降りしきる大粒の雨が屋根を叩き、その音が礼拝堂の中にも響き渡っていた。
夕餉の時刻をとっくに過ぎてなお、剣の乙女は祭壇前に跪き、祈りを捧げている。
ふと、彼女は面を上げた。
何者かが、礼拝堂に入ってくる気配を感じたからだ。
一瞬、杖代わりの剣を強く抱きよせ、唇を固く結んだ剣の乙女だったが、
「失礼を承知で、参りました」
凛としたその声音を聞いて、体に走る緊張を解いた。
振り向き、目隠しの帯越しに、彼女は来訪者の姿を
気高く染まった、白。まだ、恐れも穢れも知らないであろう、白。自分とは正反対の、白。
懐かしくも思い、また羨ましくも思うその気配を、彼女は例によって両腕を広げ、子を抱きすくめる母親の如く歓迎した。
しかし、来訪者はそれにいちいち反応を取るでもなく、
「一つ、確認したいことがあります」
淡々と話を進めていく。
その声音の中に僅かな怒りの感情があるのを察し、乙女は来訪者が何を言わんとするのか、おおよそ把握出来た。
果たして来訪者……貴族令嬢は、
「どうして、黙っていたのですか」
静かに、しかし確かな憤りの念を込めて剣の乙女へ問うた。
予想通りであった。
偶然に裏庭の井戸から法の神殿にやって来た冒険者一党が、邪教使徒の潜伏先を突き止めた……という報告を聞いた時から、こうなる気がしていた。
かくして、諦めの溜息を吐いた剣の乙女は、
「どうして、お分かりに?」
と問い返す。
「邪教の使徒が述べていました。侍祭の娘を殺したのは、あなたへ向けた宣戦布告の印だ、と」
「……」
「魔神を打ち倒した金等級のあなたが、それを見逃すほど愚かだとは思えません」
「……買い被りすぎですわ」
自嘲気味に笑った剣の乙女は、こつりこつりと緩やかに靴音を鳴らした後で、
「確かに……今回の事件の黒幕は、十年前に私たちが打ち滅ぼした魔神の……残党ですわ」
力なく述べた。
そんな彼女へ、今度こそ貴族令嬢は問う。
「どうして、それを黙っていたのですか」
と。
すると乙女は、
「みんな、分かってくれると思ったから」
そう呟いた。
貴族令嬢は首を傾げた。
「皆が分かってくれる?」
「ええ。この街で起こった凄惨な事件の数々……それら全てがゴブリンの仕業だと聞けば……きっと……みんな……」
そこまで聞いて、貴族令嬢は「はっ……」とした。
初めて剣の乙女を目にした時、その目元を覆う黒い帯を気にはかけていた。
(きっと、先天的に目が見えないのだろう)
と。
しかし、先の発言を受けて分かったような気がした。
何故に彼女が、その黒帯で両の眼を隠しているのか。
生まれた時より目が見えないのではなく、何者かによって視力を奪われたとしたら。
奪った犯人は、恐らく……。
貴族令嬢は、それ以上の追及が出来なくなってしまった。
小鬼どもによって裸に剥かれ、蹂躙こそされなかった彼女でさえ、今でも奴らと対峙する際には、背筋の凍る思いがする時がある。
しかし、それでも奴らを相手に出来るのは、その弱さを共有できる仲間の存在と、
(どんなにとんでもないことでも、必ずなんとかしてくれそうな……)
そういう気持ちにさせてくれる少年がいるからだ。
対して、剣の乙女はどうだろう。
白金等級の冒険者がいない中で魔神を斃した金等級の冒険者。
水の街の平和の象徴として存在する、清らかな乙女。
そんな彼女が、
「ゴブリンが怖いので、助けてください」
と求めたとして、どうなる。
神聖視されている英雄が、最弱の怪物を目の当たりにすると今でも震えが止まらない、などと。
街の住民から嘲りを受け、侮蔑され、果ては今回のような邪教の者がこれ幸いと言わんばかりに、攻めてくるやもしれぬ。
英雄は英雄らしく、どんな化け物にも怯えてはならないのだ。
「でも、結局は何も変わりませんでしたわ」
絶望に満ちた声で、剣の乙女は呟いた。
「街の人々は、確かにゴブリンの存在を認識しました。でも……剣の乙女がなんとかしてくれる。襲われるのは自分じゃない。だから、大丈夫だと……」
人々は、小鬼の災いが自分に降りかかってくることなど、露ほどにも思っていなかった。
襲われるのは自分ではなく、「誰か」だ。その認識もあっただろう。
しかしそれ以上に、「剣の乙女」の存在が大きすぎたのだ。
街の平和を司る英雄の存在が、皮肉にも彼らから小鬼に対する恐怖心を取り払ってしまったのだ。
……ふと、剣の乙女は顔を上げた。
それに気づいた貴族令嬢も、後方……つまりは礼拝堂の入り口を見やる。
「おっ。いたいた」
果たして入って来たのは、両手に骨付き肉を持ったオールラウンダーであった。
彼は、二人の娘の間に走る緊張にも気が付かずに近寄ると、
「ねえちゃんたちがさ。明日のことで話があるって」
肉を噛み締めながら、貴族令嬢へそう告げた。
「……ええ」
ゆっくりと頷いた彼女は、
「失礼します」
剣の乙女へ頭を下げるや、逃げるようにして礼拝堂を後にしてしまった。
それに続こうとしたオールラウンダーだったが、剣の乙女の視線に気づき、
「ん? なんだ? これ食いたいのか?」
左手に持った骨付き肉を差し出したが、彼女はそれを受け取る代わりに、
「あなたに、怖いものはあって?」
と尋ねた。
純粋無垢が人の形をしたような少年へ。
しかし、
「うぅん……あんまりねえな」
予想通りの返答に、剣の乙女は肩を落とした。
この子も、きっと私を救ってはくれないのだ、と。
だが。
「おめえは、なんか怖いものがあるのか」
少年が不躾に訊いてくるのへ、不思議と不快感は湧かなかった。
「……例えば」
剣の乙女はそう前置きして、
「例えば、私がゴブリンを怖がっていたとして……あなた、笑いますか?」
言うのへ、
「なにかおもしろいのか」
オールラウンダーは、大変真面目な顔で聞き返すのだ。
これがなんだか面白くて、くつりくつりと笑った乙女は、その場に座り込み、
「皆には、内緒よ」
親しき友へ話すかのように、人差し指を自身の唇へ当てがった後に、
「私ね、ゴブリンが怖いの」
自分でも驚くほど素直に、オールラウンダーへ「弱さ」を曝け出してしまったものである。
それを聞いた少年は、
「おめえ、つええんだろ? でも、あの緑のちっこいのがこわいのか」
と言ってしまった。
(嗚呼、やっぱり)
一時の気の迷いを後悔した剣の乙女だったが、
「ふぅん。そっか」
それだけで、彼はこの話題を打ち切ってしまった。
少しばかり驚いた剣の乙女は、
「笑わないの?」
と尋ねたが、
「なんで?」
聞き返されると、返答に困ってしまう。
果たして、それっきりで話は終わり。
肉を食べ終えたオールラウンダーは立ち上がり、
「まぁ、まかせとけよ。オラたちとスッチャンたちがいれば、あいつらみぃんなやっつけてやるから」
そう言うや、さっさと礼拝堂を後にしてしまった。
去り行く後姿を見て、暫くは呆気に取られていた剣の乙女だったが、やがて柔和な笑みが口角を伝って広がっていった。
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