北郷英雄譚(旧題:七天の御使い†一刀譚) 作:にゃあたいぷ。
揚州丹陽郡、対黄巾党戦線。
揚州軍、即ち劉耀軍は賊を相手に押し込まれていた。
この時に劉耀軍を率いる将は張英という娘であったが、この事実は決して彼女の無能を示す訳ではない。そもそもの話をすれば、今の劉耀軍には黄巾党と戦えるだけの強さがなかった。理由は幾つか考えられるが、その中でも最たるものを挙げるとすれば、それは練度の違いにある。つまるところ劉耀軍には正規兵と呼べる存在がほとんどいなかったのだ。
後漢末期、揚州の地において、兵力を持つのは豪族であった。
温暖な気候の為、冷害の影響で大陸北部から食料を求めて南下する民草を保護したのは揚州と荊州にある地方豪族であり、民草は食料を得る代わりに豪族達の奴婢として労働力を提供した。また司隷から遠く離れた辺境の地である揚州では、朝廷の影響力が弱く、豪族による自衛手段として奴婢達は兵力として活用されることが多かった。自分の身は自分の身で守る為に豪族は自らの奴婢に訓練を施しており、彼らが持つ兵は官軍に勝るとも劣らない実力を持つようになった。
その為、揚州における戦は如何に豪族から兵力を借り受けることができるのか、に尽きる。
とはいえ、劉耀。つまり
ましてや喜媚は朝廷から派遣された刺史であり、地元の豪族にとっては外様の人間である。そんな彼女に虎の子の兵を貸したくないと考えるのは人情というもの、ましてや呉郡には地元の英傑であり、大陸随一の戦上手の孫堅が居るのだ。地元の豪族達がどちらに手を貸したいと考えるのか、それは火を見るよりも明らかであった。
おかげで張英が率いる劉耀軍の九割以上が民草からの徴募によって集められた兵卒で構成されており、まともに訓練も付けられないまま実戦に投入されている。賊とはいえ、今や大陸全土を揺るがす黄巾党の陣容は幾度と戦いを乗り越えてきた古強者だ。その練度の差は察するに余りある。
最早、張英には時間を稼ぐこともできなかった。
†
「まーじでー、これちょっと信じらんないんですけど〜?」
鎧袖一触とは、正にこの事だ。味方陣形が抉るように打ち砕かれている。
幾度と官軍相手に戦ってきた黄巾党の将兵の実力は最早、熟練兵の域に達しており、農民に剣を持たせただけの軍勢では太刀打ちできなくなっていた。それでも相手は真正面から突撃してくるだけの無能集団、策を弄すれば時間稼ぎ程度はできると思ったが――充分な訓練を受けていない兵では命令の伝達が遅く、大半が命令を理解してもくれなかった。だったらもう真正面に兵を並べて敵にぶつけるしかないのだが、それをした結果が目の前の惨状である。
うわっ……私の兵卒、弱すぎ……?
こんな惨状であっても無双の英傑が一人でも居れば、最前線で槍を振るうだけで持ち堪えられるのだが――残念ながら揚州郡でそれができるのは太史慈だけだ。そもそも私は地元の名士である親の七光りで武官に取り立てられた人間である。書類仕事とかマジ勘弁なんですけどー、ってことで回された部署になるが、これはちょっと想定外。そもそも私は優秀な副官でも見つけた後、後方勤務でぐうたらと副官に仕事を押し付けられたら良かったのだ。
なのに前線の将が不祥事や、敗戦の責を取り続けた結果、こうして前線に駆り出されたのである。
「あーもー、やーだー。お風呂にはーいーりーたーいー! 髪はパサパサだし、爪の手入れもできてないしー!!」
「ちょ、張英殿。そんな大声で言われては……」
さほど優秀でもない副官に窘められながらも愚痴が止まらない。
「私の人生設計では揚州刺史の劉耀配下になれただけで勝ち組だったんだけどなー?」
何処で人生を間違えた、と思わざる得ない。
ともあれ今回の戦は終了。敗北確定の戦いを続ける必要なんて何処にもない。そもそもだ、初陣の兵士が半分を超えている時点で勝ち目なんてなかったのだ。となれば、とっとこ逃げるに限る。それで敗戦の責を問われるのであれば構わない、こんな危険な場所から逃げられるのであれば大歓迎だ。副官に撤退の指示を出して、全軍が散り散りに逃げ出したのを確認してから馬の腹を蹴った。尻尾をくるんと巻いて、さっさと逃げる。唯一、正規軍とも呼べる太史慈配下の将兵が「殿は任せろー!」と言ってきたが、やめてください。敵の追撃で私が死んでしまいます。率先して死にたがる狂戦士の首根っこを掴んで、戦場から脱兎の如く逃げ出した。
太史慈ったら早く帰って来なさいよ! と泣き叫びながらだ。
†
結局の話、
生まれつき病弱であった
そんな最中、今回もまた前線からの報告書を受け取ると、今回もまた駄目だったよ、と寝台の上で吐血する。
「……ん?」
しかし報告書の内容は何時もとは少しばかり違っていた。
――我が軍は負けるべくして負けた。
口元の血を拭いながら報告書を睨みつける。
送り主の名は張英。元々は後方支援を務めていた武官であり、近頃、最前線の将として抜擢された若者だった。「私は悪くないしー。っていうかー、なんていうかー、うちの御主人様って無能すぎなーい?」という張英の鬱憤を晴らす、目一杯の皮肉を込めた一文は喜媚の心を射止めた。それが例え、当人の望むものでなかったとしても喜媚を動かすことになった。喜媚は思考する。今すぐに呼び出して、我が軍の敗因を知りたい。しかし黄巾党に侵略を受ける今、それをしているだけの時間がなかった。考える。このままでは、また負けることになる。しかし打ち合わせをする時間はない。この状況下においてはもう、敗北は決定付けられているようなものだ。なら状況を変えるには博打を打つしかない、顔も人柄も知らない将に賭け金を積み重ねることはできるのか? いや、もう他に手はないのだ。私が考えたところでもう敗北は覆せない。
負けて元々、勝てば儲けもの。職務放棄にも近い諦観の末に決意し、覚悟を固めて書を送り返した。
――必要な物があれば全て用意します、貴方の軍略に揚州を委ねます。
人はそれを丸投げと云う。
†
「……つらたん」
土埃だらけの髪を揺らしながらポロリと零す。
両手に握られた書状は我が主君、劉耀からのものであり、中身は丹陽方面軍における全権委任状であった。いやいや待て、と。待ってよ、と。誰か止めなかったのか、と。張英は頭を振って、二度、三度と書状を読み返すが内容が変わることはなかった。貴方の軍略に揚州を委ねます、とか書いてあるけども軍略なんて何も持ってない。私の御主人様ってそこまで無能だったの? むしろ、節穴? 墓穴でも掘ってみます? 辛辣な言葉が脳裏を駆け巡るが、自分のやる事には変わりない。どうせ特別なことなんて何もできないのだ、と開き直った。ここから逆転することは不可能。もし仮にそんなことが出来るのだとすれば、それは数多の敗北を積み重ねた先にある。
あーもう、と手入れを怠って荒れてしまった髪を掻き毟り、ボサボサの頭で覚悟を決めた。
「ふふふ……実戦に勝る経験なんてない……徹底的に嫌がらせをしてやるっすよ…………」
こうなったら敵も味方も地獄の道連れにしてやる、と決意を改める。
フゥーハッハァー! 前進だー! 遅滞戦闘だー、遊撃戦だー!
こうなったら大陸史に残る領域で敗北を積み重ねてやる!!