北郷英雄譚(旧題:七天の御使い†一刀譚) 作:にゃあたいぷ。
「こちらの生活には慣れましたか?」
とりあえず、ある程度は文字を読めるようにはなった俺は、時間に暇ができた際に彼女の執務を手伝うようにしていた。彼女からは天の御使いとしての名を使わせてくれたら良いという話をされているが、穀潰しになるつもりはなかった。
それでも
報告書を整理し終えた後は資料にケアレスミスがないか、算盤の珠を打ち鳴らしながら手早く確認する。現代社会には電卓という便利な代物があるけども、算盤でも使い方に慣れてしまえば同程度の速さで数字を導き出すことができる。それは四六時中、数字と睨めっこをする文官と遜色ない速度ですね、と喜媚も褒めてくれた。
褒めてくれながらも彼女は報告書の文字を目で追い続ける。
「よくして貰っているからかな。思っていたよりも苦労はしていないよ」
「ええ、不便がある時は屋敷の者に言ってくださいね。
「お、おう……」
すぅっと喜媚の瞳から光が失われるのを見て、どうにか話題を変えられないか思案する。
「あ、お茶でも淹れようか?」
「ええ、お願いします。調理場にいる者に頼むと用意して貰えますよ」
私の名前を出してください、と言われて俺は頷き返した。
ただ一人、城の趣向の凝らされた廊下を歩いていると、此処が異世界に来たんだなと実感する。
現代日本では、未成年だった俺も此処では立派な成人として扱われる。半数以上の人間が大学に卒業してから働いているというのに、今の俺はお手伝いとはいえ役人だ。現代社会なら公務員で安定して高収入を得られる勝ち組である。近頃は、そんなこともないようだけどね。
調理場の使用人に声を掛けて、御茶と菓子を頂いてから部屋に戻る。
「……黄巾党、山越……襲撃……こふっ…………」
そこには丁度、血を吐く主人の姿があった。
これにも、もう手慣れた俺は盆に乗せた薬と水差しを持って彼女に手渡した。
それから数分、彼女の背中をさすり続ける。
「ありがとうございます、もう大丈夫ですよ」
そういうと彼女は幾分か悪くなった顔色で笑ってみせる。
梨晏が言うには、喜媚が胃痛を抱えることになったのは最近の話のようだ。元から病弱で、吐血することも多々あったようだが、今のように頻繁に血を吐き出すことはなかったらしい。その話の真偽はどうであれ、州刺史という役職が身を削る役職というのは傍目から見ているだけでも分かる。俺が彼女の世話になってから喜媚の下に届けられる報告は良いものがほとんどない。山越が現れた、孫堅が暴れた、王朗が山越と交渉を始めた。徳王を名乗る猫娘が集落に現れた。その類の話を聞く度に喜媚は小さく吐血する。そして日に二、三度、倒れてしまうのが彼女の日常だった。
何故か数十分もすると復活してるけど、彼女曰く、慣れている。慣れでどうにかなる問題なのだろうか。
「休むわけには行きませんからね」
彼女は筆を手に取ると命令書の作成に移る。
出来上がったそれを届けるのもまた俺の仕事だった。
俺の知る歴史では、劉耀――正史では劉繇か。
劉繇なる人物は言ってしまえば、孫策の噛ませ犬だった。孫策の揚州統一、即ち小覇王と呼ばれるに至る快進撃の道すがらに倒される人物であり、敗北した後は役目を終えたように病死する。そのことを知っている俺は、目の前で血を吐きながら政務を執り続ける彼女を見つめながら、どうにかその未来を回避できないか思案する。例えば、州刺史として孫堅に命令を下すことはできないか、とか。
結論を云ってしまえば、それはできない。との話だ。
「孫堅には野心があります。最低でも揚州統一、あわよくば大陸全土の征服。彼女は誰かの下に着くような人物ではなく、ましてや野心を持たない私に彼女が着く道理もありません。そもそも野心を持っていないのであれば、私を避けて、袁術と繋がりを持つような真似もしないでしょう」
孫堅が袁術との繋がりを持っていることは歴史から知っている。
「彼女と私の手を取り合う時、それは私が彼女の配下になる時でしょうね」
それではいけない、と彼女は続ける。
「漢王朝が健在の今、武力に任せた勢力の拡大は決して許容されるべきものではない。野犬如きに漢王朝の築き上げた秩序を壊されてなるものですか……ええ、それが道理、それが筋というものです。今の世の中が漢王朝という秩序で成り立つ以上、力に任せて道理を押し通すような真似を許して良いはずがない」
今にも倒れそうな色白い顔で瞳だけはギラギラと輝かせる。
きっと彼女もまた群雄割拠と呼ばれる時代で、群雄の一人として数えられる人物だったのだと思い知らされた瞬間だった。孫堅と手を取り合うことはできない。そして孫呉という強大な勢力を前に、きっと彼女は膝を屈する日が来るかも知れない。それでも彼女の側に居たいと思った瞬間でもあった。
気付けば、俺は拱手で喜媚に応えていた。
†
此処、私室。
部屋は全体的にこざっぱりと綺麗にされており、棚には詩集の他に可愛らしい小物の類が多く置いてある。隅には武具と手入れ道具が纏められていた。そして女の子らしさと猛将らしさが同居する部屋の主人は今、眼鏡を掛けた張り切りガールっぷりで教鞭片手に家庭教師役を務めている。ふふん、と得意顔を見せる
そんな彼女が教鞭を振りながら教えてくれるのは現在、俺達の置かれている状況についてだ。
揚州刺史、劉耀。真名は
彼女は揚州の政務を担当する漢王朝の行政官ではあるが、実質的に支配できている土地は然程多くはない。
今は全六郡ある内の四郡が彼女の支配下にあるが、その中でも実効支配できているのは九江郡と丹陽郡の二つだけだ。まず揚州には喜媚に従わずに独自路線を取る勢力が二つあり、片方が呉郡の孫堅。もう片方が会稽郡の王朗になる。それを許すのは喜媚の抱える将兵が弱い為だ。呉郡、会稽郡は共に山越と呼ばれる異民族からの侵略を受ける土地であり、これを守る力が喜媚にはなかった。ついでに云えば、豫章郡も山越の侵略を受け続けており、これを喜媚が持つ兵力の八割方を使うことで侵攻を食い止めているのが現状だ。豫章郡と河で繋がる廬江郡にも山越が略奪に来ることもあり、それで一度、手酷い被害を受けた経緯がある。今は孫堅に将兵を貸してもらうことで廬江郡の守りを固めているという話だ。孫堅の名声が日に日に上がる一方で、喜媚の評判は日に日に落ち込んでいる。
今では名ばかりの大将と呼ばれる程に。
「それもまあ仕方ないんだけどね」
梨晏が声色を弱めながら告げる。
統治者とは即ち、外敵から領地を守ってくれる存在のことだ。それが最低限、その上で満足に食べさせてくれる者に民草は従う。例え、文字通りに血反吐を吐く程に政務を頑張っていようが戦が弱ければ、民草から統治者としての資格がないと見られてしまうのだ。
この時代は弱いと云うだけで罪になる、民草は常に強い統治者を求めていた。
「頑張っているから、なんて言い訳にもならないことは分かっている。統治者である以上、既に一人の責任では済まなくなっている」
それでも、と梨晏は続ける。
「たった一人でも良い、最後まで寄り添ってあげられる人が一人だけでも居てあげても良いんじゃないかなって思うんだよ」
梨晏は理解している、喜媚に先がないことを知りながら仕えている。
その覚悟は、人によっては愚かと云うかも知れない。それでもだ、俺は彼女の決意を尊重したいと思った。そこに感傷があったことは否定しない。それ以上に、きっと彼女が抱いた思いは尊いもののはずだから、可愛い女の子の為に、そんな軽い調子で此処にいることを決意した俺が穢して良いものではなかった。
忠誠ではなく、恩義でもなく、義理立てする訳でもなく、ただ一つ、縁故に彼女は此処に残っている。
それは当事者ではないものに否定して良いものではない。
喜媚専用の執務室、
それは書類整理を手伝っている時のことだった。
「お隣で州刺史をしている劉表と連絡を取っているのですよ。同じ皇族ですし、漢王朝の臣下ですし、彼女は私と違って強いですし……助けてくれないかなーって?」
喜媚は手紙用の紙を広げながら藁にも縋る思いで救援要請を綴る。
力なく笑う、その瞳には強い意志が込められていた。
しかし、それも束の間、バタンと執務室の扉が開け放たれる。
何事かと問えば、緊急事態だと文官らしき男が告げた。
「丹陽郡にて、我が軍は黄巾党を名乗る賊徒に大敗! その領地の半数以上が奪われました!!」
「……え? ……あ、うん。そっか、あはは……そう来るかー……」
渇いた笑い声を零した後、喜媚は特大の血を吐き出して地面に倒れ伏した。
†
数時間後、執務室には元気に政務を続ける喜媚の姿があった。
いや、元気そうではない。口の端から血を垂らしながら文を綴る、宛先は劉表。内容は豫章郡を奪還する為の援軍要請だ。魂を削る想いで書き終えた文を喜媚は巻物として誂えるように配下に指示を送る。巻物が出来上がるまでの間、喜媚はまた違う政務に取り掛かった。床を血で汚しながらも彼女は政務の手を止めない。止めることができない、その気迫に身が竦んだ。
こんなにも彼女は頑張っているというのに、どうして報われないのだろうか。努力、それそのものには価値がない。それでも彼女には報われて欲しかった。
「良いんですよ……所詮、私は皇族というだけで州刺史に就いた身ですので……過分な地位だったん、ですよね……」
ごくり、と喜媚は口に水を含んでも居ないのに喉を大きく立てる。
「この一枚が誰かを不幸から救うかも知れない、この一枚が誰かを幸せにするかも知れない。この一枚が誰かの命を救うかも知れない……そう考えたら、手を止めることなんてできるはずがないじゃないですか……」
喜媚は元々病弱だった。
しかし、吐血するほどに体を悪くしたのは州刺史に任じられてからだと云う。梨晏が云うには、彼女の政務に特筆すべき不備はないとのことだ。賄賂こそ横行しているが、他郡のように無法地帯になっている訳ではない。少なくとも喜媚の目が届く範囲での不正は行われていない。今が平時であれば、きっと喜媚は優れた為政者――とまではいかないが、優秀な部類には入っていた、と梨晏は評価する。
ただ彼女には致命的な才覚の欠落があった。彼女は戦に勝つことができなかった。
絶望的に運が悪かったということもある。それに加えて、彼女は戦を差配することができず、また彼女の知恵袋として活躍してくれる者も居なかった。彼女が求めたのは知恵者、つまり軍師。それは太公望、もしくは張良といった存在だった。猛将はそこまで求めていなかったと云う。梨晏が居るだけで恵まれ過ぎている、と。
普段の政務に加えての戦準備、喜媚に休んでいる時間はなかった。
書状が届く、彼女はそれを配下から受け取ると俺を見つめた。
「劉表の元に書状を絶対に届けなくてはなりません」
白髪の少女は今にも消え入りそうな、しかし命を燃やすように私を見つめる。
「梨晏と共に届けてください」
そういって出来上がったばかり巻物を受け渡される。
「梨晏なら一人でも大丈夫じゃないか?」
それは遠回しに、俺も政務を手伝うという申し出だった。しかし喜媚は首を横に振る。
「私には、貴方を守りきれませんから……貴方は自分の価値をまだ知らない、此処に残るよりも梨晏の隣の方が安全です」
まだ日も経たぬ内に申し訳ありません、と彼女は小さく頭を下げる。
「必ず届けるよ」
「ええ、ええ、是非そうしてください。でないと私、今度こそ倒れますよ?」
今にも消えてしまいそうな笑顔で彼女は俺のことを見送ってくれた。
それから、喜媚が倒れたまま動かなくなった、という報告を受けたのは揚州から荊州に入った時のことになる。