寓意の光景   作:紫 李鳥

17 / 27
17

 その日の夜、柴田が帰宅していないという電話が美音からあった。美音からも遠慮のようなものが窺えた。本来なら、下校時に私のアパートに寄って、夕食を共にする期待もあったに違いない。仮に図々しいと思い、アパートに寄るのを躊躇(ためら)ったとしても、私からの食事の誘いを待っていたに違いない。

 

 純香は心で美音に詫びながらも、柴田との関係がギクシャクしてしまった以上、積極的な関わりは避けようと思っていた。

 

「何か食べた?」

 

「うん、食べた」

 

「のんべえにでも行ってるのかも。心配しないで。分かった?」

 

「うん、わかった」

 

「じゃあね」

 

「……うん」

 

「……」

 

 純香は、美音が電話を切るのを待った。間もなく置かれた受話器の音は、気持ちの隅にある、美音の不平のように聞こえた。――

 

 そのノックがあったのは、純香が寝付いた時分だった。柴田なのは見当がついた。泥酔した柴田は、純香の開けたドアから倒れるように入ってきた。

 

「大丈夫?」

 

「すまない、水を一杯くれ」

 

 柴田は玄関のマットに腰を下ろすと、純香が手渡したグラスの水を一気に飲み干した。

 

「……俺はバカな男さ」

 

 柴田の背中が()いていた。

 

「……」

 

「許してくれとは言わないよ。だが、君を失いたくない」

 

 肩を落として項垂(うなだ)れた柴田の背中が(あわ)れだった。

 

「君なしの人生なんて、もう俺には考えられない。虫がいいのは分かってる。責められても何も反論できない。自業自得さ。酒の力を借りなきゃ何も言えない、情けない俺さ。……純香。こんな男、嫌いになったか」

 

「……」

 

「嫌いだろな。弱くてだらしない男だからな。……君と居る時、心が安らいだ。こんな女房が欲しいと思った。いや、面接で初めて会った時から好きだった。一目惚(ひとめぼ)れって奴だ。フン。四十男がガキみたいに恋するなんて、滑稽(こっけい)だろ?……そして、いつの頃からか求婚しようと思っていた。……その矢先だ。バカなことをしちまった。ハア~」

 

 柴田はため息をついた。

 

「……明日、会社の帰りに寄っていいか?……もしいいなら、俺の肩に手を置いてくれ。……それで、俺もケジメをつけるよ」

 

「……」

 

 純香は迷っていた。一度別れを決めながらも、それほどの固い意志ではなかった。そこにはまた、相手次第という純香の(ずる)さが顔を出していた。頭を垂れた柴田は荒い鼻息をさせながら、純香の返事を待っていた。間もなくして、純香は柴田の肩に手を置いた。柴田はホッとしたのか、肩の力を抜くと、純香の手を強く握った。

 

「……おやすみ」

 

 柴田は一度も顔を向けずに帰って行った。――

 

 柴田の肩に手を置いたのは間違いではないか、と後悔しながらも、柴田と別れたくない、というのが純香の正直な気持ちだった。

 

 翌日の夕刻、三人分の食事を用意して待っていた。予想通りの時刻に、そのノックはあった。柴田は照れ隠しのような弱い視線を向けていた。

 

「食事、美音ちゃんを呼ぶ?」

 

「いや、今日はいいよ」

 

「じゃ、持ってって。多めに作ったの」

 

「じゃ、いただく」

 

「中で待ってて」

 

「あぁ」

 

 柴田は気兼ねをするかのように靴を脱ぐと、炬燵に入った。

 

「……昨夜(ゆうべ)は悪かったな」

 

「ううん」

 

「久しぶりに飲み過ぎた」

 

「……」

 

 酢豚とツナサラダをタッパーに入れながら、

 

「フライパンでサッと火を通して。酢豚」

 

 と付け加えた。

 

「分かった。……後で来るから」

 

「……ええ」

 

「あいつ、喜ぶな。君の料理の大ファンだから」

 

 柴田は照れを隠すかのようにお世辞を言って帰って行った。――

 

 純香が食事を終えた頃、柴田がやって来た。

 

「あいつ、ペロッと食べやがって、俺は残りを少しいただいただけ」

 

「美音ちゃん、食べ盛りだもの。今度から、もう少し多めに作るわ――」

 

 と言った後、純香はハッと思った。それはまるで、柴田との関係をこのまま続けることを示唆(しさ)していたからだ。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。