暫く「先祖返り」を更新するよう頑張ります。
あの子を拾ったばかりの頃、絶対幸せにしてやろうと思った気持ちに嘘はない。
あの子を捨てた親よりも、あの子と同じ親から生まれた兄弟よりも、あの子を幸せにしてやりたいと、私は本当にそう思っていた。
今だって、そう思う。
でも。
どうしようもない身分制度。それによる収入の差とチャンスの差。職業選択の自由も無く、何かをうっかり手に入れてもバラモンやクシャトリヤに難癖付けられて奪われることが少なくない。誰も彼もがそれを当たり前だと思っていて、嘆きはしても怒らない。怒らないからどうにかしようという気概も無く、私みたいな異端の言動は「頭がおかしい」と笑われるばかり。
無力だ。
笑えるほど無力だ。
私にジャンヌ・ダルクみたいなカリスマがあれば何かが違ったかも知れないけど、そもそも私は信心深くも無いので無理な話だ。結局私も、他より少し声が大きいだけの無気力な下層市民に過ぎない。
月日が経つにつれてそんな実感だけが増して、ひたすら息苦しくて堪らなくなった。
今の両親は好きだ。感謝してる。愛してもいる、と思う。
でも、それだけじゃどうにもならない。愛なんて腹の足しにもならない。
私だけならどうでもよかった。どうせ私じゃ、この世界の男が望むような『大人しく貞淑な妻』になんてなれやしない。せいぜい両親が生きている間はその手伝いをして、死んだらあとは這い蹲って生きていくだけだ。この国を出て世捨て人になるのも良い。神様とやらの目が届かない新天地……そう、私の故郷、日本に似た島国が、此処からずっと東に向かった先にあるかも知れない。
それで何の問題もない。御者の娘が一人消えたところで何もかわりゃしない。大した才能も無い元エンジニアなんて、この世界じゃ何の役にも立たないんだから。
私はそれでいい。生活レベルはずっと下だけど、本質は前世と大してかわりゃしない。
でも、あの子は?
私のくだらない厭世にあの子をつきあわせる気は毛ほどもないけど、でも、それはあの子の面倒をほっぽりだすのと何が違うんだろう? あの子を川に流したクソ女と比べて、一体何がマシになるっていうんだろう?
一度は「母親のことなんて忘れてやる」なんて啖呵を切っておいて、情けないとは思う。でも仕方ないじゃないか。この世界は身分が絶対で、時に金の力さえ凌駕する。うっかりして誰かに呪いをかけられたり、神様の不興を買ったりする。
そんな世界で、身分なんてくだらない、なんて啖呵はただの負け惜しみだ。
両親は良い。あの子を育ててやれる。でも私は? その場の衝動であの子を拾って連れ帰った私は、あの子に何をしてやれる? あの子の人生に役立つことを、このままじゃ何もしてやれないんじゃないか? あの子と比べて何もかも劣った取るに足らない私が、あの子の何に役立つって?
だから、探した。
ちょっとした希望もあった。
もしかしたら、あの子の母親は我が子を捨てて後悔してるんじゃないか。
事実を突きつけたら、悔い改めてくれるんじゃないか。
捨ててしまった我が子を、ちゃんと受け入れてくれるんじゃないか。
無責任にあの子を拾ってしまった私でも、何かしてやれることがあるんじゃないかって。
……馬鹿馬鹿しい。お花畑かよ我ながら。結果はこの通り、まあ後から考えるとさもありなんってやつ。あの女は明確にあの子を拒絶した。私の弟をいなかったことにしようとした。シャツについたソースのシミみたいに、忌々しいからと洗い流そうとした。
……ああ。
もう、手立てがない。
もう私には、あの子にしてやれることが何もない。
「姉上」
月を背にした弟が、私の腕を引いて川から引き上げる。見た目から想像するよりずっと力が強い。これでも手加減してるらしい。見た目はもやしなのにとんだゴリラだ。
「姉上。家に帰ろう」
「やだ」
「駄目だ。このままでは風邪をひく」
「やだ」
「姉上」
「やだ。今そんな気分じゃない」
ヴァスシェーナの瞳から目をそらす。腕を振り払おうとしたけどそれは失敗した。力強いんだってばもう。痣になったらどうしてくれる。
「もう少ししたら戻るから、お前は先戻って寝なさい」
ある意味今一番会いたくなかった顔に真正面から見つめられると流石に落ち着かない。ていうかこの子は本当に嘘が通用しないから後ろ暗いことをした直後はとりわけ会いたくない。というわけで強制送還です。発言は時々うんざりする子ですがこういうときは空気を読んでくれるのでたすか……
「断る」
……………………。
「…………なんて?」
「聞こえなかったか? 断る、と言った」
……………………。
「なんで」
私はヴァスシェーナに何か言って「断られる」っていう経験がほぼ無い。六年間ずっと一緒にいる私がコレなのだから、他の人間がもしこの現場を見たら現実を疑うだろう。つまるところ困惑しかない。辛うじてドスの利いた声で「なんで」なんて返したが、応えによってはもう逃げるしかないかも知れない。
「オレは此処にいると決めた。姉上が戻るならオレも戻ろう」
「姉上一人になりたいんだけど」
「そうか。だがオレはそうしたくない」
「お前の都合とか知ったこっちゃないんだけど?」
「そうか。それはオレも同じだ。悪く思え」
「そこは『悪く思うな』でしょーがよ!」
ええい! 増えた語彙でおかしな言葉を使うな!
「……はあ」
一声怒鳴ったら急に疲れた。観念して川辺に座り込む。体育座りして顔をうずめた。あーこんな格好いつぶりだろう。ババアの癇癪をやり過ごすのに押し入れにこもってこんな風にしてた気がするけど。
「……なんで座るの隣に」
帰れよ。
「先ほど言ったばかりだと思うが。もしや難聴か、姉上?」
「ぶっ飛ばすぞ」
何で三つしか違わないクソガキに年寄り扱いされにゃならんのだ。
「……もういい」
この子との問答は相変わらず疲れる。小憎らしい反面本当に可愛い弟だけど、会話の相手には向かない。ていうか、多分他人として出逢ったなら私達は相性は良くなかっただろう。こんな風に手を繋いだまま川辺に並んで座って、なんてことはあり得なかったような気がする。
「ポジションの違いって重要だね」
「?」
「何でもないよ、気にしないで」
まあ、現実としてこの子は他人じゃなく、弟だ。血縁はどうしようもないけど、血がつながってたってどうにもならない親子だっているのにそんなのは大した問題じゃない。
「それよりお前、今日は随分頑固だね」
いつもならこんな風に食い下がることなんてまず無いのに。
「そうだな。オレも出来ることなら早く家に戻って睡眠に勤しみたいが」
そうだろうよこの正直者め。
呆気なくこっくり頷いた弟の頭を小突くのはちょっとだけ我慢した、まだ終わってないみたいだから。
「方々探し回った姉上が、やっと見つかったと思えば死人のような顔をしている。これを放って床に就くほどオレは薄情ではない」
「誰が死人だ引っ叩くぞ。……って、何お前、探してたの?」
よく見れば、ヴァスシェーナの額にはうっすら汗の玉が浮かんでいる。六歳の癖に私の三倍も体力があるこの子が汗をかくところなんてもしかしたら初めて見たかも知れない。それにその足、むき出しのくるぶしは仕方ないとして、真っ白な足の裏はすっかり汚れて……。
「靴は!?」
「途中で壊れた。直せるかわからん」
母上に謝らなければ、としょぼくれる弟には悪いが違うそうじゃない。お前その靴割と新しいやつの筈なんだけど? それがぶっ壊れたってどういうこと? え、なに? どんだけ走り回ったの?
「足は無事!? どっかで切ってないでしょーね!?」
コンクリートでならされた道路だって靴を履いて歩くのが基本だってのに、こんな舗装もクソもない世界の道をうろちょろしてたら子供の足なんてひとたまりもない。
と、思って慌てて確認したものの、ヴァスシェーナの足は多少土で汚れてはいたものの綺麗なもんだった。ちょっと待てどうなってる流石におかしい。……けどまあ、赤ん坊の頃に目からビーム出した子だしね、こういうこともあるかも知れない。
「心臓に悪い!」
「姉上も大概だと思うが」
うるっさい。何でも正論を言う奴が正しいと思うなよ。仕返しに足の裏を擽ってやろうかと思ったけど、絶対にすぐマウント取り返されるのでやめた。ちなみに姉上は脇腹が弱いです。どうでもいい情報でした。
「……」
「姉上?」
「や、この足も大きくなったなと思って」
赤ん坊の時はオモチャみたいだったのに、時の流れってのは素晴らしいというか凄まじいというか。そりゃそうだ、六年も経ったんだもん。んでもって六年の間、あの女はきっと一度もこの子を探さなかった。赤ん坊の時から特徴の固まりみたいにしてるんだもん、見つからないわけがなかったのに。
私の落ち度だ。余計な絶望を一個増やしただけだった。顔は隠していたし、できるだけ痕跡は消したし、あっちこっち走り回って逃げたから多分捕まることはないと思うけど。
……何かおかしいな。私ってこんな向こう見ずで短絡的だったっけ? いや、間違っても賢い部類だと思ったことは一度も無いけど。
何だろう。あの女がヤケになったり執拗な報復に出たり、そういうことだけはしないっていう妙な確信みたいなものがある。何だこれ。気持ち悪いな。こんな根拠の無い確信で私動いてたの? キモすぎる。何なのこれ、神様の啓示的なアレ?
「姉上? さっきから顔が怖いぞ」
「だまらっしゃい」
……一旦やめよう。きっとこれ以上考えたらヤバいやつだ。
「ったくお前は、年々言うこともやることも可愛くなくなって」
むに、とつまんだ頬は見た目よりずっと柔らかくて温かい。蝋人形みたいに白いのに、ちゃんと血が通ってて気持ちが良い。もうちょっとふっくらしてても良いのにね、とは思うけど、ウチの台所事情じゃそれも難しい。
「お互い様かな。お前も、どうせ拾われるならもっといいおうちなら良かったのにね」
可哀想なヴァスシェーナ。お前の幸運は捨てられたときに流されちゃったのかな、それとも、私が拾ったから逃げちゃったのかな。
私はお前が家に来てくれてとても幸せだけど、お前はそれに見合うだけのものを何一つ受け取れていないだろうに。
「それを本気で言っているのなら、姉上は認識を改めるべきだ」
「……ヴァスシェーナ?」
頬を弄くっていた両手首を捕まえられる。え、どしたのヴァスシェーナ。何か怒ってる?
「オレは自分の身の上を嘆いたことは一度も無い。望まれない生まれをした子供はオレだけではない。にも関わらず父はオレに祝福を授け、母はオレを殺さなかった」
「……そりゃあ、ね」
私が「成長を阻害するのでは」と心配していたこの子の身体の黄金は、不思議と年を経るにつれて面積を増やしている。黄金はよく伸びるとは聞いたことあるけど、薄くなった様子は無いから本当に増えてるんだろう。今じゃあっちこっちに突起みたいなのも出てきてて、もう少し大きくなったら鎧みたいになるかも知れない。
これが祝福だっていうのなら、多分凄い御利益があるんだろう。……姉上、その代わり川に流されたんじゃプラマイマイナスだと思ってますが。
「父上にも母上にも感謝している。家の暮らしが貧しいことは知っている。だがあの二人がオレを疎んじたことは一度も無い。血の繋がりの無いオレを、実子の姉上と同じように愛してくれている。これ以上を望むのがお門違いというものだ」
「だから、それは」
「何より、オレはアナタに拾われた。――……これ以上は、望むべくもない」
あ、わらった。
……めずらしい。
「お前、それはちょっと幸せの閾値が低すぎるよ」
そりゃあね、人間ちょっとしたことで幸せになれる方が楽だ。ちょっと良いことがあっただけで満足できる方が充実できる。でも、それにしたって限度がある。これが強がりじゃなかったら心配の種にしかならない。
そんな私の言いたいことが分からないのか、変なところで鈍い愚弟は微笑んだまま首を傾げる。……ああもう、そういうあざといところなんか誰に似たんだか。
「帰ろう、姉上。戻ったらすぐ湯を沸かすから浴びるといい」
「……別にいいよ、水が勿体ない」
帰りたくない、という気持ちはいつの間にか溶けて消えていた。ヴァスシェーナに引っ張られて立ち上がると、思ったより差の無い視線の高さに少しびっくりした。
「おっきくなったね、ヴァスシェーナ」
そろそろ今着てる服もつんつるてんになっちゃいそうだ。
「そうか?」
「そーだよ。そりゃもう昔は私がかるーく抱えられるくらいだったんだから」
あんなちっちゃい木箱にすっぽり入るサイズだ、そりゃそれに比べたら何でもデカいってもんだけど。
……あはは、何か懐かしいや。
「お前、お腹空いてもおむつ汚れても滅多に泣かないくせに、たまーに一日中夜泣きしてることがあってさ、しょうがないから私が背負ってこの辺までウロウロしてたよ」
そんなに頻繁にあることじゃなかったから、今の今まで忘れてた。最後にこの子が夜泣きなんかしたのいつ頃だっただろう。……覚えてないな。
にしても、今じゃ流石に背負うのは無理だなあ。持ち上げた途端に腰やられそう。八歳でぎっくり腰は勘弁願いたいところだ
「そういうときに限ってなかなか泣き止まなくってさ。しょーがないから揺すったり声かけたり歌ったり……結局子守歌が一番効いたっけなあ」
まあ、アレ子守歌じゃなくって大正時代の流行歌だけど。
「いのち短し 恋せよ乙女?」
「それそれ。何だ、覚えてるんだ」
「少しはな。というか、姉上は今も良く歌っているだろう」
「そうだっけ?」
まあ他にレパートリーないからな。ババアがたまたま聞いてたラジオでよく流れてたから覚えちゃっただけで。
「いのち短し 恋せよ乙女
あかき唇 褪せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを」
うーん、改めて考えると子守にゃ向かない唄だ。こんなの聞かせてたからヴァスシェーナの語彙が変に広がったんじゃないだろうな。……まあ、今更か。
「姉上」
「んー?」
「そろそろ夜明けだ」
「……あー」
ほんとだ、東の空の端っこが紅い。恐らく太陽が待ち構えているだろう辺りは金色だ。私の貧相なボキャブラリーじゃ言い表せないグラデーションが雲にかかっていて、まあ、幻想的ってやつなんだろう。
オーロラってこういう感じなのかな。結局オーロラなんて見る間も無く死んじゃったけど。
「……あ」
夜の深い藍色と黒と灰色を、じわじわ侵食していく夜明け。何色、とも断言しづらいそれが目の前に広がっていくにつれて、ひとつ、私の頭に天啓めいたものが落ちた。
「……」
あの紅色は衣装と車、あの金色は頭に被ったヴェールの色。あの光が、地上の生き物全てから一日分の寿命を吸い取る……らしい。
「あれ、『私』だ」
暁の女神ウシャス。
トラックにぶっ飛ばされた私を拾い上げ、自分の欠片と捏ね回してこの世界に落とした戦犯だ。
オリ主がアレすぎるバイアスかけているだけでクンティー王妃って別に完全に悪人ってわけじゃないんですよね。
カルナの死体を泣きながら探し回ったとか、終戦後にカルナのことを息子達に明かして全員から大顰蹙食らったりね。
でもまあオリ主はそんなこと知ったこっちゃないしこの先も知る機会は(今世では)ないのです。視野が狭いぜ。
クァチル・ウタウス関係ないよってネタがやっと出せたので書き手は満足です。