にはホルスターとそれに収まる拳銃があった。
「い、犬は……?」
恐る恐る、メアリーは男に問いかけた。それはか細い声であったが、静か過ぎる山奥ゆえに男の耳にはっきりと届いていた。
「犬?ここに野犬は生息しない。それよりここは危険だ。まずは山を降りる」
男はそう言って立ち上がった。