胸に灯るこの火が消えないうちに、と明石は動いた。
北上との会話から間もなく、間宮と約束を取り付けた。巨摩に近づく提督を邪険にあしらっているという話だったので会わせてもらえるかと少々構えていた明石だったが、まあよかったわ、と喜ぶ間宮の顔には特段含むものも感じられず、ほっと胸をなでおろしていた。
そして数日後、いよいよ巨摩と対面する日がやってきた。明石にとっては仕切り直しとなる二度目の運命の日である。
明石は前回のようなことのないよう、入念に準備した。
仕事は気合で片づけた。朝から風呂に入り入念に全身を洗い上げた。長い年月をかけて爪の間に染み込んだ機械油の黒ずみは、自分の生き方そのもので完全には落とせはしない。それでもできる限り綺麗に洗い落した。髪には丁寧に櫛を通し、普段はしない化粧も嫌味にならない程度に薄く施した。服装も艦娘明石の正装を久しぶりに身に着けた。自室の姿見の前で入念に身だしなみをチェックし、それでも少々早い時間だったが、居ても立ってもいられずに部屋の外へと飛び出す。見慣れない明石の正装にすれ違う艦娘たちがぎょっとした顔をするのを少し面白く感じながら艦娘寮を歩き、勢いのままに間宮の部屋のドアを叩けば、すんなりと迎え入れられた。
「こんにちは、間宮さん。ちょっと早かったかな。お休みの日に無理を言っちゃってすいません。」
「いいのいいの、むしろ大歓迎。巨摩ちゃんも楽しみにしてたんだから。ね?」
間宮の背に隠れていた巨摩がひょっこりと顔だけを出す。明石を見つめる瞳の色は期待半分不安半分というところか、大分緊張している様子だ。と考えていたら、すぐに間宮の背に隠れてしまった。
「まーちゃん…。」
間宮に助けを求める小さな声は、明石の胸に灯る火に油を注いだ。どうやら間宮はまーちゃんと呼ばれているらしい。親密な関係が窺われる。うらやましい、と明石は思った。間宮は、ごめんなさいね、と苦笑交じりに背中に手を回すと隠れる巨摩を引っぱり出す。
「はい、ごあいさつ。練習したじゃない。できるわね、巨摩ちゃん。」
「うっ…。田中巨摩、です。お母さんは田中提督です。」
私だって昨夜は散散練習した。子どもを怖がらせない優しい言葉遣い。その成果を見せる時だ。明石は表情筋に過去最高の仕事を要求した。うまく笑顔を作れているだろうか、そんな不安を抱えつつ右手を差し出し、練習した通りに口上を述べる。
「こんにちは、巨摩。私は明石お姉ちゃん、です。ここで工作艦をやってます。工作艦っていうのは、みんなの装備とか色々なものを作ったり、修理したりするお仕事。」
「明石お姉ちゃん。」
「ごめんね、きれいな手じゃなくて。お姉ちゃんは機械をいじる仕事だから…。こんなお姉ちゃんだけどお友達になってくれるかな?」
明石の胸は激しく早鐘を打っていた。不意の戦闘に巻き込まれた時のことを思い出した。いや、あの時でもここまでひどくはなかった。手汗かいてないかな、大丈夫かな。もう限界だ、このままでは心臓が破裂してしまう、さあ一刻も早くこの手を握ってくれ。そんな明石の願いが通じたのか、おずおずと差し出される小さな手が、きゅっ、と明石の手を握った。この時明石のハートも一緒にわしづかみにされていたのだが、巨摩本人はそんなことを知る由もなく不安げに尋ねた。
「お姉ちゃん。僕のこと、嫌いにならない?」
間宮は思慮深い艦娘だ。今までだって機会をつくり艦娘と巨摩との交流を試みていたことだろう。そのたびに艦娘に忌避されて、それを繰り返すうちにこんなにも自己肯定感が下がってしまった巨摩。これからは私がこの子のすべてを認め、受け止め、守るのだ。甘く心地好い高揚感に満たされた明石は、そっと巨摩を抱き寄せた。
「大丈夫だよ、嫌いになんて絶対ならない。だからこれからよろしくね、巨摩!」
ぱんぱん。
一件落着とばかりに軽やかに手を鳴らし、それじゃあお茶でも入れましょうか、と言う機嫌よさげな間宮に促されるままソファーへ腰を沈める二人。もともと相性はよかったのだろう。いわゆるラブソファー的なものに二人並べば、お互いに打ち解けるのはあっという間だった。
間宮の入れてくれるお茶を飲みながら、用意されていたのだろう色とりどりのお菓子を食べ比べ、これが美味しい、こっちも好きとお喋りをして。
ここぞとばかりに工作艦技能を発揮する明石により次から次へと魔法のように作り出されるおもちゃに三人で歓声を上げ。
気が付けば巨摩から、あーちゃん、と呼ばれるようになり明石はご満悦だった。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、今、ソファーに並ぶのは間宮と明石。巨摩はといえば、はしゃぎ疲れたのか二人の膝の上で愛くるしい寝顔をさらしていた。明石の妖精も間宮のそれと一緒くたになって巨摩の周りで眠りこけている。他の
「このソファー、いいでしょう? 巨摩ちゃんが
「あはは…。私なんかが隣りに座っちゃってスミマセン。」
「いいのよこれで。ううん、これがいいの。私たち二人と巨摩ちゃんの
三人一緒。
その言葉は明石の腹にすとん、と落ちた。
間宮と明石のどちらが相応しいかなんてこと、間宮は最初から考えていなかった。これから先、あの子の
「だって、あなたも私と同じでしょう? この子は、巨摩ちゃんは私たちにとって特別。給糧艦間宮と工作艦明石にとって特別な人。違った?」
「あぁ、やっぱり間宮さんもわかってたんだ。特別。そう、ですね。巨摩を初めて見た瞬間、何かこう運命みたいなものを感じました。今日巨摩に、おもちゃが出てくるあーちゃんの手は魔法使いの手だ、って言われたとき、本当に嬉しかった。私が私でよかった、って思いました。油が染みついて落ちない、こんなくたびれた手でも巨摩に喜んでもらえる、って。」
「あら、私も、お菓子が出てるまーちゃんの手は魔法の手、って言われたことあるのよ。うふふ。私たち魔法使い二人はこれで同志ね。これからよろしく、同志明石ちゃん!」
「こちらこそよろしくお願いします、同志間宮さん!」
「
「そう、ですね。三人の時間を増やせていいなーって思うんですけど、提督がなんて言うか…。」
「そこは私に任せておいて。提督にオネガイしておくわ。」
間宮明石を同室に変更する件はほどなく承認された。
魔法使い二人の前途には洋々たる未来が待っているように思えた。
だが、巨摩との別れが思いのほか近づいていることを、二人の艦娘はまだ知らなかった。
***
静まり返る深夜の執務室。そこで提督は悩んでいた。
巨摩を自らの泊地に受け入れてから半年がたつ。戸籍関係の手続きは、本土との距離の関係で時間はかかったが無事完了しており、提督と巨摩は正式な親子関係となっていた。戦地にひとり骨を埋めるものとすっかり覚悟を決めていた彼女に突然できた一人息子。一目惚れからそのまま突っ走ってここまで来た形だが、彼女に後悔はなかった。むしろあの子がいることで日々が充実しているといってよい。自らの胸のうちに突然芽吹いた母性というものに新鮮な驚きと喜びを感じながら、少しずつ巨摩との距離を縮めていく生活。時には同僚に祝福とからかいを受け面映い気持ちになることもあるが、それも幸せの一部というものだろう。
提督は当初、例の島からの巨摩救出は未発見海外艦娘獲得の隠れ蓑程度に考えていた。件の海外艦娘は消息不明推定轟沈と、詳細が不明なままついに手に入ることはなかったが、そのことへの執着はもうなかった。巨摩を救うことができた。それで十分である。天龍艦隊が巨摩を見つけられなかった世界、巨摩が命を失っていた世界。それを想像し身震いする程度には、提督は巨摩を愛していた。
だがしかし。
この泊地の艦娘の多くは巨摩のことを避けていた。これが目下の悩みのひとつである。具体的には間宮と明石を除く全員が、何か異質なものを見るような目で遠巻きに巨摩を眺める。当然そこには交流など生まれようもなく、巨摩の世界はいっこうに広がりをみせない。小さいとはいえ、この泊地には五十余名の艦娘がいるというのに。
一方で、何故か間宮と明石の二人だけは別だ。巨摩にベタベタの甘々である。提督に勝るとも劣らない溺愛ぶり。狭すぎる巨摩の世界を広げることなく、ただひたすらに深く深く、せっせと掘り進んでいる。提督業は基本ブラックだ。一日のうち提督が巨摩とのふれあいに割ける時間はごくわずか。それを補い巨摩の面倒を見(まくっ)てくれる二人に感謝はしているが、ちょっと補いすぎにもほどがあるのではなかろうか。母子の時間とかもう少し欲しいんだが。そう提督は考えていた。
不干渉と溺愛。巨摩を取り巻く小さな社会は両極端で歪だ。この環境が巨摩の情操教育によい影響を与えるものだとは、彼女には到底思えなかった。この悩ましい状況をどう打開するか、実は彼女には一つの腹案があった。あるにはあったが、それを実行すべきか決めあぐねていた。
「提督? なにか悩み事ですか?」
「ああ。ちょっと巨摩のことで、な。」
本日の秘書艦を務める大淀の問いかけに、お前も原因の一人だぞ大淀、と内心苦情を申し立てながら答える提督。
「巨摩君、ですか。」
無機質にそう言う大淀の表情は波一つない凪の海面のようで、感情の揺れというものがまったく見られなかった。これで気まずそうな顔の一つでもしてくれるならまだ希望があるのだが。まあ話すだけ話してみるかと提督は続けた。
「巨摩を迎えてから半年、この泊地で巨摩と交流があるのはいまだに私、間宮、明石の三名だけだ。この状況は巨摩のためにはならんと思っている。君はどう考える?」
「そうですね。いやがらせやいじめなどはない様ですが、おおむね提督のご認識の通りかと。」
言葉に温度が感じられない。大淀は不干渉~無関心ポジションらしい。淡々とした受け答えからそう判断しながらもう一歩踏み込んでゆく。
「そこで、だ。あの子を本土へ移してはどうかと考えている。」
大淀の表情が初めて動いた。ぎょっとした顔をしている。
「それは…提督が本土への異動願いを出す、と?」
「さすがにそこまでは考えていないから、そんな顔をするな。なに、私は一応呉に家を持っていてな。管理会社に丸投げしたままずっと空き家にしてるんだが、そこに住んで普通の子のように学校に通えば、同年代の友人もできてあの子のためになるんじゃないかと、な。」
「しかし呉で一人暮らしというのは、あの歳ではまだ難しいのではないですか?」
「そこは考えがある。呉には予備役の間宮と明石がいるんだ。幸いあの二人には個人的な伝手があるから、住み込みで世話役を頼むつもりだ。ウチでも間宮と明石はあの子と仲がいいだろう? それならあっちの二人でも大丈夫なんじゃないかと思ってな。」
「そういうことですか。呉にいる予備役の間宮さんと明石さん…。ああっ!もしかして、あのお二人ですか!? 提督、見かけによらずすごい伝手をお持ちなんですねっ!」
「そうだ。『最初の』が頭につくあの二人だよ。伝手に関してはまあ、腐っても中将、ということだ。予備役の艦娘を動かすくらいは問題なくできる。」
地が出ると一言余計なんだよなあ、大淀って艦は。見かけによらず、じゃないだろう。とあきれる提督と、考え込む大淀。
「ウチの間宮さんと明石が納得してくれるかは少々不安ですが…、提督のお考え、承知しました。総合的に考えて巨摩君と泊地のために一番よいかと思います。」
巨摩君と泊地のために、ね。
大淀の奴も今のままでは泊地にも悪影響があると考えている、ということか。大切な自分の家族がそのような立ち位置になってしまっていることについて忸怩たる思いはあれど、客観的に判断するならばこれに同意せざるを得ない。そこまで考えて提督は決断を下した。
「そうだな。まずは巨摩の意思を確認してからにはなるが、その方向で進めるべきか。率直な意見をありがとう、大淀。」
「いえ、巨摩君を支える力となれず申し訳ありません。」
「私の方こそ気を使わせて済まなかったな。私は今もこれからもこの泊地の提督だ。私情に振り回される愚は冒さないつもりだよ。これからもよろしく頼む。」
「ありがとうございます、提督。」
「細かい準備の方は追々指示を出していくから大淀も力を貸してくれ。
間宮と明石の二人は…あまりいいやり方ではないが、外堀から埋めていくしかあるまい。一時的な帰国ということにして全員に通達。まずは泊地の雰囲気を固める。個人的には残念なことではあるが、大多数の艦娘は賛成するだろう。二人だけでは反対の声を上げにくい状況をつくるところから、だな。」
「それが一番穏便で確実かと。ならば私は…
……。
…。
こうしてこの泊地のトップ2である二人の密談は続き、巨摩の本土移住計画が動き出したのだった。
***
提督は巨摩にすべてを包み隠さず説明した。巨摩にまで隠し事をしておくのはさすがに情が許さなかったのだ。
今の状態は巨摩にとっても泊地にとってもよくないこと。
本土で沢山の友人を作ってほしいこと。
済む場所は母が昔住んでいた家であること。
離れ離れになっても提督と巨摩との親子の縁は続くこと。
間宮と明石には移住の話は秘密にしておいてほしいこと。
巨摩とじっくり話をしてみてわかったことだが、彼は自分の置かれている状況を驚くほどによく、そして客観的に理解していた。彼自身も艦娘たちとの関係改善が見込めない状況に苦しさを感じていたことを、つたない言葉でぽつりぽつりと話してくれた。それ故か彼は移住に対しかなり積極的だった。新しい環境でも「別の」間宮明石が待っていてくれるという説明も後押しになっているらしい。
とにかくこれで障害たりえるものはなくなった。
***
それからさらに半年。ついに巨摩を送り出す日がやってきた。
ここまで準備に時間がかかったのには理由がある。巨摩を安全に本土まで送り届けるルートの確保である。このご時世、ヒトと深海種の間での制海権、制空権の奪い合いは一進一退であり、状況は目まぐるしく変化してゆく。万全の護衛体制と安全なルート選定、通信網の確保などなど、提督は安全確保に心血を注いだ。
実のところ、今回の移動プランはとある少将の本土異動への便乗である。さすがに巨摩専用便を立てることは不可能に近く、これも時間を要した一因である。こちらまで少し寄り道してもらって巨摩をピックアップ。あとは点在する各泊地間を航空機で結びながらの移動が基本となる。それでも護衛艦娘の引継ぎの都合などで各泊地に数日逗留することも多く、本土到着まで半月ほどの旅路となる予定だ。遠方の泊地から本土へ行こうとするとどうしてもこういう大掛かりなことになるため、泊地の提督たちが本土へ赴くことは滅多にない。タイミングを計り今回の便乗を上手くまとめられたのも提督の愛のなせる技であったといえよう。
各地の護衛にはできる限り自分の知る信頼できる最高の艦娘を手配し、息子をよろしく頼むよ、と念を押した。
龍驤
「キミの息子ぉ? ほぉーん、それでウチに期待しとるんやな。まかしとき、やったるでぇ!」
瑞鶴
「えー、護衛? 提督さん子どもいたの!? まあ? 愛する息子の護衛艦としてこの瑞鶴に目をつけるとは中々の慧眼ね。大船に乗ったつもりでまかせといて!」
瑞鳳
「提督、久しぶりですね! へー、そういうことなら瑞鳳頑張っちゃいます! 息子さんは玉子焼き、好き? いっぱい用意しておきますねっ!」
などなど。なんといっても空の護衛は空母様々である。
***
もはや人事は尽くした。あとは送り出すだけである。
上空にはすでに多数の護衛機が旋回しているのが見える。泊地唯一の正規空母、翔鶴の艦載機が最初の中継地までを担当する。
「巨摩ちゃん。はいこれアイスよ。溶けないうちに機内の皆さんで分けて食べてね。こっちは羊羹。経由地の分だけ用意したわ。日持ちするものだから大丈夫。ちゃんとご挨拶してから渡すのよ。あ、最中も持っていく?持っていくわよね。」
「巨摩っ! 戦闘糧食は持った? あと応急修理女神、忘れず連れてきなさい。あとあと、これはどこの泊地のアイテム屋でも使えるプリペイドカードだから、なくしちゃダメだからね! いい? 調子が悪かったらすぐに近くの
「「早く帰ってくるのよ。」」
「まーちゃん、あーちゃん、もう持てないよ…。」
未だに一時帰国だと信じている間宮と明石が巨摩との別れを惜しむ一方で、提督は便乗させてもらうことになる少将に、くれぐれも巨摩のことをお願いします、と挨拶をしていた。
「いやはや、まさか田中中将のご子息と同乗することになるとは。光栄です。」
「手のかからない子ですが、道中よろしくお願いしますね。」
「こちらこそ。この老骨も本土に戻ればまもなく引退。なに、ご子息はこの命に代えても無事本土まで送り届けますよ。」
そろそろ時間です、と大淀が離陸準備が整った旨を告げる。
提督は最後に我が子と抱擁を交わすと、行ってこい、と短い一言に万感を込めて小さな背を押し出した。
巨摩を乗せた機体は蒼穹へと舞い上がり、あっと言う間に彼方へと飛び去って行く。
さてさて、あの二人にはこれからどう説明したよいものやら。
涙を流しいつまでも空を見上げ続ける間宮と明石の姿を目の端に入れながら、提督はぼんやりとそんなことを考えていた。
オネガイ:
逆らい難い強い圧を持ち、しばしば何らかの脅迫行為を伴う依頼方法。