北郷英雄譚(旧題:七天の御使い†一刀譚) 作:にゃあたいぷ。
連戦連敗の戦場において、最も大事なのは士気の維持だと云われている。
そうしなくては戦い続けることすら困難であり、兵達は死を恐れて逃げ惑うだけだ。彼の有名な高祖、劉邦はその人柄で縁を繋ぎ止め、主に士気高揚としての役割を担っていたのだろう。だが、この過酷な丹陽戦線においては士気高揚の必要ない。
今日も元気に敗戦した劉耀軍は、適当な場所に集合し、私こと張英が音頭を取る。
「みぃーんなー、ご飯の支度ですよー?」
「ちょーえいちゃーん!!」
部隊別に分かれた兵達は配給の食材を受け取ると、戦よりも手馴れた動作で食事支度を始めた。
無理に士気高揚させる必要はない。何故なら、今は未曾有の飢饉なのだ。黄巾党に土地を踏み荒らされた彼らには明日を生きる糧もないが、兵站を知る劉耀からの補給が途絶えない揚州軍に所属していれば戦には負けるがまんまは食える。確かに戦さは怖いが逃げ出せば、今日の御飯にありつけない彼らには戦う以外に道がなかった。それでもまあ最初は一万も居た兵卒は数を減らして、五千にまで落ち込んでいるが――それでもなお残る将兵は数多の敗北を乗り越えた古強者だ。一日三敗北は当たり前、一日八敗北の時もある。揚州軍にとって引き分けは敗北のし損ない。時には奇襲成功で敗北も、一回の小競り合いで三回敗北する時もある。色々とおかしな文章が飛び交っているが、揚州軍にとっては当たり前の戦歴だ。敗北が当たり前になり過ぎて、黄巾党と引き分けた時は兵達が挙動不審になって士気が落ちたので敗北という事になったこともある。報告書には予定通りに負けました、という内容のものを既に五十通程度は送っている。
それで付いた渾名が常敗将軍、如何に大陸広しと言えども私ほど敗北を経験した将はいるまい。いや、なんでまだ指揮官やっているのか分かんないけど、気付けば敗北時の損耗率が
勝利が知りたい(切実)。
野営慣れした逞しい敗残兵諸君は意気揚々と木を切り倒して、自ら寝る場所を組み立てる。暇を持て余した将兵が山で鹿や猪を狩り、それを同胞達へと振舞ったりもしている。この姿を見ていると敗北慣れをし過ぎて、気落ちしている様子がないように見えるが――決して、鬱憤が溜まっていない訳ではなかった。
彼らとて揚州の民草、中には丹陽郡の民草も多く加わっている。
そんな彼ら、彼女らが黄巾党なる者達に地元を荒らされて良い思いをしているはずがなかった。揚州軍は鬱憤を溜めている、それが爆発しないのは太史慈配下の将兵が一度、新参兵を叩き伏せたことがある為だ。俺達にも勝てないのに数の多い黄巾党に勝てるはずがないだろう、と言い聞かせて、今は力を蓄える時だと身を以て理解させられている。
そして、明日もまた敗北を重ねる為、戦いに出向くのだ。
夜分遅くの仮設宿舎にて、灯台の明かりを頼りに地図を睨みつける。
雑に書かれた丹陽郡の城都と主な街道、その中で北部にある城都のほとんどにバッテンが付けてある。これは黄巾党に落とされた城都を示しており、丹陽郡にある全十六城の内七城、北から江乗県、句容県、湖熟侯国、秣陵県、石城県、丹陽県、溧陽県が今までに占拠されたことを意味する。その全ての城都で私達は防衛戦に参加し、進軍経路で襲撃を仕掛けては撤退を繰り返し、その数は五十を超える。数だけで云えば、歴戦の勇士だ。
しかし、それももう終わりが近付いている。
次の戦いの場は蕪湖県、丹陽郡を横断する河に隣接した立地。この地を落とされると丹陽郡にある平原地帯の大半が黄巾党の手に落ちる。つまり丹陽郡を防衛し続ける実益が失われる。主君の劉耀は良くも悪くも現実主義者だ、名分があっても実益が失われては全軍の撤退を決めてしまう可能性がある。それはそれで構わないのだが、それでは今、自分に従ってくれている兵達が納得しないはずだ。勝つにせよ、負けるにせよ、一度、真正面からぶつかる必要があった。無闇に兵を減らす訳にもいかなかったので大きな被害を出さない内に撤退を繰り返してきたが――果たして、勝つことはできるのか。
溜息吐いて、頰に手を当てるとカサッとした肌触りがした。
「肌荒れが酷い……もうやだなー。早く、お風呂入りたいなー……」
乾いた笑い声を零しながら鑢で爪の手入れをする。
これはもう精神安定剤のようなものだった。
†
五十回にも渡る戦によりて鍛えられた兵達は、官軍の精鋭に見劣りしない機敏な動きを見せる。
歩兵の働きの五割は走ることにあり、残る三割は野営といった陣地構築。そして一割五分は食事を作り摂る、といった生命活動に費やされる。戦働きは一割にも満たぬ五分程度の功績だと揚州兵は度重なる戦により理解させられていた。故に彼らはよく食べて、よく寝て、遊ぶ時は遊ぶことを心掛ける。その精神性は戦場であるにも関わらず、比較的ではあるが精神を健全に保ち続けていた。
人が人を殺すことが当たり前の世界に放り込まれても、彼らは必要以上に悲嘆せず、ある種の諦観を以て戦場を見据えている。戦、そして戦、また戦。繰り返し行われる戦は彼らにとって日常に近いものになりつつあった。決して勝利することはなく、当たり前のように死線を超えて、当たり前のように修羅場から脱する。その事に慣れてしまった、それはもう彼らにとって特別ではなかった。だから今日もまた彼らは笑って、戦場に赴き、当たり前のように敗北して生き残るのだ。
今、揚州軍に残っているのは百戦錬磨の敗残兵である。
†
後世、丹陽の戦いとも呼べる戦はどのような評価を受ける事になるだろうか。
此度の戦で劉耀が評価されるとすれば、奇襲、防衛、遅滞、遊撃といった五十以上もの戦に耐え得るだけの物資を前線に送り続ける事ができた点にある。では私はどうだろうか。後世に兵卒の質なんて分かるはずもない。ただただ敗戦を繰り返す私は無能な将として後世に語り継がれるに違いない。例えば、折角の水軍があるのだから河を使って翻弄すれば良かった、とか。そんな運用ができるだけの練度を持つ水軍がいないことを知らない者の言い分だ。
蕪湖県、丹陽郡北部における最後の要所。此処を抜かれては世間から丹陽郡は黄巾党の手に落ちたと認識される。そうなると出てくるのは呉郡太守、孫堅。この地の攻防は丹陽郡の覇権における分水嶺、初めて敗北が許されない戦いになる。勝たなくてはならない。防衛戦ではなく、野戦にて分かりやすい勝利を求められた。
正直、前線の勝ち負けなんて私の関係ないところで勝手にやって欲しかったんだけどな、と大きく息を吐き捨てる。
政治は面倒臭い。云ってしまえば、政治なんて人間関係の延長線上にあるものだ。
それが必要なことは理解できるが、それに巻き込まれることは御免だった。しかし社会人足る者、そういう
敵は今まで私達を悉く蹂躙してきた黄巾党。緩慢な動きで展開される敵陣に初戦以後、二度目となる正面衝突を決行する。
鎧袖一触? ――それはない。
幾度の敗北を積み重ねて、鍛え上げた兵は実力を付けている。
こちらに動きに反応して仕掛けてきた黄巾党の勢いだけの初撃を受け止めてくれた。しかし地力で負けているか、それとも単純に数の差か、一万に膨れ上がった賊徒を相手ににじりじりと押し込まれる。それでも皆は堪えてくれている、此処から先は根気がものを云う戦いだ。不安要素はある、それは揚州軍にとって粘り強く戦わせるのは、これが初めてという点だ。だから私は真正面からごり押してくる相手に、冷や汗を流しながら笑みを浮かべる。ここで私が動揺しては戦線が崩れる可能性があればこそ強がってみせる。
適当で良いのだ。興味なさげに、どうでも良さげに、戦場を見つめていれば良い。
「そろそろっすねえ……」
ポツリと呟いてから数分後、千の兵卒が敵後方を横殴りに襲い掛かった。
揚州軍に水軍はいないと言ったな、あれは本当だ。敵を翻弄できるほどの練度を持った水軍は存在しない。しかし、千の兵を敵後方まで送ることくらいはできる。所詮、敵は賊風情。つまりは烏合の衆、まとめている将を討ち取れば、統率を維持することは敵うまい。
不意を突いた背後からの一撃は面白いほどに黄巾党を蹂躙した。笑いが止まらないっすね、と笑みを浮かべた――直後、ひやりと背筋に冷たいものを感じ取った。何かが変わった。前を見る、味方が蹂躙されていた。黄巾党の一部隊が釘を打ち込むように揚州軍の戦列を穿っていた。その戦闘に立つ者は黄色の頭巾を真っ赤に染めながら前だけを見据える。
あれが敵将か。瞬間、ゾクリと体が震えた。
視線が交わる、敵将が私を捉えた。血飛沫が上がる、真正面に私を目掛けて、剣を振り回していた。腕が飛んだ、首が飛んだ。胴が真っ二つに両断される。正しく血路を開くという勢いで揚州軍を蹂躙する。そんな彼らを追い立てるように敵陣後方を突き進む千の将兵、これはどうなる? 強がりで浮かべた笑みが引き攣った。
見入られていた、目を背けることができない。濃厚の殺意が私一人に向けられている。
膝が震える。一歩、また一歩、敵将が一歩、前に歩く度に誰かが死んだ、血飛沫を上がる。一切の慈悲なく、容赦があろうはずもなく、命が刈り取られる。ただ一人、私の命を目指して歩みを続ける。彼女らの背後から千の軍勢が彼らを蹂躙する。追いし追われる者は私の命に手を伸ばし続ける。その執念に、怖気を感じた。恐怖を感じた、狂気を感じ取った。
気づけばもう目と鼻の先に彼女らが居た。
「貴様が大将だな」
その底冷えする声は地獄から告げられたかのようだった。
「よし、死んどけ」
答える間もなく振り被られた剣に、あっこれ死んだかな、と思った。
時が引き延ばされる、今まで生きて来た過去が脳裏に駆け巡り――ガキッという金属音と共に時間の流れが元に戻る。尻餅を着く、目の前には太史慈配下の一人が敵将の剣を受け止めていた。
「此処が死に時ですな!」とカラッと笑ってみせて、敵将と対峙する。
「殿は任せろーッ!!」
他の者に引き起こされ、そのまま後方へと引き摺られて馬に乗せられた。
太史慈配下と敵将が打ち合う姿が小さくなるのを見つめて、そして、首が飛んだ。
黄巾が風に揺れる。敵将は首を失った胴を押しのけて、私を睨みつける。
「逃げるな、お前が大将だろ! 戦え、そして潔く死ねッ!! 生き恥を晒してでも生きたいかッ!?」
もう後ろを振り返る気力すら湧かなかった。
負けた、完膚なきまでに負けた。
敵後方を攻め込んでいた千の軍勢は黄巾の中に埋もれて、四千の軍勢は散り散りにされた上で蹂躙されている。嗚呼、負けてしまったのか。あまり実感が湧かなかったが、負けてしまったことだけは強く理解できた。死ぬ、皆が死んでいく、この一ヶ月余り、苦楽を共にした仲間達が皆、死んでいった。このまま私に何処へ逃げろというのか。生き恥をどうとか思うほど、私には自尊心がない。ただ、どうしようもない程に、嗚呼、終わった。という感覚だけがあった。
気付けば、川辺に辿り着いていた。そこには用意していた船の他、見知らぬ軍船があった。
身も心もボロボロになった体を受け止めてくれたのは、
「……よく頑張ったね」
この敗戦続きの状況で、ずっと待ち焦がれていた存在だった。
「……シギーッ! 私……私は…………ッ! みんなを……!」
「もう大丈夫、後は私に任せて」
彼女は優しく笑って、後ろに下がるように促した。
その恵まれた体躯で戦場を見つめて、片手に持った偃月刀で周囲を薙ぎ払った。
風が吹いた、土煙が舞った。
筋肉質の逞しい背中は、見る者全てに活力を与える。
彼女の存在そのものが生きる希望だった。
「我が名は太史慈、今より友軍を救う為に出陣するッ!!」
揚州軍が誇る英傑が今、戦場を駆ける。