悪役令嬢ってなんだよ(哲学)   作:センセンシャル!!

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今回から本編なので初投稿です。

2020/02/15 一ヶ所カノンがエリカになってたので修正。なんか混同するんだよな……。


本・一

 ――俺たちの婚約を、破棄したい。

 

 

 

 音のなくなったぼくの世界で、ヒロトの言葉が何度も何度も木霊する。ぼくの手の中にあった、ぼくとヒロトの教科書が、学校の屋上に滑り落ちた。

 彼の言った言葉の意味が、頭の中に入ってこなかった。

 

「え……今、なん、て……」

「……俺とお前の、お前の両親と俺の爺さんが決めた婚約を、破棄したい。そう言ったんだ」

 

 彼は否応なく事実を突き付けてくる。頭の麻痺が解け、徐々に学校の喧騒と屋上の風の音が、ぼくの耳に届く。

 そうしてようやく、ぼくは彼の言葉の意味を理解した。

 

 ぼくと彼の間にあった関係をなかったことにしたい。そう、言ったのだ。

 

 彼はうつむいていて、ぼくと目を合わせようとしない。こっちを見てくれていたとしても、今の混乱しきったぼくには、彼の気持ちを推しはかることはできなかっただろうけれど。

 

「……理由。聞かせてもらっても、いいかな」

 

 荒波を立てるぼくの気持ちとは裏腹に、ぼくの口から滑り落ちたのはひどく冷静で、抑揚に欠けた問いかけだった。

 本当は、そんなことを聞きたいんじゃなかったのに。理由なんて、どうでもよかった。

 

「……最近のお前、目に余るんだよ。無理して、自分を押し殺して俺に尽くして。お前が俺のためを思ってくれてるのはわかるけど……重いんだよ」

「……そっか。わたし、いつの間にかヒロトの重荷になっちゃってたんだね」

 

 目を合わせないヒロト。淡々としゃべるぼく。それはまるで、ぼくたちが出会ったころのような姿だった。

 あの頃に比べて、ヒロトは大きくなった。ぼくは女子の中で小さい方だけど、ヒロトはバスケットボール部の人たちにも引けをとらない高身長に成長した。

 重ねた時間も、今の姿も、当時とは異なるのに……ぼくには、あのケンカをする前のぼくとヒロトの姿であるように、思えてしまった。

 

「重荷だなんて言う気はねえよ。……むしろ、逆だろ。俺がお前の重荷になっちまった」

「そんなことないよ。わたしは、ヒロトのことをそんな風に思ったことは、一度もなかった」

「――……だったら、なおさらだ。それが当たり前になっちまうぐらいお前に寄りかかってたことが、俺には許せねえ」

 

 もうヒロトには、何を言っても届かない。彼は、彼がぼくの重荷になってしまったと思っている。そしてぼくは、ぼくが彼の重荷になってしまったと思っている。

 互いが互いを傷つけあうだけ。だから彼は、婚約を破棄しようという結論に至ったのだと、ぼくの中の冷静な部分が導き出した。

 ……違う。そんなことはどうだっていいんだ。ぼくは、そんなことが知りたいんじゃない。

 

「それに、よ。お前、以前言ってただろ。男よりは女が好きだって。だったら、好きでもない「男」に尽くす必要なんて、もうないだろ」

「っ、それ、は……」

 

 言った。確かに言ってしまった。事実そうではあったし、今も、ヒロトを除けば男子よりは女子の方が好きだろう。

 だけどぼくの一番は女子の中にはいない。一番は、あの日からずっと、一人の男の子だけだった。

 その一番から、ぼくは……――。

 

「だろ? だから、俺たちの許嫁ごっこはおしまい。俺ももう、自分の身ぐらい自分で守れるからさ。お前は、お前らしくしてろよ!」

 

 うつむいていた顔を上げ、だけどやっぱり目はぼくに合わせず。彼は空を見ながら、高らかにそう言った。

 

 ……やっぱり、そうなんだ。彼はもう、ぼくのことを……。

 

 「はい、この話おしまい!」と彼は手を叩く。ぼくの横を通り、屋上に落ちた彼の教科書を拾い、そのまま屋上を後にした。去り際に、「次の授業、遅れんなよ!」と残して。

 

 

 

 ヒロトが去ってしばらくしてから。ぼくはその場にへたり込み、自分でも気づかないうちに涙を流し、呆然とすることしかできなかった。

 

 

 

 この世界で一番大切な人に、嫌われてしまった。

 

 

 

 

 

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 歯を食いしばり、湧き上がってきた胃を締め付けるような感覚をごまかすために壁にこぶしをぶつける。

 これで、よかったんだ。これが正解だったんだ。そう自分に言い聞かせ、後悔は気のせいだと言い聞かせる。

 

 

 

 俺――大場ヒロトにとって、大道寺エリカという女の子は、初めて出会った「対等な人間」だった。

 

 幼いころはちゃんと理解していなかったが、俺の家というのはこの国の経済の一端を担うような巨大なものだ。使用人がいるのは当たり前のことだと思っていたし、傅かれるのが普通だと本気で思っていた。

 何気に魔法が得意な父さんに似てか、同年代の中では圧倒的に早く魔法を使えるようになったことも、俺の自尊心に拍車をかけた。自分は頂点なんだと、思い上がっていた。

 今から思えばとんでもないクソガキだ。もし今の俺が当時の俺を見たなら、助走を付けて全力で殴り飛ばすことだろう。

 そんな俺だから、周りにいるのは全部下。上にいるのは、財閥の会長を務める爺さんとその一人娘である母さん、母さんと爺さんの無茶ぶりでいつも胃が痛そうにしている父さん。それだけだった。

 

 そんな増長しきった俺に、手痛い一発を入れたのが、当時は男だと思っていた、俺と同い年の少女だった。

 

 第一印象は、「なんだこの生意気なやつ」。傅くどころか目を合わせてきて、あろうことか満面の笑みで「ともだちになろう」なんて言ってきた。

 「お前みたいな貧相なやつはいらない」と言ってやれば、「じゃあこっちも失礼な友達はいらない」と挑発を返してくる。

 クソガキ極まりなかった当時の俺は、あっさりあいつの口車に乗り……魔法の力で惨敗した。

 あいつは、貴族の血を引いていた。貴族――小学校の歴史の授業で習った。かつてあったという大きな戦争でこの国を守った、魔法使いの一族。

 いくら父さん譲りで魔法が得意とは言っても、その差は埋めるべくもないほど大きなものだった。俺がステッキを使って行使するような魔法を、あいつはそんなものなしに平気で使えた。

 ガチガチの重装備で富士山に登頂して「やったぜ。」って勝ち誇っていたら、あいつはとっくにエベレスト無装備登頂を終えて下山していた、そんな差だった。

 鼻っ柱をたたき折られた俺は、それはそれは憮然とした。自分なんてこんなものかと、やけになってしまった。

 

 そんな俺に対してあいつは――エリカは、変わらぬ態度でもう一度、「ともだちになろう」と言ってくれた。

 それが俺にとってどれだけの救いになったのか……あいつは知らないだろう。言ったことはないし、知られるのも恥ずかしいので墓まで持っていく所存だ。

 あいつの光に触れ、あいつの持つ何かに惹かれ、しばらく意地は張ったものの、俺はあいつの手を取った。

 

 そうして俺は初めて、「対等な人間」に出会った。

 

 後日、あいつはゴシック風の白のドレスでうちに来た。冗談みたいに似合ってて、しばらくそれがエリカだとは分からなかった。

 それで俺は、「あ、こいつ女だ」と認めたのだった。……大層眼福でした、はい。

 

 

 

 あいつと何度も遊ぶうちに、俺たちは親友と呼べるまでの間柄になった。

 見た目こそだんだんと女の子になっていったエリカだが、性格は最初の頃と変わらず男っぽいまま。一人称もずっと「ぼく」だった。

 だから俺も、男友達のような感覚であいつと遊んだ。時々本気で女であることを忘れていたぐらいだ。

 そんなあいつが「女の子」であることを意識せざるを得なくなったのは、小学2年生のときのキャンプ場での事件だろう。

 俺たちは、森の中の散策中に魔物に襲われた。なんかナツメさんの実家の訓練施設から脱走したやつだったとかで、事件の後で強面の大人たちからめっちゃ謝られた。逆にそっちの方が怖かったぐらいだ。

 

 魔物から逃げる際、あいつは魔法の発動に使うステッキを、滑り落としてしまった。いくらエリカが魔法に優れた家系だからと言って、ステッキなしで魔物を追っ払えるほどの魔法を使えるわけじゃない。

 あいつは、震えながら「ごめんなさい」と言った。初めて見るエリカの怯えた表情に、俺は……「この子は俺が守らなきゃ」って、強く思ったんだ。

 だから無謀かもしれなかったけど、エリカを魔物から離れたところに放り投げ、俺は魔物と対峙した。

 俺の大事な友達を……「大切な女の子」を、守るために。

 

 結局その魔物は、騒ぎを聞きつけたエリカの母・ナツメさんが放った氷の礫で鎮圧された。あまりの早業に、俺は思わず目が点になったほどだ。

 おもむろに魔物に歩み寄るナツメさんのその姿は、まさに「護国の魔法使い」……というより、「これがラスボス」って思えた。俺が絶対に逆らうことができない人間が追加された瞬間だった。

 

 

 

 その後、なんやかやあって、俺とエリカは婚約することになった。

 当時は早すぎる話の推移に全くついていけず、エリカに泣き落とされる形で承諾してしまったけど、今ならわかる。あれは、俺を守るための判断だったんだって。

 

 そもそも俺とエリカが引き合わされたのは、俺たちを許嫁にするため……将来結婚させて、互いの家をもっと大きくする「政略結婚」のために、爺さんが画策したことだった。

 理解したとき、俺は本当に何とも言えない気持ちになった。確かにそのおかげでエリカと出会うことはできたけど、爺さんは俺やエリカのことをなんだと思っているんだろうと。

 結果はうれしいのに、過程は全くうれしくない。そんな割り切れない感情を知った。

 そして、それまでの俺とエリカは、結局婚約していなかった。フリーのままだった。今度は逆に、どこかの財閥とかが、爺さんの財産を求めて、俺との政略結婚を画策するかもしれない。それも、もっと悪辣な方法で。

 わかっちゃいる。俺やエリカのような家になると、結婚というものが本人たちの意向だけでは決められないということを、エリカに教えられた。

 だけど……やっぱり俺は、そういうのは嫌だ。結婚というなら、ちゃんと好きな人同士でしないと、納得がいかない。筋が通っていないように感じてしまう。

 そんな子供でわがままな俺を、エリカは……俺と同い年の女の子が、守ってくれたのだ。

 

 それを理解できたとき、俺は感謝と、自分自身の情けなさと、あいつへの様々な想いがぐちゃぐちゃになって、一人で泣いた。

 

 

 

 俺は、強くなろうと思った。あいつに守られるんじゃなくて、自分で自分の身を守る。そして何かあったら、俺があいつを守れるように。

 そのために、体を鍛えた。勉強も頑張った。魔法は、さすがにエリカほどにはなれなかったけど、それでも学内でトップクラスの技術を身に着けた。

 俺は、自分の身を自分で守れるだけの力を得たという自負がある。もう、エリカに守られる必要はない。俺たちはまた、「対等な人間」になれる。そう思ってた。

 

 ……なのに。

 

 

 

「あー、わっかんね。この問題難しすぎじゃね? ほんとに中学の内容かよ」

「それ、調べたらXX高校の入試に出題されてたやつだって。偏差値70超えてるとこ」

「はぁ? んなもん中一に出すなよなー。ったく、性格悪い教師だな」

「そんなこと言っちゃダメだよ。これは、解き方を調べろっていう課題なんだ。ほら、ここをこうすれば、ね?」

「……おう、マジだ。気付けば一発かよ。すげーな、エリカ」

「ヒロトに教えるために、頑張って調べたからね」

「お、おう。そうか」

 

 

 

 なのに、エリカは。

 

 

 

「やっべ、降ってきたか。傘持ってきてねーぞ」

「もう、ちゃんと天気予報見ないから。今日の午後の降水確率、80%だったんだよ」

「マジかー。どおりでみんな晴れてるのに傘持ってたわけだ……」

「相変わらずニブいんだから。……はい、これ。そんなことだろうと思って、ヒロトの分も持ってきといたよ」

「相変わらず用意がいいな。サンキュ、エリカ」

「どういたしまして。これも許嫁の務めだよ」

「……そう、なのか」

 

 

 

 いつも、俺の先を行っていて。

 

 

 

「あ、ヒロト。隣、いい?」

「おう、空いてるぞ。いつもお前が来るから、クラスの連中もそこは空けるようにしてるみたいだぜ」

「そうなの? なんか、悪いね」

「あいつらが勝手に気ぃ利かせてるだけだって。ほっとけほっとけ」

「そうはいかないよ。ヒロトがクラスで浮かないように、許嫁の『わたし』がちゃんと気を配らないと」

「……。そう、か」

「そうだよ」

 

 

 

 俺のためにと、言葉遣いも改めて。

 

 

 

「ヒロトはいいよなー。あんなかわいい幼馴染がいて。しかも許嫁だぜ、許嫁」

「どこのラノベだコノヤロウ! もげちまえ!」

「うるせー。許嫁なんてのは親が決めたことだよ。お前らがあいつをほしいって思うんならそうすればいいし、行動しなきゃ手になんか入んねーぞ」

「お、財閥特有の帝王学かな? ……つってもなぁ」

「なぁ?」

「なんだよ」

「この間、下駄箱んとこでエリカちゃん見かけて、人待ちみたいだったから「お茶でもどう?」って声かけたらさ。「ヒロトを待たなきゃですから、ごめんなさい」ってノータイムで断られたんだよ」

「健気だなぁ~。ってかヒロト、大道寺さん待たせてお前何やってんだよ!」

「お前とダベってた日だよ、バカタレ。あとでエリカから聞いたよ、待ってる間にナンパされたって」

「おっふ……」

「はぁー。俺もかいがいしく面倒みてくれるかわいい幼馴染がほしい……」

「……っ、んないいもんじゃ、ねえよ」

 

 

 

 いつだって、俺を立てるように動いてくれた。

 他にやりたいこともいっぱいあっただろうに。あいつが友達と食べ歩きをしたなんて話、一度だって聞いてない。

 いつだって、会話の内容は俺とのこと。俺が恙なく学生生活できるように心を砕いてくれて……感謝よりも、申し訳ない気持ちの方が勝った。

 

 なぜ、俺はエリカに追いつけないんだろう。

 なぜ、エリカは俺を守り続けるんだろう。

 

 なぜ俺は……あいつの荷物に、なってしまうんだろう。

 

 

 

 俺がいるせいで、あいつは前に進めない。本来のあいつだったら、もっとずっと先に行っているはずだ。それこそ、おじさんの会社の事業を一部引き受けるぐらいできているだろう。

 そうしないのは……できないのは、俺がいるから。あいつは俺を守らなきゃって思っていて、俺があいつのお荷物になってしまっているから。

 対等だと思っていた彼女は、一歩先で俺を待っている。俺がちゃんと前に進めるように、近くで見守って……決して離れないように、手を引いてくれる。くれて、しまっている。

 

 だからもう、終わらせるべきなんだ。俺と彼女の関係を真っ新にして。

 

 

 

 対等な友達の大場ヒロトと大道寺エリカに、戻るべきなんだ。

 

 

 

 だから……これで、いいんだ。

 

 

 

 胸を締め付ける想いを無理やり押さえつけ、必死で自分に、そう言い聞かせた。

 

 

 

 

 

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「エリカちゃーん? もう行かないと次の授業間に合わなく……って、エリカちゃん!?」

 

 屋上に座り込んで呆然としていると、仲の良いクラスメイトが迎えに来てくれた。

 あわてた様子の彼女に抱き起され、徐々に意識が現実へと戻ってくる。

 

「あれ……カノン、ちゃん?」

「そうよ! あなたの親友、日村カノンよ! なにがあったの、エリカちゃん!?」

 

 まるで寝起きみたいに頭が働かず、友人になされるがままのぼく。なにが、あった……。それを思い出そうとすると、頭にひどい鈍痛が響く。

 うめくぼくを、カノンちゃんは心配そうに抱きしめてくれた。人のぬくもりに触れることで、少し痛みがマシになる。

 

「っ……なんでも、ないですよ。ほんとうに。ちょっと、寝不足だっただけで」

「うそっ! さっきまでのエリカちゃんと、全然顔色が違うじゃない! ……大場君に、なにか言われたの?」

 

 ズキリと、胸に痛みが走る。頭を鈍痛が支配する。……思い出したく、ないけれど。それを彼女に伝えていいものなのか。

 彼女は、ぼくやヒロトと違って、普通の家の子だ。許嫁なんて話とは縁のない、貧乏ではないけれど裕福というほどでもない、どこにでもあるような家庭の子。

 そんな子に、ぼくとヒロトの顛末なんていう厄介事を話していいものなのか。いや、そもそもこんなことを人に話すこと自体がおかしいのではないか。

 

 だけど彼女の鬼気迫る表情に、抱きしめられた体温に負けて。ぼくはぽろりと言ってしまった。

 

「こんやく……はきしたい、って……」

 

 言ってしまって、一気に我に返った。頭から血の気が引き、目を見開き踵を返そうとしたカノンちゃんの腕をつかむ。

 

「ま、待ってください、カノンちゃん!」

「なんで!? あの大バカ男に一言言ってやらなきゃ気が済まないわよ! あれだけエリカちゃんに尽くしてもらって、何様なのよあいつ!?」

「それは、わたしが勝手にやったことだから……ヒロトが、それを望まなかったから……」

「っっっ、ああもう!」

 

 ぼくの懇願が届いたのか、カノンちゃんはヒロトを追うのはあきらめ、感情を屋上の床にぶつけた。しばらく肩をいからせ、落ち着いてから再びぼくを抱きしめた。

 

「もうっ。なんでなのよ……っ! こんなにいい子なのにっ!」

「……ありがとうございます、カノンちゃん。わたしのために、怒ってくれて。泣いてくれて」

 

 嗚咽を漏らす彼女の背中をさすることで、ぼくも幾分か冷静さを取り戻した。

 ……ヒロトは、自分がぼくの重荷になっていると思い込んでいた。もちろんぼくはそんなこと全く思っていないけれど、何を言ってもそれが伝わらないということは理解した。

 だったら、今のぼくが彼にできることは何もない。時が過ぎ、時間が彼の心を平静にするのを待つしかない。

 

 ――本当にそれで、元通りになれるのだろうか。だって、彼はもう、ぼくのことを……――

 

 鎌首をもたげる嫌な考えを、カノンちゃんの胸の中で振り払う。そんなことはない。ぼくの思い込みだ。ヒロトは、一度も「ソレ」を口にしなかったじゃないか。

 彼を信じたいという願望にすがり、ぼくは冷静さを保つよう努力する。

 

「大丈夫。カノンちゃんがわたしのことを思ってくれたから、落ち着きました。多分、今は距離をおくべきなんだと思います」

「……あたしがあいつをぶん殴っても、エリカちゃんは困るのよね。わかった、手は出さない」

 

 「けど!」とぼくの肩を持ち、まっすぐぼくに告げるカノンちゃん。

 

「なにかあったら、つらくなったら、絶対あたしに言うのよ! 絶対、力になるから!」

「うん。ほんとうに……ありがとう、カノンちゃん」

 

 この子と友達でいて、本当によかったと思う。

 

 ぼくは大丈夫だと言ったのだけど、心配性のカノンちゃんはぼくとともに次の授業を欠席し、ぼくを保健室のベッドに寝かせた。別に、体調が悪いわけじゃないんだけど。

 

「ダメよ。自分で気付いてないかもしれないけど、エリカちゃんフラフラだったんだから。少なくとも体力が回復するまでそうしてなさい」

「……ご迷惑をおかけします」

 

 ぼくの体力のなさ。ヒロトから受けた精神的な衝撃と、涙を流したことで、かなり消耗してしまったらしい。

 小学校に入る前から今に至るまで、毎日の運動を欠かすようなことはしなかったんだけど。どれだけ運動しても、体力がつかない体質なのかもしれない。

 カノンちゃんは、ぼくが無理をして動かないように見張った。右手をつないでくれて、そこから伝わる体温が、心地よかった。

 

「……つらかったら、答えなくていいから。大場君とは、小学校に入る前からなんだっけ」

「……そうです。ただ、正式に婚約をしたのは、小学2年生の夏でした」

「小学校は、別々だったんだっけ」

「そうですね。家が近かったわけじゃないですから。中学でここを受験して、一緒の学校になりました」

「それってやっぱり、一緒の学校に行きたかったから?」

「……はい。わたしも、ヒロトも、そう思って受験をしました」

 

 そうだ。間違いなく、ヒロトはそう思ってくれていたはずだ。合格発表を見たときの彼の笑顔は、本当にうれしそうだった。忘れたことなんかない。

 

「そっか。……そこまでしたのに、なんで婚約破棄なんて言い出したんだろ、あいつ」

 

 カノンちゃんが言葉にしたことで、また胸がチクリと痛んだ。今度は、彼女の手の暖かさのおかげで、取り乱すことはなかった。

 

「……ヒロトは、自分がわたしの重荷になってるって言いました。そんなこと、まったく思ってなかったのに」

「――、あー。そうか、そういうことね……」

「? カノンちゃん?」

 

 ぼくの言葉に、カノンちゃんは盛大にため息をつき、何かを理解した様子だった。

 彼女には、ヒロトがあんなことを言い出した本当の理由が、わかったんだろうか。

 問いかけに対し彼女は、首を横に振った。

 

「とりあえず、あたしはエリカちゃんの味方ってことだけは、断言しておくわ。どんな理由があろうが、こんなかわいい子泣かせた時点で万死に値するわよ、あの鈍感男は」

「??? は、はぁ……」

 

 つないだ右手とは逆の左手で、頭を撫でられる。心地よい暖かさとは裏腹に、意味が分からなくて困惑するばかりだ。

 

「ま。はっきり言って二人とも、あたしと比べたら家柄から頭の出来に至るまで違いすぎて、あたしなんかじゃ大した力にはなれないけどさ」

「そ、そんなことはないです! 今のわたしは、カノンちゃんに救われてます!」

「ふふ、ありがと。でも、多分そういうことなのよ。だからあたしじゃ、エリカちゃんの力になることはできても、解決する手助けは、多分できない、かな」

 

 「悔しいなぁ」と天を仰ぐカノンちゃん。真っ直ぐで真っ正直で、嫌味なんて全くない彼女の姿は……ぼくとは対照的で、まぶしかった。

 ――彼女のような人だったら、もしかしたら、ヒロトもあんなことを言い出さなかったんじゃないだろうか。黒い感情とともに、そんな自虐にも似た考えが、胸の内に浮かんだ。

 

「で。婚約破棄のことは、ご両親に伝えるの?」

 

 カノンちゃんから聞かれ、ハッとして気持ちを切り替える。その問題も残っていた。

 

「伝えなければ、ならないでしょう。それで両家が合意すれば、正式に婚約破棄ということになります。今は、わたしとヒロトの間でそういう話になっているだけですから」

「ふーん、そんなもんなんだ。じゃああたしからアドバイスっていうか、お願い。ご両親に伝えるときは、ちゃんとエリカちゃんの正直な気持ちも伝えて。そうすれば、多分悪いようにはならないから」

「? それって、どういう……?」

「ただの勘。なーんか、そうした方がうまくいくんじゃないかって、あたしが勝手に思ってるだけ」

 

 カノンちゃんは、野性的というかなんというか、直感能力がとても優れている。この学校の入試も「ヤマが当たって合格した」と言っていた。定期テストならまだしも、入試でヤマを当ててしまったのだ。

 だからきっと、それは無根拠ではあっても無意味ではない。そう感じたので、ぼくは彼女の「お願い」を聞き入れることにした。

 

「あとはー……もうないかな?」

 

 ぼくに聞かなきゃいけないことを探るように、カノンちゃんは保健室中に視線を泳がせた。

 しばらくしてから、「あっ」と手をたたいた。

 

「そうだ、これがあった。ねえ、エリカちゃん」

「なんです、カノンちゃん」

 

 

 

「一人称。『ぼく』に戻さない?」

 

 

 

 

 

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 俺が婚約破棄を申し出たという話は、エリカから向こうの両親に伝わったらしく(そりゃそうだ)、その日の晩に爺さんに呼び出された。

 

「……お前は何をやっとるんじゃ」

 

 執務室の椅子で書類に囲まれた爺さんは、開口一番、あきれた様子でそう言った。

 今の爺さんは、うちで見せる「俺の祖父」としての姿ではなく、「大場財閥会長」だ。その瞳に情の色はなく、冷たく射抜くように俺を見た。

 さすがに緊張を感じ、唾を飲み込む。気圧されないよう、二本の脚に力を入れて立つ。

 

「俺なりに、最善を考えた結果です」

「その結果が、今まで誼を通じてきた企業との関係をご破算にするものか。……儂はお前に、味方を作れとは教えたが、味方を敵にしろなどと教えた覚えはないぞ」

 

 あの夏以降、俺は爺さんの薫陶を受けることにした。少しでも成長して、俺がエリカを守れるようになるために。その結果は……あの通りでしかなかったが。

 だけど、今度こそ俺は、あいつを守る。この婚約破棄を確定させて、かつ爺さんがあいつの家に敵対しないように、切り抜ける。

 その覚悟をもって、俺は爺さんを睨み返した。

 

「何をせずとも敵にはならないでしょう。そもそもD電機は、企業利益よりもインフラ整備に力を入れている会社です。電化製品以外の事業は持たず、我々との競合もそこでしか起きていない」

「ふむ……だがその分野において、あの会社がシェアトップを崩したことは一度もない。2位の我々と大差をつけてのトップじゃ。なるほど、確かに敵としてすら見られておらんの」

 

 言葉の一つ一つが刀か何かのように切り込んでくる錯覚。普段のように迂闊なことを言えば、そこから簡単に切り崩されてしまうだろう。

 だから、言葉を選び慎重に紡ぐ。発言の前に不備がないか、頭の中で確認しながら。

 

「余計なことさえしなければ、向こうに敵対の意志はありません。我々が強い魔法杖産業の方に力を入れれば、それで十分ではありませんか」

 

 

 

「財閥とは、「人の化け物」じゃ」

 

 

 

 ゾクリと、背筋が粟立った。

 

 既に70を過ぎ、髪もほとんど白くなった俺の祖父は、今なお財閥の会長を続けている。

 それは彼が男児を授からなかったというのも理由ではあるが、続けられている理由ではない。「彼以外には務まらない」のだ。

 

「その行動決定は一人の意志ではなく、多数の頭脳により精査され、自身の拡張を繰り返すために選択される。儂は確かに、そう教えたな」

「っ……、は、はい……」

 

 「孫だから」という理由で、彼が意見を翻すことはない。その意志は、決して曲がることがない。

 「財閥という化け物」を背負い、貫き通し、それでもなお曲がることのない精神力。そんな類稀なものを持っている人間が、彼以外にいなかったのだ。

 

「財閥は、既に電機産業に足を踏み入れた。そこで働く人間が大勢いる。そして、彼奴らは自己拡張をせねばならん。いずれはD電機をトップから蹴落とし、我々が頂点に立たねばならん」

 

 「それが財閥というものだと、儂は教えんかったか?」 祖父の言葉が、俺を強く打ち据える。静かに、だけど力強く。

 

「さりとて、D電機とやり合えばお互いただではすまん。だから儂は、お前とかの娘の婚姻を考えたのじゃ。D電機を財閥に組み込み、無傷でトップシェアを確保するためにな」

「それ、は……」

 

 声がかすれる。祖父のすさまじい圧に、のどがカラカラになっていた。言葉がうまく紡げない。

 ――ダメだ、気圧されるな。踏ん張れ。エリカをこのクソジジイから守るって、決めたんだろう。

 

「エリカは……大道寺の娘は、それを理解した上で婚姻を受け入れていました。だけどそんなもの、彼女の意見を無視した、ただの脅迫ではありませんか」

「……ふむ。脅迫、とな?」

「はい。エリカは、優しい女の子です。そして稀有な頭脳を持っている。俺たちが出会った5歳の時点で、彼女の父の会社のことを、理解している様子でした」

 

 あいつは最初、「許嫁ではなく友達として」俺に会いに来た。考えてみれば、許嫁ではないのなら、友達としてすら来る必要なんてなかった。

 それでもあいつがうちに来たのは、爺さんの顔を立てるためだ。そして、娘を溺愛するキョウおじさんを安心させるために、許嫁の話は受けなかった。

 俺が増長しきったバカ御曹司をやっているときに、あいつは既に親の会社のために何ができるか、考えて行動していたのだ。

 

「彼女なら、断ればどうなるか想像がついたでしょう。そして優しい彼女は、彼女の父や、親しくなった俺たちが傷つくことは望まない」

「なるほどの。となれば、かの娘に選択肢はない。故に脅迫、ということか」

 

 「ふむ」とあごひげを撫でる爺さん。一拍置いてから、再び鋭い眼光が俺を射抜く。

 

「それの、何がいかん?」

「っ、「誠実さ」が、ありません。財閥を大きくするためには、「貪欲さ」が必要だ。しかし維持するためには、「誠実さ」を欠かしてはいけない。俺はあなたからそう教わりました」

 

 素早く切り返す。爺さんから教わった帝王学で、爺さんに意見を通す。これなら、少なくとも効果がないということはないはずだ。

 矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。

 

「この上婚約破棄をしたからと言って彼女の家を攻撃するような真似をしたら、我々は「ただの悪」でしかない。財閥のイメージを守るという観点からも、D電機との敵対は悪手であると愚考します」

 

「……そこまであの娘のことを想っていながら、なぜ婚約破棄という結論に至るのやら。儂の孫は、少々思い込みが強すぎるのぅ」

 

 その言葉を皮切りに、爺さんからのプレッシャーが消え去った。……とおっ、た?

 

「よかろう。そこまで言うのなら、婚約の話はいったんなかったことにしよう。D電機に、すぐに攻勢をしかけるということもせん」

「っ、ありがとうございます!」

 

 頭を下げ、大きく息を吐き出す。緊張が解け、全身の力が抜ける。今更になって足に震えが走った。

 だけど、やった。俺は、今度こそ俺の力で、エリカを守れた。守れたんだ。

 内心でガッツポーズをとる。目標達成の昂揚感と、彼女に迷惑をかけないで済む安心感が入り混じり、思わず笑みが浮かぶ。

 

 ――胸を苛む小さな痛みなんて、気のせいだ。

 

 顔を上げると、爺さんの顔は再び真面目なものになっていた。多少のプレッシャーはあるものの、先ほどまでの化け物じみたものではない。

 

「今後、お前に新たな婚約の話を持って来よう。それの成立を以って、大道寺との婚約は、正式に破棄とする。それで良いな?」

「それは……確かに避けられないことでは、ありますね。わかりました」

 

 

 

 こうして俺は、小学2年生から9年弱続いたエリカとの婚約を、手放すことにした。

 

 

 

 

 

 翌日。一人で登校すると、早速にクラスのバカ2人に絡まれた。いつもエリカと一緒に登校していたから、珍しいと思われたのだろう。

 ちなみにエリカは既に登校しており、あいつと仲のいい女子――日村、だったっけ――と話をしていた。

 

「おいおいどうしたんだよヒロト、お前がエリカちゃんと一緒じゃないなんて。さてはお前、寝坊して置いてかれたな?」

「ちょっと大道寺さんに甘えすぎなんじゃないのー、ヒロト君? 愛想つかされても知らないよ?」

「……あー、まあ、その件については善処するってことで」

 

 歯切れ悪くなりつつ、ごまかす。一瞬正直に言ってしまおうかとも思ったけど、こいつらにバカ正直に話す義理はねーなと思い直した。

 適当にいなしつつ、エリカの方をチラ見する。あいつは……あんなことの後だから少し元気がなさそうだったけど、日村と話をしながら笑っていた。ちゃんと、笑えていた。

 ……ああ、よかった。やっぱり俺の判断は、間違いじゃなかったんだ。

 

 

 

「――でさー。そこのあんみつがまたおいしいのよ。明後日暇なら、エリカちゃんも一緒にどう?」

「そうですね。『ぼく』も予定なくなっちゃいましたし、カノンちゃんさえよければ是非」

 

 

 

 本当に俺は、あいつにとって、ただの重荷だったんだな。

 

 

 

 

 

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 日村カノンちゃんと出会ったのは、中学に入ってすぐのことだった。

 

 ヒロトと一緒の学校にはなれたものの、さすがにクラスまで同じというわけにはいかなくて、ぼくは知り合いのいない教室で、ヒロトは今どうしているだろうと一人で考えながら過ごしていた。

 この学校は、お坊ちゃまお嬢様学校ではない。財閥だとか貴族だとかは関係のない一般家庭の子供が多い、かつそれなりのレベルが要求される学校だった。

 ヒロトと同じ学校に行くために大場会長さんにかけあったとき、出された条件を満たす学校。「偏差値65以上で、最低でも50年の歴史があり、過去10年に一度も問題を起こしていない学校」が、近場ではここだけだった。

 特に偏差値のところで、ぼくは「僕」の記憶の底上げのおかげで何とかなったものの、当時はまだ勉強に力を入れていなかったヒロトが危なかった。彼が無事試験を突破できたときは、本当にうれしかったものだ。

 そんな学校なので、ぼくやヒロトは珍しい人間ではあったけど、人に群がられるというようなこともなかった。むしろどう扱っていいのかわからず、距離を測りかねている空気を感じていた。

 

 そんな中、空気を破って話しかけてくれたのが、カノンちゃんだった。

 

 ――えっと、大道寺さん、だよね。みんながD電機の社長令嬢さんだって噂してるんだけど、ほんと?

 

 取り繕うことも、こびへつらうこともせず、真っ正直に意志を伝えるカノンちゃんは、ぼくが初めて出会うタイプの女の子だった。

 

 ――はい。D電機は、ぼくのパパの会社です。

 ――!? ちょ、今なんて!?

 ――え? で、ですから、D電機はパパの……。

 ――そっちじゃないよ! 今、『ぼく』って言ったわよね!? やだなにこの子、めっちゃかわいい!

 

 ……そして、所謂「ぼくっ娘」が好きなタイプの人だったらしい。いきなり抱きつかれて、当時は本当に困惑したものだ。

 彼女が話しかけてくれたおかげで、他のクラスメイトもこぞって話してくれるようになった。話しながら……時折髪の毛をセットされたり、アクセサリーを付けられたりと、マスコットのような扱いも受けた。

 ぼくはそのころから女子の中で低身長で、肉付きがあまりよくなかったのもあってか、中学に上がってしばらくは小学校低学年扱いをされることが多かった。さすがに今はブラジャーが必要な程度には育ったけど。

 だから、どうしてもみんな、ぼくのことを歳下みたいに扱って、でもカノンちゃんだけはそんなことがなかった。人一倍ぼくをかわいがった彼女だけど、ぼくをまっすぐ見てくれたのは、カノンちゃんだけだった。

 

 ――やぁん! うそみたいにかわいいー! ね、ね、エリカちゃん! 一緒に写真撮ろっ!

 ――あ、あの、カノンちゃん。そろそろ先生が来るから、携帯はしまった方が……。

 ――日村ー、携帯没収な。あとで職員室に来るように。

 ――のおおお!? せ、先生後生だから! エリカちゃんを撮るまでは待って!!

 

 ヒートアップしたカノンちゃんが先生に怒られることもしばしばで、そのたびにぼくは苦笑を禁じ得なかった。

 そうしてぼくは、彼女と友達に……そしていつしか、親友になった。

 カノンちゃんは、ヒロトと両親、ヒロトの家族に次いで、ぼくにとって大切な人となった。

 

 

 

 ぼくが一人称を『わたし』に直すとき、練習に付き合ってくれたのもカノンちゃんだ。

 もちろん、ぼくの『ぼく』が好きだった彼女は難色を示した。別にそのままでもいいんじゃないかって。みんな、ぼくのことを受け入れてくれているって。

 

 ――だけど、学校のみんなはそうでも、ヒロトの「周り」はそうじゃないから……。

 

 それは、既に経験したことだった。中学に上がり、ヒロトの婚約者として大場の集まりに参加することもあった。

 ユキさんに兄弟はいないけど、従兄弟はいる。ヒロトのいとこ伯父にあたるという人に自己紹介をしたとき、ぼくは鼻で笑われた。

 

 ――まるで男の子だな。どうやら直系殿は、同性愛のケがあるらしい。

 

 ……とても、悔しかった。ぼくが悪く言われたことじゃない。ぼくを通して、ヒロトがバカにされたことが、とても悔しかった。ぼくが原因で、ヒロトの足を引っ張ってしまうことが、情けなかった。

 内心を出さず、波風を立てぬようにこやかな笑みを絶やさず、その場はやり過ごしたけど。その顔面に特大の火球をぶつけてやりたいほど、悔しかった。

 直後にユキさんが彼にコブラツイストを仕掛けたことで、一緒に感じた怒りは消し飛んだけど。悔しさは、消えることがなかった。

 

 ぼくとヒロトが婚約をしているというのは、クラスのみんなが知っていることだった。ぼくがクラスメイトにナンパされたときに、ヒロトがぼくを助け出して宣言したからだ。

 

 ――こいつ、俺の許嫁だから。変な粉かけんの、やめてくれねえか。

 

 そう言って、ぼくを守ってくれた。うれしかった……だけど、ぼくがヒロトに迷惑をかけてしまうことが、つらくもあった。

 

 ――そうそう、ナンパするならあたしにしておきなさいって。プロポーションには自信あるのよねっ!

 ――いや……日村さんはいいや……。

 ――おっぱい大きいけど、怖いし……。

 ――今日があんたらの命日よ。覚悟しなさい。

 

 カノンちゃんも、ぼくを守ってくれた。ぼくとヒロトに注目がいかないように、自分から目立って大立ち回りをして、その後先生から怒られていた。

 

 ぼくは、女の子として成長しなければと思った。普通の女の子がしているように、自分でナンパから身を守り。普通の女の子のように、女の子としてふるまえなければ。

 その入口として、口調を直したい。『ぼく』を卒業し、『わたし』にならなければ、ヒロトの婚約者として相応しくない。

 渋るカノンちゃんを熱心に説得し、最後には折れて、ぼくに協力してくれた。

 

 

 

 カノンちゃんの協力のもと、今に至るまで、ぼくは女の子らしさを磨いてきた。体格こそ子供のようなものだけど、振る舞いに関しては、普通の女子と比べても遜色ないと言えるレベルになったと思う。

 そして今、ぼくは彼女に、『わたし』をやめないかと提案された。

 

「それは……」

「もちろん、自然に『わたし』って言えるようになるまで、エリカちゃんがすごく努力してたって、あたしは知ってる。でも、やっぱりエリカちゃんは、『ぼく』って言ってた方が似合うのよ」

 

 いわば「今までの努力を捨てろ」と言われているようなもので、簡単に首を縦に振れるようなものではない。やろうと思えば今すぐにでも戻せるけど、それをしてしまったら……。

 

「……これ言っちゃうと、エリカちゃんはすごく気にすると思うけど、あえて言うよ。――あのバカが婚約破棄なんて言い出したら、エリカちゃんが無理する意味、ないじゃない」

「っ」

 

 そう。ぼく自身が、ヒロトの決断を肯定してしまうことになる。ヒロトのために重ねた努力を捨てるということは……そういうことだ。

 ベッドのシーツをギュッと握る。何かから身を守るように、体を縮める。暖房のきいている保健室で、なぜだか寒気を感じた。

 ぼくが落ち着くまで、カノンちゃんは何も言わず、ただぼくの右手を握っていた。

 

「……ごめんなさい、また取り乱しちゃって」

「いいよ。こっちこそごめん。……でも、あたしの意志は、そういうことだから。あたしはエリカちゃんの味方であって……大場君の味方じゃないから」

 

 彼女は、ぼくの親友ではあるけれど、ヒロトとの面識はほとんどないと言っていい。ヒロトの方も、カノンちゃんの名前を憶えているかどうかすら怪しい。

 だから彼女の意見は至極まっとうであり……やっぱりぼくにとっては、簡単なことではなかった。

 

「わたし、は、その……」

 

 ぼくは、どうすればいいんだろう。何が正解なのか、全くわからない。こんなに混乱したのは、キャンプ場で魔物に襲われたとき以来かもしれない。

 

 うつむき黙り込むぼくに、カノンちゃんはしばらく一緒に黙り込んで……しびれを切らせた。

 

「っあー! つまり! あたしが言いたいのは! なんでエリカちゃんばっか傷つかなきゃいけないのかってことなの!」

「か、カノンちゃん?」

「いいじゃない! あのバカに見せつけてやりなさいよ! 「あんたがそういう態度とるなら、こっちだってやってやる」って、エリカちゃんのかわいいところ見せて、悔しがらせてやりなさいよ!」

 

 そ、それは……どうなんだろう。ぼくが『ぼく』に戻ったところで、ヒロトは悔しがるんだろうか。

 ……あ、でも、なんか前に言ってたような。「もう『ぼく』って言わないのか」って。実はヒロトも、カノンちゃんと同じで、ぼくっ娘愛好家だった可能性が微レ存……? いやいやいや。

 そもそも、ぼくみたいに発育の悪い女の子に対して、成長したヒロトがそういう感情を持つのだろうか。カノンちゃんみたいに立派なのを持ってるなら違うだろうけど、ぼくなんてかろうじて絶壁じゃない程度しか……。

 まくしたてるカノンちゃんの言葉に、ますます混乱してしまう。ただ、その方向性は先ほどまでとは少し違って……ちょっとだけ、元気が出てきた。

 

「……ふふっ。カノンちゃんは、すごいですね」

「はー。やっと笑ってくれた。うん、やっぱりエリカちゃんは笑顔が一番かわいいわ。うりうり~」

「や、やめてくださいよカノンちゃん。くすぐったいです……」

 

 抱き寄せられ頭を撫でられ、こそばゆさに苦笑が漏れた。……本当にありがとう、カノンちゃん。

 

 立ち止まって、一息ついて、心が軽くなって思う。確かにカノンちゃんの言うとおりで、もしかしたらぼくは、ずっと無理をし続けていたのかもしれない。

 『ぼく』という一人称は、最初に使い始めた一人称だったこともあって、どうしてもぼくの人格の根幹をなしている。『わたし』と言うためには、どうしても一度言葉をため込む必要があった。

 いずれはまた『わたし』と言うべきときが来るだろうけど、今はカノンちゃんに甘えてしまっても……いい、かな。

 

「確かに、さっきから全然笑ってませんでしたね。カノンちゃんの言うとおりでした」

「そうよ、あたしってばちゃんと見てるんだから。大好きなエリカちゃんのことだから、特にね」

「ふふっ。『ぼく』も、カノンちゃんのこと、大好きですよ」

「~~~っ、もう、かわいすぎるーっ!」

 

 抱き着かれ、ぼくもカノンちゃんを抱きしめ返す。

 

 そうだ。まだぼくは立ち上がれる。前を見ることができる。親友の力を借りてだけど、進むことができる。

 ヒロトが何を思い、何を考えてあんなことを言い出したのか、ぼくにはわからない。

 だけどせめて、その真意を知るまで。ぼくは、あきらめたくなかった。

 

 

 

 

 

 夕方。父が帰ってきてから、両親に今日あったことを伝える。当たり前かもしれないけど、二人ともものすごく怒った。

 意外なことに、父よりも母の怒りがすさまじかった。近代最強と言われた母の魔法の力が漏れ、家具や調度品がまるで恐怖でもしているかのようにカタカタと音を立てた。

 

「ちょっと、それは、いくらなんでも自分勝手じゃないかしらねぇ、ヒロトくぅん……」

「あ、あの、ママ? ぼくは平気なので、落ち着いてください。お皿が割れちゃいそうです……」

「だが仕方あるまい。彼の気持ちが全く分からんとは言わんが、一人で勝手に暴走して、挙句に娘を傷つけられたとあれば、私も平穏ではいられん」

 

 いつもとは逆で、父が母をなだめる。なんとか食器が犠牲になることは避けられた。

 ふぅ、と母は一つ息を吐く。まだ表情は険しいけれど、いつもの優しい母だった。

 

「それで……エリカは、どうしたいの?」

「え。どう、というのは?」

「彼の言う婚約破棄を、受け入れるのか受け入れないのか。……私たちは、ちゃんとお前の気持ちをわかっている。遠慮せず言いなさい」

 

 ――この両親は、本当にぼくのことを愛してくれている。ヒロトへの気持ちなんて、一度も口にしたことはなかったのに。ちゃんと、見てくれているんだ。

 お箸を丁寧に箸置きの上に置き、ぼくはキッと前を向いた。

 

「いやです。婚約破棄なんて、認めない。ヒロト以外の男と結婚するなんて……考えたくもない」

 

 だってぼくは。あの、小学2年生の夏の日から、ずっと。

 

 

 

「ぼくが一番好きな人は、ぼくがこの世で一番愛するのは、ヒロトだけだから」

 

 

 

 ぼくの答えを聞き、母は優しく微笑んだ。父は、ちょっと困ったような顔をして、だけどやっぱり微笑んだ。

 

「いつかは親の手を離れるのが子供とは言え、エリカは本当に早かったよなぁ……」

「7つのときですからねぇ。もうちょっと甘えてほしかったっていうのが、正直な気持ちだけど」

「……だが、誇らしくもある」

「ええ、本当に」

 

 どこまで行っても立派な両親で、ぼくはきっと、生涯この二人にはかなわないだろう。

 

「わかった。エリカの気持ちも踏まえて、婚約破棄には反対であると、大場会長に伝えよう。無論、簡単に通ることではないだろうが……諦めるつもりもないだろう?」

「もちろん」

 

 ヒロトが本当にぼくを嫌いになってしまったのか。それとも何か、事情があるのか。それを知るまで、ぼくが諦めるという選択肢はない。

 待っているだけじゃ手に入らない。だったら、動くしかない。カノンちゃんに励まされ、両親に背中を押され、覚悟を決めた。

 

 

 

 ヒロト。ねえ、ぼくの愛しい人。

 君を手に入れられるなら、ぼくは。

 

 「悪」にだって、なってやる。

 

 

 

 

 

 あくる日、ぼくは一人で登校した。いつもだったらヒロトと待ち合わせをするのだけど、昨日の今日でするわけがない。

 教室につくと、まだヒロトの姿はなかった。長年待ちわびた同じクラスで、ちょっと前までは毎日が楽しみだった。

 そのぐらい、ぼくはヒロトのことが好きだった。カノンちゃんはぼくがヒロトに尽くしたって言ったけど、ぼくはそんなこと思ってない。好きだから、やってただけ。

 昨晩初めて言葉にして、改めて、ぼくの中のヒロトがどれだけ大きかったのかを知った。

 

「あ、エリカちゃんおはよー。……どうなった?」

「おはようございます、カノンちゃん。とりあえず、保留だそうです」

 

 先に登校していたカノンちゃんに声をかけられ、あいさつを交わす。ぼくの答えに、彼女は小さくため息をついた。やきもきさせてごめんね。

 

「ま、とりあえずその件については、今はいいや。それでさ。あいつの縛りがなくなったんなら、エリカちゃんも遊びに行けるよね。今度遊びに行こうよ」

「えっ、と。そうですね……」

 

 ぼくの気持ちとしては、婚約破棄なんて認める気はさらさらなく、ヒロトとの時間をなくすのがおしいという思いがある。

 だけど現実問題として、今のぼくとヒロトが一緒に過ごすというのは、難しいだろう。破棄保留のこともあるし、何より……彼の中で、ぼくがどうなっているのかがわからない。

 無意味に時間を浪費するよりは、カノンちゃんと一緒にお出かけして、気を紛らわせるというのも、悪くはないかもしれない。

 

「いいですよ。どこへ連れて行ってくれるんです?」

「おっとぉ、あたしが連れて行くのね。いいわよ、おすすめのお店がいっぱいあるんだから!」

 

 そう言ってカノンちゃんは、カバンの中から食べ歩きマップなるものを取り出した。大学ノートにチラシやフリーペーパーの切り抜きが貼ってあり、細かくコメントが書いてある。

 こんなものを作ってるなんて、カノンちゃんは見た目に反して(というのは失礼かもだけど)マメだった。

 

「――でさー。そこのあんみつがまたおいしいのよ。明後日暇なら、エリカちゃんも一緒にどう?」

「そうですね。ぼくも予定なくなっちゃいましたし、カノンちゃんさえよければ是非」

 

 ふと、視界の端にヒロトをとらえる。彼は、ぼくが彼を見るまでこっちを見ていて、ぼくが彼に視線を送ると、プイッと外を向いた。

 ――やっぱり、彼が何を思っているのかはわからない。彼のぼくに向けた感情が、いまのぼくにはわからない。

 でも。

 

「……あきらめないから」

「ん? エリカちゃん、なんか言った?」

「カノンちゃんは食いしん坊だなぁって言ったんです。うらやましい……」

「ぉお? エリカちゃん、あたしの胸を見る目がちょっとこわいゾ?」

 

 今は雌伏の時。ぼくはヒロトから視線を外し、カノンちゃんの無駄に立派な脂肪を凝視した。何を食べたらこんなに成長するんだ……。

 

 ヒロトは、ぼくが視線を外すと、やっぱりぼくたちの方を見ていた。

 

 

 

 

 

 時間は進む。止まることはない。ぼくもヒロトも、前に進む歩みを止めることはない。

 だから、ぼくがヒロトの方を向き、歩く方向を正せば、また一緒に歩くことができる。

 

 そう思っていた。

 

 

 

「おーし、席つけー。日直、号令ー」

「きりーつ、れーい、おしゃしゃーす、ちゃくせーき」

「相変わらず教師に敬意を払わねーガキどもだなーおい。突然だが編入生を紹介するぞー」

 

 いつもの適当な挨拶のあと、まるで昨晩の献立を話すような調子で、ぼくらの担任は爆弾発言を投下した。

 

 一瞬の静寂。その後、一気にざわめく。担任は形だけの注意をして、扉の向こうに「入れー」と声をかけた。

 

 扉の向こうから現れたのは、一人の少女。カノンちゃんと同じぐらいの身長と、カノンちゃんよりやや小ぶりな胸。整った造形の顔。腰まで伸びる、艶やかな黒髪。

 思わず二度見するほどの美少女は、だけどぼくは……ぼくとヒロトには、見覚えがあった。

 

「あ? ……コトリ?」

「コトリ、さん?」

「あー、大場と大道寺は知り合いだったなー。んじゃ、細かい説明はあいつらから聞いてくれー」

「クスクス。愉快な先生ですね。でも、他の方にも紹介しないと、みなさん混乱してますよ」

「編入生っつーのは言ったから、あとは自分でなー。うちは自由と自立がモットーです」

 

 適当極まりない担任の対応に、少女はまた一つクスリと笑う。

 クラスメイト達の方を向き、ニコリと、思わず見惚れてしまうほどの笑みを作り、自己紹介をした。

 

 

 

「はじめまして。今日から皆さんと同じクラスになります、神崎コトリと申します。そこにいらっしゃる大場ヒロトさんの、又従兄妹です。どうぞよしなに」

 

 

 

 

 

 「悪役令嬢」

 

 不意に、そんな単語が、頭をよぎった。




悪役令嬢ってなんだよ(タイトル回収)



Tips

電機産業
割と新しい産業。それまで主流だったのが魔法杖産業で、大道寺電機(D電機)が開拓したことでいろんな企業が便乗参入した。
それでも「魔法ありき」の考え方を捨てきれない企業が多いせいで、D電機の独壇場が続いている。

大道寺電機(D電機)
名前からもわかる通り、エリカの父・キョウが立ち上げた会社。一からのたたき上げで財閥とタメを張ってるめちゃくちゃすごい会社。
財閥がフリーザ様で、D電機が悟空。
まだまだインフラ整備ができていないところに無償で人材を派遣したり、顧客満足度も高い。

大場財閥
魔法杖市場でトップをひた走る、100年以上続く財閥。D電機の登場で電機産業にも手を出したが、後塵を拝し続けている。
前述の「魔法ありき」を捨てきれない企業グループの一つ。というかここが魔法を捨てると魔法杖産業が一気に衰退するので、捨てられない。
ヒロトが使っているステッキは、大場製の特注品。エリカの母・ナツメが家事用に使っているのもここのだったりする。

食べ歩きマップ
日村カノンお手製。チラシを確認して気になった店に赴き、実食した感想が事細かに載っている。金をとれるレベル。
そして食べた栄養はすべて胸に行く。



悪役令嬢
悪役の令嬢。物語の主人公の前に立ちはだかり行く手を阻む、やんごとなき身分の娘。
近年ではその立場にあたる者に憑依・転生して、来たるべき破滅を逃れようとする作風がテンプレとなっている。
一体この作品では誰が悪役令嬢なんですかねぇ……(ガチで決めてない)



登場人物

日村カノン……ひむらカノン(ハイドロカノン→ヒドロカノン→ヒドラカノン→ヒムラカノン)
神崎コトリ……かんざきコトリ(ゴッドバードから)

1話の分量は?

  • 少ない(3万文字書いて♡)
  • 物足りない(2.5万文字はないと……)
  • 大体このぐらい(2万文字程度)
  • 多いよハゲ(1万文字以内じゃないと無理)
  • 多すぎィ!!(5千文字がちょうどいい)
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